一番大事な問いかけ

 それにしてもこの短い時間の間に、こうも次々と心を煩わせることが起こるとは。オズとの間の気まずさ、フィガロからの忠告、そしてオーエンとの遣り取り──いろいろな情報が綯い交ぜになって、それらはすでにナマエの胸中で濁流と化していた。
 その濁った奔流は、今にもナマエの頭と精神を押し流そうとしている。もはやナマエに対応できる限界など、とうに超えていた。
 考えなくてはならないことは山積している。ひとまず状況を整理しなければ──そう思い立った時、ふとナマエは先程自分がオーエンに向けて放った言葉を思い出した。オズを前にオーエンを形ばかり庇ったとき、訝るオーエンにナマエは言ったのだ。「自分とオズはけして親しくはない」と。
 今更ながらに、あの言葉が気に掛かった。ナマエの本心とは、希望とはかけ離れたその言葉に、オズが何を思ったかが気になったのだ。
「あのように申したほうが、よかったのですよね」
 もう一度「親しくない」と繰り返したいとは思えず、何だか随分と曖昧な表現になってしまった。しかしそれでもオズは何の話かすぐに理解できたようで、ナマエに仏頂面を向ける。
 オズの返事を待ちながら、まるで許しを求めるようだと、頭の片隅でナマエは思った。別にそんなもの、求める必要など何処にもないというのに。何故ならオズとて先日、まるきり同じ言葉を口にしたのだから。
 それなのに妙に気に掛かるのは、フィガロがあんなことを言うからだ──オズがナマエのことを好きなのだ、などと。
 知らず、ナマエの視線は縋るようにオズを見上げた。
「……ああ」
 低く短く、オズが答えた。その短いいらえの中に、ナマエは何かざらついた響きを感じ取る。だがそのざらつきの正体を追及する前に、オズが再び口を開いた。
「今日来るとは聞いていなかったが」
 どきりと胸が鳴る。フィガロやオーエンと遣り合ったことで動揺し、なあなあになっていたが、今のナマエはオズを避けているのだった。当然、今日魔法舎を訪れることもオズには知らせていない。そもそもオズに用があって来たわけではないのだから、わざわざオズに知らせておく理由もなかった。
「今日はアーサー様に用があって参りました」
「そうか」
 ナマエの端的な答えに、オズは特段不審を抱くことはなかったらしい。
「あまりうろうろしないことだ。またオーエンやミスラに絡まれないとも限らない」
「はい、気を付けます」
 最低限の遣り取りで、オズは「いつも通り」にナマエに忠告した。殊勝な顔で頷きながら、内心でナマエはほっと安堵する。よかった、ちゃんとやれている。いつも通り振る舞えている。
 と、ナマエが安堵に気をゆるめたのと同時に、オズの瞳が何か気付いたように、ゆるくナマエの顔のあたりで縫い留められる。かと思えばオズはやおら腕を持ち上げて、その手をナマエの方へとゆるりと伸ばした。
「え、」
 オズの手のひらがナマエの頬を掠めそうになる──その刹那。ナマエの脳裏に、以前オズから頬に触れられたときの熱と感覚、とめどない羞恥が閃光のように蘇る──すべらかでひんやりとした、オズの指先の温度とともに。
「──っ!」
 手のひらが触れる間際、思わず咄嗟にナマエは身を竦ませ肩を引いた。
 オズの手のひらが空を切り、ナマエの鼻先でひたと制止する。
 オズの真紅の瞳が、驚いたようにほんの僅かに見開かれ、じっとナマエを見据えていた。ナマエもまた、驚き、息することすら忘れてオズを見詰める。
「あ……」
 未だ浮いたままだったオズの手がゆっくりと戻されるのを見て、ナマエは自分が無意識とはいえひどい態度をとったことにようやく気が付いた。たちまち全身から、さっと血の気が下がる。
「あの、お、オズ様……」
 どうしたらいいのかも分からずに、ナマエはただオズの名を呼んだ。
 身を竦ませたことも声を失ったことも、ナマエにとってはあの日の感情の反芻、再現のようなものだ。あの日あの瞬間に意識できなかった感情を、もしもあの時持ち合わせていたのなら──きっとナマエは今のような反応を示したに違いない。
 その指先が自らの肌に触れることに戸惑って、けれどどうしたって触れられることを心待ちにしてしまう気持ちは隠せなくて。そんな自分が恥ずかしいのに、同時に触れられた後のことを考えるだけで身体が強張る。そうした相反するいくつもの感情が混ざり合った結果、ナマエは咄嗟にオズから距離をとったのだ。
