封印された記憶

 老婆は話し疲れたのか、椅子から降りて部屋の隅まで歩いて行くと、そこに置かれた水甕から水を一杯汲んで飲み干した。そのままナマエにも水を運ぶ。やにわに手の拘束をほどかれ、ナマエは勧められるがままに水を飲んだ。気を失っていたためか、ひどく喉が渇いていた。
 互いに水を飲みひと息吐いたところで、老婆はまたナマエの前の椅子に腰を下ろした。
「さ、こちらの話はこのくらいにしておこうか。ちょいとばかし話し過ぎちまったかね。次はあんたの番だよ」
「……私に何を言わせようというんです」
 これまでほど強気ではいられなかった。芯の萎えたナマエの声に、老婆がくっくと笑う。
「オズの弱点が聞きだせれば最高だね。まあ、あんたのような人間の女に弱みを明かす男でもないだろう。明確な弱みでなくても、利用できそうな情報のひとつでも吐いてくれればそれで満足するよ」
「満足して、私を殺すのですか」
「使いでがあるなら生かしておいてやってもいいが。そうだ、自分の手でオズを殺してくるっていうのなら、当面の間は生かしておいてやってもいいよ。油断してるところに毒でも飲ませりゃ、さすがに動きを封じるくらいはできるだろう。そうでなきゃ色仕掛けでもしてみるかい? 見たところ、オズは随分女の趣味が悪いようだが」
 老婆はしげしげと、無遠慮にナマエの全身を眺めた。今日のナマエは制服で、そのうえ化粧っけもほとんどない。この頃はさすがに少年に間違われることこそなくなったが、だからといってとても女性らしい見た目とは言い難かった。
「私の容姿のことなど余計なお世話です」
「世界征服をしていた頃のオズは、いくら女を差し出されようと手を出さなかったというが、まさかこんな小娘がいいとはね」
 世界征服。かっかとしていたナマエの心を、老婆が何気なく放った言葉がざくりと刺す。すでにオズの過去を知ることへの覚悟を決めてもなお、心が乱れるのはどうにもならない。
 動揺が表情に出ていたのだろう。ナマエの顔がこわばったのを見て、老婆がふんと鼻を鳴らした。
「なんだい、まさかオズの残忍な悪行を知らないとは言わせないよ。何処の国の子供だってオズの恐ろしい話を聞いて育つものだろう」
「しかしオズ様はそのようなことは」
 つい先日、オーエンに対しても同じ言葉を吐いた気がする。それでもやはり今日も、ナマエは同じ言葉を飽きもせず繰り返した。
「オズ様はそのようなことをなさいません」
 この期に及んでなお、そんな言葉が口をついて出る。そんな自分が愚かに思えるのに、言わずにはいられなかった。すでに老婆の言葉に偽りはないだろうと分かっている。それでもまだ、ナマエはオズを庇おうとしてしまう。
「オズ様の口から直接聞くまでは、私は──」
 そこでナマエは口をつぐんだ。喉の奥からこみあげてくるものをどうにかやり過ごそうと、唇をぎゅっと引き結ぶ。
 本当は自分の擁護が正しいものではないと分かっていた。オズが恐ろしい業を背負っているのなら、それでもオズのことを愛しているのだと、擁護するのならばそう言うべきだ。それこそが正しい愛の形だと、本心ではナマエだってそう思っている。
 けれど。分かっていても、知っていても、それでもなお、ナマエは否定したかった。無意味なことだと気付いている。気づいてなお、ナマエは信じたかった。
 ナマエの主君であるアーサーがオズを信じているからだろうか。
 いや、違う。そうではない。
 そうではなく、ナマエが信じたいと願うのは、オズが過去の悪行を知られたくないと思っているからだ。だから、ナマエは否定せずにはいられない。オズが口にしない過去を。否定し続ければ過去がなくなるなんて、そんなことがあるはずなくたって。
 何故だかふいに、鼻の奥がつんと痛んだ。今この瞬間に、泣きたくなるようなことが起きたわけでもないのに、気をぬくと涙がこぼれてしまいそうになる。ナマエは慌てて顔を天井に向けた。その様を、老婆が馬鹿にしたような目で眺める。
「あの男のために涙が流れるのかい。つくづく中央の国の人間はすっかりオズに懐柔されてるんだねぇ。まあオズの駒が王子なんてしている国だ。そうなっても仕方がない」
「アーサー殿下は駒ではない」
「駒だろうよ。まさかあのオズが、善意でガキを育てたとでも思っているのかい? 世界の半分を破壊し、支配し、蹂躙したあのオズが? 笑わせるんじゃないよ」
 オズや自分への罵倒は聞き流せても、アーサーへの謗言は聞き流せない。ナマエはにわかに怒りを燃やし、わななきながら顔を正面へと向けた。老婆の顔は少しも怯まない。
「ふん、その顔。随分ともの言いたげじゃないか」
「アーサー殿下は駒ではないし、オズ様との絆はたしかです」
「なんだ、やっと怒ったかと思えばそんなことかい。あんた、オズを一体何だと思ってるんだ? 強大な力を持って二千年も生きているようなやつが、チェスやカードで暇つぶしなんかできるもんか。持った力を試したくなるのが魔法使いの業だよ。いや、人間だってそうだろう。あの時代、どれだけの魔法使いがオズとフィガロに石にされ、どれだけの森が焼かれ、どれだけの地は捲られ、どれだけの人間が骸になったことか」
「しかし、滅ぼされ蹂躙されようと、正しくない方法で仕返ししてもいいなどという道理はどこにもないでしょう」
「綺麗ごとだけなら何だって言える。あんた、見たところオズのことが好きなんだろう。そういう言葉は私がオズを殺したあと、私に憎しみを持たずにいられたら言うことだ」
 吐き捨てるように言われても、ナマエには返す言葉が何もなかった。ぐうの音も出ないとはこのことだ。実際、ナマエは憎しみと呼べるほどの強い感情を知らない。
 肉親や近しい人間を理不尽に奪われたこともなく、憎しみといえばせいぜいがカインの目玉を抉ったオーエンへの憤りくらいのものだ。それだって、所詮は他人事でしかないといえばそれまでのものだろう。
