吹く風のような人

 いつしか伏せていた視線を上げ、ナマエは晶をまっすぐ見据える。晶は茶化すこともなく、真剣な顔でナマエの話に耳を傾けていた。
「賢者様。私、なんだかこの頃変なんです。こんなこと、普段の私をよく知っているわけではない賢者様に打ち明けるのもおかしな話なのですが、その、お相手がオズ様となると迂闊に他人に話をしたり、相談したりというわけにもまいりませんでしょう」
 ナマエはぐっと身を乗り出して、晶との距離を近づけた。背筋を伸ばしてナマエの話を聞いていた晶を、知らず上目遣いで縋るように見つめる。
 ナマエの心が、唇が、わなわなと震えていた。
「オズ様のことを、伝記に記すのに必要である以上に知りたいと思ってしまったり、拒まれれば寂しくて、触れられれば切なくて……。賢者様は、オズ様にこのような思いを抱かれたことはありますか?」
 聞かずとも、実際のところ晶がどう答えるのかなど、薄々察していたのかもしれない。それでもナマエは問わずにはいられなかった。晶の口から、はっきりとした答えをもたらしてほしいという欲求に抗えなかった。
 暫しの沈黙ののち、晶は言葉を選びながら慎重に、ナマエの問いへの返事をした。
「オズに対して、と言われると……ちょっと微妙ですね……。たしかにオズのことを知りたいとは思いますし、拒まれれば寂しいとも思いますが、でもそれはナマエの言う気持ちとは微妙にずれているような」
「そうなのですか? でも、オズ様は素晴らしい魔法使いなので、おそばにいれば誰しも慕わしく思うのは当然だとアーサー様が」
「アーサーらしい意見だ……」
 晶はそこで僅かに表情をやわらげると、包むように手にしていたカップをテーブルに戻した。空いたその手を、きちんと揃えて膝に置き、ふたたびナマエに視線を戻す。空気が少し、変わった気がした。
「私の場合、オズ以外の魔法使いにも同じような気持ちは程度の差はあれ持っていますから。それでその、こういう聞き方をするのはどうかと思うんですが……、ナマエはオズのことを好きなんですか? ええっと、違っていたら申し訳ないんですが、さっきからのナマエの話を聞いていると、ナマエは何だかんだでオズへの好意というか、恋愛感情を認めているような気がしているんですが」
 おずおずと遠慮がちに尋ねる晶に、ナマエは眉を下げ首を傾げた。
 その問いはナマエにとってけして突拍子のないものでも、驚くようなものでもなかった。むしろ今日、中庭で晶に相談を持ち掛けたときからずっと、待ちわびていた問いだったようにも思える。
 好きなのか──恋心なのか。
 他人の口から聞くその言葉は、不思議とすんなりナマエに染み込んだ。
 ナマエはゆるりと、首を横に振った。
「……分かりません。恥ずかしながら、私はこれまでそういう話とは縁遠く生きてまいりましたし、ことにオズ様に対しては、雑念を持たぬようにと努めてきたつもりでした」
「雑念」
「雑念ではありませんか? だって、恋をすれば自然、相手を見る目も曇るものでしょう。あばたもえくぼとか恋は盲目とか、そういう言葉もありますし。ですがあばたはあばた、えくぼはえくぼですよ。絶対に異なるものを感情ひとつで見間違えてしまうなんて、記録する者としてあってはならないことです。少なくとも公正に、正しくオズ様の行いを記そうとしている者が持つべき感情ではないのではないかと」
 つい先日も、ナマエは似たようなことを思ったばかりだった。オズへの個人的な先入観で、オズの過去について余計なことを考えた。その時はひとまずアーサーの意見を容れ問題を棚上げすることに決まったが、未だ何処か引っかかりを感じているのも事実だ。
 このうえさらに恋心に溺れるなど、公正な記録を義務付けられるナマエにはあってはならないことだ。これ以上、自分の仕事に後ろめたさを持ちたくはない。
