失望でも絶望でもない

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 気を失っていたせいで夢も見なかった。ゆえに意識の浮上は、いたくさっぱりしていた。
 目を覚まして最初に見たのは、薄暗闇──闇に満たされた狭い空間と、固そうな土の壁だった。
 ──ここはどこだろう……?
 ナマエは目だけを動かして、視線を辺りに滑らせる。一見して壁と天井との境目はない。なだらかなドーム状の空間。それがナマエの今いる場所だった。
 どこか洞窟か、そうでなければ洞穴のような場所だろうか。見覚えはない。連れ浚われて、知らない場所に閉じ込められていることだけはたしかだ。
 陽の光が差し込む様子はない。暗闇をわずかに和らげているのは、天井から下がる金具に取り付けられたランプひとつだ。さして広くない空間を、そのランプがどうにかぎりぎり照らしている。
 頭の回転がいつもよりも鈍いような気がした。ナマエはひとり渋面をつくりつつ、今度は視線を左右に向ける。意外にも出入口はすぐ近くに見えた。重たげな木の扉がそばの壁に据え付けられている。
 目隠しもされず、さるぐつわも噛まされてない。ただ固い椅子に座らされているだけだった。手足を縛られている感覚はないが、不思議と自由に動かすことはできない。おそらくは魔法で身体の自由を封じられているのだろう。
 魔法──
 意識を失う直前にナマエが聞いたのは、たしかに魔法使いや魔女が操る呪文のようだった。ということは、あの老婆も魔女か何かなのだろう。呼ばれるまま近寄った自分の迂闊さを呪い、ナマエは唇を噛む。
 と、そのとき。
「おや、目を覚ましたかい」
 部屋の奥──暗闇になっていて見えないが、どうやらこの部屋の奥にまだ別の部屋が続いているらしい──から、先程の老婆がのそりと現れ、ナマエににやりと笑いかけた。今はもう頭巾はかぶっていない。落ちくぼんだ小さな目がぎょろりとナマエをとらえ、乾いた唇の隙間からは何本か欠けた歯が覗いていた。
「あなたは……」
「口は利けるね。そうでなくちゃ困るよ、お前には今からいろいろと教えてもらわなくちゃならないんだから」
 ナマエの言葉を遮って、老婆は早口に言い立てる。そうして自分もナマエの前に木の椅子を引き摺ってくると、如何にも大儀そうな仕草で老婆はのそりとそこに尻をのせた。
 同じ高さの椅子に座ってもなお、老婆の方がずっと目の位置が低い。自然と見下ろす形になって、ナマエは恐々口を開いた。
「あなたは、」
「アニス。覚えておきな、オズを殺す魔女の名さ」
「オズ様を……?」
 意外にも簡単に名を明かした魔女に、ナマエは驚き、目を見開いた。
 オズを殺す──言葉の意味は理解できる。しかしそれはあまりにも荒唐無稽で、現実味を帯びない文章だった。理解はできても、うまく事実として噛み砕けない。
 戸惑うナマエに向け、老婆アニスが、にいっと歯茎を見せて笑った。
「何をそう驚くことがある? 中央の国の人間よ。オズの命を狙う魔法使いや魔女など、この世界にはごまんといるだろう。あの男ほど方々で恨みを買っている魔法使いもおるまいに」
「恨み……」
「そうさ。まあ、はじめは中央の国の王子を狙おうかとも思ったがね、さすがにあれはガードが固い。一国の王子ともなれば当然かもしれないが、そのうえオズの直系の弟子ときている。命を奪うのならともかく、生け捕りとなるとできそうになかった。それで言うと賢者も同じだね。それに賢者の魔法使いや賢者本人を害した場合、<大いなる厄災>との戦いに問題があるかもしれない。さすがに私でもそこまでの危険は冒せないよ」
 様々な説明が省略されてはいるものの、老婆の言葉からはナマエがオズを打ち倒すために攫われてきたこと、その役は当初アーサーか賢者が担うはずだったということだけはどうにか理解できた。たしかにアーサーや晶を狙うのはリスクが大きすぎるし、実際問題、賢者の魔法使いや代えの利かない賢者を失えば、オズを殺したところでいずれ世界も亡びかねない。
