あたかも恋に溺れているように

 ナマエが晶と話をしてから、およそ十日後。ナマエはいつもの通り、オズの私室で仕事に励んでいた。
 いつも通りにオズからの聞き取りを終え、いつも通りに振る舞われた紅茶と菓子をおともに世間話をする。ひと度腹さえ括ってしまえば、完全に、完璧に、イメージしたままの「いつも通り」を取り繕うことは、ナマエにとっては実はそれほど難しいことではなかった。貴族として中央の国に生まれついたそのときから、それは当たり前のようにナマエが修得すべき素養だ。
 今更にわかに芽生えたばかりの恋心ごときで揺らぐことはない。
 ナマエには自負も、自信もあった。

「まあ、お食事ですか。素敵ですね、どちらにお出でですか?」
 紅茶のカップから口を離し、ナマエが軽やかな声を上げた。すでにテーブルの上に広げられていた仕事用具は片づけられ、傍目にはナマエとオズがただお茶の時間を楽しんでいるようにしか見えない。もっとも時刻はもうじき正午の鐘が鳴るころで、お茶の時間というにはいまいち締まらなかった。
 話題はもっぱら、この後のオズの予定であるカインとアーサーとの食事についてだ。ナマエの知る限りオズはかなりの出不精で、自ら好んで外食しにいくということは滅多にない。食事の面々を鑑みるに、カインの勢いとアーサーの甘えに絆されたのだろうことは想像に難くなかった。
 紅茶のカップに真紅の瞳を向けていたオズは、カップをソーサーに戻し視線をナマエに据える。
「カインが言うには、栄光の街にある店、と。魚料理が絶品だと言っていたが」
「ああ、どこの店か分かりました」
 栄光の街といえばカインの地元だ。ナマエも何度かカインに誘われ、彼のおすすめの店に行ったことがある。そのおかげで、オズのわずかなヒントでもどの店かの見当がついた。
「たしかに美味しいお店ですよ」
「お前も行ったことがあるのか」
「はい。以前、私もカインに連れて行ってもらって」
 ナマエが答えると、オズはわずかに表情をやわらげ、苦味混じりに微笑した。
「カインは誰にでも声を掛ける」
「そこがカインのいいところですね」
「……」
 オズが納得いっていない顔でナマエを見たが、ナマエは特に気にしないことにした。オズがカインの強引さをどのように捉えているかは分からないが、そのことがナマエのカインについての評価に影響を及ぼすことはない。

