意味なんてない

 このまま待たせている馬車に戻ろうかとも思ったが、先程までの会話のせいで、とてもではないがそんな気分にはなれなかった。ためしに鞄の中に入れている手鏡を取り出し自分の顔を見てみると、灰色の雪雲を背景に背負った顔は如何にも生気のない顔色と顔つきをしている。これでは幼い頃からよく知った御者に何かあったのかと心配を掛けてしまいかねない。
「とりあえず、中庭にでも行こうか……」
 すっかり緊急退避先として定まってしまった中庭に足を向け、ナマエはとぼとぼ歩き出した。
 が、ほどなく眼前に、何処からともなく煙のように現れた魔法使いの姿の姿をみとめ、ナマエははたと足を止めた。
 降る雪とよく似た白い肌と白銀の髪に、ナマエにとっては見慣れた左右で異なる瞳の色。ただしナマエのよく知る人物とは左右反転した色の瞳は、ナマエに本能的な恐怖を抱かせる。
 先ほどまで対峙していたフィガロとはまた別の、もっと直接的な脅威をもたらす存在──
「オーエンさん……」
 中庭の入口に佇んでいたオーエンは、ナマエの声に反応して視線を寄越した。ナマエがそこにいることなどとうに気付いていただろうに、まるで今この瞬間ようやくナマエに気付いたかのように、オーエンは白々しく、そして露骨に嫌そうな顔をした。
「は? 何だよお前。誰か知らないけど気安く呼ぶなよ」
「す、すみません……」
「それに人の顔を見て嫌そうにして。嫌なやつ」
「重ねてすみません……」
 果たして嫌そうな顔をしていただろうか。開口一番に文句をつけられ、ナマエはうっかり謝ってしまった。
 言いがかりだとは思うのだが、さりとて嫌な顔をしていなかったとはっきり自信を持てるわけではない。何せオーエンはナマエの友人カインの因縁の相手だ。ナマエとオーエンとの間にはこれまでのところ何の確執もないが、元からナマエのオーエンへの心証は悪かった。
 だが、心証が悪いのはオーエンとて同じらしい。
「お前、知ってる。オズのところに出入りしている人間だ」
 無遠慮にナマエの顔を眺めると、あくまで距離をとったままでオーエンが呟いた。その言葉に、ナマエはオーエンにまともな挨拶をしたことがなかったことに、今更ながらに気付く。
 魔法舎に足を運ぶようになって半年以上が経っており、ここの魔法使いのほとんどとは多かれ少なかれ言葉を交わしたことがあるナマエだが、オーエンだけは別だった。ナマエはオーエンとは顔を合わせないよう用心深く注意していたし、またナマエが多くの魔法使いと顔見知りになったガーデンパーティーに、オーエンは参加していなかった。
「申し遅れました。私はアーサー殿下にお仕えしております、ナマエ・ミョウジと申します。現在はオズ様の伝記編纂の役を拝命し、オズ様のご協力をいただくべく時折こうして魔法舎にお邪魔しております」
「ふうん」
 慇懃な態度で無礼のないよう挨拶をしたつもりだが、オーエンからの反応は薄かった。もともとナマエのような人間になど興味はないのだろう。ただ、今日はたまたまこうして行き会わせ、行き会ったからには因縁のひとつでもつけておこうだとか、そういうことなのかもしれない。
 ──いえ、これも悪い先入観かしら。
 勢いよく頭を振って、ナマエは雑念を追い出した。カインとのことを未だ根に持っているのは事実だが、それはあくまでナマエの気持ちの問題だ。カインとのことを引き合いに出し、まったく無関係のナマエがオーエンに悪感情を持つべきではない。中央の国の臣として極力公正であろうというナマエの意思が、ナマエの中のオーエンへの先入観をどうにか封じ込める。
 そんなナマエを、オーエンは暫し見定めようとするように矯めつ眇めつしていた。いや、正しくは見定めるのではなく、見極めようとしていたのかもしれない。どのように甚振れば、ナマエがもっとも傷つくのか、その線を。
 ナマエがそのことに気付いたのは、ふと視線をオーエンへと戻したときに見つめた色違いの瞳に、一瞬はっきりと悪意がひらめいたからだった。
 オーエンの顔に浮かんでいた先程までの不快げな表情は、今はひとまず消し去られている。代わりに悪意の滲んだオッドアイはうっすらと細められ、見る者を不安にさせるほどの妖艶な笑みがほっそりとしたかんばせに湛えられていた。
「人間がよく平気でオズの周りをうろうろできるね。殺されるのが怖くないの?」
