君の思いは報われる

 元来ナマエは悩み事をひとりで抱え込むたちではなく、またたとえ何かに悩んだところで、そう長くは引き摺らない性格をしている。中央の国の国民気質はしばしば、良く言えばさっぱり、悪く言えば多少無神経だと言われるが、ナマエも多分に漏れず中央の国の人間らしい性格だった。
 だからたとえオズとのことで頭を悩ませたところで、そのせいで仕事に支障をきたしたり、くよくよと思いつめたりはしない。せいぜいが多少食欲が落ちるくらいで、ふた晩も経てば大体いつもの通り平常運転──というのが、ナマエの当初の自己分析だったのだが、その分析は大きく外れ、ナマエはあれから一週間経過してもなお、オズとのことで頭を悩ませていた。

「はあ……」
 魔法舎のアーサーの私室を後にしたナマエは、重苦しい溜息を吐き出しながら玄関に向けてとぼとぼ歩く。廊下の窓ガラスは白く曇り、まるですりガラスのように外の風景をぼかしている。その風景も雪の欠片が溶けることなく窓に張り付いているせいで、奇妙なまだら模様のようになっていた。
 西の国の魔法使いが任務で魔法舎を空けているらしく、今日もまた魔法舎は森閑としていた。外の雪とあいまって、人も時間も、まるで流れが止まってしまったかのように静かだ。
 普段のナマエならば、多少騒々しいくらいの方が性分的に落ち着く。しかし今日に限っては、人の気配が乏しくてよかったと思わずにはいられなかった。
 何せナマエは浮かない顔でアーサーの私室から出てきたのだ。こんな顔を見られれば、ナマエが主であるアーサーに酷く叱られたのだと思われるに違いない。そんな誤解はアーサーにとっても、アーサーの名誉を第一とするナマエにとっても喜ばしいものではなかった。
 当然ながら、ナマエはアーサーに叱られてなどいない。ナマエの溜息にアーサーは毫も関わってはおらず、問題があるとするのなら、ナマエの現在地が魔法舎だということくらいだ。
 魔法舎といえば、賢者の魔法使いたちの目下の住まい。そしてナマエにとって魔法舎とは、すなわちオズと会うために訪う場所だった。
 今日のナマエはオズに会いに来たわけではない。それでもこの魔法舎に足を踏み入れた時点で、ナマエの頭の中にはオズの面影がちらついていた。
 廊下の絨毯張りの床を歩きながら、一週間前のオズとアーサー、カインとの食事を思い出す。それと同時にそのときの心情までもが芋づる式に思い出され、ナマエの気分はずんと重くなった。
 主君と友人の前で醜態を晒すわけにはいかないという意地もあり、食事の最中はナマエもそれなりに気を張って、和やかなひと時を過ごすための努力をした。その甲斐あって、アーサーにはおそらく、ナマエの心が今にも干からびてしまいそうだったことは気付かれていないはずだ。その証拠に今もナマエはアーサーに会ってきたが、これといって個人的な事情を聞かれたりはしなかった。
 ──カインには何かあったことくらいはバレてそうだけれど、何か言われたわけではないものね……。
 勘も察しもよく、人間関係の機微に敏いカインには、もしかしたらオズとの間の空気がぎくしゃくしていたことを察知されてしまったかもしれない。しかしカインとて、片っ端から何でも首を突っ込むわけではない。ナマエが相談でもしないかぎりは、きっと直接何かを言ってくることもないだろう。この件についてナマエから相談を持ちかける予定もないので、カインとこの話をする日はおそらく永久に来ないはずだ。
 カインに限らず、ナマエがオズとの関係について相談できる相手は限られている。晶にはつい先日頼ったばかりであり、多忙な賢者にそうそう恋愛相談などできるはずもない。そうなるとやはり、当面はひとりで事態に対処していくしかなかった。
「はあ……」
 溜息を吐いても仕方がないことは分かっている。溜息のぶんだけ幸福が逃げていく、なんて言葉を信じているわけではなくたって、溜息をついて幸福になれる道理があるはずない。それでも腹の底から溢れてくるものは仕方がなく、ナマエは溜息を連発しながらようやく辿り着いた魔法舎の玄関を開け──
 開けようと真鍮のノブに手を伸ばそうとしたところで、ふいに玄関扉がひとりでに開いた。
