分かっているから悲しい

 やがて馬車は止まり、ナマエとオズは待ち合わせ場所である橋のたもとに降ろされた。カインとアーサーの姿はまだない。
 比較的大雑把なところのあるカインはともかく、アーサーは分刻みのスケジュールで動いているだけあって普段は時間に細かい方だ。特にオズとの待ち合わせとなれば、早めに到着していてもおかしくなかった。
「珍しいですね、アーサー様が遅刻なさるなんて」
 言いながら、ナマエは視線を上げ、すぐ近くの時計台の文字盤に目を遣った。
 待ち合わせ場所になっている橋のかかる運河は、ちょうど栄光の街の中央にある、円形の広場をまっぷたつに分断するように流れている。ナマエたちがいるのは広場の中央にあたり、街のシンボルでもある時計台以外には高い建物もないので待ち合わせには都合がよかった。
「私としては臣下の身でアーサー様をお待たせするわけにはまいりませんから、先に到着できてよかったというところなのですが」
 そう呟いて、ナマエはぶるりと身を震わせた。催しなどにも使用される広場はだだっ広く、吹く風を遮る建物は何もない。一応外套を身につけてはいたが、露出した顔や手には容赦なく寒風が吹きつける。おまけに川岸に立っているせいで、川風をもろに受けていた。
「アーサー様、あたたかい恰好でお出でくださればいいのですけれど」
 身体をあたためるべくその場でたんたんと足踏みをしながらナマエが言った。と、その様子を横目に眺めていたオズが、不意に「≪ヴォクスノク≫」と呪文を唱える。
 途端にナマエの周囲に目に見えぬ膜が張りでもしたように、肌に寒風を感じなくなった。こころなし身体の周りの気温が上昇したような気もする。
 呪文を唱えたきり素知らぬ顔をしているが、これがオズの魔法による寒さ対策であることは言うまでもなかった。
「オズ様、以前にも申し上げましたが、私個人のために魔法をお使いいただくというのは、」
 礼より先に思わず諫言が口をつくナマエに、オズはむっつりと答える。
「お前のためではない。隣で寒そうな顔をされたくない、これは私の都合だ」
「それは屁理屈というものではありませんか?」
「屁理屈ではない」
 どこからどう聞いても屁理屈でしかなかったし、実際にオズの口調もそれが屁理屈であることを分かったうえで認めていないようだった。大方、ナマエがこういうだろうことを見越して、無断でさっさと魔法を使用したのだろう。ナマエが私利のためにオズの魔法を求めないことは、すでにこれまでの付き合いでオズにも十分伝わっている。
 とはいえすでに掛けられた魔法を、わざわざ取りやめてほしいとも言えなかった。何よりオズの魔法のおかげで、ナマエは厳しい寒さに身をさらさずに済んでいる。一度この温もりと快さを知ってしまったら、もう先程の寒さに耐えられる気がしなかった。
「……ありがとうございます」
 結局、ナマエはオズに向けぺこりと頭を下げ、礼を言った。ナマエが顔を上げるとオズはふいと目を逸らし、
「礼はいい。言っただろう、お前のためにしたことではない」
 照れ隠しのためのすげない口調で、そう返事をした。

 時計台の時計が、ぼぉんと重く正午を告げる鐘を鳴らす。まさかとは思うが、カインとアーサーのことだから上空から箒に乗って現れることもあるかもしれない。そう思い、ナマエは先程からしきりと顔を上に向け、ふたりの姿を探していた。
 しかしまだカインとアーサーの姿は何処にも見当たらない。馬車などが通る気配もなかった。オズは退屈する様子もなく、茫漠とした視線を広場を行きかう人々に投げている。
 たとえオズの魔法で寒さが和らごうとも、待ち時間というものはどうしたって落ち着かないのだった。ナマエの性分か、無為な時間にはどうしてもそわそわしてしまう。まして、隣にいるのがオズなのだから尚更だ。今のナマエはどうしたって、オズのことを強烈に意識してしまうようにできている。
 それなのに、オズの方はと言えばまるきりナマエのことなど気に掛けていなさそうなのだった。その不変不動を頼もしく思うのと同時に、やはり多少はうらめしくも思う。ナマエの理性とは無関係の、言うなれば恋心が勝手に生産する感情だった。
「オズ様は、待ち時間が苦にはならないたちですか?」
 できるだけ婉曲に、しかし思ったことをほとんどそのままナマエが口にする。オズはほんの束の間考えるように視線の先を曖昧にしたあと、