 ゆったりとしたその口調は、ともすれば甘ったるくさえある。しかし会話の内容は甘さからはほど遠い、随分と殺伐としたものだった。立ち去る代わりに差し出された会話は、的確にナマエの言われたくないところをついてくる。
 凍えるような寒さの中、ナマエはしかし声も身体も少しも震えさせることなく、
「オズ様はそのようなことはなさいません」
 はっきりそう言い返した。中庭の木々が、大きく葉擦れの音を立てる。
「どうしてそう言い切れる? 僕はオズに何度も殺されかけてるよ」
「オーエンさんとオズ様の間のことは私には計り知れませんが、少なくとも私にはそのような酷いことをされたことはありません」
「昨日までは何もなくても、今日殺されるかもしれない」
「いいえ、オズ様は私を殺したりはなさいません」
 ナマエの返事がつまらないのか、オーエンは白けた顔をした。
「オズのことをよく分かってるって、思い上がってるんだ」
「そのようなことは……ないですが……」
 そこでナマエは少しだけ怯み、弱腰になる。オーエンにとっては何気なく放った言葉だったのかもしれないが、実際には最後の言葉がもっとも、ナマエの痛いところをついていた。
 オズのことをよく分かっているなど、そのような思い上がりは持っていない。むしろオズについては分からないことだらけだ。伝記編纂のためという職務の部分だけでなく、個人的な付き合いの領域においても、オズのことが分からないということに変わりはない。
 しかし、本当に自分は思い上がりをまったく持っていないだろうか。自分でも気づかないうちに、オズのことを知った気になっていないだろうか。そんな不安が、オーエンの言葉によって胸の中で鎌首をもたげる。
 ──何時の間にか、知った気になっていたのかしら。
 少なくとも、相手のことを何も知らなければ好意の抱きようもない。ということはナマエがオズに惹かれている時点で、ナマエはある程度オズのことを知っている──知った気になっているということだ。
 けれど、本当に知っているのだろうか。つい先程フィガロから、オズの凄まじさについてナマエの知らなかった情報を齎されたばかりの身としては、知っているなどと大それたことを思えはしなかった。それならやはり、オーエンの言うとおり、ナマエは思い上がっていたということになる。
 ナマエの胸中に、ぐるぐると困惑の渦が巻き起こる。それを見透かしたかのように、オーエンはたちまり冷ややかな笑みを取り戻した。
「思い上がりに思い当たることがあるんだ」
「そういうわけでは……」
 ないとは言い切れない。ここで何食わぬ顔で嘘をつけるほど、ナマエは世間擦れしていない。
「本当は君だってオズが恐ろしい魔法使いかもしれないって考えたことがあるでしょう。それなのに自分が知ってるオズがオズのすべてだと、どうして信じられるの? それとも知ったうえで気付かないふりをしてる? ご主人様のためならオズに殺されるのも怖くない? だったらいっそ、オズに殺されてしまった方がいいかもね。騎士様やお前みたいな人間は、忠誠心のために死ぬのが好きでしょう」
 流れるような悪意の言葉は、ナマエの心の表面をこそげながら流れてゆく。口惜しいのはオーエンの言葉のすべてが的外れというわけではないことだった。すべてとは言わずとも、オーエンの言い分には思い当たるふしがたしかにある。
 しかしアーサーを引き合いに出されては、ナマエの立場上おめおめ聞き流すわけにはいかない。
「……おっしゃる意味が分かりかねます」
 語気を強めて言い返したが、オーエンはそれすらどうでもいいようだった。
「意味なんてないよ、こんな会話に意味なんかあるはずない」
 投げやりにそう言って、オーエンはさも面倒くさげに溜息を吐いた。自分からナマエに突っかかっておきながら、渋々ナマエの相手をしてやっているかのような態度だ。当然ナマエは腹立たしく思ったが、ここまで露骨に悪意をぶつけられることは珍しく、いっそ清々しさすら感じる。ついつい、毒気を抜かれた。
 思えば宮中の駆け引きは大抵騙し合い、化かし合いのようなものだったし、フィガロとの遣り取りにしたところで本音と建前を巧妙に使い分けていた。フィガロは「人間の味方」という立場を崩さなかったし、ナマエはナマエでフィガロの前では無知で無力な人間という立場を守った。あくまでも、それは各々のポジションに則った応酬だ。
