いつか私以外の誰か

 その日の景色を思い出すとき、ナマエの記憶は常にはっきりとした色彩を映し出す。壁に掛けられた額縁は鈍い黄金色。光沢のあるワインレッドのカーテンは、窓の両わきできちんと纏められていた。無造作に置かれた椅子の布地はグランヴェル王朝を象徴する青。それらすべての色彩が、少しもくすむことなく記憶に鮮明に焼き付いている。
 緊張──していたような気もする。城に上がるのははじめてではなかったが、両親の供ではない、ナマエひとりが城に呼ばれるのはその日がはじめてだった。
 まして、これまで公にほとんど姿を見せることのなかった皇太子にお目見えするのだ。緊張はしていたはずだ。だからアーサーの私室に入室して最初の挨拶で、
「はじめまして、アーサー殿下。お目にかかることができ、恐悦至極にございます。ミョウジ伯爵家の末の娘のナマエと申します。恐れ多くも国王様より、アーサー殿下とお話をさせていただくお相手に選んでいただき、本日こうしてお城に上がりました」
「ああ、よろしく頼む」
 返事が返ってきたというだけで、ナマエは少なからずほっとした。話し相手として呼ばれているのだから、何はなくとも会話をしないことには始まらない。アーサーは少なくともナマエを無視したり嫌がらせをするような、そういう幼い人格の持ち主ではなさそうだった。
 ほっと息を吐いたところで、ナマエはアーサーに視線を向ける。肘掛け椅子に腰かけたアーサーは、ナマエがアーサーのそばに寄ること、アーサーのすぐそばの椅子に腰かけることを、無言のうちにナマエに許した。
 椅子に浅く腰掛けて、ナマエは改めてアーサーと対面する。アーサーがわずかに顎を引いているせいか、透き通るような銀髪は美しい青の瞳を薄く隠していた。
 ──こうしてお近くで拝見すると、お母君によく似ていらっしゃる。
 アーサーが辿った短いながらも数奇な半生を思い、ナマエの胸が小さく痛む。しかし、同情していても仕方がない。ナマエはアーサーに同情するためにここに呼ばれたわけではなかったし、アーサーの方でも見知らぬ人間の見世物になどなりたくはないはずだ。
「アーサー殿下──」
 やわらかな声音でナマエが呼ぶ。丁度そのときメイドがふたりに紅茶を運んできて、そのまますぐに退室していった。これで当分は誰もこの部屋に入っては来ないはずだ。
「アーサー様と、そうお呼びしてもよろしいでしょうか」
「好きに呼んでくれてかまわない。ただ、アーサーとだけでも」
「それでは私が不敬で叱られてしまいます」
「そうか……」
 答えるアーサーの声は沈んでいた。まさか今の短い遣り取りだけで早速アーサーを落ち込ませてしまうとは思わなかったナマエは、慌ててアーサーに尋ねた。
「あ、アーサー様は──恐れながら、アーサー、と敬称をつけず呼ばれることをご所望なのですか?」
「友達というものはそういうものだろう?」依然、前髪の間から透かすようにナマエを窺い、アーサーは細い声で問いかけた。「貴女は私の友になるために呼ばれたのではないのか」
「友達……」
 今度こそ言葉に詰まり、ナマエはアーサーの言葉を繰り返した。
 アーサーの話し相手にナマエが選ばれたのは、ナマエの父親であるミョウジ家の現当主が国王の腹心であるところが大きい。年のころが丁度良く、なおかつアーサーを自らの出世に利用しようという下心がない人選でもある。そうして選ばれたわけだから、実際のところナマエの人格や性格についてはあまり重要視されなかった。むろんアーサーに悪影響を及ぼさない人柄であることは重要だが、それは良家の子女子息ならば当然身に着けている素養に近い。
 此度の人選において、ナマエとアーサーが友人としてうまくやっていけるか──そんなことを気に掛ける大人は誰もいなかったし、ナマエも自分にそうした役割を求められていないことは理解していた。だからこそ、アーサーに掛けられた言葉に少なからず狼狽えたのだ。まさか自分のように社交の場にも碌に顔を出さない娘が、皇太子の友人にと望まれているとは思わなかった。
 しかし、ここで狼狽を表に出してはアーサーに見切りをつけられかねない。ナマエは慎重に、何やら思案しているように見えるよう、注意深く表情をつくった。