 しかしナマエのそんな胸中をオズが知るはずもない。オズにとって今のナマエの態度は、ただオズを拒み、嫌がっただけに見えても何らおかしくはなかった。
 正直に言えば、ナマエはまだフィガロの言葉を信じてはいない。良くて半信半疑といったところだ。それでももしもフィガロの言葉が真実だとしたら。好きな相手からはっきりと拒絶を受ければ、普通は傷つくのではないだろうか。それがたとえ、世界最強の魔法使いであったとしても。
 オズが何か言いたげに、薄く口を開く。しかしすぐに口は閉ざされて、オズは喉元までせり上がっていたであろう言葉を呑み込んだ──そのように、ナマエの目には見えた。
 そして束の間瞼を閉じたかと思えば、今一度瞼と、そして口を開いた。
「……髪が、口に入っている」
「えっ」
「お前の口に髪が入っていたので、それを取ろうとしただけだ」
 言われてナマエは口許を自らの指先で探る。するとたしかに、口の端に数本の髪がぴたりと張り付いていた。
 数秒の思考停止ののち、やっと脳が状況を理解した。と同時に顔がぼっと熱くなる。要するに、すべてはナマエの自意識過剰でしかなかった。何のことはない。オズはただ親切心から、ナマエの口許の髪を払おうとしてくれていただけだった。
「ごっ、ご無礼をお許しください……!」
 勢いよく頭を下げたナマエは、目の奥がじんじんと熱くなるのを感じていた。
 ──恥ずかしすぎる……!
 もはや自分のあまりの愚かしさに、オズの顔を見るのも恥ずかしい。どんな顔をしてオズと話をすればいいのか分からず、ナマエは怒涛の羞恥心に襲われながら途方に暮れた。
 いくらフィガロに半ば唆されていたとはいえ、オズの好意に下心を勝手に見出していたなど、世界最強の魔法使いを前にして不敬にも程がある。こうなってくると前回の口許に菓子が付いていたというのだって、ナマエが粗忽ものだっただけ、本当に口許が汚れていたという可能性も出てくるわけで、というより、そうであるとしか思えなくなっていた。
 ──好きとかそういうこととは関係なしに、私ってなんて自意識過剰で恥ずかしい人間なんだろう!
 初恋に溺れ、惑わされ、あまつさえ礼儀作法を見失うとは。アーサーの臣下を名乗るのも金輪際やめた方がいいのかもしれない。ナマエはそこまで思い詰めた。羞恥心に追い詰められ、今にも身投げでもせんばかりの思い詰め方だった。
 頭を下げたきり一向に顔を上げないナマエを訝しみ、オズが「顔を上げよ」と短く命じる。ナマエは恐る恐る、のろのろと顔を上げオズを見た。いつもながらオズの顔色は読めないが、それでもナマエの不敬に腹を立てているようには見えなかった。
 顔を上げると雪風が頬に吹き付けて、火照って熱を持ったナマエの頬を冷やす。オズは何も言わず、ナマエが落ち着くのを待っているようだった。
 とはいえいくら冷静さを取り戻したところで、これ以上長居をしてはさらにボロが出かねない。ようやく冷静さを取り戻した頭がそう判断するや否や、ナマエは素早く姿勢を正してオズに礼をとった。
「先程は取り乱し申し訳ございませんでした。用も済みましたので、今日はこれにて失礼いたします……」
「待て」
 今にも立ち去ろうとするナマエを、オズが呼び止めた。
「私の用件が済んでいない」
「私に御用がおありなのですか」
 驚き、ナマエは目を見開いた。ナマエはてっきり、オーエンに絡まれているところをたまさか見かけたオズが、見かねて仲裁のために現れたのだとばかり思い込んでいた。それにオズとナマエでは大抵、用件を持ち込むのはナマエの方だ。オズからナマエへの用件など、そんなものはこれまでほとんどなかった。
「……≪ヴォクスノク≫」
 オズが呪文を唱える。それと同時に、彼が空に向けた手のひら──先程ナマエに向け伸ばされたのと同じ方の手のひらに、虹色のまたたきを伴いひとつの小箱が現れた。
 オズの瞳の色にも似た深い朱の小箱をオズは一瞥し、それをナマエへと差し出す。ナマエは求められるまま受け取って、それを注意深く観察した。
「……オズ様、こちらは?」
「賢者の世界にはクリスマスという行事があるそうだ。その行事では、知人に贈り物をすると」
「贈り物を……」
 つまりこれは、オズからナマエへの贈り物ということなのだろうか。しかしオズ様から贈り物をもらう理由などない──そう言いかけた直後、ナマエはフィガロから聞いた言葉を思い出した。フィガロによれば、贈り物をされるだけの理由がまったくないわけではないらしい。
