オズの秘密

 それからほどなく、ふたりはオズの城へと辿り着いた。到着して早々、オズが暖炉に火を入れる。長らく城を空けていたわけではないらしく、ひと晩分くらいの薪はちゃんと用意されていた。普段は魔法で火を入れているのだろうに、マッチの準備もしてあるところが抜かりない。
 重く分厚い上着を脱ぐと、まだ暖まり切らない空気が服越しにナマエの肌をひやりと冷やした。オズの城はグランヴェル城に勝るとも劣らない堅牢なつくりだが、これほどの広さだけに底冷えするのは仕方がない。
 それでも、はじめて足を踏み入れるオズの城は、意外にもあたたかな雰囲気の居心地のよい場所だった。もっと冷たい場所を想像していたナマエは、ついつい周囲を見回し観察してしまう。ナマエが通されたのはリビングとして使っているのだろう広間だが、ここに来るまでに通った通路や玄関も、荘厳で立派なつくりでありながら、どこか懐かしいような雰囲気を纏っていた。
 ──ここで幼い日のアーサー様は、オズ様と一緒にお過ごしになったのだわ……。
 そう考えるだけで、なんとなく背筋が伸びるような気がした。一度そう考えてしまうと、グランヴェル城よりもオズの城の方がよほどアーサーの住まいらしく見えてくるから不思議だ。
 そんなことを考えていると、暖炉に火を入れたきり何処かに姿を消していたオズが、ふらりと広間に戻ってきた。ナマエと同様、オズもすでに毛皮の上着は脱いでおり、いつも通りの恰好をしている。
「湯を沸かしたから使うといい。着替えもしたいだろう」
 オズに言われて思い出した。ナマエの服は自分の吐瀉物にまみれており、とてもではないが着続けていたいような状態ではない。今の今までそのことを忘れていたのは、長く寒い中を歩いたおかげでにおいがだいぶ薄れていたことと、吐いた後がすでに乾いて固まっているからだった。
 かっと顔が熱くなる。事もあろうに恋い慕っている相手の前で、うっかり吐瀉物まみれの衣装でくつろいでしまうところだった。この城の主であるオズは、きっと一刻も早くそんな汚い服は脱いでほしかったに違いない。
「も、申し訳ありません! それではお湯を使わせていただきます……!」
「部屋を出て突き当たりを右だ。着替えはもう置いてある。不便があれば置いてあるベルを鳴らせば、ここまで聞こえるようになっている」
 淡々と説明された言葉を一言一句漏らさぬようにすっかり聞き遂げ、ナマエは大急ぎで部屋を出た。もはやこれ以上一分一秒も、汚い恰好のままでオズの前にいたくはなかった。
 広い城だけに部屋の数は多いが、幸い迷うことなく浴室まで辿り着くことができた。脱衣所からそっと浴室を覗くと、大きなバスタブになみなみの湯がはられている。魔法を使えない中で一体どうして短時間でこんな支度ができたのか、ナマエには不思議だったが、何はなくともまずは身体をあたため汚れを落とすことに専念することにした。細かいことを考えることもなく、ざぶりと湯に身体を浸す。
 極度の疲労と冷えに侵された身体には、熱い湯はおそろしいほどに沁みた。いつまででも浸かっていられそうだったが、そういうわけにもいかない。寒い中を歩いたのはオズも同じことだ。早く済ませて、オズにも温まってもらわねばならない。
 さっと入浴を済ませ浴室から出ると、ナマエはオズの用意したという着替えを手に取った。薄々予想はしていたが、当然のごとく着替えはオズのものだ。もしかしたらアーサーのものを貸してくれるのではないかと期待もしたのだが、残念ながら此処にはアーサーの着替えは置いていないらしい。
 ──オズ様のシャツを借りる日が来ようとは……。
 手にしたシャツにそっと顔を近づける。残念ながら、しばらくしまい込まれていたのか、オズの匂いはしなかった。
 がっかりしたのか、ほっとしたのかは自分でも分からない。ただ、誰も見ていないからと言って、何だか恥ずかしい行いをしてしまったという自覚だけはあり、ナマエは湯上りの顔をさらに赤らめる。ついでにその恋する相手に恐れを抱いていることをも思い出し、何とも言えない気分になった。
 気を取り直して、用意された着替えに袖を通した。同年代の女性に比べても小柄なナマエには、オズのシャツは些か以上にぶかぶかだった。あまりにも裾が余っているので下のパンツは履かなくてもよいくらいだったが、だからといってシャツだけで歩き回るのもはしたなく、結局は何重にも袖と裾を折り曲げて無理やりに着用した。
 汚れた衣服は同じく用意されていた紙袋にまとめて入れる。オズの気配りは万全で、結局脱衣所に入ってから出るまで、ナマエは一度もベルを鳴らさずに済んだ。
 ──昔はこうやって、アーサー様の面倒を見られたのかしら。
