幕間・鶸の話

 ナマエを生家から遣わされた馬車に乗せ、カインたちとともに少し早い夕食を摂ったオズは、食後しばらく自室でぼんやりと物思いにふけったのち、ふと思い立ってシャイロックの預かるバーに顔を出すことにした。とはいえ、ことさら酒を飲みたかったわけでもない。単に気が向き、足が向いただけだった。
 夕方のナマエの譫言と、その後聞いたカインからの話。そのいずれもが、オズの心のおもてに今なお小さな波紋を立てていた。部屋でひとり、静寂に身を浸していると、つい彼らの話を思い出してしまう。それらはオズにとっては無関係のはずの、益体のないしがらみの話だ。しかし実際には無関係だと割り切れるほど、遠い世界のことでもない。すぐそばにある、現実に即した面白くない話だった。
 そんな思考を一時でも遠ざけるために、オズは部屋を出てきたのだ。
 しかしバーの扉を開けたそのとたん、オズはバーに足を向けたことを心の底から後悔した。
「あれ、オズ。お前も飲みにきたの?」
 そう言ってカウンター席で長い脚を組んでいるのは、オズの兄弟子であり旧知の知人でもあるフィガロだった。カウンターを挟んだ向こう側では、シャイロックが妖艶な笑みを浮かべオズを迎える。バーにはフィガロとシャイロック以外の人影はなく、ほとんどフィガロの貸し切り状態になっていた。
 宵っ張りの魔法使いたちにとっては、まだまだ宵の口と呼べる時刻だ。いつもならば誰かしらがバーに顔を出し、それぞれ付かず離れず酒を楽しんでいる。しかし今日に限っては、どうも客足が遠いらしい。いっそフィガロもいなければひとりで気楽だったのだが、と内心で毒にもならない不平を持つものの、後からやってきたのはオズの方。まさか出ていけとも言えない。言ったところでフィガロが聞くとも思えない。
 そんなオズの胸中を知らぬのか──知っていてなおどうでもいいと割り切っているのか、フィガロはグラスを持ち上げオズを誘った。渋々、オズはカウンターへと寄っていく。シャイロックがグラスを磨く手を止めた。
「さあ、こっちで一緒に飲もう。今日の貸しの分くらい奢ってくれるんだろ?」
 貸しとは言うまでもなく、ナマエの診察を依頼した件についてだ。診察といってフィガロを呼び出した時点で、オズもロハでとは行かぬだろうとは思っていた。しかしオズから礼を言うより先に貸しの清算を求められるとまでは、さすがに思いもしなかった。
 酒を奢るくらいならば訳はない。しかしオズは、ふと懐に入れてきた硬貨の数を思い出す。ふたり分の酒代とするには、いささか心許ない。
「硬貨の持ち合わせならお前の方が多い」
「俺の現金とオズのマナ石、両替してやってもいいよ」
「換金の相場が分からない」
「マナ石の質にもよるけど、法律に引っかからない範囲で両替するよ」
「要するに、相場より不利な換金ということか」
 嘆息するオズを見て、シャイロックが声もなく笑う。
「お二人ほどの魔法使いでしたら、信頼と尊敬を担保にいくらでもツケにしておきますよ」
「そう言ってお前はアーサーに清算させるつもりだろう」
「シャイロックからの信頼を担保にされると、俺も踏み倒せなくて困るな」
 嘆息のすえ、オズは懐から硬貨を取り出した。どのみちフィガロにいつまでも貸しを作ったままにはしておきたくない。足りなければ後から部屋に硬貨を取りに行けばいいだけだと、そう納得することにした。
「……私にも、フィガロと同じものを」
 適当に注文を済ませると、すぐに深い黄金色の、とっぷりとしたブランデーが供される。フィガロが飲みかけのグラスをオズの方に傾けた。
「人間との心温まる交流に乾杯」
 グラスがささやかにぶつかる音が、オズとフィガロの間で固く短く響いた。

 オズがひと口、湿らす程度に酒を含んだところで、「それにしても」とフィガロが切り出した。待ち構えていたかのようなタイミング、そして先程の乾杯の言葉。話題はおのずと知れる。
「それにしても、オズが人間の女の子と親しくしているなんて。長生きはしてみるもんだなぁ」
 案の定フィガロが切り出したのはナマエの話だった。面白い話題ではない。かと言って、そもそもオズにとっての面白い話題など、そう多くはない。相手がフィガロならば尚更だ。
「仲良くはしていない。話をするのが仕事だと言うから、仕事に付き合っているだけだ」