 晶の瞳がかすかに揺らぐ。晶とて、ほかにない唯一無二の役割を担っている。ナマエの言い分も理解できるところはあるのだろうと、ナマエは何となしに察した。晶の場合は賢者の魔法使いを信用することが第一になるのだろうが、それでも公正な視点が求められることに違いはないのかもしれない。
「それでも……。そうは言っても、好きになってしまう時には好きになってしまいますから……」
 ややあって、晶は言った。やはり、おずおずと探るような口ぶりだった。
「賢者様もそのようなご経験がおありなのですか?」
「多少は身に覚えもあります」
「まあ、素敵です」
 思わず笑顔を浮かべるも、しかしナマエははっと表情を険しくした。ナマエは晶が賢者となった詳しい経緯までは聞いていない。しかし晶が年頃らしく誰かに心を傾けていたのなら、この世界に喚ばれた現状ではそれを手放しに喜ぶことはできない。
 幸い、晶はナマエの不用意な発言に気付かなかったらしい。恥ずかしそうに頬をかき、それから本題へと戻った。
「私もそこまで恋愛経験が豊富なわけではないですし、それにこういうことは多分、人によって形も様々なものですから。私がそうと思ってもナマエは違うということもあるかもしれない、という前提での話にはなりますけど……。でも、触れられて嫌だと思わない、切ない気持ちになるっていうのは、ただ憧れたり慕うよりはもう少し、踏み込んだ思いを持っている感じがしました」
「なるほど、たしかに賢者様のおっしゃることも理解できるような気がします」
 じっくりと深く頷いて、ナマエは思索をめぐらせた。
 たとえば仮に、ナマエに触れたのがカインやアーサーだったとして。特にカインとは彼の持つ<厄災の傷>の影響もあり、手と手を直接触れ合わせることも少なくない。
 親しい相手と手が触れるくらいならば、ナマエも別に不快を感じたりはしないだろう。というよりも、快だ不快だということ自体、それほど深く意識しない。せいぜいがアーサーが相手だった場合に、主君に対して無礼でなかったかと気に掛ける程度だ。
 まして、心がぎゅっと切なくなることなど想像もできない。カインやアーサーが悪いわけではない。ただ、オズだけがナマエにとってほかとは違う特別なのだ。
 特別。それを恋と呼ぶのなら、まさしくナマエはオズに恋をしているといえる。
 恋だと名付けてしまったなら、すとんと胸におさまって、端からそういうものだったのだというような気もしてくる。
「賢者様のおっしゃるように、好きだとか恋だとか、そういうものであるのか自分ではいまひとつ判断がつかなかったのですが……、だからといってそうでないなら何かと問われると、やはり恋というのが一番しっくり来る気もします」
「おお……」
 晶が何とも言えぬ声をもらした。今この瞬間に目の前で恋を自覚した人間に対し、そのくらいしか発する言葉はなかったのかもしれない。
 しかし恋を自覚した瞬間にしては、ナマエは至って落ち着いていた。慌てふためくこともなく、それどころかいっそ静かなほどの声音で、
「でも、もしそうだとしても、オズ様が私を好きになってくださることはないのでしょうし……どのみち、自分の気持ちはなかったことにして仕事をするしかないのでしょうね」
 自嘲めいた響きすらなく、ぽつりとそう呟く。
「そんなことは……」
「ない、とお思いですか? 本当に?」
 ナマエが責めるでもなく問いかけると、晶は言葉に詰まって口を結んだ。
 ナマエが恋を自覚したところで、何が変わるというわけでもない。恋心なら自覚する前から胸にあり続けていたのだろうし、関係の変化を望んでいるわけでもない。
 あまつさえ、好きになってほしいなどと恐れ多い夢想ができるほど、ナマエは純朴でも世間知らずでもなかった。身の程も立場も、嫌というほどに弁えている。
「いいのですよ。さっきの頬に触れた話だって、好意のあらわれだったらいいのにとは思っていても、本当にそうだなんて思ってないんです」
「それはオズが、永く生きる世界最強の魔法使いだからですか?」
 晶のあやうげに揺れる声に、ナマエはぎこちなく笑みを返した。