「え?」
 開いた扉から吹き込む寒風に、驚き咄嗟に手を引っ込めた。ナマエは開いたドアから見えた外の景色に視線を遣る。するとそこにはオズに劣らずの長身が、「あ」と漏らしてナマエを見下ろしていた。
 淡いネイビーのくせ毛に、複数のグリーンが混ざり合う不思議な色の瞳。オズの兄弟子フィガロだった。
「こんにちは、フィガロ様」
 ナマエが足を引き、礼をとる。フィガロはドアを片手で押さえたまま、すっと一歩ナマエとの距離を詰めた。フィガロの瞳が探るようにナマエを見据える。
「こんにちは、ええと──ナマエ」
 名を思い出すまでに間があったが、そのわりには呼ぶ声には確信がこもっていた。
「名前を覚えていただき光栄です」
「どういたしまして。可愛い女の子の名前は忘れないようにしてるんだよ」
「フィガロ様はお上手ですね」
「そんな。もしかして俺、適当にあしらわれてる?」
「そのようなことはございませんが、あしらわれているとしたら私の方でしょう」
「俺なんか最近は全然だよ」
 適当な言葉の応酬をしながら、ナマエはフィガロと対峙した瞬間から感じている、居心地が悪く落ち着かない心をどうにか宥める。
 ナマエがフィガロと直接言葉を交わすのは、以前魔法舎で診察してもらって以来だ。あの後お礼の書状は届けていたが、なかなか顔を合わせる機会もないまま今日に至っていた。
 ──別に、避けていたというわけではないのだけれども……。
 もちろん思考を表に出すことはせず、ナマエは曖昧な微笑を浮かべている。
 診察してもらったときにも感じたことだが、フィガロは表面上親切でおだやかな態度でナマエに接するわりに、どこか冷ややかにナマエと距離をとっている。それならいっそ避けてくれればいいものを、しかしフィガロはどういうわけか、こうしてナマエに積極的に話しかけてくる。ナマエとしてはフィガロに対する態度をいまひとつ決めあぐねていた。
「今日はオズに用があって来たのかな」
 後ろ手にドアを閉めながらフィガロが言った。あ、と内心、ナマエは困惑する。ナマエは今まさに魔法舎を出ていくところだったのだが、こうなってしまうと出るに出られない。
 アーサーの恩師であるオズの兄弟子を相手に、まさかナマエが無礼な態度をとるわけにはいかない。内心で溜息をこぼしてから、ナマエは仕方なくフィガロに付き合うことにした。
「本日はオズ様にお会いいただくために足を運んだのではないですよ。アーサー殿下に急ぎお伝えすることがあり、私が遣わされました。直接お渡ししなければならない書簡もありましたので」
「さては魔法舎によく出入りしているせいで、面倒ごとを押し付けられてきたわけだ」
「たしかに、そうとも言います」
 本来であれば魔法舎との連絡係には、ほとんど魔法舎の常駐と化しているクックロビンが遣わされることが多い。しかし生憎と今日はクックロビンが城に寄る予定もなかったので、それで急遽ナマエが遣わされたのだった。ナマエならばアーサー直属の側近といえなくもないし、それでいて下っ端なので使い走りにするには丁度いいということらしい。
 ナマエとしては今はあまり魔法舎に近寄りたくはなかったが、命令と言われれば聞かないわけにもいかなかった。用件だけさっさと済ませて退散しようと思っていたはずが、どういうわけだがフィガロにつかまり、足止めを食わされている。
「あの、何か私に御用でしょうか?」
 できるだけ声に険が滲まぬよう、細心の注意を払ってナマエは尋ねた。フィガロのことは嫌いではないが、だからといって個人的な話をふたりでするほど気安い間柄ではない。同性で且つ親しみやすい晶ならばともかく、ナマエはフィガロとふたりで話をするのには些か抵抗があった。
 戸惑いを隠しきれていないナマエを眺め、フィガロはにっこりと笑みを深めた。
「うーん、大したことではないんだけどね」
 そしておもむろに腰を屈めると、フィガロはナマエの耳元に顔を寄せる。ナマエがはっと身を引くより先に、
「君はオズのことを愛しているの?」
 耳打ちでもするように、そっと吐息で問いかけた。
「なっ」