 ナマエが黙っているので、アーサーは不安げに言葉を続ける。
「私が育ったところでは、年の近い子供たちは誰も私を殿下などとは呼ばなかった。しかし彼らはみな私の友だ」
 それは単に、アーサーが王子と知らなかっただけでは──ほとんど喉元まで出かかったその言葉を、ナマエはすんでのところで飲み込んだ。それが事実であったとしても、わざわざアーサーに言う必要のないことだ。この数年アーサーが育った場所と宮中では勝手が違うことくらい、アーサーのように聡明そうな少年が理解していないとは思えない。
 理解していて、それでも言わずにはいられないのだとすれば。
 その言葉を聞き届け、言葉の奥にあるアーサーの思いを引き出すことこそが、ナマエが此処に呼ばれた意味であり、理由のはずだ。
 手つかずの紅茶に砂糖を落とし、ナマエは静かにそれをすする。そうして唇を噛み俯くアーサーに向けた視線を和らげると、ひと息吐いてから、おもむろに言葉を紡ぎ始めた。
 自分のすべきことが、不思議とはっきり見えていた。
「実のところを申しますと、私はアーサー様のことをほとんど何も知らされておりません。というよりも、この国の者でアーサー様についてお名前とご年齢以外のことを知らされている者など、ほぼ皆無でございましょう」
 ナマエの言葉に、アーサーが悄然と肯く。
「そう──なのだろうな。私がこの国に戻ったのはひと月前のことだ」
 もしかすると今のナマエの言葉から、ナマエが自分と友達にはなれないと言おうとしているのだと思ったのかもしれない。名前と年齢しか知らない相手とは、友達になどなれはしない、と。
 アーサーの表情に落ちた翳が一層濃くなったことに気付きつつ、ナマエはそれでも続けた。
「北の国でお育ち遊ばしたのでしたね」
「そうだ。だからそんなふうに堅苦しい話し方をしなくてもいい。私は王子としての教育を受けてはいないのだ。貴女の方がきっと私よりずっと、貴族として正しく教育を受けているだろう。ミョウジ伯爵家の才媛と名高い貴女の方が」
「私など、ただの本が好きなだけの娘でございますが……。ですがアーサー様が私の物言いを堅苦しいとお思いでしたら、もう少しだけ普段の──そうですね、『友達らしい』話し方に寄せましょう。もっとも、この部屋の中だけではございますが」
 悪戯めいた言葉を口にすると、ようやくアーサーがこの日はじめてはっきりと顔を上げナマエを見た。宝石のような美しい青の瞳は、それでもまだ暗く物憂げに沈んでいる。沈んでなお、ナマエはその目を美しいと思った。果たしてこの目がまっすぐ未来を見据えたとき、どれほどの輝きを宿すのだろう。そう想像するだけで、どのような物語を読んだ時よりナマエの胸は昂る。
 静かに、ひそやかに昂る胸を宥めながら、ナマエは続けた。
「先程アーサー様は王子としてのご教育をお受けになっていないと仰っていらっしゃいましたが、それでは北の国ではどのようにしてお過ごしになっていらしたのですか? よろしければ私にもお話しいただけませんでしょうか」
 その瞬間、アーサーの瞳に一条の光がまたたき流れた。
 その光に、思わずはっと息を呑む。またたくほどの短い時間のことだった。けれどたしかに、ナマエの心は奪われた──見蕩れた。ナマエの胸の昂りは、その瞬間たしかに捕らわれた。
 逡巡ののち、アーサーはおそるおそるといった様子で、
「……そのようなことを、話してもよいのだろうか」
 とナマエに問いかけた。秘密を打ち明けるか悩む子供のように──いや、まさしくアーサーの心境はそれそのものだったに違いない。ナマエは堪らずにこりと笑った。
「それは、もちろんでございます」
「しかし……」
「しかし、お間違えなさらないでください。私はけしてアーサー様に無理強いをしたいのではございません。ですからアーサー様がお話になりたくないのでございましたら──」
「そうではない。そうではないんだ」
 ナマエの言葉を遮って、アーサーが勢いよく声を上げる。
 いつの間にか身体は前のめりになって、拳は膝の上でぎゅっと結ばれていた。