「どうでしょう……? いえ、あまりそれは関係ない気がします。もちろんオズ様が私を好きになるはずがないというのは、オズ様から見た私が箸にも棒にも掛からぬ人間だというの意味ではその通りなのですが。でも、私がオズ様への気持ちを──かりにこれが恋心だったとして、それをなかったことにするのは、オズ様が世界最強の魔法使いだからではないですよ」
「そうなんですか?」
 ナマエはひとつ、はっきりと頷いた。
「それこそ、賢者様の仰っていた通り好きになってしまう時には好きになってしまうのでしょうから。二千歳だろうが十七歳だろうが、人間だろうが魔法使いだろうが、それはあまり関係ないことです」
「それならどうして」
「私がオズ様を好きになったら、アーサー様に迷惑がかかるから」
 一切の後ろ暗い感情を含まないさらりとした声で、ナマエは端的に答えてみせた。
 ナマエの恋心は、やがて来るアーサーの時代の足枷となる。ただひとつ、それだけは確かなのだということを、ナマエは重々承知していた。
 たとえナマエに疚しい気持ちがなかったとしても、それでも口さがないことを言う者はいるのだ。本当にナマエがオズに入れあげ恋に溺れているなどと知られれば、どんなことを言われるかなど分かったものではない。きっと聞くに堪えない、馬鹿らしくてくだらなくて、それでいて悪意だけはきっちり詰まった噂が数多城内で飛び交うのだろう。
 それらはすべて、オズの弟子であり、オズに全幅の信頼を寄せるアーサーの足を引っ張ることになる。
「これはやっぱりオズ様が世界最強の魔法使いだから、ということになるのでしょうか。でも、いずれにせよアーサー様のご迷惑になることはできません。もちろんひいてはオズ様にもご迷惑をお掛けすることになる。応えられない、応えるつもりのない好意を一方的に向けられるのは、きっと迷惑なことでしょう」
 いくらナマエがオズを想おうと、オズが応えてくれるとは限らない。というより、オズに限ってまさか応えてくれるとは思えなかった。齢二千を超える偉大な魔法使いを前にして、その彼の心を揺り動かすほどの何かを自分が思っているなど、ナマエには到底思えない。
 好きになるのはこんなにも呆気ないのに、好きになってもらうことは雲を掴むよりも難しい。もしやオズなら容易く雲を掌中におさめることもできるのかもしれないが、魔法も使えないただの人間のナマエには、雲などどうしたって掴めっこない。
 好きでいたって仕方がない。
 好きでいるだけで、迷惑になる。
 それならば、想いなど持たない方が──ずっといい。
「申し訳ありません、賢者様。相談をしたいと言ったのに、結局なんだか自分で勝手に納得するような形になってしまいました。お時間をとらせてしまって申し訳ない限りです」
「それは構いませんけど……」
「ですが賢者様とお話させていただいたことで、少し頭と心がすっきりしました」
 自分ひとりでは、心の中を整理することさえままならなかった。自分のことを自分が一番よく知っているなど嘘っぱちだ。少なくとも、ナマエは晶と話し合ったからこそ、自分の気持ちに名前を付け、そしてその気持ちをどうすべきか理解できた。
 生まれたばかりの恋心を殺してしまうのは忍びないが、大きく育つ前だっただけましだと思うしかない。そう思わなければ、やっていけない。
 所詮は好きになってはいけない相手だったのだから。
「ナマエ」
 晶がふいに、ナマエを呼ぶ。
 ナマエは晶をまじまじ見つめる。
 晶の瞳は、いたわるように優しい。
「こんなことは私が言うことではないかもしれませんが……気持ちは、そんなふうに割り切ってしまえるものですか? 好きになっちゃいけないからなかったことにするとか、そんなふうに頭で決めてしまえるものですか?」
 その瞬間、ナマエの胸がちくりと小さく痛んだ気がした。
 鈍く小さくかすかな痛みに、しかしナマエは気付かなかったふりをする。自覚したばかりの恋心をなかったことにしたのと同様に、その痛みもまた、端からなかったことにしてしまう。