 遅ればせながら身を引いて、ナマエはフィガロと距離をとる。足元の絨毯張りの床のせいで引いた足がもつれ、うっかり体勢を崩しそうになった。しかしどうにか持ちこたえ、ナマエは真っ赤な顔でフィガロを見上げ、睨んだ。
「な、何ということを仰るのです!」
「ごめんごめん、愛といったら重いかな?」
「そのようなことは……、いえ、そうではなく!」
 思わず大きな声を出したナマエだが、直後ここが魔法舎の玄関前だということを思い出し、慌てて周囲を見回した。広いエントランスにはよく声が響く。今ここにいるのはどうやらナマエとフィガロだけのようだったが、だからといって大声を上げていればいずれ誰かが様子を見に来ないとも限らなかった。
 気持ちを落ち着けるべく、ナマエは何度か深呼吸を繰り返す。フィガロの意味深な笑顔は極力視界に入れないように精神を統一すると、ナマエはきっとフィガロを見据え直した。
 一応目に力を込めているつもりだが、フィガロはそんなナマエの気合いを気にしたふうもない。二千を超えるような齢の魔法使いともなれば、自分のごとき小娘の闘志など取るに足らないものなのかもしれない──ナマエはそう考えた。そしてこうも思う。オズならばきっと、ナマエが気合を入れなおしたときには、相応の態度でこたえてくれただろう、と。
「恐れながら、フィガロ様。私のような者がオズ様に思いを寄せるなど、烏滸がましいにも程があります。ご冗談はよしてくださいませ」
 自分の声とは思えぬほどに、ナマエの声は固かった。むろんすべては本心だが、こうして話をしているうちに、先日の一件が思い出され知らず胸が苦しくなる。
 自分ごときがオズを恋い慕うなど、恥知らずで、身の程知らずで、烏滸がましいこと。まして、特別な関係に至ろうなどと思うのは愚の骨頂だ。オズだってきっと、そう思っているのだろう。分かっている。分かっているから、傷ついたりする必要はない。分かり切っていることを確認するたびいちいち傷ついていては、ナマエの仕事はたちゆかなくなってしまう。
 それなのに。自分たちは何でもない、個人的な関係などないとオズに言葉にされてしまったときのショックが、まだナマエの胸には穴として残っている。自分だけでは埋めようのない穴。見て見ぬふりをしているその穴の中を、フィガロとの会話によって否応なしに覗き込まされているような感覚に陥る。
 そんなナマエの胸中を知ってか知らずか、フィガロは憎らしいほど軽快に、飄飄と笑っていた。
「烏滸がましい、か」
 そんなふうにナマエの言葉を繰り返して呟くと、
「どうしてそう思うんだい?」
 やおらフィガロはナマエに問いかけた。思いがけない返しをされ、ナマエは思わず面食らう。
「ど、どうしてって」
「そこまで自分を卑下しなくてもいいだろう。君は人間社会の中では高い階級の人間なんだし、きれいな顔をしているよ。頭も悪くないはずだ。それなのに、何を烏滸がましいと感じるの?」
 フィガロの言葉はナマエの思考をぐらぐらと揺さぶる。足元が不安定になるようで、ナマエは額に手をついた。
 オズと自分の差は歴然。片や世界最強の魔法使い、片やしがない人間の娘。その差こそがナマエとオズを遠く隔て、並び立つなどおよそ不可能だとナマエに思わせる。
 いや、実際不可能ではないか。世界最強の隣に並ぶことが許されるだけの何かを、ナマエは何も持っていない。フィガロの並べたナマエの美点はどれも「そこそこ」でしかなく、けして世界最強の肩書と並んでいいものではない。
「だ、だって、そうではないですか。オズ様と私では立場があまりに違いますし……、それにオズ様は私のことなど何とも思われていないでしょうし」
「ということは、君の方はオズを何とも思っていないわけではないんだ」
 言葉尻をとらえられ、ナマエの身体がぎくりと強張った。周章のあまり、口がすべってしまった。あからさまな失言だ。
「オズにその気があれば、満更でもない?」
 フィガロの言葉に、ナマエの赤面はにわかに色を失った。
 オズにその気があれば。
 それでは、その言い方では、まるで──
「どうしたの? 顔色があまりよくないな」