「あの、開けてみてもよろしいでしょうか」
「構わない。それはすでにお前のものだ」
 了承を得て、ナマエはそっと小箱の縁に手をかけた。オズの片手におさまるほどの大きさ──ナマエの手のひらにはやや余る箱を、ナマエはゆっくりと開く。そして息を呑んだ。中には小さな翡翠に似た石がいくつも嵌めこまれた金の装飾品がひとつ、静かにクッションの台座に鎮座していた。
「これは腕輪、でしょうか?」
「そうだ」
 手の中の腕輪を、ナマエは息を詰め、まじまじと見つめていた。
 冬のあえかな陽光をすべて吸収するように、緑色の石は鈍い光を発している。代わりに金の輪が陽を受けきらきら輝いていた。
 台座から腕輪をとろうと、ナマエは恐々指を伸ばす。しかしすぐに思い直し、その指をさっと引っ込めた。
 いくら肌につける装飾品といえど、洗ってもいない手で手袋もつけずに触れるべきではないだろう。見たところけして軽はずみに扱ってよい品ではなさそうだ。ただ高級というだけではない。貴族のナマエですら滅多にお目にかからないような、特別な品のように見える。
 しかしナマエの仕草を見て、オズは眉を曇らせた。
「……迷惑であれば」
「そのようなことはございませんが!」
 慌てて大声で返事をしてから、ナマエははっと顔を赤らめた。誤解を解こうとするあまり、ついつい必死になってしまった。オズは眉をひそめ、訝るようにナマエを見下ろしている。
 こほんとひとつ咳払いをして、ナマエはオズを見上げた。
「このような素晴らしい品を、本当に私などが受け取ってもよろしいのでしょうか」
「いいと言っているだろう」
「ですがその、お返しできるものを、私は今は何も持っておりませんし……」
「見返りを求めて贈ったものではない」
 それはそうなのだろうと、ナマエも思う。オズは見返りを求めて何かをするようなタイプではない。事を起こすとなれば、それはオズが本心からそうしたいと願っているか、そうでなければ誰かからそう求められた場合だ。意に染まぬことを損得勘定でしなければならないほど、オズは矮小な存在ではない。だが、それではナマエの気が済まない。
「オズ様、できれば私からも、何か贈らせていただけたらと思うのですが」
 ご迷惑でしょうか、とナマエはそこで、オズの表情を窺った。オズは以前眉根をぐっと寄せてはいるが、不機嫌さのあらわれというわけではないらしい。ただ、戸惑ってはいるようだった。贈り物に返礼を申し出られることが、この上なく意外だとでもいうように。
「迷惑ではないが、そこまで気を回す必要はない」
「私が贈りたくて贈るのです。まだ何をお贈りするかは決めておりませんが、ご用意したあかつきには受け取っていただけますか。オズ様さえよろしければ、ですが」
 ぎこちなくナマエが笑いかける。オズはまだ悩まし気に眉根を寄せていたが、やがてナマエの押しの強さに折れたのか、諦めたように溜息を吐き出した。その嘆息が了承の意であることを汲み取って、ナマエはにこりと微笑んだ。
「では、次にお会いするときまでに何か贈り物を用意しておきます」
「そうか」
「何か贈り物のリクエストはありますか?」
「何であろうと構わない」
「場所をとるものが嫌だとか、甘いものは嫌いだとか」
「魔法で小さくすればいいだろう。食べ物の好き嫌いはない」
 本当だろうか。世界最強の魔法使いにだって嫌いな食べ物くらいはありそうなものだが。ナマエは首を傾げたが、オズが何でもいいというのだから、結局は分かりましたと頷くことにしておいた。どのみち金に宝石をあしらった高価そうな腕輪の返礼品なのだから、適当な品で済ませることもできない。相応の品を見繕う必要がある。
 話が一段落すると、ふたたびナマエとオズの間に沈黙が落ちた。和やかな会話を経たためか、今度の沈黙は少しも気詰まりなことはない。オズは何を考えているのか分からない顔でナマエを眺め下していた。
 真紅の瞳は熱を持たず、凪いだ湖面のような静けさで、ひたとナマエを映している。 
「あの、オズ様」
「なんだ」
「私のことを」
 好きだというのは、本当のことなのですか。
 一瞬そう問いたいような衝動に駆られ、ナマエの喉元まで浮ついた問いがせり上がる。