 むろん、それでいけばオズを殺しても同じことが言えそうなものだが、そこはそこ、殺す側にも何か考えがあるのだろう。ナマエは魔法のことには疎いため、具体的な案はまったく想像がつかないが、それこそ生け捕りにして力を削ぐなどやりようはいくらでもあるに違いない。
 ──ひとまず、アーサー様や賢者様に害が及ばずよかったと思うところなのかしら……。
 アーサーの臣下としては、間接的にだがアーサーの身を守ることができたのだから、良しとすべきかもしれない。そもそもアーサーや晶と比べれば、ただの人間でしかないナマエの方が狙われやすいだろうことはナマエ自身、さんざん危惧していたことでもある。
 何にせよ、ナマエには老婆についての情報が足りていない。加えて魔法で手足を縛られている以上、逃走の目もない。それならばいずれ助けが来る──とも言い切れないが、今はとにかく助けが来るのを信じて、時間稼ぎをする。それ以外にナマエにできることはなさそうだった。
 ごくりと唾を飲み込む。腹をくくって、ナマエは口火を切った。
「貴女がオズ様を狙うつもりだということは分かりました。恨みがあるのだということも。ですが、貴女はどうして私を知ったのですか? 私がオズ様に仕事でお世話になっていることは、そう多くの者が知っていることではないはずですが」
 まずは相手の出方を窺う。ナマエの狙いを見抜いているのか、老婆は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「なに、オズには常に監視の目をつけている。やつの周りをちょこまかと動くやつがいれば、嫌でも目に留まるというもんだ」
「オズ様ほどの魔法使いが、監視に気付かぬとは思えませんが」
「監視といってもやりようはいくらでもある。それになまじ強大な力を持っているだけに、オズは正面から殺しに来る敵を屠ることはうまくても、搦め手には存外脆弱だったりするもんさ」
 そういうものだろうか。ナマエから見ればオズは全方位に完全無欠なように見える。実際北の魔法使いたちと共同生活を送っていても、オズが人後に落ちることはあり得ない。
「まあ、そろそろ見張りも限界に近かったのはたしかだがね。それに、あの双子が張った魔法舎の結界を突破することはさすがにできやしない。だからこそ、私はオズが魔法舎を出てくる機会を見逃したりはしなかったのさ」
 老婆の目が、ぎょろりとナマエを見た。ナマエの身体がぎくりと強張る。
 老婆が椅子の上で矮躯をぐっと乗り出す。今にもナマエに食らいつきそうなほどに迫った。
「最初にあんたがオズと栄光の街を歩いているのを見たときには我が目を疑ったよ。ただでさえ魔法舎から任務以外ではそうそう出てこない男が、事もあろうに人間の娘と歩いているというんだからね。はじめは何かの間違いかと思ったくらいだ。しかし、どうやら間違いではないらしい。それからはオズだけでなくあんたにも監視の目をつけてたんだよ、知らなかっただろう」
 卑し気な笑みとともに、囁きのように言葉を吹きかけられる。ナマエの肌が粟立った。オズと栄光の街を歩いたのは今よりもう半年近く前のことだ。その頃から、自分の行動はこの魔女によって見張られていた。逐一監視されていた。──考えるだけでぞっとする。
 先程までの気丈な態度がようやく崩れたと見て、老婆は満足そうに声を立てて笑った。
「恨むならオズを恨むんだね。あれほど怨嗟の声を纏わりつかせた魔法使いが、無関係の人間を巻き込んでどうして無事に守り切れるものか。死出の旅に行かせるようなもんじゃないか」
「あ、あなたは何故、オズ様をそれほど憎むのです」
 震える声でナマエが尋ねた。ナマエはオズのせいで攫われたというのならば、尋ねて然るべき問いだろう。しかしその瞬間、老婆の顔が醜く歪んだ。
「あの男には私の最愛の人を奪われた。憎むなんて言葉じゃ到底足りやしない」
「最愛の人──」
「そうだ、私にはあの人しかいなかったのに──それを、それを、オズが奪った!」
 声を荒げた老婆に、ナマエは椅子の上でびくりと震えた。
 老婆はまっすぐナマエを見つめている。それなのに、視線はまったく合わない。