「その付き合っているっていうのが、仲良くしてるってことだろ」
「違う。あくまでもアーサーが、」
「『アーサーに頼まれたから』なんて野暮はなしだよ」
 言おうとしていた言葉を先回りされ、オズはむすりと口をつぐんだ。シャイロックは聞かぬふりをしてつまみの準備をしている。
 ナマエとの関係について、オズから言える言葉はひと言、アーサーのために仕事に協力してやっている人間──それだけだ。それ以上に適した言葉をオズは知らず、またそんなものが存在しているとも思わなかった。
 オズは仕事というものをしたことがない。だから一般的に仕事上の付き合いというのがどれほどの親密さを求めるものか、そんなことは考えたこともなかった。
 しかし一例として、カインは今でも騎士団時代の同僚と酒を飲むことがあるという。以前カイン本人から聞いた話だ。ならばナマエとオズの関係もまた、それと同じようなものだろう──そうオズは解釈していた。
 ──仕事上の相手であっても、個人的な会話をすることくらいはある。
 だからナマエのために北の国に空間を繋げたことも、高熱で臥せるナマエのそばについていたことも、すべては仕事上の相手にとる態度としての範疇を逸脱しないものなのだ。少なくとも、オズはそう考えている。
 そこにそれ以外の感情が含まれているなどとは想像もしない。そんなことがあったとして、どうしたらいいのかも分からない──そう思っていた。今日の夕方、カインの話を聞くまでは。
「それで?」
 何時の間にかすっかり黙りこくっていたオズに、フィガロが分かりにくく、それでいて露骨に水を向けた。
「それで、とは」
「老いらくの何とやらをどうするつもりなのかなと思って」
 二千歳を過ぎてなお軟派な風采を正そうともしない自分を棚に上げ、フィガロはにやりと笑って言った。
「老い……」
「老いてはいるじゃないか、ねえシャイロック」
「なぜそこで私に話を振るのです?」
「出来心かな。叱られるっていうのも案外悪くないものだなって、最近やっと気付いてきたんだよ」
「そういうことでしたら、貴方の可愛い生徒に頼まれては? 今ここにミチルを呼びましょうか。彼ならきっと、すいすい飲酒するフィガロ様を叱ってくれますよ」
「おっと、それは困る」
 オズには追いつけないテンポの会話が、フィガロとシャイロックの間で軽やか且つわずかな不穏を帯びて行き来する。常々若い魔法使いとテンポが合わないと感じているオズだったが、弁の立つフィガロと口のうまいシャイロックの前では、年齢など関係なしに言葉を失うしかない。
 やがてシャイロックに笑顔で凄まれたフィガロがようやく口を閉じたので、
「お前の言うような事実はない。今後どうするつもりもない」
 ようやくそれだけ反論した。
 探られて痛む腹があるわけではないのだが、だからこそ無遠慮に探りを入れられると不愉快だ。言外にそう伝えて、オズはグラスの酒を呷った。シャイロックの供する酒には珍しく、今日はやけに苦みが口をつく。
 酒を楽しむこともせず飲み下し、オズは知らず眉間に刻まれていた皺を伸ばした。「ナマエのことに触れられるのは不愉快だ」──はっきりと釘を刺したからには、オズは先ほどの返答でこの話題が打ち切りになるものかと思っていた。
 しかしフィガロはわざとらしく驚いた顔をすると、懲りることなく不躾に、ずいっとオズに詰め寄る。
「なんで? もしかしてあの子がアーサーの友達だから、保護者として気まずい?」
「そうではない。フィガロ、お前はいつも人の話を聞かなさすぎる」
「聞いてるよ。聞いてるけど、それ以外にあの子とどうもしない理由が分からないんだよ。だってあの子、見るからにオズのことを気に入っているじゃないか」
 そのようなことはない、と口にするより先に、
「たしかに、まったく好意を抱いていない相手のもとへ、仕事とはいえあそこまで足繁く通うとは思いづらいですね」
 シャイロックがさらりと言葉を挟む。
「それがどのような好意であるのかは、また別の話なのでしょうが」
 そう付け足してから、ほんの一瞬、シャイロックがやけに含みのある目くばせをオズへと寄越した。まるで何もかもお見通しだと言わんばかりのその目くばせに、オズはひそりと嘆息する。誰もかれも、感情などという目に見えぬものについて語り合うのが好きすぎる。
