今夜だけ

 ナマエはぎゅっとオズの手を握った。絡めた指は温度を分かち合い、その境目を曖昧にし始めている。
「先ほどオズ様は、アーサー様にご自分の過去を知られたくないと、そう仰いましたね」
 唐突に話題を蒸し返したためか、オズは眉根の皺を濃くする。しかしナマエは構わず続けた。
「ですが、もしも本当にアーサー様に過去を知られたくなかったのなら、オズ様は私を助けに来るべきではなかったのではないですか。アーサー様の臣である私の目の前で強い魔法使いを屠れば、私は必ずアーサー様にそのことを報告いたします。いえ、それ以前にオズ様の過去の所業について聞かされ知った私のことなど、捨て置くべきだったのではないですか」
 本当にアーサーに知られたくなかったのであれば、オズはいつでも、ナマエを見捨てることができたはずだ。ナマエとの遣り取りがアーサーに筒抜けなことくらい、オズだってとっくに分かっている。
 それでもオズは、ナマエを助けに来てくれた。アーサーに過去を知られる危険を承知で、ナマエの前で強大な魔女を葬って見せた。
 オズがそうまでする理由を、ナマエはおそらく知っている。オズもまた、気付いているはずだ。自分がナマエを助けに行った、本当の理由を。
「私と関わったことを理由に、お前が命を落とすべきではない」
 答えたオズの声は固かった。取り付く島も無さそうだが、ナマエはなおも食い下がる。
「それでは、此度のことはご自身に原因があるから、だからオズ様は私を助けに来てくださったということですか」
「そうだ」
「私が──オズ様とは関係なく危機に陥ったのであれば、オズ様は動かれませんでしたか。オズ様と無関係の輩に捕らわれたのであれば、知っていても気付かぬふりをなさいましたか」
 アーサーに過去を知られるかもしれない危険を冒しても。
 オズにとって利益になるようなことは、何一つなかったとしても。
「それでもオズ様は、私を助けに来てくださったのではないですか」
 疑問でも問いかけでもない。ナマエの声は、断固とした確信を持って響いていた。
 実際、確信はあった。だって、逆の立場ならナマエはきっとそうする。オズの身に迫る危険を知って、何もしないでなどいられるはずがない。まして、窮地から救う力を持っているのならば尚更だ。
 オズのことが大切だから。
 オズのことが、好きだから。
「私のことを好きだから。だから、助けてくださったのではないですか」
 その瞬間、はっきりとオズの全身が強張った。ナマエに向けられた顔にも、苦し気な感情が浮かぶ。ちくりと、ナマエの心が痛んだ。そんな顔をしてほしいわけではないのにと、またぞろ胸の底で生まれた痛みが泣き言を叫ぶ。しかしもう、立ち止まっていられる局面は過ぎてしまった。
 そっと深い呼吸を繰り返す。痛みはまだ、続いている。それでも、完全に心が萎えてしまったわけではない。痛みは所詮想定の範囲内なのだ。怯んでなどいられない。
「私は以前、申しました。中央の国の官人として、私はオズ様に私的な理由で魔法を使っていただくわけにはまいりません」
「……たしかに聞いた」
「ですが、オズ様が助けに来てくださったと知った時、心の底から安堵しました。オズ様が私のために来てくださったことが、私は嬉しかった」
 あの瞬間、朦朧とした意識のなかでナマエが本心から助けを求めた相手は、たった一人、ただ一人の魔法使いだった。アーサーでもなければ、カインでもない。ナマエはただ、オズの助けだけを一心に願っていた。