 ナマエが晶と話をしてから十日──つまり今日ナマエがオズと会っているのも、十日ぶりということになる。
 会わない間にナマエが遊んでいた、ということはもちろんなく、この十日、ナマエはナマエで仕事に没頭していた。オズにも話をしてある通り、城の書庫にこもっての仕事をメインに進めていたのだった。
 オズと会わない十日間の間に、ナマエは十分に心を整理した。生まれてしまった恋心は、今更狼狽えたり疎んだところでどうにもなりはしないだろう。晶も言っていたとおり、好きでいるのをやめたといくら決めてみたところで、きっぱり気持ちと訣別できるわけでもない。
 しかし、恋心をひた隠しにして何食わぬ顔をする、そのくらいならばナマエにだってできる。というよりも、貴族として城内の複雑な人間模様を渡ってきたナマエにとって、感情と態度を切り離すことはむしろ得意分野だ。
 土台恋心など目に見えるものではないのだ。いくらオズが世界最強の魔法使いだからといっても、相手の感情まですべて見透かすようなことはできないし、できたところでしないだろう。それならば、無理に恋心を殺す必要はない。ただ、ナマエだけが知っているものとして、心の奥底に隠しておけばいい──そんなところに、終着した。そして、今日に至っている。
 今のところ、ナマエの振る舞いに不自然なところはないはずだ。オズも前回の触れ合いなどなかったかのようにナマエに接している。だから表面上、ふたりの間には何も事件は起きなかった。いや、実際何も起きてはいないのだ。オズとナマエしか観測しなかった事象を、当のふたりが無かったことにしたのだから、それは何も起きていないのと同じことだ。
 部屋の暖炉には炎が燃え、あたためられた空気の中にはあまい匂いがかすかに漂っていた。ナマエは飲み干した紅茶のカップをテーブルに戻した。ちょうどその時壁に掛けられた時計が、正午を告げる鐘を打った。
「さて、そろそろお暇させていただきます。今日もお付き合いいただきありがとうございました」
 ナマエがすっと立ち上がると、合わせてオズも腰を上げた。鞄を肩にしっかりと掛け、ナマエは扉へと向かう。その後を、やはりオズがついてくる。
「それにしても、オズ様と食事の話をしていたら、私までなんだかお腹が空いてきました。城に戻る前に何か買って帰ろうかな」
「お前は今日はまだ仕事なのか」
「はい。一応その予定ですが」
 ナマエひとりしか携わっていない伝記の編纂なのだから、ナマエが働かないことにはいつまで経っても完成する日は来ない。逆に言えば誰に急かされることもなく、ナマエの気分次第でいつでも仕事を終われるということでもあるのだが、生憎とナマエの生来の真面目な性分が、そうした怠慢を己に許さなかった。
 魔法舎のそばには商店は少ないが、グランヴェル城に戻る道すがらであれば屋台も商店も出ている。適当に何か買って戻れば、そうそう食いっぱぐれることもないだろう。
 と、ナマエが脳内でそんな算段をつけていたところで、
「食事をするというのなら、お前も一緒に昼食に来ればいい」
 唐突にオズが、ナマエを食事に誘った。ナマエは驚き、扉の二歩手前でその足を止める。
「えっ、わ、私がですか」
「何か不都合があるのか」
 不服そうにするでもなく、あくまでオズは淡々と疑問を呈しているだけのようだ。その潔いまでの察しの悪さに、ナマエは何と答えるべきか思わず頭を悩ませた。
 ──人の気も知らないで……。
 そんな恨み言が一瞬脳裏を掠める。しかしナマエは、すぐにそれを打ち消した。知らないでいてもらった方が都合がよく、知られまいとしているのはナマエの方なのだ。ナマエにオズを責める資格はない。
 顔を出しかけた己の甘さを叱咤して、ナマエはオズの問いに集中した。本音を言えばオズや気の置けない友人、主君との食事など一も二もなく飛びつきたい。が、果たしてここはどう答えるのが正解か。どう答えるのが、正しい「いつも通り」なのか──
「都合が悪いだとか、けしてそういうわけではございませんが……。その、だってそれは、賢者の魔法使いの会合のようなものではないのですか?」
 逡巡ののち、ナマエはオズに問い返すことにした。オズが憮然として答える。
「そうした意味合いの会ではない。そうであれば魔法舎の中で集まる方が、無用な注目を集めないだろう」
「たしかに……」
 というよりも、魔法使いの会合ならばそもそもオズがナマエに声を掛けることはないだろう。そのことに気が付いて、ナマエは自分の頭の回転の鈍りにひそりと苦笑した。オズの誘いに乗りたい気持ちが強すぎて、無意識のうちに逆に断る理由を探している。それは誘いに飛びつくことがみっともなく恥ずかしいことであり、あたかも恋に溺れている振る舞いのように思えて仕方がないからだ。
 しかし、ナマエはアーサーの家臣なのだから、アーサーのいる昼食会に出席しても何らおかしなことはない。カインだって友人だし、それにオズとのことだって、ナマエには伝記編纂のためオズを知らねばならぬという、立派な大義名分があった。
 ──いやだ、空回って過剰反応だわ。
 ひとり羞恥に身もだえし、ナマエは赤面した顔を隠すようにわずかに顔を俯けた。
 それを気乗りしない気持ちのあらわれだとでも思ったのか、オズが低く、
「無理にとは言わないが……」
 と言葉を付け足す。ナマエは慌てて顔を上げた。
「いえ! 私でよければ是非、ご一緒させていただきます!」
 その勢いに圧されたのか、オズにしては珍しく驚いた顔をしてから、「それでは行くぞ」とオズはナマエに声を掛けた。