「そもそも、あの娘は私を特別になど思ってはいない」
 ほとんど呆れて吐き出すも、
「好かれている自覚はある?」
 そうフィガロに間髪を容れずに切り込まれてしまえば、オズはふたたび口を閉じるしかなかった。何故ならナマエから一定の好意──親愛の情を向けられていることくらいは、いくら他人の機微に疎いオズであっても察しているからだ。
 事実、熱に浮かされナマエ自身が「オズともっと親しくなりたい」と白状したのを、オズは聞いている。本来オズについて踏み込み過ぎることを許されない立場でありながらも、ナマエはオズを知りたい、親しくなりたいという気持ちを押さえきれていないのだ。それを親愛の情と呼ばずして、何を親愛の情と呼ぶのだろう。
 あくまでも仕事上の付き合いの範疇として、おそらくナマエは最大限の親愛の情をオズに対して抱いている。何が彼女にそこまでの思いを抱かせているかは不明だが、アーサーに感化されたとすれば説明がつかないこともない。
 しかし、それがフィガロやシャイロックがいうようなたぐいのものと同一とは、どうしてもオズは見做すことができない。そうであってほしくないと、心のどこかでそう願っている自分がいることにオズは気付いている。だからこそ、フィガロに返す言葉もないのだ。
 そんなオズの本心を、しかし兄弟子は敏感に察していた。
「ははぁ。なるほどね」
 意味深にそう呟くと、フィガロは機嫌よさげににこにこと笑う。もっとも、機嫌がよさそうだからといって真実上機嫌とは限らないのが、フィガロという魔法使いでもある。腹の底で何を考えているのかなど、オズには到底見通せない。
「何か?」
 オズが苛々と問うてみても、フィガロはいつものように「いや、別に」と飄飄とそれを躱した。フィガロの傾けたグラスの中で、酒がとろりと微睡みのようにたゆたう。
「ただ、人間たちの都合にお前が合わせるんだなと思って。まあ中央の国の魔法使いとして召喚されているからには、そういう協調方向に進むものなのかな。肩書が本質を変化させるってこともあるだろうし、それに、美しい貴族の娘を見初めた魔王が自分の城に娘を攫って行くっていうのも、如何にもすぎるというか話としては使い古されて食傷気味だしね」
「そういう話ではない」
「じゃあどういう話?」
 返事のしようもなかった。どういう話をしているのかなど、オズ自身まったく見当がついていない。
「古典でロマンチックなのは好みじゃない?」
「そのようなものに興味はない」
「まあたしかに、年食ってからの駆け落ちはちょっと痛いからね」
「……部屋に戻る」
 フィガロの最後の言葉はさすがに侮辱だと分かった。腰を浮かせたオズのマントを、慌ててフィガロが握って引く。
「悪かった。次の一杯は俺が奢るからもう一度座って」
「お前の軽口に付き合う気はない」
「だから悪かったって」
 むろんフィガロが本当に悪いと思っているのかは分からない。しかし熱心に謝っているのはたしかだ。オズは渋々、浮かせた腰をふたたび椅子に下ろした。シャイロックが愉しげに笑っている。
「二度目はない」
「分かってる。けど俺もまさかこの年になって、オズと恋愛の話ができるなんて思わなかったからさ。つい浮かれて口が滑らかになったんだよ」
「恋愛の話……?」
「そうだろ? え、違うの?」
 恋愛の話──
 フィガロが当然のように口にした言葉を、オズはゆっくりと身のうちで反芻した。
 胸の中で何度も繰り返されるその言葉は、オズがこれまでに覚えた如何なる感情の肌ざわりとも微妙に異なっている。やたらと朧気なわりにはざらついて、その言葉が胸の中にあると思うだけでどうにも据わりが悪いような気分になってくる。曖昧で胡乱で、馬鹿らしい。それなのに、何故か無視することもできない響き。
 恋愛の話──なるほど、たしかに考えてみれば、フィガロもシャイロックも最初から、それこそ飲み始めの一番端からそういう話をしていたのだろう。オズが気付かずいただけで、傍から見ればナマエとオズの関係には何かしら、それらしい雰囲気が纏わりついているのかもしれない。