「私はオズ様を待っていました。あなたのことが好きだから。だから、嬉しかったんです」
 
 やっと口にできた言葉は、笑ってしまうくらいにありふれていた。言葉を司る仕事をしているとは思えないほどに、陳腐で使い古されている。きっとこれが物語のセリフなら、ナマエは失笑していただろう。
 けれど、ナマエにはこれ以外の言葉を思いつかなかった。これ以上に正しく自分の気持ちを伝えられる言葉を、ナマエは知らなかった。
 オズの目が、今度こそ眼窩から目玉がこぼれそうなほどに見開かれる。オズの乾いたくちびるがかすかにわなないていた。やがてその薄く開いたくちびるが、かそけき声をわずかに漏らす。
「ナマエ──」
「はじめて、名前を呼んでくださいましたね」
 聞き間違いのしようもない。オズが呟いたのは間違いなく、ナマエの名前だった。
 思わず表情が崩れる。愛しい人の声で呼ばれる名がこれほど美しく響くことを、ナマエは今はじめて知ったのだ。嬉しくて、胸が潰れてしまいそうだった。笑んだ拍子に涙がまなじりから一粒こぼれる。
 オズはもう、ナマエに握られた手を引こうとはしていなかった。代わりにナマエを立たせると、空いている方の腕をナマエの背中に回した。その腕に力が込められて、ナマエはオズの胸に押し付けられた。
「オズ様──」
 顔を上げてオズを見る。ナマエを見るオズはやはり眉間に皺を刻んでいた。真紅の瞳はまだ少しの険を含んでいるが、それでも憤ってはいない。どちらかといえば、途方に暮れている──そんな感じの表情だった。
「本気で言っているのか」
「こんなこと、冗談で言えることではありません」
「今ならばまだ、この腕をほどくことができる。お前はアーサーと同じ、私になど関わらず幸福になるべきだった人間だろう」
「そんなことは望んでいません。私もアーサー様も、オズ様と一緒にいたいのです」
「私はお前に幸せを与えることはできない。お前にだけではない、私は誰のことも幸福にはできないだろう」
「できます。それに、できなくても構いません。幸福にしてほしくて一緒にいたいわけではないですから」
「何故お前は時々、そう強情になる」
「アーサー様の臣ですので、このくらいでないと務まりません」
「……そうだな」
 オズが空気を含ませた声で笑った。ナマエにははじめて聞く笑い声だった。
 オズはゆるやかにナマエの手を振りほどく。ナマエももう、頑なに手を握り続けようとはしなかった。オズの自由になった方の手のひらがナマエの後頭部にあてがわれ、不器用にナマエを抱きしめていた。
 押し付けられたオズの胸に、そっと耳を寄せる。心臓の位置よりは低く、鼓動する音は聞こえない。けれど耳朶じだに感じるオズの温もりが愛おしくて仕方がなかった。また泣いてしまわぬよう、ナマエは慌てて瞼をきつく閉じた。

