存在を証明する

 オズの部屋を後にしたナマエは、さながら夢遊病者のごとく覇気のない足取りで、魔法舎の中をふらついていた。
 本心では今にも走り出したいくらいなのだが、さすがに室内を駆け回るようなことはできない。駆け出すかふらつくか、両極端な二者択一のすえ、ナマエは彷徨い歩く幽鬼と成り果てていた。
 とはいえ、当て所なく彷徨っているというわけでもない。城に戻って仕事をするにせよ、自宅に戻るにせよ、その前に少しでも自分ひとりで心を落ち着けなければならない。幸い迎えの馬車まではまだ時間があったので、ひとまずナマエは中庭へと向かい歩いていた。
 無人の談話室を抜け、そのまま中庭に通じる扉を開く。ひと度外に出れば冷たい空気が頬を刺し、己の肌がいつもよりもずっと熱いことを思い知る。
「はぁ……」
 気を抜いた途端、口から情けない溜息がこぼれた。よろよろと数歩歩んだその先で、ふと視線を足元に下げれば、花壇には冬でもぽつぽつと花がほころんでいる。
 ナマエは花壇の前で立ち止まり、そのまま蹲るようにその場でしゃがみこんだ。するとたちまち、棚上げしていた思考がどっと押し寄せナマエを襲う。
 ──やっぱり、さっきのオズ様はおかしかったような気がする。
 思い出されるのはつい先程まで顔を合わせていた、世界最強の魔法使いオズのことだった。唐突にナマエの頬に触れたかと思えば、やわらかく唇に指を押しあてた、その挙動。どうしたって頭から完全に締め出せるものではない。
 いくら菓子の滓がついていたと理由を説明されたところで、あのような触れ方、到底すんなり納得できるはずがなかった。説明された直後こそ、口許に菓子をつけていたことの恥ずかしさにばかり気がいっていたが、こうしてオズの部屋を去った今、時間が経てば経つほどに、どんどんとオズに触れられたこと自体への羞恥心と違和感、そして言いようのない気のはやりを感じる。
「はぁ……うう……」
 こんな気持ちになるのははじめてで、むしょうに心が重かった。むやみに浮足立つ心が恐ろしく、自分の身体と心が噛み合っていないような感覚になる。
 視線の先では花が何輪か、寒風に吹かれて揺れていた。土からひょろりと伸びた細い茎は、この寒風の前ではいかにも頼りなさげだ。
 胸のうちは鉛を呑んだかのように重い。それなのに心は今にも勝手にふわふわと飛んで行ってしまいそうだ。
 この心境に似た感情を、ナマエは知識としてのみ知っていた。名だたる物語に頻々と登場し、時に英雄を立ち上がらせ、時に国を傾ける。その感情の名は── 
「ナマエ……?」
 ふいに頭上から声が降ってきて、ナマエは思考を中断させた。顔を上げれば、視線の先に見知った相手──それもナマエが礼儀を尽くすべき相手が見つかり、慌てて勢いよく立ち上がる。
「これは賢者様。お久し振りです」
 そこにいたのは、強風にあおられる髪をおさえつけながらナマエの顔を心配そうにのぞき込む、賢者──晶だった。いつもの衣装の上に防寒着を羽織った晶は、ひとまずナマエが立ち上がり、はきはきと挨拶をしたことに安堵したのか、わずかに強張った顔をやわらげる。
「お久し振りです。どうしたんですか、そんなところで? もしかして体の具合が悪いとか……」
「い、いえ、そのようなことはけして! ちょっと花壇の花を間近で観察していただけです。あまり見たことが無い花だなぁと」
「ああ、その花きれいですよね。リケとミチルが育ててるんですよ。たしか南の国で採れた種だそうです」
「そうでしたか。どうりで見たことがないと思いました。おっしゃる通り、きれいな花です」
 そこでナマエはぐるりと辺りを見回した。中庭にはナマエと晶以外の人影は見当たらない。晶とは何度か言葉を交わしたことがあるが、こうしてふたりきりになるのは初めてのことだった。
「今日はどなたかとご一緒ではないのですか?」
 ためしにそう聞いてみるが、晶はけろりとした顔で笑う。
「さすがに魔法舎の中ではひとりで歩きますよ。街に出るときには誰かと一緒のことが多いですけど」
「そうでしたか。これは失礼いたしました」
 異世界より招かれし賢者といえば、この世界にただひとり代えの利かない特別な存在だ。ナマエはてっきり、日頃から身辺を警護する魔法使いが張り付いているものだと思っていた。しかし魔法舎にはオズをはじめ強力な魔法使いもいるのだし、何より常人には侵入できない結界も張ってある。結界の中でまで晶の行動を制限する必要はないということなのだろう。ナマエはそう理解した。
 と、ナマエが思索に耽っていたところ、
「ナマエはこれからオズに会いに行くんですか?」
 いきなり晶に尋ねられ、ナマエは思わず「えっ!」と声を上げた。つられて晶までもが「えっ」と驚く。その声に、ナマエははっとして顔を赤らめた。