 それならばオズのこの面倒見の良さも、気配りの妙にも納得がいく。オズに限って客人を招き慣れているということもないだろうから、やはりアーサーを育てていたときの経験が大きいのだろう。幼いアーサーの面倒を見るのと同じように扱われていると思うと複雑なものがあるが、実際服を汚してお湯を借りているのだから大差ない。
 ──それに、オズ様にとってのアーサー様は特別なのだから……、同じようにしてくださっているというのなら、これ以上ない光栄なことだわ。
 裾を引き摺らないように気を付けて、ナマエは浴室を出た。通路の空気は冷たく、入浴で温まったナマエの身体をあっという間に冷やしていく。
 ふと通路の窓から城の外を見れば、夜闇に染まった雪原がどこまでも伸びて見えた。思わず足を止める。たしかにこんな景色の中で暮らしていれば、オズもアーサーもいちいち降雪くらいで騒がなくても当然だ。どれだけオズやアーサーのことを知った気になっていても、自分はまだまだ大切なことを何も共有していないのだと、ふいに寂しさに似た空虚さが胸に湧く。
「何をしている」
 何時の間にか、すぐそばにオズが立っていた。なかなか戻ってこないナマエを気にしてやってきたのかもしれない。
「せっかく湯を浴びても冷える場所にいては意味がないだろう」
 小言の中にも、ナマエを気遣う響きが滲んでいた。その声を聞いただけで、今の今まで感じていた空虚さが、するすると胸の中でほどけて消えていく。胸に抱えていた脱いだ衣服の入った紙袋をきつく抱え、ナマエはぺこりと頭を下げた。
「申し訳ありません、外の景色を眺めておりました」
「……雪ばかりで面白くもないだろう」
「そんなことはございませんよ」
 嘘ではない。雪を見慣れたオズと違って、ナマエにはこれほどまでの雪は新鮮だった。それに、アーサーとオズが共に暮らした土地の景色なのだと思えば、ナマエにとってはただの殺風景な雪景色ではない。
 とはいえオズの言うとおり、寒い通路で景色を見ていたせいで身体が冷え始めていた。ぶるりと小さく身震いすると、腕の中の紙袋がこそりと軽い音を立てた。
「そうだ、着替えを貸していただきありがとうございました」
「お前の丈に合うものはこの城にはなかった」
 オズが、ナマエの着ているぶかぶかのシャツを見遣り言った。何か言いたげにしてはいるが、ナマエが待ってみたところでオズは何も言わない。
「大丈夫です、大は小を兼ねると申しますし」
 結局、ナマエがそう答えると、オズはむすりとした顔で肯き、
「戻るぞ」
 とナマエに短く促した。

 広間と続きになっている食堂には、すでに食事の準備がととのえられていた。オズが入浴を終えるのを待ってから、食卓につく。
 食事とはいえ並んでいるのは缶詰と干し肉、それに保存用の乾燥果実くらいのものだが、この際それは仕方がない。オズは今この城で暮らしていないのだし、いくら冷えの厳しい北の国でも、生鮮食品を置き去りにしていれば傷んでしまう。
 ナマエもオズもそれほど空腹というわけでもなかったので、果実を少しつまむ程度にとどめた。湯を借りすっかりナマエの心も体もほぐれたが、さすがに食欲はわかない。いくら何でもそこまでの図太さは持ち合わせていなかった。
 とはいえ、オズに対する気まずさやぎこちなさのようなものは、ひとまず軽減したようだった。そのことに、ナマエ自身ほっとする。自分ごときがオズを避けたところでオズが傷つくとも思えないが、それでも要らぬ心配は掛けないに越したことはない。
 食堂の壁には採光のため大きな窓が設えられ、硝子が嵌め殺しになっていた。夜半も近くなり、次第に風が増してきたらしい。いつのまにかまた雪が降り出しているのが、窓硝子に張り付く雪のかけらで分かった。
 降る雪を見ていたら、またアーサーのことを思い出した。
「オズ様と私がそろって消え、アーサー殿下や賢者様が心配なさっているのではないでしょうか」
 食事を終えたテーブルで、ナマエがぽつりと呟く。すぐにオズが肯いた。
「お前が気を失っている間に一度、魔法舎にお前の無事と居場所を伝えている。気を揉んではいるだろうが」
「なるほど、そうでしたか」
 ということは、ナマエの実家にも一応の連絡は入っているのだろうか。ナマエの考えを読んだように、オズが懐から一本の万年筆を取り出し、ナマエに差し出す。
「お前の家の御者から預かったものだ」
「あっ、これ」
「大切なものなのだろう。そうそう紛失するな」
 オズが手渡したのは、ナマエがアーサーからもらった万年筆だった。拉致された一件でどたばたしていたせいで、鞄から無くなっていたことにすら気付いていなかったナマエは、恐縮してそれを受け取る。そういえばまだ、鞄の中身をきちんと確認してもいなかった。魔女アニスは物取り目的でナマエを攫ったのではないから、鞄の中身の心配はこれといってしていなかったのだ。
