途方もない断絶

 馬車を降りた途端、ナマエは頭上より降る冷たい雨にばらばらと頭を打たれた。それでもさして気に留めず、まるで日傘でもさすようなおっとりとしたしぐさで、ナマエは傘を取り出し開く。
 魔法舎の門扉から玄関まで続く石畳の道を歩くナマエの足取りは、いつになく重い。歩くというよりはいっそ、足を引き摺っているようだ。
 ナマエが伝記編纂の役を任じられ、早いもので半年近い。最初の頃こそオズとの面談に委縮していたナマエだが、一度オズと打ち解けてからはむしろ、どちらかといえば喜んで魔法舎に足を運んでいた節がある。
「はぁ……」
 こんなふうに溜息を吐きながら玄関の扉を開けるのも、随分と久し振りのことだった。

 事の発端は、半月ほど前。ナマエが風邪で倒れた日から数えて数日後──ナマエの体調も何事もなく回復し、若干の無理をおして職務に復帰した頃まで遡る。その頃五百年ほど昔のオズの軌跡を辿っていたナマエは、当時のオズの足取りもある程度正確につかめたところで、いよいよ集めた資料や文献をもとに当時のオズにまつわる伝承の精査に挑んでいた。
 しかし作業を進めるにつれ、ナマエは或る壁に直面することとなった。
 冷酷非道な、世界最強の魔法使い──魔王と呼ばれるに相応しい、悪逆の限りを尽くした大魔法使いオズの伝承。此処に至っていよいよ、それらを無視することができなくなってきたのだ。
 端的に言えば、そうした伝承が多すぎた。逆にそれまではぽつりぽつりと確認されていたオズの素晴らしさや慈悲深さを称えた記述は、この時点から一切消えた。
 自力で文献を探せば探すほど、オズの悪行を連ねた記述ばかりが次々と出てきてしまう。そもそもオズに纏わる伝承は、恐ろし気な内容のものの方が圧倒的に多い。それらを見て見ぬふりをしていては、正しい伝記の編纂などできようはずもない。
 このままではどうにも埒が明かない。そんな抜き差しならぬ事情によって、ナマエは最終手段としてオズのもとを訪れることにしたのだった。
 ──こんな話を持ちこんで、オズ様に御不快な思いをさせなければいいのだけれど……。
 考えれば考えるほど、どんどん気持ちは重たく深く沈んでいく。しかしどれほど足取りが重かろうとも、歩き続けていればいつかは目的地に辿り着いてしまうものだ。
 気が付けば、ナマエは見慣れたオズの部屋の扉の前まで到着してしまっていた。斯くなるうえは、腹をくくって扉をノックするしかない。事前にアポイントメントを取っていないから、もしかすると部屋の主が不在ということもあり得るが、そうだとしてもいずれノックをしないことには始まらない。
 ──オズ様はご自身の評判をあまり気にされない方だし、案外さくっと話を済ませてしまえるかもしれないし。
 そうなれば、残り時間はのんびり世間話でもするだけだ。大丈夫、いつも通りに自分の仕事をこなせばいい──ナマエは己を鼓舞してから、意を決して部屋の扉をノックした。
「オズ様、いらっしゃいますでしょうか」
 心臓がいやにどきどき鳴っている。しかし部屋の中からのいらえを待つこともなく、すぐに扉は開かれた。ナマエは首を伸ばして部屋の中を覗く。暖炉の前に立ったオズが仏頂面のまま、ナマエを静かに迎えていた。
「入れ」
「はあ、あの、失礼いたします」
 入室を許され、ゆっくりと部屋の中に足を踏み入れた。もう何度も踏んでいるはずの床なのに、今日はどうしてかやけに足音がよく響くような気がする。床を軋ませぬようこそこそとオズの方に近寄ると、ナマエはひとまず無言のオズに、
「ええと……その……突然押しかけてしまい申し訳ございません」
 頭を下げ、持参した手土産の菓子を差し出した。仏頂面を崩さぬまま、オズがそれをゆるりと受け取る。表情は強く険しいが、真紅の瞳はけして烈しさを映してはいない。
「お前は突然やって来ることの方が多いだろう。もう慣れた」
「申し訳ございません」
「慣れたと言っている。驚いてはいないから謝らなくてもよい」
「……はい」