 フィガロの言葉で、ナマエははっと我に返った。気付かぬうちに思考の深みに足をとられ、無益な想像にはまりかけていたらしい。
 もう一度大きく深呼吸をした。冷たい空気が胸の中をいっぱいに満たす。少しだけ、頭がすっきりした。
 どうにもナマエはフィガロと相性がよくないらしい。こうして向かい合って言葉を交わしていると、どんどんフィガロのペースに呑まれていってしまう。
 仕切りなおすように空咳をひとつ。それからナマエは、ゆっくりと口を開いた。
「……仮定の話であっても、そのようなことは仰らない方がよいかと。フィガロ様はオズ様の兄弟子とお聞きしておりますが、それでも少し、オズ様に失礼なのではないでしょうか」
「ここにいないやつの話だからね」
 オズの眼前ならばともかく、いない相手に何を言おうが構いやしないというのが、フィガロの言い分のようだった。その考え方は、中央の国らしい気質を持つナマエとはまったく相容れない。無自覚に眉間に皺が寄るナマエを、フィガロは「青いなぁ」と一笑に付した。
「フィガロ様に比べれば、私など赤子のようなものですか」
「そうだね。そして若くて青くて可愛い子には優しくしないと」
 フィガロが一歩、ナマエの方へと歩み寄る。言葉とは裏腹に、翡翠の瞳に浮かび微笑は作り物めいて冷ややかだ。
 先ほどナマエが身を引いたときにできた距離を長い足で一気に詰め、フィガロはナマエを覗き込んだ。
「君は勤勉だし、忠義者でもある。そんなナマエに、フィガロ先生がひとつご褒美をあげよう」
「ご褒美……?」
 先生という部分への疑問を口にすることも忘れ、ナマエは呆けたようにフィガロの言葉を繰り返す。
「そう、ご褒美だよ。俺はいじらしい人間を応援するのが好きなんだよね」
 そんなことを嘯くフィガロの瞳に、ナマエは吸い込まれるように、魅入られてしまったように、釘付けになる。
 フィガロがかすかに笑みを深めた。天使のように、魔王のように──狡猾な魔王の右腕のように、フィガロはあえかな笑みとともにナマエに言った。
「もしも君が一方的に好意を持つことに心苦しさを覚えているのなら、それについては心配しなくてもいいよ。

 オズは君のことを好きだ」

「は」
 と。ナマエの意思に従わず、うつろな声がひとりでに喉から漏れて零れ落ちた。もっともその瞬間、ナマエに意思らしい意思などなかったのかもしれない。ナマエは眼球がこぼれ落ちそうなほど大きく目を見開き、変わらずフィガロを見つめていた。
 思考がうまく廻らない。今しがたフィガロに掛けられた言葉の意味すらうまく理解できず、ナマエは呆然とする。オズは、君のことを、好きだ──?
 いや、言葉の意味なら理解できている。ただ、ナマエがそれを受け容れることを拒んでいるだけだ。それは、だって──あってはならないことだから。
 零れた以上の言葉を失くし、ただ信じられないというようにフィガロを見つめるナマエを眺め、当のフィガロは満足そうに頷いていた。ナマエの反応など想像の範疇だったのだろう。フィガロは白衣の裾をはためかせて足を引き、ナマエとの距離を先程までの距離まで戻した。
「本人が口を割ったわけじゃないけど、でもまあ、十中八九そうなんだろうな。オズは君には言わないだろうけどね。その手のことに疎いやつだし、何せ口下手だから」
 二千年も生きていて呆れるよ、と。フィガロはあながち冗談でもなさそうに愚痴めいたことを言う。しかしナマエは未だ呆然自失の中にあり、フィガロの言葉の半分ほども正しく届いてはいなかった。
 それでも構わず、フィガロは続けた。
「よかったね、君の思いは報われる」
 ぽん、と小さな衝撃を肩に感じ、ナマエはつられて肩口を見遣る。フィガロが労いでもするかのように、ナマエの肩を叩いていた。
 その瞬間、ナマエの意識はさながら潜水の最中に息継ぎを思い出したように、唐突にはっきりと輪郭を持った。フィガロから信じられない言葉を聞いたきり遠くなっていた音や色が、ナマエの世界でにわかに息を吹き返す。
 と同時に、フィガロの言葉にもやっとのことでナマエの理解が追いついた。納得できるかは別として、フィガロの言った意味は理解でき、咀嚼し、受け容れる用意が整った。