 赤くなるナマエを見て、晶はますます首を傾げる。
「すみません、何かおかしなこと言いましたか? ナマエが魔法舎にやってくるときは、大抵オズに用事があるものだと思っていたんですが……」
「あの、いえ……今オズ様のお部屋を辞してきたところ、なのですが……」
「じゃあ今から帰られるところなんですね」
「そうなのですが……」
「ナマエ?」
 どうにも歯切れ悪くなる物言いは、いつもそれなりにずけずけと物を言うナマエらしからぬ話し方だった。晶が訝しむのも仕方のないことだ。ナマエ自身、そう思う。
 戸惑う晶を前に、ナマエは逡巡した。
 このまま予定通り帰宅しても構わないが、それではこの胸のつっかえが消えることはないだろう。何事もそう引き摺るたちではないものの、だからといって何でもひと晩寝れば忘れるほど単純な頭の作りもしていない。
 それならばいっそ、この世界で唯一の賢者である晶に相談してみるというのも、悪い考えではないのかもしれない──ふいにナマエはそう思った。帰りの馬車までの時間はまだある。それにナマエの目から見ても、晶は信頼のおける人物だった。
 一度口許を引き締めて、それからナマエは決心とともにやおら口を開いた。
「あの、賢者様。この後お時間などありますでしょうか……?」
「時間ならありますが」
「ご迷惑でなければ、少し相談したいことがあるのですが、お付き合いいただけませんでしょうか……」
「えっ、私にですか!?」
 晶はあからさまに驚いて目を瞬かせた。ナマエと晶は顔見知りではあるものの、個人的な相談を打ち明けるほど親しくはしていない。
「ナマエの相談ならカインやアーサーの方が、」
「賢者様にお聞きいただきたいのです」
 断固とした口調で答え、ナマエは晶に視線を据えた。
 ことオズについての相談となれば、迂闊にアーサーに相談はできない。カインにしても同じことだ。カインは色恋や男女の機微には詳しいが、ナマエの相談相手として適任とも言い切れない。
 この件についてナマエから頼ることができる相手など、はっきり言って晶くらいしか思い当たらない。
 そんなナマエの覚悟を見て取ったのか、晶はごくりと喉を鳴らした。そして何故か、晶までもが意を決したように神妙な顔で頷いた。
「わ、わかりました……」
「ありがとうございます。すみません、いきなりお願いなどしてしまって」
「いえ、大丈夫です。たしかに少しびっくりしましたけど……」
 それでもひとまず、晶が相談を引き受けてくれたことにナマエは安堵した。ひとりくよくよと思い悩むよりは、信頼できる誰かに話を聞いてもらった方が気持ちはずっと楽になる。これまではその役を、大抵カインかアーサーに頼んでいたのだが。
 話がまとまったところで、晶は周囲を窺うようにきょろりと辺りを見回した。最初にここで挨拶をしたときと同じく、やはり周囲に人影はない。二十人以上が暮らしているはずの魔法舎だが、今日はやけに森閑としている。
「ええっと……相談というからには、あまり人のいないところの方がいいですよね? 魔法舎の外の方がいいですか?」
「ああ、いえ。それはちょっと……」
 ナマエは言い淀み、視線を下げた。話題がオズのことであるだけに、できるだけ人気のない場所の方が話をするのに相応しい。魔法舎の外では、誰に話を聞かれるか分かったものではない。
「そうですか……じゃあ私の部屋でもいいですか? ここは少し寒いので」
 晶の提案に、ナマエは真面目な顔で頷いた。
「大変ありがたいです。ですが、その……よろしいのですか? あの、言い出しておいてなんなんですが、今私、途轍もなく図々しいことを言っている気がします。今更申し訳なくなってきました」
「気にしないでください。魔法使いのみんなも結構普通に出入りしているので」
 それに、アーサーやカインの友達なら私の友達です、と。そう屈託なく笑んだ晶の眩さに、ナマエはまるで太陽に目を向けたときのように、そっと目を細めて笑い返した。

 晶に連れられ魔法舎内に戻ったナマエは、そのまままっすぐ二階の晶の部屋へと通された。幸い部屋に辿りつくまでの間に誰とも顔を合わせることもなく、ナマエが晶の部屋を訪れていることを誰かに知られることもなかった。
 同じ二階にはアーサーとカインも私室を持つが、どちらも今は不在なのか、耳をそばだててみても部屋の中から気配はしない。ナマエは安堵に胸を撫でおろした。
「どうぞ、散らかってますが」
 晶に続いて部屋に入ると、ナマエは思わずぐるりと部屋の中を見回した。無礼だとは分かっているが、貴族のナマエにはこの広さの私室は珍しく、ついつい視線があちこち飛んでしまう。