 ナマエはようやく顔を上げた。視線をそのままオズの顔まで引き上げれば、何時の間にかオズの顔にうっすらとした笑みが浮かんでいることに気付く。
 ──やさしい顔をされているわ。
 その柔らかな微笑に、ふいにナマエの胸がぎゅうと痛くなった。本来、微笑を向けてもらえるようになったことに喜びを感じるはずの胸は、今日はやたらと痛みばかりを伝えている。この後に聞かねばならない、オズの過去についての無遠慮な問いのための罪悪感だろうか。そのことを考えただけで、ナマエは胸の底がにわかに冷えた心地になる。
 オズが静かに移動して、定位置である肘掛け椅子に腰を下した。ナマエもつられ、いつものようにそばの椅子に座る。そしてオズが紅茶の準備をととのえるのを、ナマエはただ黙って見つめていた。

 ナマエが持参した、ドライフルーツの砂糖漬けと紅茶がテーブルに並んだところで、「それで」とオズが切り出した。
「今日はどのような用件だ」
「えっと……、その……」
 用件ならばはっきりしている。五百年ほど昔、フィガロと世界中を廻っていたオズが行く先々で一体何をしていたのか。それをオズ本人から聞き出すために、ナマエは今日こうして出向いている。
 しかしいざ本題に入るとなると、なかなかどうして切り出しにくいものがあった。普段、溢れる知識欲の前にはあらゆる遠慮や葛藤をなかったことにするナマエでも、そこまで不躾になりきることはできない。オズの過去──それも今のオズとは結びつかない過去を、不確定な情報に基づき問いただすなど、過去を無断で踏み荒らすに等しい行いだ。
「どうした、何故黙っている」
 オズが訝し気に問いかける。いよいよ言葉に詰まったナマエは、オズの視線から逃れるように窓の外へと視線を転じた。
「ほ、本日はお天気もよく……」
「……? 今日は雨だが」
 それも、いつの間にやら結構な本降りになっている。窓を打つ雨の粒は、時雨というにはいささか勢いが強すぎる。ナマエはうっと言葉に詰まった。
「た、たしかに雨、ではあるのですが……恵みの雨とも申しますので、別に雨だから悪天候だとか、そう言い切るのも如何なものかと……」
「何を言いたい?」
「すみません、何でもございません。今のは忘れてくださいませ」
 諦めて、ナマエは言葉を引っ込めた。さすがにこの天候を「いいお天気」と言い張るには無理がありすぎた。この無理を押し通せるほどの口のうまさは、残念ながらナマエにはない。
 そんなナマエを、オズは目を眇めて見る。
「まだ身体が本調子ではないのだろう。休養は何日とった」
「ええと、一日……」
「今すぐ帰宅し身体を休めよ」
 「≪ヴォクスノク≫」と呪文を唱えようとするオズに、ナマエは慌てて椅子から腰を上げた。オズが魔法で何をするつもりかは不明だが、いきなり実家に送り返されたりなどしては堪らない。
 オズは依然、疑わし気にナマエを睨んでいた。自らの挙動が不審である自覚があるナマエとしては、オズの視線を受け続けるのもつらいものがある。
「とにかく……、身体はもう本当に元気ですので、ご心配には及びません。あっ、そういえば実家に果物を贈っていただきありがとうございました。お礼を申し忘れておりました」
 ふいに思い出し、ナマエは座りなおしながら頭を下げた。先日風邪を引いた際、ナマエの実家に果物のかごが見舞い品として届いたのだ。果物の中には、中央の国では滅多に見ることのない、きわめて珍しい果物も含まれていた。
「あれは賢者とカインからの見舞いだ」
「たしかに送り主はそうなっておりましたが……。でも、オズ様もお選びくださったのではないですか? 以前オズ様から伺ったことのある、北の国でのみ採取される果物がかごに入っておりましたから、私はてっきりそうなのかと」
 首を傾げてナマエが問うと、オズはむすりと口をへの字にした。
 ナマエの言った果物とは、北の国の中でも最果ての土地でしか実らぬ希少な果実のことだった。以前オズから幼い頃のアーサーがその実をよくおやつに食べていたと聞き、一度でいいから食べてみたいと漏らしたことがある。異世界からやってきたばかりの賢者と、生粋の中央の国の魔法使いであるカインでは、北の国でしか採取できない珍しい果実のことなど知っているはずもない。
