吹く風は

「オズ様。恐れながらもう一つ、伺ってもよろしいでしょうか?」
 先程よりも緊張しているせいで、声が微妙に上ずった。それだけでオズは、ナマエの言いたいことをおおよそ理解したらしい。オズは視線をそらしたままでひとつ嘆息し、それから諦めたように低く呟いた。
「……聞いたのだろう」
「はい」
 それだけで、十分だった。
 何を、とは言わない。それ以上の言葉は不要であり、ナマエもあまり口にしたくはなかった。
 急速に喉の渇きを覚え、ナマエはまたグラスの水に手を伸ばす。喉を潤すと、少しだけ胸が楽になった気がした。気付かぬうちに随分と呼吸が浅くなっていたのだと、息を吸い胸が開く感覚によってはっきり思い知る。
 しかし息苦しさを感じているのは、断じてナマエだけではないはずだ。ナマエと対峙するオズは、すっかり表情を消していた。視線はナマエに向けられているが、どこか焦点を結んでいない。
 一瞬、ナマエはこの話をここでやめるべきかもしれないと心を揺らがせる。オズは自らの過去を認めたも同然だ。それならば、これ以上オズの話したくない過去について不用意に触れるのは、あまりにも無神経なのではないか。そんな思いが胸中で首をもたげる。
 けれど。結局ナマエはその考えを振り払った。以前オズの部屋で過去について触れようとしたときは、ほかの誰でもないオズ本人からにべもなく拒まれた。だが、今はそうではない。居心地悪そうにしながらも、オズはナマエに口を噤めとは言わなかった。
 それならば、触れることを許されたのだと思いたい。半ば以上はナマエの願望でしかなかったが、ナマエは心を決め、オズの過去についての話題を続けることにした。
「アーサー様はご存知ない、のですよね。その、オズ様が、」
 世界征服を目論み、実行し、そして道半ばでそれにも飽きて放り出したということを。冷酷な北の魔法使いとして、世界最強の魔法使いとして、数多の同胞を手にかけ石としてきたことを。
 ナマエは具体的な言葉を使うのを避け、極力曖昧な言葉を選ぶよう努めた。だがいくら曖昧な物言いに心を砕こうとも、結局のところオズにとっては同じことだろう。どんな言葉を使おうと、意味するところは──オズの過去の所業について触れていることについては変わりない。
 オズは思案するように黙り込んでいた。が、ややあって力なく首を横に振った。
「知らないだろう。教えたことはない。もっとも、いつかは知ることになるのだろうが」
「アーサー様に知られたくないと、そうお思いなのですか」
「そうだ」
「私にも──オズ様の伝記を編纂している私にも?」
「知らずにいてくれたらと、思っていた」
 疲れた声だった。まるで、いつまでも隠しきれることではないことくらい分かっているのだと、そう言いたげに。当然だ。子供のいたずらならばともかく、オズがしでかしたのは事もあろうに世界征服。完全には成されなかったとしても、到底いつまでも隠し果せるものではない。
 だがオズはアーサーにも、オズの過去をまとめ上げようとしているナマエにすら、過去の所業を隠そうとした。そしてこれからも、オズはいつかその日が来るまで、アーサーには己の過去を隠して生きていくのだろう。世界征服を成さんとした魔法使いとしてではなく、偉大な魔法使いとして──アーサーの師匠として。ただ、それだけの存在であるような顔をして。
 ナマエも先日まではその顔を信じていた。今もまだ、信じたいという気持ちがまったく消えたわけではない。
 だが既に何もかもが手遅れだった。ナマエは知ってしまった。オズの恐ろしい伝説が、まったくの嘘偽りではないことを。オズ自らが、こうして認めてしまった。
 テーブルの上で無意識に組んだナマエの手が、先程からずっと小刻みに震えていた。
 ──何を戸惑うことがあるというの。
 無性に萎れてしまいそうになる自分の心を、ナマエは必死で叱咤する。今更オズの過去を知ったところで、何を萎れることがあるというのだろう。元々ナマエは、オズの恐ろしい伝説を聞き育ってきたのだ。今更それが正しかったと知っただけで、どうしてオズを見る目が変わるのか。
 この期に及んで臆病になる自分の心が疎ましかった。ただオズのことが好きなのだと、明るい気持ちだけを感じていられたらよかったのにと、自らの怯懦を恨めしくも思う。