 そこへいくとオーエンの悪意は、純粋にナマエ個人に向いていた。ナマエの嫌がることを言い、ナマエを苛立たせることに終始している。目的がはっきりしないのは厄介だが、少なくとも相手の腹の底を読む努力をしなくてもいいという点で、オーエンはフィガロよりも余程渡り合いやすい相手だった。
「人類がみんな、オーエンさんみたいだったらよかったのに」
 思わずぽつりと呟くと、すぐさまオーエンが不快そうに「は?」と眉根を寄せる。
 みんながみんなオーエンほど分かりやすく悪意をぶつけてくれたなら、いっそ話はもっと簡単だった。長年宮中に身を置いているがために腹の探り合いは不得手ではないものの、本来のナマエは我が強く、はっきりと物を言いたい性分だ。もしもフィガロがオーエンほど率直に発言してくれたなら、ナマエもフィガロに本音と建て前を使い分ける必要はなかっただろう。
 好きになれない相手であることには変わりない。カインの目玉を奪ったことは今も許せない。しかし、それはそれ。ナマエはオーエンの露骨な悪意の発露がそれほど嫌いではなかった。
 だが、生憎とそれはナマエの側の事情であり、オーエンまでもが同じ気持ちでナマエを迎えてくれるわけではない。それどころか、ナマエが少なからずオーエンを認めたことに対し、彼ははっきりと不愉快そうに顔を歪めた。
「むかつく。人間のくせに偉そうで、驕ったその顔。殺したくてたまらない。いっそ本当に殺そうかな。お前のことを殺したら、オズも賢者様も騎士様も、みんな悲しむんだろ。ふふ、いい気味」
「……どうでしょう。カインくらいは悲しんでくれそうな気もしますが」
「オズも王子様も賢者様も、殺したくても殺せないやつばかりで苛々してたんだ。だけどお前はそうじゃない。お前はただの人間だから、殺しても何の問題もないね」
「ただの人間だから殺してもいいというものではないのでは……」
「お前の理屈は聞いてない」
 その瞬間、ナマエの視界からオーエンの姿がふっと消えた。そのことを理解するのとほぼ同時に、ナマエの耳に何か獣の唸り声らしきものが聞こえてくる。それはナマエの足元から聞こえてくるようで、ナマエが怯えて視線を足元に向けると、そこには半開きになったオーエンのトランクが無造作に置かれていた。
 唸り声は半開きのトランクの中から聞こえてくる。トランクの中身はまるで深淵のように、真っ暗で何も見えない。
 聞くからに獰猛な唸り声とかぶせるように、ナマエの耳元でオーエンの声がした。いつのまにか、オーエンはナマエの背後に回り込んでいた。
「獲物を甚振るのはいつでも早い者勝ち。オズがお前を殺す前に、僕が甚振って殺しちゃおうかな」
 そう嗤って、オーエンが靴の先でトランクを蹴る。はずみでトランクが傾ぎ、トランクが大きく口を開きかけたその瞬間──
「何をしている」
 低く張りのある声が、ふいに中庭の空気を震わせた。開きかけたトランクは、ぱたりと横倒しになりその口を閉じる。同時に獣の唸り声も絶え、辺りにはやおら沈黙が落ちた。
 ナマエが強張った表情を前方に向けると、先程までオーエンが立っていた辺りには、いつ現れたのかオズが仏頂面で屹立していた。真紅の瞳はまっすぐに、ナマエを通り過ぎその背後のオーエンに向けられている。オーエンがナマエから身を離すのが、背後の気配で感じられた。
 オズ様、と。ナマエはそう呼びかけようと思ったのだが、喉が閉じていて声が出なかった。獣の唸り声にあてられたのだろう。ナマエが自覚していた以上に、身体は本能的に恐怖を感じていたらしい。
 声が出ないナマエに代わって、ナマエの背後のオーエンが笑った。
「オズ、いつから騎士になったの?」
「何を言っている」
「そういう登場は騎士様の特権だよ」
 オーエンの軽口をオズは黙殺した。
「何をしているのかと聞いている」
「オズの周りにいる人間を殺したら、あなたがどんな顔をするのかって話をしてただけ」
「……オーエン」
 オズが左手に携えた杖をゆらりと傾ける。背後のオーエンが身構えたのが分かって、ナマエは咄嗟に「オズ様」と声を張り上げた。その声もナマエが想定していたよりずっと細く、掠れた声にしかならなかったが、しかしひとまずオズの注意をナマエに向けることには成功した。