「北の国での生活は──オズ様との暮らしは楽しかった。この城の者たちにも話して聞かせたいことはたくさんある。しかし……」
 ふたたびアーサーが顔を俯ける。束の間の沈黙ののち、アーサーは言った。
「私は中央の国の王子として、この城に呼び戻されたのだ。呼び戻された日、城の者に言われた。北の国での思い出を、軽々しく口に出してはならないと。それは本来の私の生涯にあるべきではない経験で──王子としてふさわしくない経歴なのだと」
 何かを堪える声だった。今にも溢れてしまいそうな感情を、零れ出してきそうな愛しさを、どうにか喉の奥に押しとどめ、自制を利かせて話そうとしていることがナマエにも分かった。痛いほどに、伝わった。
 まだたった十三歳の少年が、一体どれほどの我慢を強いられているのだろう。どれほどの重責を背負わされているのだろう。伯爵家の令嬢とはいえ、ナマエは自由気ままな末娘だ。家督を継ぐような予定もなく、意に染まぬ縁談を強いられることもない。気楽で気ままなナマエには、想像もできないほどのしがらみが、アーサーを雁字搦めにしている。
 いっそナマエの方が、声を上げて泣きたかった。ナマエがそうしなかったのは、けして不敬だからなどと考えたからではない。ナマエが泣かずにいられたのは、ただひとえにアーサーが泣かないからだ。アーサーが年不相応の思慮分別を持っているから、年上のナマエがみっともなく泣くわけにはいかなかった。
「北の国での生活は楽しかった。それでも──此処に戻ってきたことが我が本位ではないとはいえ、私は中央の国の王子のアーサーだ。だから、王子として望まれない、相応しくない振る舞いはすべきではない──だろう? 王子らしくあることを、きっと父上も、それに母上もお望みのはずだから」
 そうしてアーサーは口を閉じ、じっとナマエの顔を見つめた。ナマエの返事をひたすら待っていた。
 暫しの沈黙が室内に落ちる。アーサーのために整えられた、広く豪奢な部屋の中、ナマエとアーサーはじっと見つめ合う。アーサーの本音を聞いた後では、部屋の調度品も何もかも、どこかよそよそしいものにナマエには感じられた。
 しかしアーサーは、この場所をこそ自分の居場所なのだと決めたのだ。ナマエもまた、今ここにいるアーサーにため、城に上がった。王子として城に舞い戻った、アーサーのために。
 そっと息を吸い込み、吐き出す。先程まで胸のうちでのたくっていた感情のうねりは、ようやく少し落ち着いたようだった。
「正直に申し上げれば──」声が震えていないことに安堵し、ナマエはゆっくりと、言葉を選びながらアーサーに言う。「国王陛下の──アーサー様のお父上のお心のうちは私のような小娘には計りかねます。ただ、アーサー様がいずれ王位をお継ぎになられるとき、もしかすると北の国での数年間を引き合いに出して足を引っ張る者もあるかもしれません。特にアーサー様は魔法使いでございますから、周りの方々はきっと少しでも殿下のお進みになられる道に苦難が少ないようにと気を配られているのだろうと存じます」
 聡いアーサーならばこれもまた、理解していることではあるのだろう。そうと分かっていながらも敢えてナマエが言葉にしたのは、少しでもアーサーの憂いを削ぎたい一心だった。ナマエの言葉でアーサーの気が楽になるのならば、いくらでも言葉を尽くしたい。すでにナマエは、アーサーにそこまでの気持ちを抱いていた。
 女の身で城に上がることなど考えたこともなかったナマエの、それははじめて抱いた忠義の心だった。
 湧き上がってくるはじめての感情は、けして不快な感情ではない。身が引き締まるような思いに浸りながら、ナマエは笑顔で言った。
「ではアーサー様、こういたしましょう。私の前では、アーサー様がお話しになりたいことを、何でもご自由に、お好きなようにお話しください。私はけしてこの場での内容を他言はいたしません。何をお話しいただいても大丈夫です。何処にも漏らさず、誰にも打ち明けない内緒話といたします」
 アーサーの表情には喜びと困惑とが綯い交ぜになって浮かんでいる。それも仕方がないことだ。家臣たちからは北の国でのことは口にしてはならぬと言い含められている。城に戻ったばかりのアーサーにとって、長く中央の国を支えてきた家臣たちの言葉は何よりも重い言いつけだ。