 オズがここまで漠然と「フィガロやシャイロックがいうようなたぐいのもの」と認識していたのは、間違いなく恋愛感情のことだ。しかしフィガロに言葉にされるまで、オズは自分の中にあるナマエとの関係、感情に、明確な名前を与えてはいなかった。与えようとも思っていなかった。
 恋愛の話──三たび、オズは考える。
 それでは果たして、ナマエとの間に恋愛感情は一切存在しないのだろうか。フィガロやシャイロックの言はまるきり的外れであり、存在せぬものを勝手に見出そうとしているだけなのだろうか。
 その疑問の半分までならば、オズははっきりと答えを持っていた。
 オズの見る限り、少なくともナマエはオズに恋愛感情など持ってはいない。持っているはずがないだろうと、思っている。
 オズは人間の恋愛感情への知見などまったく持っていない。しかし恋する相手に「私は結婚などしたくない」と堂々と宣言するものだろうか。いや、普通はしないだろう。結婚しない恋愛の形も当然あるが、それならそれで、もう少しオズの反応を探るような態度になるはずだ。恋愛というものを絡めるには、ナマエの態度はあまりにもさっぱりと、あっけらかんとしすぎている。
 だから問題にするのなら、未だ答えの出ぬもう半分の方なのだった。そのもう半分があるからこそ、恋愛の話という言葉がこれほどまでにオズの心をざわつかせる。
 もう半分──すなわち、オズからナマエへの感情の名前。それは俗にいう、恋愛感情というものなのだろうか。生まれてこの方そんな感情を持ち合わせたことがないが、果たしてこれこそが、世に聞こえた恋愛と──いうものなのだろうか。
 ──これが、そうなのか。
 ──この胸にあるものは。

 ──これは、そんなものなのか。

「鶸の話をした」
「え?」
 たっぷりの沈黙ののちに発したひと言は、おそらくはオズとここにいないナマエ以外には、まるきり意味の分からないものだっただろう。気の抜けた返事をしたフィガロも、カウンターの向こうで笑みを絶やさぬシャイロックも、どちらも一瞬意表を突かれた顔でオズを見た。
「なに? 秘話?」
「もしかして、鳥の話ではないですか?」困惑するフィガロに、シャイロックが助け舟を出した。「少し前に魔法舎の裏庭でも見かけましたよ」
「そうだ。鳥の話をしている」
「あ、ひわって鶸か。いや、鶸の話なんかしてないけど」
「お前とではない。あの娘とだ」
「ああ、そう。相変わらず言葉が足りてなくて分かりにくいんだよ」
 ぶつくさと文句を垂れながらも、フィガロは笑って酒を煽った。オズの言葉数の少なさには慣れているのだ。
「それで、オズ様。鶸がどうしたのですか?」
「人間が飼育すると、早くに死ぬ鳥らしい」
「へえ。魔法使いが飼育してもそうなのかな?」
「知らないが、魔法を使わなければ似たようなものなのだろう」
 オズとてナマエから聞いた話の受け売りだ。鳥の詳しい生態など知るはずもない。飼われた鶸が早死にするのは、飼育の方法云々の話ではなさそうだから、おそらくは人だろうが魔法使いだろうがうまく飼育するのは至難の業なのだろう。
 いつの間にか空になっていた二人分のグラスを、シャイロックが新しい酒に取り替えた。先の話では、これはフィガロの奢り分だ。
「興味深い話ですが、たしかにそういう生き物がいてもおかしくはないでしょう、誰だって悦楽のために枷を受け容れる以外の理由で、籠に入れられたくはないでしょうから」
「悦楽はさておき、ラスティカ擁する西の魔法使いがそれを言うんだ?」
 揶揄するように笑うフィガロに、あくまで嫣然としてシャイロックは言い返す。
「ラスティカのあれは、そうした無粋なものとはまったく違いますよ」
「君がそう言うのならそうなのかな、シャイロック。──それで、その早死の鳥がどうしたって?」
「……あの娘を見ていると、あれもそういう生き物ではないかと思うことがある」
 ぽつりと、オズが呟いた。
 鶸にとって生きるのに最適な世界が野蛮な自然の中だというのなら、ナマエにとっての生きる場所、それは中央の王城──アーサーの臣として生きられる場所ということになるのだろう。だから貴族の娘として生きているときのナマエはひどく窮屈そうにしているし、反面傍から見れば過酷で摩耗することも多い城内での仕事は、ナマエにとっては何にも代えがたいものに見える。