「美しい人だった。強い人だった。貴い人だった。世界中の何処を探しても、あの人ほど完璧な魔女はいなかった。人間も魔女も、精霊すらも彼女を崇めた。彼女の美しさと自由さを讃えた。オズなどではない、あの人こそが世界で最も尊ばれるべき魔女だった!」
 堰を切ったかのような言葉に、ナマエは呆然とした。何が引き金になったのか、あまりにも唐突なことだったのでまるで想像もつかない。
 荒く肩で呼吸をする老婆の濁った目は、いつしか赤く血走っていた。乾いた唇の端は白く粟立ち、小さな体はおこりのようにがたがたと激しく震えている。まるで老婆の胸の中にあった熾火が、感情と思い出を油として今ふたたび激しく燃え盛り始めたかのようだった。
「いくら語っても語り足りない。どれほど讃えてもあの人の足元にも及ばない。それなのに──それなのに、あの人は変わってしまった。強く美しかった人は、見る影もないほどにつまらない存在に成り下がってしまった。すべてはオズのせいだ。あの人が人間なんかと寄り添うようになったのも、私があの人を見限らなければならなくなったのも。すべてはオズが世界征服などと無意味なことをしでかしたからだ。あんなことさえなければ、オズがあんなことさえしなければ、あの人があんな、美しくもない、強くもない、貴くもない考えなど持つはずがない。あの人があんな気など起こすはずがなかった!」
 刹那、バンッと何かが爆ぜ、割れる音がした。
 天井から下がったランプが割れたのだ。唯一の光源が断たれたことで視界は失われ、辺りが一面の闇に覆われる。そばにあるはずの木製の扉が、ふいに重い音でがたがたと鳴った。
「あの男が私とあの人を引き裂いた! 私があの人の死を知らされなかったのだって、すべてはオズの、あの邪悪な魔法使いのせいだ!!」
 ナマエはただ、黙っているしかできなかった。まったく目のきかない暗闇が恐ろしかった。それに、これほど強い感情の発露を間近に見たのははじめてで、どうしていいものかまるきり見当がつかなかった。
 今の話で分かったのは、この魔女はオズが世界征服を目論んだと信じていること。そしてそれは恐らく、事実だったのだろうということだけだ。
 信じたくなかった。オズが世界を滅ぼしかけた過去など、そんなものはただの言い伝えであってくれたらと、ナマエはずっと願っていた。
 けれどこの期に及んでまだ、そんなはずはないと言い切れるほど、ナマエの心は強くない。これほど苛烈な憎しみを前にして、それは嘘だと言い切れるほど、ナマエはオズを盲目に信じられない。
 オズを殺そうなど、常軌を逸している。暗闇の中悲痛な声をあげる老婆の姿は、すでに魂のほとんどがこの世にはないような、鬼気迫った様相だった。しかし老婆をそこまで至らしめたのは、オズの存在なのだ。オズの存在が、間接的にでも老婆の信じた世界を狂わせた。
 胸が苦しくて、全身が引きちぎられるように痛んだ。失望でも絶望でもない。ただ痛くて、悲しかった。ナマエやアーサーにあれほどよくしてくれているオズが、この老婆の未来を閉ざしたのかもしれない。少なくとも、この老婆はそう思い込んでいる。その絶望的な隔たりが、ナマエの胸をぐっと塞ぐ。
 過去、ナマエの知らないオズはたしかにいたのだろう。きっとこの老いた魔女以外にもたくさんの怨嗟を、オズは何世紀もの間一身に受け、纏い続けている。オズにとって何よりも大切なはずのアーサーすらも知らないところで。
 どうしてオズの世界征服が老婆の最愛の人物を引き裂くことになったのかは分からない。それについては逆恨みのようにも聞こえたし、事情を知らないナマエには本当にオズがふたりに破綻をもたらしたのか、その判断はつけられない。
 いずれにせよ、老婆がオズを恨んでいることだけはたしかなのだ。そしてナマエは、その恨み、憎しみを晴らすために攫われた。ナマエが求められる役割は、オズを殺すための矢になることだけだ。
 老婆がしわがれた声で呪文を唱える。真っ暗な闇にふたたびランプの火が灯り、ナマエはほっと胸を撫でおろした。視界が利くというだけで、胸に積もる不安のいくらかは解消される。 

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