 逆恨みでも世界最強の魔法使いを殺そうと思えるほどの激しい怒りも知らず、痛みと寂しさと絶望で吹雪を呼ぶほどの深い喪失感も知らない。ナマエはただの人間で、貴族として何不自由なく暮らしてきただけの、凡庸な娘だった。そんなナマエがかざす綺麗事が、この老婆に届くはずがない。 
 老婆がまた水を飲む。今度はナマエに水を飲ませることはせず、ただ疲れて倦んだ視線をちらとナマエに寄越した。椅子に腰をかけもせず、老婆はナマエの眼前に腰を曲げて立っている。
 空気が変わったのを、ナマエは感じた。
「さて」老婆が草臥れた嗄れ声で言う。
「長々話をしちまったが、どうやらこれ以上あんたを生かしておいても少しの得もなさそうだね。さっさと吐かせて殺しちまおう」
 いよいよその時が来たらしい。ナマエは内心助けを求め叫びたいのを堪える。アーサーの謗言を口にしたような相手に屈しては、それこそ臣下の名折れだ。精いっぱいの虚勢を張り、ナマエはきっと老婆を睨んだ。
「何をされようと、私がオズ様について話すことはひとつもありません。第一、本当にオズ様の弱みなど何ひとつ知らないのだから、話せるはずがないでしょう」
「お前がそう思っているだけで、実際には重要な情報を見聞きしているということもあるだろう。それに気付かずいるのは、お前が魔法のことなど何も知らない愚かな人間だからというだけさ」
 ゆっくりと老婆がナマエに近づいた。椅子に座らされたナマエの膝に、老婆の纏っている襤褸が掠める。それほどまでに近い距離で、老婆はナマエの顔を下からぐっと覗き込んだ。
「お前が小生意気な人間で助かったよ。手荒な真似をするのに、少しの躊躇も感じずに済むからね。もうじき日暮れだ、夕飯の前にさっさと済ませるよ」
「日暮れ──」
 その瞬間、ナマエの頭の中で何かが引っかかったような心地がした。ぴんと張られた糸を軽くつまびくような間隔。糸はびんと振れ、さざ波のごとき違和感がじわりと脳裏に波紋をつくる。
 ──今、たしかに何かが引っかかったような気がした。
 日暮れ。それが一体何だというのだろう。その言葉の何処に「何か」を感じたのか、思考の糸を手繰ってみるが、糸の先は薄ぼんやりと靄がかかったように判然としない。
 必死に思い出そうとしてみたところで、ナマエには肝心の「何か」が分からない。その上「何か」の正体を掴むより先に、目の前の老婆が短い呪文をぼそりと唱えた。直後、ナマエの頭ががくんと震える。
「うぁ、」
 無意識に呻き声が口からこぼれた。外見上の変化はない。大袈裟な攻撃や拷問にかけられたわけでもない。しかし突如、頭の中身を直接絞められ抉られているような、強烈な気持ち悪さがナマエを襲った。
「記憶をほじくり返させてもらうよ」
「な、」
 何を、と返そうとしたのと同時に、喉が焼けるように熱くなった。絞められた鶏の声のようなものが聞こえたと思ったら、噎せかえり、口から勢いよく吐瀉物がこぼれた。ナマエの膝を覆う長衣を汚す。
 苦しくて、視界が滲んだ。けれど手が拘束されているので涙を拭うことはできず、呼吸を整えるだけの余裕すら与えられてはいなかった。太い棒で頭の中を直接かき回されている感覚は絶えず続いている。そうして無理やりに引き出された記憶や思考の数々は、ナマエの朦朧とした意識の上を、さながら走馬灯のように流れていった。
 はじめてオズと引き合わされた日の、世にも恐ろし気な仏頂面。晩夏の夕べ、ともに中庭の鳥を見たこと。ナマエの語るアーサーとの昔話に耳を傾けるオズの表情は、それまで見たどんな顔よりも優しく穏やかだったこと。
 栄光の街を一緒に歩いたとき、はじめて本当の意味でオズと打ち解けたような気がした。世界最強の魔法使いといただく食事は驚くほどに美味しく感じられ、ナマエは本当はずっと、あの日のことを人に自慢して回りたかった。もちろんそんなことはできないから、せいぜいがアーサーとカインに自慢した程度だ。それでもナマエにとってもっとも大切なふたりに話すことができ、この上なく嬉しかったことを今も覚えている。
 それから──それから。
 それから、どうなったのだろうか。絶え間なく過去の記憶を映し続ける走馬灯は、いつしかすっかり夜の風景を映し出している。ナマエが何か言葉を発し、オズは暗い顔をした。自分は何を言ったのだろう。何気なく発した言葉だったためか、そのときナマエが発した言葉はほとんど記憶に残っていない。音声もなく、熱い紅茶をにこにこと啜っているだけだ。
 そのとき。
 ──そこから先は、いけない。
 時折遠のく意識の中、ナマエの頭のなかでふいに警鐘が鳴り響いた。そこから先は、その先は、思い出してはならない。胡乱な意識に、はっきりと警告が響く。
 そこは頭の中の禁足地。踏み越えてはならぬ一線。誰かに覗き見られることを許してはならないし、ナマエ自身ですらそこに手を出してはならない場所。
 封印された記憶。
 しかしその記憶はけして、まったく抹消されたわけではなかった。ナマエの頭痛がいちだんと増す。無理やりに蓋を開けようとして、箱の中の安寧が崩れようとしているようだ。
 そうしているうちに、記憶の封はほどかれた。そこから「何か」がずるりと引き摺り出される感覚が残る。
 先程までの記憶の映像の続き。しかし無音だったナマエの言葉とは違って、オズの言葉の方ははっきりと、声の一音一音までもが鮮明に記憶に残っていた。それはオズの言葉は細大漏らさず聞き遂げようという職業意識の賜物だったのかもしれないし、はたまたその時のオズの様子がいつになく影を帯びていたからなのかもしれない。
 理由はともかく、ナマエの記憶にはたしかに、そのときのオズの言葉が刻まれていた。