「この程度ならば退屈するほど長い待ち時間ではない」
 ごく当たり前のことを告げるような口調で答えた。自分で聞いておきながら、ナマエはうっと返答に詰まる。オズからのその答えに、ナマエは少し前に晶から聞いた言葉を思い出していた。
 オズにとっての人間は、吹く風のごとくただ過ぎ去っていくもの。今こうしてナマエとふたりでいる時間も、オズにとっては瞬きほどの短い、取るに足らない時間なのかもしれない──そんな考えが、ナマエの頭をよぎる。
 晶に言われるまでもなく、それはナマエだって何度も考えてきたことだ。ナマエとオズでは時間の流れ方が違い過ぎる。同じ時間を過ごしても、その時間への思い入れの大きさだって違うだろう。そういうことをすべて呑み込んで、ナマエはオズと付き合ってきたつもりでいた。
 ──だけど、そんなのは烏滸がましい考え方だったのかもしれない。
 ほかでもない、この世界にいる人間の中ではもっともオズに近く、オズから信頼され、そしてオズを理解しているであろう晶ですら、通り過ぎるものだと告げられたのだ。それならばナマエなど、一体何だというのだろう。聞きたい気もするし、聞いてはいけない気もする。聞いたところでオズが返事すら持っていない可能性だってある。
 ナマエのことなど、通り過ぎるものだとすら思っていないと言われたら。その可能性がまったくないわけではないだけに、迂闊に疑問を口にはできなかった。
 このまま思考を続けると、心の均衡が失われそうな気がする。そう思った途端、急にナマエはそら恐ろしくなった。それでも考えなくてもいいことばかり、胸の底から次から次へと湧いてきて止まらない。そしてその源が何処にあるかと問われれば、ナマエにははっきり認識できていた。
 此処に来るまで考えないようにしていた、心の奥底に沈めると決めた恋心。それがにわかに息を吹き返し、ナマエの内側で蠢動しては思考をぐちゃぐちゃ掻き乱している。思わずナマエは、はっと胸をおさえた。そうでもしないと、余計な言葉が胸から勝手に溢れて零れてしまいそうだった。
 ナマエの様子の変化に気付いたのか、オズがわずかに訝し気に目を細める。
「どうした」
「……どうもいたしません」
「しかし」
 オズにしては珍しく、ナマエの言葉に食い下がる。ナマエは半歩足を引き、わずかに逃げを打った。魔法舎で向かい合っていたとき──いや、つい先程馬車に乗っていたときまでは、たしかにオズの前でも何事もなかったかのような「いつも通り」ができていたはずなのに、ほんの些細な思考のせいで、このままオズと言葉を交わし続ければ、うっかり何かが漏れだしてきそうな恐怖に襲われる。
 オズが瞳に険を浮かべる。気圧されるように、ナマエはさらに半歩、オズから身を引く。その動作にオズが何を言おうとしたのか、口を開きかけたまさにその時──
「ナマエさん?」
 ふいに自分の名を呼ぶ声がして、ナマエはつられて声の方へと顔を向けた。そして声の主に気付き、まあ、と声を上げる。
 そこには立っていたのは、いつぞやのナマエのデート相手だったヴェチェッリオ卿だった。
 彼もどうやら偶然ここを通りかかったところらしい。ナマエの姿を認めうっかり名前を呼んだのだろうが、その傍らのオズにまでは気が付いていなかったのだろう。ナマエと同時にオズに視線を向けられようやくその存在に気付き、
「ひっ、オズ!」
 と、何とも情けない声を上げた。
 ヴェチェッリオ卿の悲鳴のあまりの情けなさに、ナマエは直前までの緊張も削がれてオズを見る。オズはさして気にした風もなく、無感動な視線をヴェチェッリオ卿へと投げかけていた。
「お久し振りです、ヴェチェッリオ卿」
 ひとまず、ナマエは気遣わしげに声を掛けた。ヴェチェッリオ卿からは例のデートの後に何通か手紙が届いていたが、肝心の文面はもはや婚姻の対象に送るような艶めいたものではなく、単に貴族同士の表面的な交流に終始していた。よほどオズと仕事をしているというナマエの説明に衝撃を受けたのだろう。オズを悪の大王のように聞き育っていれば、それも無理からぬことだ。
 とはいえ、ナマエはたった一回オズを紹介したより後は、一度もオズの話を蒸し返したりはしなかった。オズと仕事をしていることは事実だし、オズを虫よけのように使ったこともまた事実だが、それはそれとしても必要以上にオズと近しいと思われるのは拙いと判断したためだ。