 ひと目見てぱっと目につくのは、やはり卓上に置かれた愛らしいくまのぬいぐるみ。壁には誰が描いたものか、何やら不思議なタッチの絵が飾ってある。机の上に置かれた絵本は、文字を読む練習に使っているものなのかもしれない。
「素敵なお部屋ですね」
 お世辞ではなく、本心からナマエは伝えた。晶がはにかんで微笑む。
「そうですか? ありがとうございます」
「私は賢者様のことをそう深く存じておりませんが、それでも何となく賢者様らしいお部屋のような気がします。好きなものをきちんと大切にしているお部屋というか」
 それほど広い部屋ではないが、ものはかなり多い。しかしどれ一つとして埃をかぶっていたり乱雑に置かれていたりはしない。そこに晶の丁寧な人柄があらわれているように、ナマエには漠然と感じられた。
「元々はもっとすっきりした部屋だったんですけど、いろいろなところに任務に出たり、魔法使いのみんながお土産にくれるものを飾っていたら、いつのまにか物の多い部屋になっちゃって」
「なるほど、そういう事情がおありなのですね」
「それに、思い出の品をいろいろと置いておくと、この世界にやってきてからのことがちゃんと現実なんだって、そう思えるというか……」
 子供じみてるかもしれませんが、と赤面する晶に、ナマエはゆるりと首を横に振った。
 言うまでもなく、晶は異世界からの来訪者だ。この世界にやってきたとき、着ているもの以外にはまったく荷物を持っていなかったとも聞く。実際、この部屋にあるものでナマエの目に「異質」とうつるものは何ひとつない。
 見知らぬ場所で生活していくためには、身の回りのもの、私物を増やすことは安心に繋がるのかもしれない。目に見える形で自分がそこにいる、存在を証明するものは、賢者のような異邦人には大きな意味を持つ。そのことは中央の国以外の場所をほとんど知らないナマエでも、何となくは想像できる気がした。
「素敵だと思います。私も今度賢者様にお会いするときには、何かお土産を持参しますね」
「それじゃあ私は飾る場所をつくっておきます」
 晶の顔に、笑顔がふわりと咲いた。
 話も一段落したところで、ナマエは晶に勧められるまま椅子に腰かけた。晶の部屋には書き物机に備え付けられた椅子が一脚と、簡易的な折り畳みの椅子が一脚用意されているだけだ。部屋の広さから考えても、おそらく来客の際には晶が折り畳み椅子を使っているのだろうことが察せられる。
 椅子と同じく折り畳みのテーブルを出し、晶はそこに紅茶の支度をした。すべての準備がととのったところで、折り畳み椅子に腰を落ち着けた晶は、ようやく本題を切り出した。
「ところで、さっきの話ですけど」
 現下に相談内容を求められ、ナマエはこくりと頷いた。こうしてふたりきりで面と向かってみても、晶はそこはかとなく親しみやすい印象をナマエに与えている。信用できる人柄なのだろう、とナマエは改めて思い知るようだった。
 深く一度呼吸をしてから、ナマエはゆっくりと切り出した。
「賢者様は賢者の魔法使いを率いておられますし、オズ様やミスラさんとも対等に付き合っておられますね」
「そうですね。ここに来たばかりの頃に、賢者というのはそういうものだと言われたので」
 もっとも率いるというほどのことはしていませんが、と晶。それでもナマエの目には、晶は立派に魔法使いたちを束ねあげているように見えている。
「オズ様とも親しくしていらっしゃるかと存じますが、その」
「は、はい」
 もう一度、深く息を吐き出して──それからナマエは、ひと息に言った。
「賢者様はオズ様に、顔を撫でられたことはございますか」
「顔を……!?」
「顔というか、頬なんですけれども」
「頬かぁ……」
 ナマエの言葉に、晶は悩まし気に眉を曇らせた。いきなりすぎただろうかと、ナマエの胸にも不安が過ぎる。
 ナマエが関わりを持っている魔法使いはアーサーとカイン、それにオズくらいなのだから、賢者である晶に相談することがあるとなれば、おのずとその相談が中央の国の魔法使い──もっと言えば最近親しくなったばかりのオズとのことだということくらい、晶にも容易に想像がついていただろう。
 しかし晶は面食らった顔をして、困ったように思案している。ということは、晶の中ではオズと顔を撫でる、頬に触れるという行為が結びついていないということだ。返答を聞くまでもなく、晶はそういう触れ方をされたことはないのだろう。
 案の定、晶はやや言いにくそうに口ごもりながら、
「私はあまりそういう触れ方をされたことはないですが……」
 と、ナマエの顔色を伺った。
「ああ、でもアーサーにそういう接し方をしているのは、何度か見かけたことがあるような……」
「アーサー様と……ふむ……」
「頬を撫でられたんですか? その、オズに……?」