 オズは、君のことが、好きだ。
 その言葉の意味を。
 視線を上げ、ナマエはフィガロを見る。聞きたいことは数多あれども、真っ先に聞くべきことはただひとつだ。
「なぜフィガロ様がそのような話を?」
 そのナマエの問いも、やはりフィガロには想像の範疇だったのだろう。一寸の躊躇もなく、フィガロは笑顔のままで返事を口にした。
「オズが世界最強の魔法使いだから。そして俺は君よりほんの少しだけ、オズのことをよく知っている。だからお節介を焼きに来たんだ」
 ナマエがわずかに首を傾げる。オズが世界最強の魔法使いであることは、ナマエとてフィガロに言われずともよく知っている。北の国まで連れていかれたときにもその実力は目の当たりにしていたし、それでなくても日頃からオズが魔法を使うところを目にする機会は人より多かった。
 しかし、それだけでは足りないんだよ、とフィガロは泰然と笑う。
「オズの世界最強っぽいところ──言い換えれば唯一無二の能力って、君は知ってる?」
「それは、やはり魔力の量だとか魔法でできることの多さなどではないのでしょうか」
 唐突な質問に、ナマエは生徒のような口調で答えた。魔法について、ナマエが知っていることはそう多くはない。答えは自然、凡庸なものとなった。
「それもそうだね」
 フィガロもまた、生徒に相対する教師らしく返す。
「魔法でできることなんて、実行しようと思えば想像の数と同じだけあるわけだけど、そういう想像力がオズにはちょっと乏しいこともあって、実際にはオズよりも俺の方が使ったことのある魔法は多いはずだ。俺は思い付く限りの大抵のことは試してきたし、反対にオズは必要最低限のこと以外にはとことん興味がなかったからね。ただどうしたって魔力の量でできることは限られてくるから、オズにできて俺にできないことなんてのも、それこそ山ほどある」
「それでは」
 オズの世界最強たる所以は、やはり魔法でできることの多さなのか。
 そう続けようとしたナマエを遮って、
「だけどオズの唯一無二の凄まじさは、そこじゃないよ」
 きっぱりとした口調で、フィガロがすぐさま否定した。
「あいつはね、気分次第で天候すら左右してしまうような魔法使いなんだ」
「天候……」
 その瞬間、ナマエの顔が一瞬、分かりやすくゆるんだ。天候を操る──たしかに人智を超えた業ではある。少なくともナマエにそんなことはできないし、おそらくアーサーやカインにすらも天候を操るなど不可能だ。
 しかし一方で、そんなことかという思いがナマエの胸には湧いているのも事実だった。まじないや気休め程度のことであれば、人間だって古くから似たようなことをしてきた。雨乞い然り、てるてる坊主然り。
 そんなナマエの無意識の油断を、フィガロはけして見逃しはしなかった。
「うーん、あんまり想像がつかないかな。まあ、魔法と縁遠く生きてる人間なら、いまいち想像しにくいかもな」
 そう言ってフィガロは、乾いた笑顔で言葉を続けた。
「それじゃあ、分かりやすく言おうか。たとえばアーサーがオズの城を去った時。北の国では止まない吹雪がその後何年も絶えず吹き荒れ続けた。何故だか分かる? オズが悲嘆にくれて荒れていたからだよ。望んでそうしたわけじゃないそうだけど、オズの心が乱れれば、それはそのまま天候にあらわれる」
 目まぐるしく思考が回転し、ナマエはフィガロの言葉の意味を咀嚼する。やがてナマエの想像力がその凄まじさを理解した瞬間、思わずはっと息を呑んだ。
 気持ち次第で天候を操ることができるなど、それこそ神の御業に他ならないではないか。雨乞いやてるてる坊主など、文字通り次元が違う。
 大抵の人間や魔法使いならば、神や精霊に祈りを天候を変えようとする。自然現象を司るのは本来精霊たちなのだ。彼らはけして、人間や魔法使いに阿りはしない。
 だがフィガロの言葉が本当ならば、オズは精霊たちを、自然そのものを従わせている。誰に頼むことも祈ることもせず、オズはただ、力でもって自然をねじ伏せている。魔法使いでないナマエにだって、それが如何ほど尋常ならざることなのかくらいは想像がつく。