 ヴェチェッリオ卿はその後家督を継ぎ、現在は府中に顔も出している。万が一にもオズとナマエが親しくしていることを城内で流布されては問題だ。
 だから今、こうしてここでオズとふたりでいるところを目撃されてしまったのは、ナマエにとっては歓迎できない事態なのだった。案の定、未だオズと視線を合わせることのできないヴェチェッリオ卿は、
「や、やはり君はオズと親しくしているのか?」
 顔を俯けたまま、ナマエにそう尋ねる。声にはあからさまな疑いの響きがあり、ナマエは内心で頭を抱えた。
「いえ、けしてそういうわけでは……もちろん良くしていただいてはおりますが、親しくなんて……」
 果たしてどのように説明をすべきなのだろうか。ちらと隣のオズを一瞥するように見上げ、ナマエはしどろもどろの返答をした。
親しくしている、と言えばたしかに親しくはしているはずだ。こうしてふたりで一緒にいるところを見られておきながら、何もないというのはあまりにも説得力がなさすぎる。実際この後だって、カインとアーサーもいるとはいえ、共に食事をすることになっている。
 しかし今ここでヴェチェッリオ卿にそこまでの説明をするべきかと言われれば、その必要までは感じていなかった。というよりも、府中に上がったばかりの彼にアーサーが城の護衛もつけずに下町をうろついているなどと、そんな情報を与えたくはない。
 だが、オズとの関係に誤った憶測を持たれるのも拙い。だからナマエはどうにかして、アーサーとのことを伏せたまま、今この場でふたりきりでいることにうまい説明をつけなければならない。ならないのだが、うまい言い訳を咄嗟に思い付けるほど、今のナマエは冷静にはなれていない。
 ──ああ、一体どう言ったらこの場をうまく切り抜けられるのだろう!?
 こんな場面でオズの助力を期待できるとも思えず、ナマエはひとり慌てふためき絶望的な気分になる。
 いっそ、どれほど嘘くさく聞こえても「偶然ここでばったり会いました」とでも言うべきか。そのくらい堂々と誤魔化したほうがいいのだろうか。堂々とさえしていれば、嘘もそれなりに真実っぽく聞こえるものだろうか。
 そんなことをナマエが考え始めたその時。
「この娘と私に個人的な付き合いはない」
 これまで黙っていたオズが、唐突にそう言い切った。思わず、ナマエはぽかんとした顔をしてオズを見上げる。ヴェチェッリオ卿もまた、恐れを忘れたかのようにオズを見つめていた。
 ナマエの視線に気付いていないはずはないだろうに、オズはナマエに一瞥の視線も寄越さない。無表情に見える顔をまっすぐヴェチェッリオ卿に向け、オズはふたたび口を開いた。
「この国の王子と私が知り合いだというだけだ。この娘とは王子を介した関係しかない」
 これ以上ないほどはっきりと、オズはナマエとの個人的な付き合いを否定した。オズの低く堂々とした声で紡がれた言葉の説得力はすさまじく、ヴェチェッリオ卿も「そ、そうでしたか」とあっさりオズの言い分を認めてしまう。
 たとえそれがどれほど荒唐無稽な言葉であったとしても、オズによって箴言のごとく発されてしまえば、聞くもののほとんどはその言葉を受け容れてしまうものなのかもしれない。オズの声には人々にそう思わせるだけの、有無を言わさぬ深く厳かな響きがあった。
 しかしナマエはオズの声について、今ここで何かを考えるだけの余裕を持たなかった。オズの放った短い言葉──ナマエとオズとの間にはアーサーを介した関係しかないという、分かり切った、当然であるはずの言葉に、全身を打たれたかのように呆然としてしまっていた。
 ──それはたしかに、その通りなのだけれど。
 オズの発した言葉のすべては、ナマエが自分に何度も言い聞かせ、何度もそうあるべきと思い直してきたものと同じだった。それこそオズと会わなかった十日間、自らに自己暗示でもかけるかのごとく、ナマエは何度も繰り返してきたのだ。
 オズとの仕事は尊ぶべきもので、個人的な感情を持ち込むべきではない。誰の得にもならない気持ちは、表に出すべきではない。恋心の有無などとは関係なく、オズとの関係はあくまで職務上のものであるべき──今だってナマエは、正しくそれらを理解している。
 そうあるべきで、そう努めるべきで。
 それがアーサーの臣下としての、正しい在り方で。