 しかし小さな鶸が自然の中で弱者であることは純然たる事実。だからといって人の手で保護しようとすれば、すぐに鶸は命を落とす。同じように、人間社会で不要な摩耗を繰り返すナマエを、たとえばオズがそこから遠ざけてやったとして。きっとオズが用意したその場所では、ナマエは思うように生きることができないのだろう。ナマエとて、そんなことはきっと望まない。
 鶸は弱き鳥であったとしても、ひ弱で軟弱な鳥ではない。
 あの楽し気にさえずるナマエの声は、この場所で、この距離間でしか聞くことのできない声だ。
 だからたとえ、オズが自覚している心の揺らぎに恋愛感情と名前をつけたところで、その感情のためオズにできることなど何ひとつない。畢竟、考えるだけ無駄なことなのだ。わざわざ思索を巡らせずとも、どのみち伝記編纂事業を完遂するまでは、ナマエとの縁は続いていく。アーサーを間に挟んでいさえすれば、今後オズとナマエの縁が切れることもないだろう。
 だから。
 胸のうちのちっぽけで些細な感情に、恋愛感情などと大それた名前をつける理由も必要も、本来どこにもないのだ。それどころかそんな名前をつけ、オズが何かを望んでしまったが最後、ナマエがアーサーの足を引っ張るまいとしている努力がすべて水泡に帰してしまう可能性すらある。それはオズの望むところではない。
 ──ないのだが。
「えっ、もしかして今の鶸の話ってあの子のこと重ねた話ってこと!? おまえ、いつの間にそんな会話らしい会話ができるようになったんだ」
 ようようオズが思いを訥々とした言葉にしたところで、しかし返ってきたのは兄弟子の素っ頓狂な声だった。あまりにもオズの気持ちを汲まない返答に、見かねたシャイロックが「フィガロ様」とフィガロを窘める。
「いや、だってさシャイロック、オズとの付き合いももう相当に長いけど、オズがこんな話し方するのをはじめて聞いたよ。言葉の裏とか本音と建前とか、そういうものすべて関係なしに≪ヴォクスノク≫の一言で薙ぎ払ってきた男だよ」
「そのようなことはしていない」
「いや、してたね。何ならお前が灰にした森や何かを全部挙げていこうか」
「何故お前はそう、覚えていなくていいことばかり覚えている」
「逆にお前はどうして≪ヴォクスノク≫で全部を片づけるんだ」
 後始末をするのは誰だと思ってるんだよ、と。フィガロはついでに積年の文句まで付け足した。今度もやはりオズには返す言葉がない。世界征服に挑んでいたときだけでなく、自分の尻ぬぐいをたびたびフィガロがしていることくらい、オズも正しく理解していた。
「いや、しかしルチルやミチルだけじゃなく、オズに情緒の発達を見ることになるとはな……」
 ひとしきり文句を言って満足したのか、フィガロはしみじみとそう吐き出した。齢二千をこえる魔法使いといえど、他の人間や魔法使いとの交流の少ないオズは未だ、情緒の面でフィガロはおろか数百歳の魔法使いにすら及ばない部分がある。兄弟子としては、弟弟子の成長は純粋に喜ぶべきところなのだろう。オズにとっては面白くないことこの上ない。
 だが、いくら情緒面の発達が未熟といえど、オズが天候すら操る世界最強の魔法使いであることに変わりはない。オズのむっつりと不機嫌そうな顔な顔に気付くやいなや、フィガロは「まあいいや」と自分で始めた話題を切り上げた。
「とにかくおまえの話を要約すると、自分の手元に置くことで、あの子を早死させるのが怖いって話か」
「そこまで直接的な話ではないが」
「彼女の変化を見たくないのでは? 変わるということはそのものの一部が死に、変容するということでもありますね」
 フィガロに続き、シャイロックが見解を述べた。蕩けるような甘い声でそう言われると、それがあたかも事実であるように聞こえる。
 果たしてシャイロックの言う通りなのだろうか。そのように要約されてしまうと、オズ自身そういうものなのかという気分になってくる。
 ナマエの変化を恐れている──しかしオズは、ナマエの確固とした人となりに拘るほどにはナマエのことを知ってはいない。アーサーにやや行き過ぎたほどの忠心を持ち、基本的には裏も表もない気持ちのいい人間だというくらいしか、オズはナマエの性格を把握していない。