 ──「失望したのではないか」
 ──「私が夜間、魔法を使えないという──ことについて」

 その瞬間、ばちんと何かが弾ける音がした。頭の中で何かの回路がショートしたように、ナマエの記憶の走馬灯はそこで無理やり幕切れになる。激しい頭痛に目を開けているのも困難で、ナマエは荒く呼吸を繰り返しながら、椅子の上で背中を丸めてただただ頭痛をやり過ごそうとする。
 頭が割れるように痛かった。胸から嘔気がこみあげて、また嘔吐する。
 耳鳴りの向こうで、がたりと物が倒れる音がした。反射でナマエが顔を上げると、涙で滲んだ視線の先では、床に倒れた老婆が椅子に手をかけ立ち上がろうとしているところだった。先程何かが弾けたとき、老婆もまたナマエの記憶から弾かれたらしい。ということは、あれは老婆の魔法によるものではなかったのか。痛みのせいで回らない頭で、ナマエはようやくそれだけ思考する。
 しかし今はそんなことを考えている場合ではなかった。
「日没? まさかオズの弱点は、陽が落ちると魔法を使えなくなることだというのか!?」
 興奮を抑えきれない上擦った声で、老婆がひとり譫言のように発する。
「まさかそんなことがあるものか? 魔法使いは夜を恐れぬもの、いや、しかし先の<大いなる厄災>との戦いでは、生き延びた賢者の魔法使いは皆奇妙な傷を負ったと聞く。そうであるなら<大いなる厄災>が天空に輝く時間、オズが一切の魔力を失うということも考えられないことではない……だが、もしも本当にそのようなことが……それほどまでに大きな弱点があるのだとしたら──」

「そうだとしたら何になる」

 その声に、ナマエは首無理やりひねった。その声を、ナマエは知っている。その声の持ち主こそ、ナマエが助けにきてくれると信じ、待ちわびた相手だ。
 老婆の顔が引き攣っている。椅子に張り付けられた背の向こうには、よく知った大きな、強い気配。 
「オズ様……?」
 世界最強の魔法使いが、傲然とそこに君臨していた。

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