 万年筆をシャツのポケットに入れ、ナマエはテーブルの向こうのオズを見た。
 前回万年筆をオズから手渡されたのは、ナマエがオズの秘密を知ってしまったとき。そのときは紛失したのではなく、ナマエが自分でオズに預けた。記憶を封印したのち目を覚ましたナマエが、目の前にオズがいることを不思議に思わないよう理由をつくるために。
 同じことを今夜此処でもう一度、しなければならないのだろうか。
 この城までの道中歩きながら幾度となく考え、けれどけして口にできなかった問いかけ。その問いを口にするのならば、今をおいて他にはない。
 ナマエは手元のグラスを手に取ると、水でくちびるを湿らせた。そして、
「オズ様、少しお話をしてもよろしいでしょうか」
 静かにそう切り出す。オズがわずかに眉を顰めた。
「私がすでにオズ様の秘密について記憶を取り戻したことは、オズ様もお察しのことかと存じます」
 オズは何も言わない。肯きもしない。しかし無言であるというだけで、それは何よりもの肯定の証左だった。
 二人きりの城の中には、些細な物音ひとつしない。身じろぐときの衣擦れの音ばかりが、静かな城の中に今ある音のすべてだった。
 その静寂を、意を決してナマエは破る。
「お教えください、オズ様。何故ふたたび、私の記憶を消しておかなかったのですか。オズ様ならば、私が気を失っている間、日のあるうちに魔法でそうすることもできたのでしょう」
「必要であれば、お前の意思を聞き届けたのち、明日の朝にでも記憶を消すつもりでいた」
「私の意思、ですか?」
 意外な言葉に、ナマエは首を傾げた。
「そうだ」とオズが神妙な顔で首肯する。
「記憶への干渉は、魔法といえど掛けられた者への負担を伴う。お前は今日すでに、あの魔女に乱暴に記憶を覗かれた後だろう。もう一度同じことをされるのは──嫌ではないかと」
「ですがオズ様は前回も、優しくしてくださったではありませんか。いくら記憶に関する魔法だからといっても、オズ様のなさることとあの魔女のしたことではまったく違います」
「同じだろう、記憶を弄るという行為そのものは」
 ぶっきらぼうに言って、オズはふいと視線をそらした。要するに、ナマエの同意を得ずに記憶を消し去るということを、オズはしたくなかったのだ。たとえナマエが間違いなく同意すると分かっていても、それでもオズはナマエの意識が戻るのを待った。
 もちろんナマエの心身への負担を考えてのことでもあったのだろう。しかしオズの魔法の実力はナマエもよく知っている。何の負荷も、違和感も抱かせずに魔法で記憶を消し去ることなどオズにとってはわけないと、ナマエはよく知っていた。
 気まずげなオズの横顔を、ナマエはじっくりと見詰める。こんな拗ねたような表情を、果たして世界を恐慌に陥れた魔王がするものだろうか。残虐なだけの魔法使いが、こんなにも瞳を優しくできるのか。
 老婆アニスの断末魔が、耳の奥でこだましている。あの叫び声は、オズへの憎しみの象徴だ。他者に苛烈なまでの憎しみを抱かせるほどのことを、かつてのオズはしでかした。
 きゅっと一度、きつく唇を結ぶ。静かに呼吸を二、三度くりかえしてから、ナマエは肩の力を抜いた。
「お気遣いいただきありがとうございます、オズ様。ですが、大丈夫です。明日の朝、魔力が戻りましたら改めて私の記憶を消してくださいませ」
 ナマエのいらえに、オズが険しい視線をナマエに向ける。
「……よいのか」
「もちろんです」
「記憶を消しても今回のようなことがあれば無意味だ」
「それでもです。リスクは少しでも減らしておくに越したことはないでしょうから」
「そうか」
 それ以上、オズは何も言う気がないようだった。たとえオズがやめておけと言ったところで、ナマエも引き下がるつもりはない。無用な言い合いにならなかっただけ、ナマエはほっとした。
 かつてナマエはアーサーのために、オズの秘密についての記憶を封印してもらった。しかし今度はそれだけではない。オズ本人のためにも、ナマエは何も知らなかったことにしたかった。
 当然のことだがオズは弱点をひた隠しにしている。ナマエは万が一にも、自分がオズの秘密を暴くために利用されるような事態になってほしくなかった。今回のように記憶を覗かれれば為すすべないが、それでも時間稼ぎくらいにはなるし、魔法を使えぬ人間相手には記憶を封じるだけでも十分意味がある。
 そして今、ナマエはもうひとつ別のオズの秘密を握っている。それは大多数の者にとっては周知の事実であり、秘密でも何でもないただの事実だ。しかしナマエと、ナマエの主であるアーサーにとっては、けして認められない、認めたくなかった事実──オズが秘匿し続けた、重大な秘密。

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