 しかしいざ言葉にしようとすると、不思議と問いは声を伴わないのだった。ナマエの半開きの口は、何の音も紡がぬままにぽかんとただ開かれている。
 口を半開きにしたままオズを見詰めるナマエの姿は、きっとオズから見れば大層不可思議な表情に見えたことだろう。
「どうした」
 オズが問う。ナマエはもう一度問いを声に出そうと試みようとして、けれど結局取りやめた。そんな問いをここで口にしたところで、何にもなりはしないと思い直したからだ。せいぜいが気まずくなり、ナマエが頭を下げることになるだけだろう。
「いえ、何でもございません」
 にこりと笑って首を振り、ナマエは雑念を頭の中から追い払った。「今年ももう、終わりだなと思いまして」
「そうだな」
「オズ様は魔法舎でお年を越されるのですか?」
「そうなるだろう」
「賑やかで素敵ですね。アーサー殿下はどうなさるのでしょう。年越しくらいは魔法舎で皆さんと一緒にお過ごしいただけたらいいのですけれど」
「王子なのだから、新年の行事もあるだろう」
「それはそうですが、臣下としてというより友人として、やはり年末年始くらいは羽を伸ばしてほしいのですよ」
 ひと度会話を始めてしまえば、ぎこちなさなどまるで感じることなくさらさらと言葉が口をついて流れ出る。声にできなかったのは一番大事な問いかけだけで、それ以外の言葉ならば難なく話すことできた。当たり障りのない会話ならば、きっとどれだけでも続けられるに違いない。
 それが正しいことなのかは、この際考えないことにした。考えても始まらない。何よりナマエは、自分で自分に定めたはずではないか。オズへの恋心を、心の奥底に隠してしまおうと。たとえオズがナマエを好きだったからといって、だから何だというのか。こうして取り留めもなく言葉を交わせるだけで、それで十分ではないのか。
 それだけで、満足できるのではなかったのか。
「お前は」
 知らず思考の中に潜り込んでいたナマエは、やにわに掛けられた声にはっとした。え、と胡乱に問い返すと、オズは根気強く「お前は年末はどうする」と繰り返した。
「私ですか? 私もさすがに仕事しながら年越しはしたくありませんから、実家で過ごすことになるかと」
 すでに年の瀬も近い。今日魔法舎にやってくるまでに通った街中も、新年を迎える準備でどこもかしこも大わらわだった。グランヴェル城では新年を祝いにやってくる賓客を迎えるので忙しいが、ナマエはそうした華やかな場とは縁遠い。忙しそうに立ち働く人たちを他人事のように眺めているだけだ。
 むろん貴族らしく忙しく、華やかな年始を過ごそうと思えばそれも可能ではある。しかし長年そうした行事への参加を避け続けてきたナマエには、放っておいてもお呼びの声が掛かるなどということはなかった。ナマエもそれでいいと思っている。その方がずっと気が楽だ。
「好きなことばかりして暮らしているので構わないのですが、どんどんアーサー様やカイン以外の友人が減っている気がします」
 ふふふ、とそれほど冗談というわけでもなくナマエが笑った。
 と、ナマエの話にぼんやりと耳を傾けているように見えたオズが、
「今年中に食べきってしまわなければならないチョコレートがある」
 脈絡もなく、唐突にそう発した。
「は、はあ」
「お前が食べないというのならば、捨てることになるだろう」
「えっ、な、何故……。リケさんたちにあげれば喜ぶと思うのですが」
「リケにはネロも菓子を与えている。子供に甘いものを与えすぎるべきではない」
「はあ……なるほど……?」
 それはたしかにそうなのだろうが。
 オズの言葉の真意をいまひとつ汲み取れず、ナマエは戸惑う。
「……お前が食べないというのならば」同じ言葉を二度、オズは繰り返す。それでようやく、ナマエにもオズの言いたいことが伝わった。
「分かりました。食べ物を粗末にはできませんし、リケさんの健康を損なうわけにはまいりません。それでは、年内にもう一度、オズ様のお部屋を伺います。その時に贈り物もお持ちいたしますね」
「ああ」
 無愛想な返事を受け、ナマエは苦笑する。もしかしたらフィガロの言うことは正しくて、この世界最強の魔法使いは本当にナマエのことを好いているのかもしれない。そんな考えがふっと浮かんだが、ナマエはもうそれを無理に打ち消すことはしなかった。

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