「……食べてみたいと、言っていただろう」
 何処か言い訳じみた響きで、オズが苦く吐き出した。ナマエは目元を綻ばせる。
「覚えていてくださったのですね。ありがとうございます」
 やはり、オズは優しい。ナマエの心の中にわずかながら存在した疑念のような乾いた気持ちが、たちまち緩まり、細々と流れ出していくようだった。こんな濃やかな気遣いのできるオズがまさか、世界征服など目論むはずがない。
 そうに、決まっている。
 と、オズがひとつ嘆息をして言う。
「北の国は貧しい国だ。北の大地で実る作物は、北の国の国民の飢えを凌ぐためのもの。他国に貿易品として流れることは少ない。貴族といえど、他国の者が容易く口にできるものでもないだろう」
「はい。見たこともないような果物でした」
「特にあの果物は一般に流通するような果物と違い、古くからある野生そのままの種だ」
「なるほど……。ということは、入手に際してはオズ様が直接北の国に出向かれ採取されたのですか? ああ、もしかしてまた何か任務で北の国に行く用事があったのでしょうか」
「……そのようなものだ」
 オズがふいと視線を逸らす。妙に歯切れが悪い口調に、ナマエはやはり首を傾げた。
 ナマエが風邪を理由に休みを取ったのは、魔法舎で倒れたその翌日だけだ。見舞いの果物かごが魔法舎から届いたのは、その休んだ一日の夕方のことだった。もしもオズたちが北の国まで任務に出たとすれば、そんなにも手際よく果物を採取し、それをほかの果物と一緒にナマエの家まで送り届けられるものだろうか。
 魔法を使えばそれも不可能なことではないような気もするが、そもそも果物かごを持ってきたのはカインだ。カインは特に北の国での任務について何も言っていなかったし、それどころかその日は魔法舎で魔法の訓練をしていたような話をしていた。もっとも、ナマエは前日から高熱が続いていたから、そう長く話をしたわけではない。ナマエの記憶違いということもあるだろう。
「それより」
 まるで何かを誤魔化すかのように、オズがやけに強く厳しい口調でナマエに言葉を向けた。記憶を遡っていたナマエはその声に、はっと現実に引き戻される。
「今日の本題は何だ」
 唐突に話題を引き戻され、ナマエは思わず言葉に詰まった。先程からの意味のない世間話も、もとはといえばこの本題を切り出しにくいがために、どうにかこうにか無理やり捻りだしていたようなものだ。本題に入れとオズからこうして責っ付かれれば、ナマエとしては本題──すなわち仕事の話に入らないわけにはいかない。
 しかし、話しにくいものは話しにくい。いくらオズの潔白をナマエが信じていたところで、それとこれとはまるきり別問題だ。話の内容が内容だけに、冗談めかして軽く聞くということもできない。
 なおも言葉を濁し、往生際悪くもごもご言い淀み続けるナマエに対し、
「何か言いにくいことでもあるのか」
 オズが訝し気に目を細め、声を低くして問うた。しかしそれはナマエを責めているというよりも、むしろはっきりしないナマエを心配し、気遣っているといった調子の声だ。ナマエの方では、自分はとてもではないがそんな声を掛けてもらえるような立場ではないことが分かっているから、一層小さく委縮する。
「いえ、あの、そういうわけでは……、たしかに言いにくいことではあるのですが……」
「どちらだ」
「どちらかと言えば、まあ、申し上げにくいことではありますが」
 いつまでもぐずぐずとして、ナマエは口を小さくしか開けない。しかしこのままいたずらに時を引き延ばしたとて、何も聞かずにこの部屋を後にすることなどできるはずがないのだ。オズに許されこの部屋に足を踏み入れてしまった時点で、ナマエのすべきことはただひとつと決まっていた。
 深い呼吸を三度、繰り返す。
 意を決してナマエは俯けていた顔を上げた。
「せ──先日も申しましたとおり、私は今五百年ほど昔のオズ様について、各地に伝わる文献や資料をもとに調査を進めております」