 それなのにオズの口からいざ聞かされると、冷たい氷の杭で胸を穿たれたかのように、全身がひどく痛んで止まない。事実を述べただけなのに、ナマエのすべてを否定されたような気分になる。
 ナマエの痛みなど知るはずもなく、ヴェチェッリオ卿は引き攣った笑顔を浮かべてオズに頭を下げた。
「つまらぬことを申し上げ、まことに申し訳ございませんでした。どうぞお許しを」
「分かったならばこの場を去れ」
 貴族に対するのとは思えぬほどにすげなく追い払われ、ヴェチェッリオ卿はそそくさとその場を後にした。後に残されたナマエとオズは、気まずい空気の中でどちらからともなく視線を合わせる。
 それでも、ナマエはまだショックから回復できていなかった。何か言おうと口を開き、うまく言葉を見つけられずにそのまま固まる。言わなければならないことは色々とあるはずなのに、そのどれもが喉につかえて声にならない。
 ナマエが何も言えずにいると、何か察するものがあったのか、オズから先に口火を切った。
「ああ言った方がよかったのだろう」
 返事を求めるように視線を寄越されれば、ナマエもようやく言葉を選ぶことができた。
「はい、おっしゃる通りです。オズ様のおかげで助かりました。ありがとうございます」
「構わない。事実を伝えただけだ」
「事実……」
「事実だろう。お前は、職務の一環として私に関わっているのだから」
 たしかにそれは事実なのだろう。少なくとも、オズにとっては事実のはずだった。オズがナマエと会うのはナマエの仕事に協力しているからで、それ以外の理由など存在しない。時折仕事外の時間を過ごすことがあったとしても、それすら仕事の時間の中で偶然発生しただけの余暇だ。個人的な関係など、振り返ってみたところでほんの欠片も見つけられはしない。
 それが事実で、正しい在り方。
 ナマエにだってそのくらいのことは分かっていた。
 分かっているから、悲しい。
 良かれと思って差し出された言葉だからこそ、一層悲しい。
 ナマエが必死で恋心を押し殺し、どうにか保ち続けようとしている「いつも通り」が、オズにとってはけして揺らぐことのない、揺らぎなど考えたこともないような「いつも通り」なのだと、分かってしまうから。
 オズの心が少しも自分を向いていないと、突き付けられるようなものだから。
 いつしか俯けていた顔を上げ、ナマエはオズの顔を仰ぎ見る。視線がばちりとぶつかった瞬間、何故だかオズの方がふいと視線を外した。居た堪れない気分になって、ナマエは力なく笑ってしまう。視線を逸らしたいのは自分の方だというのに。これではまるで、傷ついているのがオズのようではないか。
「おおーい、オズ! それにやっぱりナマエも来てたな!」
 その時、はるか上空から上機嫌な声がした。ナマエは視線を空へと向ける。直後カインとアーサーが高度を下げ、箒のまま時計台の広場へと降り立った。今日もカインの姿は見えなかったが、ナマエとオズが揃って肩の高さに手を上げると、すぐにハイタッチの感触とともに姿が見えるようになった。
 ふだん通り騎士然とした恰好のカインの横に、マントを外した格好のアーサーが立つ。街の中ではアーサーの普段着は目立ってしまうから、お忍びのためにマントは城に置いてきたのだろう。
 ふたりはオズとナマエの間に流れるぎこちない空気に気付くこともなく、上機嫌のままでナマエとオズの間に割って入った。
「ここまで来る途中、アーサーと賭けをしてたんだ。ほら、ナマエがオズのところに仕事に行っていたのは知っていたから、オズと一緒にナマエも食事に来るかどうかって。賭けは俺の勝ちだな、アーサー……じゃなかった、アーティ」
「そうだな、約束通りカインには後で飲み物を奢ろう」
 アーサーが屈託なく笑い、それからオズの方へと向き直った。
「遅くなってしまい申し訳ありません、オズ様。それにナマエも。打ち合わせが思ったよりも長引いてしまったんだ」
「構わない」
「あんたならそう言ってくれると思ってたよ。さあ、店に急ごう。昼時は混みあうんだ」
 カインの号令にあわせ、四人は揃って歩き出す。しかし店につくまでナマエはオズの顔をまともに見ることができないまま、またオズもナマエに声を掛けようとはしなかった。

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