 しかしそれではフィガロの言が正しいのかというと、そういうわけでもないのだった。たしかにナマエに早死にしてほしくはないが、現状ナマエに命の危機があるとも思えない。オズの目の届くところに匿ってしまえば、それこそこの世界の何処よりも身の安全は保証されるだろう。しかし、ナマエの自由な魂が死ぬという話であれば、まったくの的外れとも言い難い。
 どちらの見解も、オズの心情を言い表す言葉として正しくあり、誤りでもある。そしてオズはその複雑な心情を言葉にできるだけの表現を持ち合わせてはいなかった。
 グラスの中身はなかなか減らない。気の向くままバーまでやってきてはみたものの、どうにも酒を楽しむ気分にはなりきれなかった。
 熱に浮かされたナマエの赤い顔が、オズの脳裏をふと過ぎる。今頃は自室のベッドの中で眠っているのだろうか。明日くらいは仕事も休むべきだとオズは思うが、ナマエの性格を思えばもしかすると明日も登城するのかもしれない。
 そんなことを、考えるともなく考えていると、
「単に鳥の話なら、品種改良しちゃえば? っていうところだけど」
 ナッツのつまみをかみ砕き、フィガロが空白を埋めるように嘯いた。そのあまりにもフィガロらしい物言いに、シャイロックが苦笑する。
「それはあまりにも情緒がなさすぎるかと」
「でもどのみち、鶸のたとえは彼女の精神の話だろ? そこを俺たちが魔法で触ったら、それはもう死んだも同じなんだよね。そういう話だよね、これ」
 そうなのだろう、とオズも思った。結局のところ、オズは自由に、あるがままに生きるナマエを好ましく思っているのだ。オズのもとでにこにこと笑っているだけの人間になど、オズは興味がない。そんな人間ならばナマエでなくてもいい。
「いっそ鳥の方から鳥籠でかくまってくれって言ってくれればいいのにね」
「そういうものか」
「そうだよ。だって、きれいなものがむざむざ傷つけられていくのを見るのは気分が悪いじゃないか」
 羽をもがれ、足を引っ張られる様を直視するよりは、助けを求めてくれる方がどれだけ気楽なことか。フィガロの言にも一理あり、オズはふたたび押し黙った。
 もしもナマエがオズの庇護を求めたのなら。たしかにそんな状況になれば、オズはナマエに手を差し伸べるだろう。もはや知らぬ仲というわけでもなし、アーサーの友人であれば尚更だ。
「それでもなお、高潔であろうとする精神こそが美しいと私は思いますが」
「死んでしまったら元も子もないよ」
「おや、意見が割れましたか」
 オズ様はいかがお考えになりますか? と、シャイロックに問いかけられ、オズは無言で瞳を伏せた。どちらかといえばフィガロの言に同調しているオズではあるが、かと言ってシャイロックの意見が理解できないわけでもない。実際にオズがとろうとしている態度は、シャイロックに近いような気もする──だが。
 ──高潔であろうとする、精神。
 シャイロックの言葉を胸の裡で唱えてみる。何処か堅苦しい響きのその言葉は、オズの知るナマエの印象とはどうにもうまく馴染まない。
 ──どちらかといえば、自由奔放で頑固な矜持、だろうか。
 そんなことを考えて、しかしそれではやはり幼い頃のアーサーの印象と大差ないではないかと、自分で自分に呆れたところで、
「まあでもよく考えたら、オズは昔のことはあの子には何も話していないんだろ? それならどのみち、深い仲にはならないか。そういうことを割り切ってやれるほど、オズは老獪で世のことに長けているとは言えないし」
 あたかもこれまでの会話をすべて覆すかのように、フィガロが乱雑に言葉を投げた。昔のことというのが、かつてフィガロと共に世界征服をしかけたことを言っているのは明らかだ。シャイロックは表情を崩しこそしないものの、沈黙をつらぬいている。
「何もというわけではないが」
「肝心なところを隠しているんだから、それは何も話していないのと同じだよ」
「……お前にだけは言われたくない」
「それもそうか。ま、お互いつつかれたくない過去のひとつくらいはあるってことだ」
 オズのささやかな皮肉も、フィガロはひと呑みして受け流す。しかしオズの胸のなかでは、最後に放り投げられた過去のあやまちが、冷たくこごって沈んでいくようだった。

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