 しばらくの間、ふたりはそうして身を寄せ合っていた。いつしかナマエもオズの腰に腕を回し、ゆるく抱き返している。
 夢のようだと思った。オズが自分を抱きしめている。そんなことが起こるなど、一日前のナマエはまったく考えもしなかった。
 やがてすっかりふたりの境目が融け切ってしまった頃、ようやくオズはナマエから身を離した。それでもまだ近い距離で、ナマエとオズの視線が合う。
 オズは思索にふけるように一瞬視線をそらしたが、やがてきっぱりとした意志をたたえた瞳をナマエに向けると、ものものしい口調でおごそかに告げた。
「お前は私を受け容れ、私もお前を受け容れた。しかし、それは本来、望ましいことではないのだろうな」
 ぎくりとナマエの身体が強張る。オズの言うとおり、ナマエはオズと結ばれることをこれまで望んでいなかった。
 そうあるべきではないと自らに定めたのはナマエ自身。たとえオズを慕っていようとも、そしてオズに好かれていようとも、だからといってオズを選ぶことはできないことはナマエが一番身に沁みて分かっていた。
 ナマエにオズは選べない。ナマエの生きる場所はグランヴェル城──アーサーのいる場所だ。
 そんなナマエの葛藤を見透かしているのか、オズは無言のナマエをゆるく抱き寄せた。その腕を拒むこともできず、ナマエはオズに身をまかせる。胸のうちでは天秤が、どっちつかずにぐらぐらと揺れている。
 暫しののち、オズは言った。
「アーサーを裏切れとは言わない」
「オズ様……」
「しかし此処は北の果ての城だ。何人たりとも私の許しなくこの城に入ることはできない。此処には誰の目も届かず、此処でのことは誰の耳にも聞こえない。──それがたとえ、中央の国の王子であろうとも」
 オズの言わんとすることを理解して、ナマエの顔は色をなくした。すぐさま胸中に戸惑いと期待が渦巻き始める。ゆらゆらと揺れていた天秤はいよいよもって定まることを知らず、ナマエはすっかり途方に暮れた。
 今夜此処で何が起ころうと、アーサーやほかの誰かが関知することはない。つまりこの一夜に限っては、ナマエはアーサーの臣下の立場から解かれるも同然だ。
 立場が解かれれば、制約も失うものもない。ただ身一つの人間でしかないナマエが何をしようとも、誰にもそれを知られることはない。
 しかし言うは易くも、行うは難しい。自他ともに認める忠臣のナマエにとって、たとえ一夜のことであったとしても、アーサーへの忠義を容易く捨て去ることなどできはしない。今やナマエにとってアーサーの臣下という肩書は、自らの命と同じかそれ以上の重さを持ってナマエをナマエたらしめている。
 むろん、そのことはオズも重々承知しているだろう。アーサーへの思いならば、ナマエよりもオズの方がずっと強い。オズとしても、これ以上アーサーに言えない秘密を持ちたくもないだろう。葛藤ならばナマエに勝るとも劣らない。
 今こうしてナマエを抱きしめていることすら、オズは生半ならぬ覚悟をもって抱きしめているはずだった。この夜を逃せば、きっともう二度とふたりに同じ夜はやってこない。奇跡はいつまでも続かないことを、オズは嫌というほどに知っている。
「何もかも今夜限りだ。明日の朝、我が手に魔力が還れば、お前との間にあるものはこれまでの通りに戻るだろう。もっとも、お前が拒むのならば無理強いはしない」
 ナマエの耳元で、オズが低く囁いた。どこまでも優しい声音で、オズは最後の決断をナマエに強いる。選択する権利はナマエが持っている。ここでオズの腕を逃れれば、それはそれで何事もなく明日の朝を迎えることになるだけだ。
 オズの手を取れば何が起こるのか──そのくらいのことはナマエにも察しがついた。きっとこれまで感じたこともないほどの甘美な経験を、一夜にしてナマエは覚えさせられるのだろう。書物でしか知らない、深い愛のまじわり。考えただけで肌が震える。
 だがどれほど甘美でも、夜が明ければまた今まで通り、何事もなかったかのように振る舞わなければならない。そのことを考えれば、いっそ知らない方が幸福でいられるのかもしれない。知ってしまえばもう戻れない。最上級の幸福も、知りさえしなければ焦がれることはない。心穏やかなまま、ずっと生きていける。
 選ぶ道はふたつにひとつだ。
 逡巡のすえ、ナマエは答えた。
「今夜のことはこの先一生、誰にも──アーサー様にも秘密です」
 瞼を閉じ、ナマエは頭の中から主の姿を消し去る。そうでもしなければ、後ろめたさに耐えられそうになかった。
 しかし、迷いはない。アーサーに言えない秘密を抱えることはつらいが、それ以上にオズの腕をほどくことをしたくない。ナマエのことを抱きしめてくれている男のことを、ナマエはもっと深く知りたかった。
 オズは笑むこともなく、ナマエを掻き抱く腕の力を強めた。
「ナマエ、」
 オズの抑えた声が、隠しきれない熱を孕んでいた。
 身体の底が打ち震えるのを感じながら、ナマエは眉を下げて笑った。
「今夜だけ、私のすべてをあなたのものにしてください」

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