突風が渦巻く

 数日続いた雪が止み、久方ぶりの晴天だった。空気は澄み、この季節には珍しく空には雲ひとつない。目の覚めるような空の青さは、グランヴェル城の鮮やかな青屋根を連想させる。
 ナマエは実家の屋敷を出ると、冬の午後の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。鼻が冷えてつんと痛むが、それが却って心地よい。冬の空気は凛としている。ナマエはその爽やかさが好きだった。むろんそれは北の国を覆いつくすような、荒々しい冬をほとんど経験したことがないからこその気楽な考えだ。
 先日も、城の中庭に積もった雪を見て声を上げたところ、たまたま一緒にいたアーサーに苦笑されたばかりだった。北の国で育ったアーサーは雪深い冬の恐ろしさをよく知っている。雪を見ても郷愁こそ感じるものの、ナマエのようにはしゃぐことはしない。
 晴天に爽快な気分になりながら、ナマエは屋敷の前に待たせていた馬車に乗り込む。御者には今日の行先として、職場であるグランヴェル城ではなく魔法舎に向かってほしいと伝えた。御者はすべて心得たという顔をして、早速魔法舎へと馬を向ける。
 馬の歩みに合わせた規則的な揺れを感じながら、ナマエは座席のクッションに背中をあずけた。
 昨夜は早々にベッドに入ったが、なかなか寝付けず、結局今日もいつも通りの寝不足だ。魔法舎に到着するまでの間、目を閉じ仮眠でも取ろうかと考える。ふっと気を緩めると、心地よい揺れとともにすぐさま眠気がやってくる。
 しかしすぐ、はっとナマエは姿勢を正した。そしてやおら傍らの鞄をひっ掴むと、その中を慌ただしく確認する。鞄の中にはきちんと包装された小箱がひとつ、行儀よくおさまっていた。
「……オズ様、気に入ってくださるかしら」
 不安と期待が綯い交ぜになった悩まし気な声で、ナマエは誰にともなくぽつりと呟く。
 ナマエは鞄の中の小箱をじっと、中身を透視しそうなほど熱心に、食い入るように見詰めた。箱の中に入っているのは指輪──それも先日オズにもらった腕輪の返礼品として選んだ、かなり上等な指輪だ。
 ナマエがオズからもらった腕輪は、どこからどう見ても疑いようもなく高級な品だった。ナマエも貴族の娘として、宝石を見慣れぬことはない。しかしオズから贈られたものは文字通り格が違う。日頃目にできるような品とは一線を画す、場合によってはどこかの王宮の宝物庫に眠っていてもおかしくないような代物。それがオズから贈られた腕輪なのだった。
 不用意な紛失や盗難を避けるためにも、一時は鑑定を依頼したうえで自宅に保管しようかとも考えた。しかし結局、ナマエは腕輪を身に着けておくことにした。貰い物の価値を無断で調べるようなことはしたくなかったし、何よりオズから貰ったものをただ眠らせておくというのは、オズの本意に沿わないだろうと判断したからだ。
 だからというわけではないが、返礼の品はナマエの出せる予算めいっぱいの品で、且つオズの厳粛とでも言うような雰囲気を損なわない品にした。
 ナマエが働き出してから貯めていた給金と、小さいころからほとんど手つかずの小遣いとを合わせて予算とし、ミョウジ家が代々懇意にしている宝石商に頼んで見繕ってもらったものの中からナマエが選んだ。
 指輪を選んだのは、ほかのアクセサリーよりも身に着けやすいからだ。水仕事や労働に従事する習慣がないのなら、指輪をしていて邪魔になることもないだろう。
 普段アクセサリーのたぐいにさほど興味を示さないナマエが、唐突に宝石商を紹介してほしいと言いだしたときには家人も驚いていたが、城内に出入りする身として必要もあるのだろうということで結局は納得してもらえた。さすがに結婚前の身の上で、意中の男性に贈るアクセサリーを選びたいなどとは口が裂けても言えなかった。宝石商にも当然口留めをしている。
 そんな経緯を経て、悩みに悩んで求めた指輪だ。嵌っているのはオズの美しい指を彩るに相応しい、澄んだエメラルド。美しい翠は真紅の瞳と深い闇夜の桔梗紺の髪と、きっとよく似合うだろう。
