もしもこれで最後なら

「≪ヴォクスノク≫」
 オズが短く唱える。直後、ナマエの手足の自由が戻ったのがわかった。水を飲む一時しか解放されていなかった腕が、今は自由に動かせる。しかしそれと同時に、どうにか椅子から倒れずに済んでいただけの身体のバランスが崩れ、ナマエの身体が大きく傾いだ。
 あ、と声を出すこともできないまま、ナマエの顔がみるみる床との距離を縮めた。せめてオズからもらった腕輪だけでも守らねば、と受け身もそっちのけで手を宙空へと投げ出し、あとはぎゅっと目を瞑る。あわや顔面から落下する──かと思ったが、ふいに強く腕をとらわれた。そのおかげで、すんでのところで床に倒れこむことだけは免れる。
 見ればオズが腕を伸ばし、ナマエの腕をとっていた。目と目が合う。オズは険しい顔でナマエを見下ろしていた。
 てっきりそのまま床に転がされるかと思ったが、しかしオズはそのまま力強く、ナマエを自分に引き寄せた。ナマエはされるがままになり、気付けば身体ごとオズの腕の中に抱きとられていた。身体と身体のあいだの僅かな隙間すらなくなり、服越しにぴたりと寄り添い合う。
 服越しに感じるオズの体温は熱い。しかしその熱さを感じると、自分がオズよりももっと熱い身体をしていることに気付かされた。あれだけの頭痛と吐き気を感じた後だからか、生きている、と、ぼんやり頭が理解する。
「オズ様」
 掠れた声でオズを呼ぶ。ナマエを捕まえたきり老婆に視線を向けていたオズは、呼ばれてようやくナマエに視線を戻した。
「なんだ」
「さっき吐いたので……、あまり近づくと、お召し物が汚れますし……におい、ます……」
「……今気にすることではない」
 果たしてそうだろうか。オズはいつもと変わらぬ恰好だが、だからといって他人の吐瀉物がついていいような平服ということもないだろう。何よりナマエの方が、オズに自分の吐瀉物を認識されたくない。
 しかしオズの言うとおり、そんなことは今気にするべきことではなかった。
「貴様、何故ここにいる。何故ここが分かった」
 オズを睨みつける老婆アニスは、ざらついた声でオズに問いかけた。もっとも問いというよりは、言葉そのものがもはや呪詛に近い凄みと重みを持っている。
 オズはナマエからまた老婆に視線を戻すと、怯むこともなく、ただ淡々と、それでいて威厳たっぷりに返答した。
「この娘には私の魔力を分けた魔道具を身につけさせている。たとえ何処にいようとも、私には常にこの娘の居所が分かる」
「そんなはずはないっ! ここは別の空間を噛ませ結界としているのだぞ。洞穴の中に南の国の位置座標を引き込み、さらにその中に本来の空間を反映している、それだけ入念に隠した場所を、易々と見つけられるはずがない!そのうえ此処は──」
「チレッタか」
 オズが渋くこぼした。はて、チレッタとは誰だろうか。薄れては引き戻されるような意識のなかで、ナマエはぼんやりとその名に思いを馳せる。ナマエには聞いたことのない名だ。魔法使いの世界の有名人だろうか。
 ナマエの予想は、どうやら正解していたらしい。オズの一言に、老婆は激昂した。
「貴様がその名を口にするな! 貴様が、貴様があの方の名を!」
「名からも力を得ているのか。おおかた、チレッタの魔力を借りているのだろう。チレッタの魔力が色濃く残る南の国のチレッタゆかりの土地を結界として噛ませ、この場所を覆っている──よくできた造りだ。大抵の魔法使いでは、この結界は見破れないだろう」
「それならば貴様は何故ここにいる!? 魔道具なぞだけで突き止められるような結界では──」
「何者かがチレッタの墓を暴こうとした痕跡ならば、すでに賢者の魔法使いの耳に届いている。先んじて調査も済ませた。その調査の結果と魔道具の行方を突き合わせれば、結界の仕組みくらいは知れる。仕組みが分かれば破ることは容易い」
 ふたりの会話の意味が、朦朧とした意識にはうまくつかめなかった。かろうじて理解できるのは、チレッタという今は亡き魔女の力を借りて、老婆がこの場所をほかの者から見つかりにくく偽装したということくらいだ。
「フィガロも双子も、これほど大掛かりな魔法を使える者に心当たりはないと言っていたが……、身の程に不釣り合いな魔力を、チレッタの遺骨で補ったか」
 嘆息とともにオズが呟いた。老婆がいきり立つ。
「馬鹿な、私は墓を暴いてなどおらぬ! 大体この私が遺品を何一つ手にできぬなどと馬鹿げたことがあるか!? 私はただ、チレッタ様の御髪をわずかばかりお借りしようと思っただけだ!」
「愚かな。チレッタの墓には死後その魔力を悪用する者なきようフィガロが結界を張っている。その老いた容貌も結界を無理に破った代償だろう」
 続くふたりの応酬を、半ば以上意識を手放しかけながらも、ナマエはどうにか追いかけようと必死になっていた。
 ナマエはこの方、オズがこれほど饒舌に語る姿を一度も見たことが無い。こんなオズの姿を見るのは、ナマエにとっては前代未聞のことだった。
 オズでも感情が高ぶることがあるのだろうか。それとも、これはやはり今わの際のナマエの脳が見ている幻覚か。今感じている体温すら、ナマエのかき混ぜられた脳が都合よく生み出した感覚なのかもしれない。
 しかしこの際これが夢だろうがうつつだろうが構いはしなかった。
 老婆がするどく呪文を唱える。その瞬間、ナマエとオズの目の前に火柱が渦巻き始めた。炎は赤から緑、紫、そしてまた赤と色を変えながら大きくなっていく。この世のものではない、さながら地獄の業火を顕現させたかのような光景に、ナマエは言葉を失った。