「賢者様の元いらした世界には、好きになってはいけない相手というのはいらっしゃらなかったのですか?」
 代わりにナマエは、やわらかな声で晶に問いかけた。そして晶が答えるより先に、さらに次の言葉を継ぐ。
「好きになってはいけないから好きでいるのをやめる、というのが可能なことなのか……正直に言えば、私にもそれは分かりません。これまで恋愛の相手という意味で、誰かを好きになったことがありませんから。好きでいるのをやめるというのも、まだ経験したことがないんです」
 これを恋だと認めるならば、オズへの恋がナマエの初恋だった。本に囲まれ勉強ばかりして育ったナマエは、周りの人間に対しそれほど関心を払ってこなかったのだ。どのみちいつかは親の決めた相手に嫁ぐ。それならばわざわざ恋愛を経験してみようなどと思う必要もなかった。
「だけど、できるかどうかではなくて、そうすべきなのだと私は思います」
「どうして」
「私がアーサー様の臣下だからです」
 きっぱりとした固い声が、やけに大きく部屋に響いた。
 晶は何も言わなかった──いや、言えなかったのかもしれない。はじめてナマエに会った時から、晶はナマエのアーサーの臣としての矜持が並大抵でないことはよく分かっているはずだ。ことアーサーが絡むことに関して、ナマエは愚かしいほどに強情だった。
 しかしナマエは、アーサーのことを言い訳にするつもりなどない。逃げを打つ理由に主君を利用する気は露ほどもなかった。ナマエは真に、来たるべきアーサーの御世に思いを馳せているだけだ。要するに、すべては優先順位の問題でしかない。
 晶は暫く、ナマエの確固とした瞳をじっと見つめていた。すでに心が決まってしまったからなのか、ナマエの瞳にはもはや惑いや迷いの色はない。
 やがて晶が、静かに告げた。 
「いつか、オズが言っていました。人間は、ただ過ぎ去っていくだけのものだって。吹く風のようなものだと」
「……そんなことを」
 意外な思いで、ナマエは呟く。ナマエの知るオズは言葉数も多くなく、吐き出す言葉はどれもかなり率直だ。オズがそのように詩的な言葉を操るところを、ナマエは見たことも聞いたこともなかった。
 ──これが賢者様と私との違いということなのかしら。
 思わずそんな思考が脳裏を掠めるが、それはけして嫉妬や劣等感による思考ではない。賢者はこの世界にただ一人、唯一伝説の魔法使いと対等であることを許されている人間なのだ。ナマエなど、劣等感を持つ方が烏滸がましいというものだ。
 ナマエの目の前で、晶は思案するように瞳を泳がせる。そしてやはり悩まし気に、重い口ぶりで先を続けた。
「ナマエ、私はいつかこの世界から去ることになるだろうと思うし、もしかしたら魔法使いのみんなと一生を共にできるわけではないのかもしれません。それでも、オズのそばをただ通り過ぎるだけの存在にはなりたくないと思います。ナマエはどうですか?」
「私は……」
「たしかに色んな事情から、ナマエとオズは深い仲にはなれないのかもしれません。だけどアーサーの家臣であることと、オズのそばに留まることは、絶対に両立しないことなんですか?」
 ナマエの瞳が大きく揺らぐ。晶の瞳は真剣で、それが賢者としてオズというひとりの魔法使いと如何ほど真摯に向き合っているのかを、如実に示しているようでもある。
「私、は……」
 どうなのだろう。どうすべきで、どうしたくて、どうしたらよいのだろう。
 ナマエは生憎とその答えを、未だ手にはしていなかった。だからといってそこまで何もかも晶に縋るわけにもいかない。結局晶の問いへの答えを返すこともできぬまま、迎えの時間になりナマエは魔法舎を後にした。
 部屋の外の雪は、夕暮れとともに勢いを増して街を白く染めていた。

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