 ★

 オズによれば、アーサーとカインは午前はグランヴェル城に詰めており、現地でオズと待ち合わせすることになっていたらしい。現地といってもオズははじめて行く店なので、栄光の街の運河にかかる橋のたもとが集合場所だという。
 魔法舎の前に馬車を呼び、ナマエとオズは揃って座席に乗り込んだ。行先を告げると、あとはふたりで無言のまま馬車に揺られるだけだ。
 ふたり乗りの馬車は座席が向かい合わせになっている。目の前にオズのような長身の男性が座っていると、それだけでも結構な圧迫感があった。
「今日もカインは城に出ているのですね」
 沈黙が気詰まりということもなかったが、いつものくせでナマエは深い意味もなく呟く。馬車の外に視線を遣っていたオズが、その声に意識を引き戻されるように、ゆるりとナマエに顔を向けた。
「アーサーと城の行事について打ち合わせがあると言っていたが」
「ああ、今日は騎士団の方ではないんですね。打ち合わせか……カインが出てくるような話があったかしら……」
 ナマエは記憶を手繰り寄せて考えてみる。しかし伝記の編纂事業のおかげですっかり表舞台から遠ざかっているナマエには、すぐに思い当たるようなこともなかった。
 これはあまりいいことではない。自分が直接関係していなくても、アーサーが関わることならばひと通りは耳に入れておくのが臣下の務めだ。
「詳しくは本人から聞くといい」
「はい、そういたします」
 たっぷりと実感を込めて頷いて、ナマエは気を引き締めなおした。
 石畳の道に入ったのか、馬車の揺れが大きくなる。先程の会話を〆てしまったせいで、オズとナマエの間にはふたたび探り合うような沈黙が生まれる。
 これがオズの部屋ならば、たとえ少々沈黙が続いたところでさほど気にならない。しかし馬車の座席ほど狭い空間では、話をしていないと気配ばかりが強く濃く感じられてしまう。会話に意識を割かれないだけ、余計に相手の存在を意識してしまう。
 ──何か、話をしなければ。
 話題など、それこそ何だっていいのだ。天気の話でもしていれば、そろそろ目的地につくだろう。
 半ば義務感のような思いを胸に、ナマエは口を開いた。しかし──
「今日は」「今日は」
 声は見事に重なって、きれいなハーモニーになった。オズが気まずげに、眉を曇らせ口を閉じる。ナマエもまた、自分が何かひどい失態をおかしたような気分になって、居た堪れないような心地に陥る。
 しかし、だからといってここで口を噤んでも仕方がなかった。
「……失礼いたしました、オズ様からお話しください」
 仕切りなおすように短く詫び、ナマエはオズに続きを促す。対するオズは、やはり仏頂面でひとつ溜息を吐き出した。
「私の話はいい。大した話ではない」
「私も大した話ではありませんでした」
「大した話でなくとも聞く」
「いえ、ですから私の話は、オズ様のお話を聞かせていただいてからで大丈夫です」
 ナマエの話など、苦し紛れに「今日はいい天気ですね」などと益体のない言葉を少しばかり口にしようとしていただけなのだ。オズの話を遮ってまでしなければならないような、重大な話ではまったくない。というよりオズの方に話題があるのなら、ナマエはわざわざ天気の話などしたくなかった。
「さ、オズ様。私のことは気にせずどうぞお話をお続けください。ささ、遠慮せず」
 ナマエはにこにこと機嫌よく言う。オズはそれでも仏頂面を続けていたが、やがて言い合う気も失せたのか、
「お前は時々、妙に強情になる」
 諦めたようにぼそりと呟いた。冷ややかな声ではないが、分かりやすく呆れている。ナマエは少しだけ、自分が怖いもの知らずな物言いをしたことを反省した。しかし、オズの言葉に反論がないわけではない。
「失礼ながら、オズ様の方が強情かと」
「そんなことはない」
「そうでございましょうか。オズ様は頑なと申しますか、こう、意志のお強いところがありますでしょう」
「お前やアーサーほど人の話を聞かないわけではない」
「話を聞かないと思われているのですか……!? 私が……?」
「聞かないこともあるだろう。今のように」
 ほんの一瞬、ナマエは己の仕事の質が低いと指摘されたような気がして慄然とした。ナマエが魔法舎にまで足を運ぶ目的は、目下オズの話を聞くことだ。
 だが、どうやらそういうわけではないらしい。ほっと胸を撫でおろすと同時に、この話をこれ以上続けない方がいいと判断した。このままでは、オズからどんな小言が飛んでくるか分かったものではない。
「分かりました。私に多少、多少ですよ、多少、強情なところがあるかもしれないことは認めましょう」
「それは認めているのか」
「それで、オズ様のお話とは」
 強引に話題を引き戻す。オズは苦り切った顔でナマエを見つめ──もとい睨みつけたが、不思議とその瞳からナマエが恐ろしさを感じることはなかった。
 威嚇しているというよりはむしろ、照れ隠しのようにも見える。まるで外見の年齢そのままの若い男性がするような、甘さを孕んだ険しさを真紅の瞳にゆらめかせ、ようやくオズは口を開いた。
「天気がいいと、言おうと思っただけだ」
「えっ」
 思わずナマエが頓狂な声を上げる。オズの眉がぴくりと動き、顔には露骨に不愉快そうな表情が浮かんだ。
 ナマエは慌てて、両手を顔の前でぶんぶんと振った。
「あ、いえ、違うのです。けして無礼な意味で驚いたわけではございません。ただその、私もちょうど、天気がいいですねと言おうと思っていたものですから」
 だから思わず、驚き声を上げてしまったのだ。
 まさかオズがナマエの苦し紛れの話題選びと、まったく同じことを言おうとしていたなどと思いもしなかったものだから。
「ふふ。同じことを言おうとしていたのなら、どちらから話をしても同じことでしたね」
 果たしてオズも沈黙を埋めるために天気のことを話題にしたのか、それともそれほどのことすら考えず、ただ思ったことを口にしただけなのか。その判別はナマエにはつかず、答えを知るのは仏頂面で黙り込んでしまったオズだけだ。
 しかしナマエには、答えがどちらでも構わないような気がしていた。そこに行き付く経緯がどうあれ、ナマエとオズが同じ空気を吸い、同じ空の色を見て、同じく「いい天気だ」と思った事実に変わりはない。
「今日は本当に、いいお天気です」
 弾むような声で言ったナマエの言葉に、オズはただ首肯で答えただけだった。

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