 そうでなくても、ただの火柱だって十分な脅威だ。汗で前髪が張り付いた額を熱風にあぶられながら、ナマエはぞっとした。手狭なこの場所でそんな魔法を使えば、術者である老婆自身すら巻き込んで共倒れになりかねない。
 ただの人間であるナマエに為すすべはない。眼前の炎は生き物のようにうねり、今にもナマエとオズに襲い掛かろうとしている。
「朽ちろ、オズ!」
 老婆が上ずった声で叫んだ。炎が一層うねりを増す。
 しかし炎がナマエに迫るより先に「≪ヴォクスノク≫」オズが無感情に呪文を唱えた。同時に炎は消え去る。ナマエの額の、直前まで炙られていたことによる熱だけが、そこに火柱がうねっていたことを表している。
「な……何を……」
 老婆が愕然とした顔で、口を開けて虚空を見つめていた。おそらくは渾身の魔法だったに違いない。魔法のことなどほとんど知らないナマエでも、先程の火柱が強力な魔法の部類に入るだろうことは理解できる。
 それを、≪ヴォクスノク≫のただ一言でオズは消し去った。何でもなかったかのように──そして実際、オズには何でもない魔法だったのだろう。
 地獄の業火ですら、オズの前では何の役にも立たない。
「死者を冒涜し、無関係の人間を巻き込んだ報いを受けよ」
 オズの冷徹な声にはっとして、咄嗟にオズの袖を握る。
「オズ様」
 何を言うでもなく、ただ呼びかけた。しかし今度はもう、オズはナマエを見遣らなかった。オズはひたすらに、目を見開き怒りにわななく老婆を見据えている。オズの腕が魔道具の杖を振るった。
「≪ヴォクスノク≫」
 オズの短い呪文に続いて、大地をつんざくような断末魔の悲鳴があがった。びくりと、ナマエが身を竦ませる。肉の焼けるにおいが鼻をついた。
 強張る顔を、軋む首を、思わず老婆の方へと向け掛けた。しかしすぐに視界を何かが覆い隠す。
「見るべきではない」
 痛む身体で無理やりに腕をあげて目元にふれれば、ナマエの視界を覆い隠していたのはオズの手のひらだと分かった。一度だけ触れたことのある、すべらかな手。その手が今、ナマエを惨劇から遠ざける。
 ナマエは素直に従った。そしてオズの手の下で、瞼をぎゅっと閉じる。
「≪ヴォクスノク≫」
 ふたたびの呪文と同時に、この世の終わりのような醜い悲鳴もひどい匂いも、すべてがその場から消え去った。オズの手がナマエの目元から離れる。おそるおそるナマエは瞼を開いた。
 そこにはもう、ナマエとオズ以外には誰もいなかった。はじめからふたり以外に誰もいなかったように、老婆アニスの一抹の気配すら、そこからは跡形もなく消え去っていた。ただ小さな石のようなものが、老婆のいた場所にころりと転がり、天井のランプの光を鈍く反射していた。
 しかし、今しがた目の前で起きた事態をどう受け止めるべきか、ナマエにはもう分からなかった。
 老婆を消し去ったのはオズだ。オズはナマエの命を救ってくれた。助けが来てくれて安堵したのはたしかだ。聞く限りではこの場所はそうそう見つかるものではなかったというし、オズでなければナマエを見つけることはできなかっただろう。
 そしてまた、オズでなければこの場に対処することはできなかったのかもしれない。老婆は老いさらばえてはいたが、間違いなく強大な力を持っていた。
 あわや死に瀕していてもおかしくはなかった。その窮地から救ってくれたのはオズだ。
 それなのに──心は晴れない。
 ぐらぐらと頭が揺れる。安堵とともに気がゆるんだのか、頭痛と吐き気がまたしてもぶり返してきた。胃の底から浚うような嘔気を感じ、ナマエは咄嗟に両手で口をおさえた。肩がびきびきと痛み、その激痛で小さく悲鳴をもらした。依然ナマエを抱えたままのオズが、かすかにたじろいだ気配がした。
 今目の前でひとりの魔女を消滅させたはずの世界最強の魔法使いが、ナマエの些細な仕草にたじろいでいる。もしや吐瀉物をまともに食らうことを嫌がったのかもしれない。
 しかし、そんなオズを見られたことが却って嬉しかった。ようやくナマエの知るオズに会えたような、そんな気持ちになった。同時に、これはやはり夢なのかもしれないとも思う。そのくらい、ナマエの全身の感覚は麻痺し始めていた。痛みは臨界点を突破して、すでに感覚が失われ始めている。
「オズ様」
「……なんだ」
「私は死にますか?」
「死なせはしない」
「もしも死ぬのなら、ひと言、お伝えしたいことが」
「話を聞け」
「あなたのことが好きです」
 ナマエを抱えるオズの腕がこわばったのが、抱きしめられながらたしかに感じられた。痛みは感じられなくても、オズの動揺は察知できる。だからやはり、夢なのかもしれない。
 オズが今どんな顔をしているのか、ナマエには見ることができない。一度閉じた瞼はもう二度と開きそうになかったし、努力しようという気力もすっかり萎えていた。
 だから。
 夢でもいい。
「もしも、これで最後なら、たとえ、此処が夢の中だと、しても──」
 たとえ現実であろうと夢であろうと、気持ちは変わらないのだから。
「あなたとずっと、一緒にいたい」
 その言葉をきちんと口にしたのか分からぬままに、ナマエの意識は今度こそずっと深いところへと沈んでいった。

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