 しかし、期待のしすぎは禁物だ。ナマエは己を戒める。万が一オズの好みに合わなかったとき、期待しすぎてはショックが大きい。
「もしもオズ様のお気に召されなかったら、身につけずに保管しておいてもらうのでもいいのだし……」
 予防線めいたことを自分に言い聞かせ、ナマエはふと外の景色に視線を遣った。何時の間にか魔法舎から目と鼻の先あたりまで来ている。辺りには大きな建物もなくがらんとしているが、大通りを抜けたことで道幅はもう随分狭くなっていた。
 御者に声を掛け、馬車を停めてもらう。
「馬車はここまでで大丈夫。せっかくいい天気なのだから、散歩がてら少しくらい歩いて行くことにする」
 まったく貴族令嬢らしからぬことを言い、ナマエは荷物をまとめて馬車を降りた。幸い約束の時間にはまだ少し余裕がある。この後、年内最後の仕事を片づけに城に戻るつもりでいるので、服も靴も動きやすいようにいつもの制服を着ている。散歩をするのに不便もないだろう。
「分かりました。それではお気をつけて、くれぐれも知らない相手にはついていってはなりませんよ、お嬢様」
 長年ミョウジ家に仕えている御者だけあり、ナマエの貴族らしからぬ振る舞いには慣れている。十分に気を付けるよう言い含められ、ナマエは苦笑しながらその場を離れた。

 魔法舎のあたりには民家も商店も多くない。市場まで足を伸ばせば大抵のものは揃うので不便ではないのだが、活気や賑わいといったものからは程遠い。
 閑静といえば聞こえはいいが、実態はただ人間たちから遠巻きにされているというだけだ。比較的魔法使いに対し寛容な中央の国の民であっても、自ら隣人になろうという気はさらさらないのだろう。パレードを終えた今もなお、魔法使いたちの根城に自ら近づこうという人間は少ない。
 通りに人影はない。あたたかな日差しが射しているにもかかわらず、歩いているナマエにはどこか薄暗く、寂しく感じられる。トビカゲリの一件で都が荒れたのを機に、城下は何処も整備され道はよく整っており、見たところ路上には瓦礫のひとつも落ちていない。だからこそ、余計にもの寂しさが目につく。
 ──魔法舎がすぐそこにあるから、治安が乱れるということはないのだけど……。
 喫緊の課題ではなくても、この辺りに民家や商店を呼び込むようにした方がいいのかもしれない。それは下っ端文官のナマエの仕事ではないが、ナマエにはこの国の王子であるアーサーに個人的なパイプがある。今度茶飲み話としてさりげなく進言してみようか。
 そんなことを考えながら歩いていたところで。
「ちょいと、そこのお嬢さん」
「え?」
「そうそう、そこの貴女だよ」
 やにわに声を掛けられ、ナマエはあたふたと周囲を見回した。何せ辺りに人影など見当たらなかったので、まさか何処からか声が掛けられるなど考えてもいなかったのだった。
 しかしよくよく見れば、道端に古ぼけた蓆を広げたその上に、ミイラのように小さく痩せ細った老婆がひとり、ナマエに向けてあぐらをかいて手招きしていた。
 着ているものはほとんど襤褸の布を巻き付けただけのようなみすぼらしさ。日よけのためか、頭からかぶった布は蓆の上に伸び広がっている。その布のせいで顔は陰になり判然としなかったが、呼ぶ声に敵意のようなものは感じられなかった。
 ナマエは老婆に近づくと、目線を合わせるべくその場にしゃがみこんだ。そうすると布の下の表情もいくらかはっきり見えるようになる。
 落ちくぼんだ目は小さい。しかしその小ささに反して、力強くぎらりと輝いている。顔全体が丸めた紙のように皺くちゃで茶色い。襤褸を纏ったような身なりといい、きわめて貧しい身分なのだろうことが察せられた。
 中央の国には西の国ほどの貧富の差や北の国ほどの貧しさはないものの、だからといって貧しい民がまったくいないわけではない。カインの生まれた栄光の街にも、貧しい人々が身を寄せ合うように暮らしている一角がある。魔法舎に出入りするようになり、より市井と近くなったアーサーがそのことを憂いていることもナマエは知っていた。