 その時、オズがやおら椅子から腰を上げた。クロス張りの巨大なテーブルを回り込んで、ナマエの傍らへと歩いてくる。
 ナマエの胸が緊張で鼓動をますます速めた。指先の震えは止まない。オズの靴のソールが音を立てる音が、ナマエの気持ちを乱し続ける。
 やがてゆったりとした足取りでナマエの真横まで歩み寄ったオズは、慌てて立ち上がろうと腰を浮かせたナマエを視線で制した。その目に射竦められ、ナマエは静かに椅子に腰を下ろす。ごくりと喉の鳴る音がした。顔を上げると、すぐ間近のオズがナマエを見下ろしていた。
「恐ろしいか」
 低く、オズが問うた。口の中が異様に乾く。神前で罪を問われるときには、きっと人はこんな気持ちになるのだろう。そんなことを、場違いながらに考える。
 声を出そうと口を開いて、喉が塞いでいることに気付く。乾いた口で、無理やり唾を飲み込んだ。オズの前でこれほど緊張したのは、今がはじめてだった。
「恐ろしくないと申せば、嘘に──なります」
 答えた声はやはり震えていた。オズは身じろぎ一つせず、ナマエの言葉を待ち、聞き遂げようとしている。もしもナマエが恐ろしくないと答えても、きっとオズの表情は変わりなかったことだろう。オズのかんばせには、ナマエの答えのすべてを受け容れるような決意が滲んでいた。
 ナマエがオズを傷つけまいとしているのと同じように、オズもナマエを傷つけまいとしている。そのことを感じて、ナマエは一層緊張した。ここが未来の分岐になる──漠然と、そんな予感がした。
 厳粛とも思えるほどに、空気は静まり返っている。やがて、ナマエは一度きつく唇を結び、それからきっぱりと言葉を紡いだ。
「これまでも、私はオズ様のことを、けして、侮っていたわけではないのです」
 一語ずつ区切るように、ナマエは言った。
「知っている」オズは答える。
「見くびっていた、わけでもなくて」
「知っている」
 繰り返したオズに、ナマエはそれ以上何を言っていいか分からなくなった。侮っていたわけではない。見くびってもいない。これまでナマエは一度として、オズに気安くなりすぎたことはないつもりだった。常に一定の敬意を払い、オズという偉大な魔法使いを尊敬してきた。
 しかしオズの言うような恐ろしさを、真の意味で感じたことはなかった。
 今は──感じている。
 オズのことを、恐ろしく思っている。
「……申し訳ございません」
 それが何に対する謝罪なのかも、ナマエには判然としなかった。恐ろしいと思ってしまったことへの謝罪だろうか。しかしそれは、恐ろしいと思うことは、オズにとって謝ってほしいようなことなのだろうか。
 オズの視線にさらされて、ナマエはだんだんといたたまれない気分になっていた。自然、視線は下がり顔が俯く。
 自分の気持ちひとつ、うまく口にできないでいる。そのことが腹立たしくて、もどかしかった。大切な気持ちが心の中にあるはずなのに、それをつかんで言葉にしようとするたびに、様々な葛藤が邪魔をする。
 ──所詮私はただの人間で、オズ様は世界最強の魔法使いなのだから、こうして悩んでいるのすら本当は無意味なことなのかもしれない。
 気持ちが次第にささくれだつのが分かった。自分へのもどかしさが膨れて膿み、いつしか投げやりな心持ちへと傾いていく。本心ではちゃんと向き合いたいはずなのに、恐ろしいと認めてしまった気まずさが、今更ナマエに顔を上げることを許さない。
 ナマエは唇を噛んで黙っていた。何を言っても、正しくない言葉のような気がしてしまう。こんな気持ちのまま何を言ったところで、オズの誠実さに見合う言葉になどなるはずがない。
 と、その時。ふと視線を落とすと、組んだ手のひらのすぐ上に、オズからもらった腕輪が輝いていた。もうずっとそこに嵌めていたかのように、腕輪はナマエの肌にしっくりと馴染んでいる。
 その腕輪を見ていると、ふいにナマエの心を靄のように覆っていたものが晴れていくような気がした。まるで翡翠の石がナマエの中の迷いを祓ってしまったかのように、気持ちがすっと清められていく。
 そうして清められた後の心の中に残ったものは、ほんの幾つかの気持ちだけだった。
 ──オズ様を、恐ろしい魔法使いだなんて遠ざけたくはない。
 ──恐ろしく思っていたって、大切でなくなるなんてことはあり得ない。
 今度は本心から、そう思えた。