 ナマエを映す真紅の瞳には、これといった感情は浮かんでいない。ナマエはひそかに安堵して、
「オズ様、私は何もされておりません、まだ」
 取り成すように、そう告げた。オズの表情は変わらない。
 ナマエが何の害も受けていないことは見れば分かるのだから、もしかするとナマエがこんな取り成しをしたところで、オズには何の意味もなかったのかもしれない。しかし自分が原因でオズとオーエンが揉めるというのも、ナマエにとっては居心地の悪いことだった。ナマエは別に、オーエンを成敗したいわけではない──嫌いではあるが。
 オーエンはゆらりと影のように揺れ、ナマエの背後からすぐ隣へと回り込む。そして表情の乏しい、妖艶なだけの笑みを浮かべてナマエを覗いた。
「ふうん、オズに僕を殺させないんだ」
「オズ様と私は、けして親しいわけではないですから」
「……つくづく嫌な人間。中央の国は人間も魔法使いも、虫唾が走るようなむかつくやつばかり」
 やっぱり殺してしまおうか。オーエンが嘯き、オズが杖を構えなおしたそのとき、ぴんと張りつめた中庭の緊張を破る、いたいけで愛らしい声が突然響いた。
「これ、オーエン! 持ち場を離れて見つからぬと思ったら、こんなところで油を売っておるとは!」
「忘年会の準備が滞っておる。早く持ち場に戻るのじゃ!」
 現れたのは装飾がふんだんに施された特注の衣装に身を包んだ、北の双子の魔法使いだった。忘年会というナマエに耳馴染みのない言葉とともに、双子はオーエンの左右につくと、しきりに彼の服の裾を引っ張り始める。
 傍目に見れば、幼子がだだをこねている微笑ましい光景しか見えない。しかしその実情は、年嵩の北の魔法使いが「若造」を働かせるため、有無を言わさず連行しようとしているだけだ。
 突如現れた闖入者によって、オーエンはナマエを殺しているどころではなくなったらしい。
「ふざけるなよ。どうして僕がそんなことを」
 オーエンはスノウとホワイトの方に身体を向けると、低く歌うように呪文を唱えた。ナマエの足元に転がっていたトランクが、呪文に応えふわりとオーエンの前に舞い上がる。
 しかしスノウとホワイトも、伊達に長くは生きていない。オーエンのごとき若造をあしらう術ならば、彼らは嫌というほど熟知していた。
「働かない子にはネロのケーキは食べさせんからの」
「とっておきのケーキじゃったのにのう、残念残念」
 ふわふわと波に揺れるように舞っていたオーエンのトランクが、その言葉にぴたりと制止した。ナマエは固唾をのんで北の魔法使いたちの遣り取りを見つめている。
 オーエンは腹立たし気に眉根を寄せて双子を睨んでいた。しかしそれ以上の呪文を唱えない時点で、双子に折れたも同然だ。双子が嬉し気に、オーエンの服の裾を引っ張り急き立てた。
「ささ、オーエンちゃん。皆が待っておるぞ」
「我らの力を合わせ賢者を喜ばせるのじゃ」
「そんなのどうだっていい。それより十分にケーキが食べられなかったら、僕はあなたたちの絵をケルベロスに八つ裂きにさせるから」
「ネロに追加でケーキを焼いてもらうよう頼んでおいた方がよさそうじゃな……」
 そうして両脇にいたいけな大魔法使いを侍らせて、オーエンはさっさと魔法舎へと歩いて行ってしまった。ナマエとオズに何の言葉もないところから、すでにナマエたちに対してのオーエンの興味が完全に失われてしまったことをナマエは察する。もとよりナマエに突っかかってきたこと自体、オーエンにとっては暇つぶしのようなものだったのだろう。たまさかオズが登場したことで、場の空気が緊張してしまったというだけで。
 オーエンたちの後ろ姿が見えなくなるまで見送って、そしてナマエはオズへと視線を戻した。双子が登場してからの騒がしさの中、沈黙を貫いていたオズは、茫漠とした視線をナマエに投げかけていた。
 慌ただしい展開を前に、オズは立ち去る機会を見失っていたのだろう。オズがこの場に現れたのも、恐らくは成り行きのようなものなのだ。偶然ナマエとオーエンが会話している場面を目にし、念のために姿を現したというところだろう。
 しかしオズは、なかなかその場を立ち去ろうとしないまま、ナマエをぼんやり眺めていた。曖昧な視線を受け、ナマエはどうしたものかと逡巡する。

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