 この老婆も、ナマエが貴族の身分だと見て取って声を掛けてきたのだろうか。ナマエはわずかに身構え──しかしそれを表には出さぬよう努めて、老婆に向かって話しかけた。
「私がどうかいたしましたか?」
 そうナマエが問うと、老婆は口をすぼめ、喉の奥から呻きにも似た笑い声を漏らした。そして頭布の奥の目を細め、歪めた瞳をナマエに向けた。
「あんた、知らなきゃ教えてやるが、この先にはおぞましい魔法使いたちの巣窟しかありゃしないよ。悪いことは言わない。ひどい目に会う前にさっさとお帰り」
 露骨に悪しざまな物言いに、ナマエはむっと眉根を寄せた。
「魔法使いの巣窟とは穏やかではありませんね。この先にあるのは尊い方々、賢者の魔法使いと異界よりお出でになられた賢者様がいらっしゃる魔法舎です。けしていかがわしい場所でもおぞましい場所でもありません」
「賢者の魔法使いなら知ってるよ。<大いなる厄災>と戦ってくれるっていうんだろう。それはありがたいことだがね、知っての通りあそこには狂暴な北の魔法使いたちがたむろしているし」
「賢者様と魔法舎をあずかるこの国の王子アーサー様の名の下において、北の魔法使いたちが此の国の無辜の民に危害を加えることはありません。どうぞご安心ください」
「あんた、お役人かい」
 老婆が品定めするように、ナマエをじろりと眺めまわす。
「だがね、あそこにはあのオズもいるんだろう。オズほどの魔法使いが、賢者といっても所詮無力な人間と、まだ若い王子の言うことなど聞くものか」
 侮りを隠そうともしない言葉に、ナマエはさらに眉間の皺を深くした。オズのことはもちろん、賢者である晶と、そのうえ言うに事欠いてこの国の王子であるアーサーのことまで軽んじる言葉は、中央の国の臣として働くナマエにとって到底看過できるものではない。それがたとえ国民の本音だとしても、そうですかと聞き流すわけにはいかない。
「アーサー様はたしかにまだお若いですが、賢者の魔法使いとしてもこの国の王子としても、そのお力を遺憾なく発揮しておられます。臣下の身でこのように主を評価するようなことを本来言うべきではありませんが」
「へえ、役人ってだけでなくお貴族様なのかい。どうりできれいな恰好をしているわけだ」
「それにオズ様はけして言い伝えられているような残虐な魔法使いではありません」
 その言葉に、老婆の顔色が変わった。皺くちゃの顔は俯けられ、ふたたび顔に影が落ちる。
「あんた、オズを知っておるのか」
 ぼそりと呟かれた問いに、ナマエは不審を抱きながら頷いた。
「知っているといえば、まあ……多少は……」
 積極的に知り合いだと吹聴する気はないが、嘘を吐くのも気が引けた。これから魔法舎に行こうというのに、知らないというのもおかしな話だ。それにこの国の人間ならば誰でも、オズの言い伝えを聞いて育つ。知らないという方が却って珍しい。
 しかし老婆はナマエの返事に満足そうに頷くと、俯いていてもなおはっきりと分かるほど、口角を上げてにやりと笑った。
「ほう、そうかい。するとあんたが、オズがそばに置いているという稀有な人間か」
「……そのようなくだらぬ話を一体どこの誰が?」
「北の国の魔女はオズの動向には目を光らせているものでね」
「北の──?」
 その瞬間、ナマエが身に及ぶ危険を察して腰を上げるよりも早く、老婆が口の中で素早く呪文を唱えた。途端にナマエと老婆の周りを突如突風が渦巻く。ナマエは目を開けていることもできず、ぎゅっと固く瞼を閉じた。容赦なく吹きつける風に呼吸すらもままならない。息苦しさの中、ナマエは藻掻き宙を掻いた。
 その指先が、ほんの一瞬何か柔らかく乾いたものを引っ掻いた。しかし目を開けないナマエにはそれが何であるかも分からない。
 直後強風の轟音に重ねて聞こえた老婆の呪文の声を最後に、ナマエは立ったままふつりと意識を失った。

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