 ふいに心がゆるりと弛む。認めてしまえば簡単なことだった。
 オズのそばにいたい、畢竟ひっきょうナマエがオズに望むことはそれだけだ。たとえ、オズが恐ろしく残虐な魔法使いであったとしても、それはナマエの奥深くから生じる想いを消し去るほどのものではない。
 畏怖と恋慕は相殺しあうものではない。これまでだってずっと、ナマエはその相反する感情を心の中でうまく重ねて抱いてきたのだ。
 そしてふたつの感情は、ここに至ってついに熟しきっていた。
 ──私はいつの間にか、こんなにもオズ様のことを慕っていたのだわ。
 ナマエが自分で気付かぬうちに、気持ちはじっくり育ち続けていた。そして今ではこんなにも、オズのことが大切になっている。これまでとて幾度となくその存在を感じ続けてきた思いを、今はもう、これほどはっきりと感じるようになっていた。
 出会って間もない頃からずっと、ナマエはオズのことを知りたいと思い続けてきた。そしてオズを知るにつれ、その心を守りたいという思いが芽生えていった。
 欠片もオズの心を損ないたくないと思えるほどに、オズのことを大切に思い続けてきた。
 それなのに、魔法使いとしてのオズの恐ろしさを理由にオズを拒むことなど、どうしてナマエにできるだろう。恐ろしく残虐な過去を持っていても、目の前の、ナマエのよく知るオズはこんなにもナマエを惹きつけてやまないのに。

 ふたりの間に長い沈黙が落ちていた。音もなく、眩しい光もない。夜を照らす灯りは城の広さに反してつつましく、それだけにナマエはオズの気配をいつも以上に濃く深く感じていた。
 オズがふと、ナマエの頬へと手を伸ばす。いつか、雪の降る中庭でそうしたように、オズの手はそろそろとナマエに向けられる。
 しかしすぐ、その手は弾かれたように引っ込められた。オズの顔がかたく強張る。咄嗟に、ナマエは引かれたオズの手に両手を伸ばした。
「やめないで」
 オズの瞳が大きく見開かれ、ナマエを見詰める。オズの手を両手で包むように握ったナマエは、けしてオズの手を離そうとはしなかった。そうしようと思ったわけではない。身体が勝手に動いただけだった。
 しかし結果的に、そこでナマエの心は定まった。咄嗟の行動が、ナマエの気持ちをオズに向けて固めた。
「やめないでください、お願いですから」
「しかし」
 オズがまた、握られている手を引こうとする。ナマエはそれでも、手を離しはしなかった。美しくも骨ばったオズの冷たい指先が、ナマエの両手の中で戸惑うように動く。その指に、ナマエは自らの手をさっと絡めた。
「オズ様」
「何故だ」
 呼びかけたナマエの声を、吐息の震えるようなオズの声が遮った。
「私のしたことを聞いたのだろう。ならば私はお前にとって、恐ろしい魔法使いでしかないはずだ」
 吐息の震える声は、オズの威厳にそぐわない。魔王らしからぬ声で、オズはナマエを問い詰める。
「私のことが恐ろしいならば、こうして触れようとすることも、お前にとっては嫌悪すべきことではないのか」
「お願いですから、そんなことを、仰らないでください」
 強い口調で求めようとしたはずなのに、ナマエの口から出た声は無様に震えていた。こんなときに気丈でいられればと思うけれど、気力はすでに老婆アニスの塒で使い果たしていた。今のナマエに持てる武器は、みっともなくても感情を剥き出しにすることだけだ。
 オズの瞳が戸惑い揺れている。その戸惑いが手に取るように分かってしまって、ナマエの心は重さを増す。
 こんなとき、アーサーだったなら、あるいは賢者である晶だったなら、オズにこんな顔をさせはしなかったのかもしれない。彼らならばもっとうまくオズに寄り添い、気持ちを分かち合えるのだろう。オズの望むものを与えられたのかもしれない。
 ──だけど私はアーサー様ではないし、賢者様のようにもなれない。
 だからきっと、オズにとってのナマエは未来永劫吹く風に過ぎないのだろう。それでも、吹く風はただ無力なだけではない。愛しい人の裾を翻し、その美しい髪を踊らせ、そしていつかは、ささやかな幸福を運ぶことだってできるかもしれない。
 ──オズ様が私にそう、望んでくれさえするのならば。
 ──どれだけだって、大切にしてみせるのに。

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