「攻撃の魔法で雷を操るのだって、似たようなものかな。あれはこの時代においてはオズの固有といってもいい、唯一無二の魔法の力だ。似たようなことならミスラもできるかもしれないけど、オズほどの威力、規模はさすがに無理だろう」
 分かるかな、と。フィガロは改めてナマエの顔を覗き込んだ。蒼白い顔をして唇をわななかせるナマエを見下ろして、フィガロはさらに続ける。
「魔法使いなら大なり小なり自然の力を借りるものだけど、剥き出しの自然そのものを操るなんてこと、本来なら並の魔法使いが扱える力じゃない。オズですら、感情で天候を左右する力を完全に制御しきることはできない。オズの意思に依らず吹雪が止まなかったのは、それだけオズの持つ力が強いということでもあるし、自然が凄まじい脅威だということでもある」
 ──だから。
「分かっただろう。君はそのことをよく理解していないといけないよ。君がもしも、この先オズと一緒にいるつもりなら。オズの心を揺さぶりかける人間に、なりたいと思うなら」
 もしもそれを望むなら、むやみにオズの心を乱してはならない。オズの心を乱すような言葉は許されず、オズを惑わす行動は許されない。恋慕を知らずに生きてきた伝説の魔法使いの心を、掻き乱すようなことをしてはならない。
 まして、甚だ信じられないことではあるが、オズはナマエを好きだというのだから。ナマエに覚悟がないのならば、さっさと身を引きオズの前から消えるべきだ。オズがこれ以上ナマエに心を傾ける前に。ナマエを理由に、オズがあやまちを繰り返さぬために。
 フィガロの言は、これ以上ないほど露骨な釘さしだった。オズの兄弟子として、深くオズを知る者として──あるいは長く人間と魔法使いを導いてきた、いにしえの魔法使いとしての言であり、釘──くさびだった。
 玄関ドアの向こうから、雪風の唸る音が時折細く聞こえていた。ナマエの頭に、以前オズに連れていかれた先の北の国で見た、視界が真っ白になるような吹雪の風景が思い出される。自分がオズにそれほどの影響を与えられるとは思えないが、それでももし、あのような吹雪がこの中央の国を襲ったら──ぶるりと身体が震えたのは、玄関の寒さのせいだけではなかった。
「さて──」
 フィガロは笑顔を取り替えて、一分の隙もない人のいい笑顔を浮かべる。身体をナマエに向けたままでフィガロが後ろ手に玄関ドアを開くと、途端に雪を乗せた突風がドアの隙間から吹き込んで、ナマエの頬をしたたかに打つ。
「長話に付き合わせて悪かったね。もう帰るところだったんだろう? 雪がひどくなる前に帰りなさい」
 柔らかな言葉であったはずなのに、不思議とそれはナマエの耳朶をちくちくと刺した。追い払われている──直感でそう感じた。
「……フィガロ様は、私のことがお嫌いですか」
 どうにかそれだけ尋ねるも、フィガロは眉ひとつ動かさずに笑っている。
「まさか。俺は人間の味方、善良な南の魔法使いの筆頭だよ?」
 冷ややかな声と、人のよさげな言葉。しかしその言葉の意味するところは要するに、フィガロは人間の味方であってもナマエの味方にはならないということだ。むろんフィガロがナマエの味方をするだけの理由もないが。
 ──オズ様よりもフィガロ様の方が、私にとってはずっと恐ろしい魔王のよう。
 言葉には出さずそう評して、ナマエはきびきびと頭を下げた。
「ご助言ありがとうございました、フィガロ様。肝に銘じておきます」
「お役に立てて何よりだよ」
「ですが、私はアーサー様の臣下です。私は、アーサー様の不利益になるようなことは、絶対に何があろうといたしません」
 フィガロが一瞬、不意を突かれた顔をした。オズの話をしていたはずが、唐突に出されたアーサーの名に戸惑ったのだろうか。
 しかしわずかにきょとんとナマエを見たフィガロは、すぐに柔和な笑顔を取り戻した。
「なるほど。それじゃあきっと大丈夫だ」
 もう一度礼をして、ナマエは雪空の下へと進み出る。玄関を出てすぐに背後を振り返ったが、すでにフィガロの姿はそこにはなかった。

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