 しかし、だからこそナマエがいる。扉の外には衛兵がいるが、室内にはナマエとアーサーのふたりきりなのだ。今この場においては、家臣たちの言いつけなど守らなくてもばれない。
 それでもまだ悩むアーサーの背を押すべく、ナマエはだめ押しのように付け足した。
「それに、なにしろ私はまだこの国を出たことがありませんから、他の国での事柄などはすべて書物の知識でしか知らないのです。アーサー様のお話を聞かせていただけるのであれば、何より私自身の勉強にもなります」
「本当に……?」
 遂にアーサーは、瞳をめいっぱいきらめかせた泣き笑いの顔になった。
 ナマエは今日はじめて、アーサーの年相応の顔を見た気がした。
「本当に──本当に、私は話してもいいのか。北の国の、あの冷たく寒い空気の中を、オズ様の手を引いて歩いた日のことを。真っ白の雪に残る兎の足跡を追いかけた朝のことを。目を瞠るほどに美しいオーロラを、オズ様の作ってくださったココアのマグカップで手を温めながら待った夕べのことを──楽しかったことも、悲しかったことも、北の国で学んだすべての思い出を」
「ええ。ぜひともお聞かせください。そのために、私はここにいるのです。そしていつか、呼び方など関係なく、私を友だとアーサー様にお思いになっていただければと存じます」
 いつか私以外の誰かが、友としてアーサー殿下のおそばに並び立つその日まで。
 今はまだ友とはいえないナマエにとって、それは自分がアーサーにしてやれる最良で最大限の忠義だった。

 ★

 ナマエが長い思い出話をようやく終えたとき、突如オズの部屋のドアを誰かが叩く音がした。オズが低く呪文を唱え、肘掛け椅子に腰かけたままでドアを開く。
 ドアの外に立っていたのは、まさに今ナマエが語った思い出話の中に登場していた美しい少年──の四年後の姿であるアーサーだ。
 ナマエの記憶の中の姿よりもずっと凛々しく、立派に成長したアーサーは、部屋の中にナマエがいるのを認めるなり、満面の笑顔で室内に足を踏み入れた。
「オズ様、それにナマエも、もう来ていたのだな」
「アーサー様。本日はお招きいただきありがとうございます」
 急ぎ椅子から腰を上げ、ナマエはアーサーに礼をとる。四年の間にアーサーとナマエの関係も大きく変容したが、最たる変化はナマエがアーサーの臣下となったことだろう。もっともアーサーはナマエにもカイン同様、友人としての振る舞いを許している。しかしナマエにカインの真似はできない。
 ナマエの挨拶を、アーサーは鷹揚に受ける。
「カインと賢者様がナマエも誘おうと言ってくださってよかった。いい機会だからと私も賛成したんだ。それにしても、ナマエとオズ様がふたりで一緒にいるとは思わなかった。オズ様、伝記編纂の話をされていたのですか?」
「おまえの話をしていた」
「私の話ですか?」
 きょとんとするアーサーに、ナマエはオズと目を合わせた。主君に嘘はつけないが、だからといってありのままを白状するのは流石に面映ゆい。
「アーサー様は昔から、王子として類まれなる輝きをお放ちになっておられたというお話です」
 わざと真面目腐ってナマエが言えば、アーサーは分かりやすく狼狽えた。ナマエはともかく、オズからそのように褒められることは滅多にあることではない。
「ほ、本当ですか? オズ様!」
「違う」
「なっ、ナマエ!」
 珍しく顔を赤くするアーサーに、ナマエはころころと笑った。オズも心なしか常より表情をゆるめているように見えなくもない。
 ふと視線を窓の外にやれば、夕焼けがいよいよ空を赤く染め上げて、雲が黒い影となってぽつりぽつりと散らばっていた。そろそろガーデンパーティーの始まる時刻だ。早めに着いたつもりが、結局こうしてぎりぎりになっている。
「書庫に行こうと思っていたのですが、そんな時間は無くなってしまいました」
 ナマエが小声で囁くと、オズは低く「パーティーの後に寄ればいい」とだけ返事をした。

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