 オズの肩が、小さく揺れた。何故だかナマエはいたたまれない気分になり、慌てて視線を床へと落とす。
 オズの顔を見られない。そこにはたしかに、罪悪感があった。
 それでも──聞かぬわけにはいかない。
 ここで言葉を切れば、二度と口が開けなくなる──そんな予感めいた感覚を覚え、ナマエは突き動かされるように、追い立てられるように言葉を続ける。
「五百年前といえば、まだこの国に現在の王朝が興るより以前のことです。ですから当時の記録の大半や失われ、反対に口伝でのみ伝わる伝承については数多残っているというような状況で、私は今調査をしているのですが……」
 心臓が、きりきりときつく痛んでいた。矢を射る直前の、固く引き絞った弓のように。
 本当はこんなことを言いたくない。聞きたくない。けれど。
 アーサーに仕える文官として。世界でただひとりオズの伝記編纂を担う身として。記録をたつきとしてきた一族に名を連ねる者として。
「五百年前、オズ様は世界の各地で一体何をなされていたのでしょうか。ただ各地に赴き、観光をして廻っていたというには、その……いささか、不穏な伝承が多く伝わっておりまして」
 問わず、捨て置くことはけしてできない。
「オズ様は──、オズ様は、その昔、」
 世界をその手に、掛けようとされたのですか──

「帰れ」

 引き絞った弓のような心臓に、ひゅっと冷たい空虚が差し込まれた。
 顔を上げることもできぬまま、ナマエはオズの声に耳をそばだてていた。
 肌が粟立ち、背筋が凍る。
 オズの声が、俯いたナマエに向けて無情に落ちてくる。
「その件について、私の口からお前に伝えるべきことは何もない」
「お、オズ様」
「伝承でも何でも、お前たちが書き立てたいように好きに書けばいい。その内容について、私が口を挟むことはない」
 しかし、と。オズは温度のない声で続けた。
 ──いや、結んだのか。
 ナマエの耳には、そう聞こえた。まるでその後続けようとした言葉を無理に飲み込んで、強引に話を結んだかのように。
 弁明すら、しようともせず。そこでオズが言葉を切る理由など、ナマエに思い当たるのはただひとつだ。
 ──対話を、諦められたのか。
 見切りをつけられたのか──見捨て、られたのか。
 そう思い至ったその瞬間、ナマエの唇が凍り付いた。発する言葉を失った。
 何故ならナマエは気付いてしまったのだ。いつでも言葉だけを頼りに生きてきたナマエにとって、対話を諦められるということは、途轍もないほど恐ろしいことだった。言葉での対話を重ねてここまでオズと付き合ってきたナマエは、言葉でつながることができないということに、途方もないほどの断絶を突き付けられたような気がした。
 言葉を掛けられすらしないということは。
 何も望まれていないのと、同じではないのか。
 沈黙が室内に重く落ちていた。森閑とした部屋のなかには、衣擦れの音ひとつ響かない。ナマエもオズも身じろぎひとつせず、じっと椅子に腰掛けていた。置物にでもなったかのように、ただそこで、気まずく呼吸だけを続けていた。
 窓を叩く雨の音だけが、どんどんその勢いを増していく。
 そうして一体、どれほどの沈黙を経ただろうか。
「帰れ。この話をこれ以上続けるのであれば、無理やり此処から追い出すまでだ」
 やがてオズはそう言って、それから短く呪文を唱えた。すると部屋の扉が開き、廊下の空気が部屋へとゆるく流れてくる。
 命じられるがまま、ナマエは力なく腰を上げた。
 オズの顔を見ることもできず、ナマエは肩を落として言う。
「失礼いたしました。今日のところは退席させていただきます」
 オズからの返事はない。もとより返事を期待してもいなかった。
 ナマエはとぼとぼと頼りない足取りで扉に向かう。そうして部屋をゆっくり出ると、そこでくるりと体の向きを変え、部屋の中に向け深く頭を下げた。
 ナマエの下げた頭のすぐ前で、扉は音を立て固く閉じた。

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