 晶の問いに、ナマエは頷く。事実は事実なのだから、隠したところで仕方がない。単に意外だというだけで、隠さなければならないような理由もない。
「一体どうしてそんな流れに?」
「流れというか、唐突に……。オズ様は菓子の滓が口のそばについていたと仰っておりました。ですがよく考えてみれば、やはりその説明にはその……無理があるのではないか、と思いまして。それで、こうして賢者様にお尋ねした次第です」
 正直にそう答えると、ナマエはふと窓の外へと視線を向けた。先程中庭に出ていたときには降りやんでいた雪が、いつのまにか再びちらちらと空を舞っている。その雪を見るともなく眺めながら、ナマエはオズの部屋を出てから考え続けていたことをぽつりぽつりと言葉にした。
 ナマエは最初、オズに「口のそばに菓子の滓がついていた」と言われ、そうだったのかと納得した。もちろん顔から火が出るほど恥ずかしいことに違いはなかったが、そういう事情ならば顔やくちびるのそばに触れてもおかしくないと思ったのだ。
 しかし時が経つにつれ、ナマエはだんだんとオズの言葉に疑念を抱くようになった。
 ナマエが最後に菓子を口にしたのは、昼間アーサーの部屋を訪れたときだ。それからもうすでに随分時間が経っている。何度か手洗いに立ったときには、当然鏡を見てもいる。顔に菓子の滓をつけていて、それで気付かないなどということが果たしてあるだろうか。
 第一、オズの言葉が真実だったとして──ナマエが間抜けにも顔に菓子の滓をつけていたとして、それをオズがわざわざ取ってくれるだろうか。ナマエは子供ではないのだし、ましてオズを怒らせ、謝りにきたところだった。それなのに、オズがそんな親密な親切心を見せるものだろうか。
 晶が言うように、それがアーサーに向けられた仕草ならばナマエにも理解できる。アーサーとオズは長年ともに生活し、師弟というだけの関係をこえた親しさを築いている。顔に触れたり、頬を撫でたりすることだってあってもおかしくはない。たとえアーサーがすでに青年と呼べる年でも、長命のオズの前ではまだまだ子供も同然だ。
 しかし、ナマエは違う。ナマエには、オズにそれほど親密な触れ方をされる理由など何ひとつ思い付かなかった。オズの言っていることが事実であろうと虚偽であろうと、やはり違和感は拭えない。
「私も娘というほど若くはありませんから、もしもほかの男性に同じことをされれば、何となくその下にある気持ちを見抜くことができると思うのです。どれだけ下心なく爽やかに振る舞おうとも、そうしたものはどうしたって滲み出てしまうものでございましょう」
 ナマエの問いに、晶は「な、なるほど……」と相槌を打った。
 ナマエはこれまで数多の縁談話を突っぱね自由気ままに暮らしてきたが、だからといってまったく色恋の機微を解していないわけではない。書物で得た知識は人並以上だし、貴族という立場柄、下心のある人間には本能に似た嗅覚が働くこともある。
「ですが、そのオズ様からそうした印象を受けたかというと……」
「受けなかった、と」
 ふたたびナマエは、こくりと頷いた。
「誤解なさらないでいただきたいのですが、なにも私だって、私に対してオズ様が下心をお持ちになるとか、そうした目でご覧になっているなどとは端から思ってはおりません。だからそういう印象を受けなかったからといって、特に驚くことでもないはずなのです。そのはず、なのですが」
 そこでナマエは一度言葉を切り、悩まし気に視線を彷徨わせた。
 本来はそれでよかった。下心などないのだと納得して、頬に触れたのだって何かのはずみ、気の迷いのようなものだろうと片づけてしまえばよかっただけなのだ。
 ──それなのに。
「後から後から、そうだったらよかったのに、と──菓子の滓がついていたなんて、本当はただその場を繕っただけで、本当は触れたかったから触れたのだと、そうだったらいいのにって、私、そう思ってしまって。そう思ったら、もしかしたらそうだったのかもしれないとか、そんな気配もあった気がするとか、どんどん都合がいい方に思考が進んでしまって」
 下心を感じなかった、他意はなかったと納得していたはずの心が、気付けば自分に都合よく事実を捻じ曲げようとしている。そうだったらいいのにが、いつしかそうだったかもしれないに摩り替っている。
 しかしそれだけならばまだ、己の不甲斐無さだけで片がつく。尚更たちが悪いのは、そもそもオズに下心があってくれたらと、そんな荒唐無稽なことを望みのように感じてしまう己の心の在り方だ。
 触れたいと思っていてほしい、なんて。
 そんな恥知らずなことを、思うなんて。

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