奇跡を尊ぶ目の色

 オズに抱えられる事態を回避するため精一杯の虚勢を張ったはいいが、ナマエの具合はナマエ自身が思っていたよりもずっと悪かったらしい。フィガロが用意してくれた客室に辿り着いたときにはすでに、ナマエの意識はかなり朧気になっていた。
 自分がオズの手を借り寝台に横たわろうとしていること、自宅からの迎えが到着するまでをこの部屋でやり過ごさなければならないことくらいは分かるが、より複雑な思考は纏まらない。オズと言葉を交わす呂律もだんだん怪しくなっていた。
 それでもフィガロの見立てでは風邪だろうというのだから、風邪には違いないのだろう。長命の魔法使いとしても医師としても、フィガロの知見にはオズも一目置いている。ひとまずは帰宅して身体を休めるしかない。
「これを」
 寝台に上ったナマエが身体を横たえてしまう前にと、オズが何処から取り出したものか、カップをナマエに差し出した。ナマエがカップの中を覗き込むと、無色透明の液体が白い湯気を立てている。天井で橙色の光を発する灯りの下、カップの中身は淡く光をとろけさせている。
 火傷しないようゆっくり口を付けると、すぐにほのかな甘味が口の中に広がった。白湯に何か甘味料を混ぜているのだろう。やわらかな味わいの白湯は喉を落ち、身体の内側からナマエをあたためる。
「おいしいです。甘くて」
「部屋から持ってきたシュガーを溶かしてある。飲めるだけ飲みなさい」
「はぁい」
 子供を諭すように言いつけられる。ナマエもつられ、子供のような返事をした。シュガーとは砂糖のことだろうか。オズの物言いからして身体にいい妙薬のようにも聞こえたが、それについて問いを重ねるほど、ナマエには気力が残っていなかった。
 言われたとおり、ナマエはこくこくと白湯を飲み下していく。さらさらとした口当たりが心地いい。カップを傾け続けるナマエの様子を、オズが寝台の横に置かれた椅子から監視するかのごとくじっと眺めている。
 カップの半分ほどまで飲んだところで、ナマエは寝台の横の床頭台にカップを戻すとオズへと視線を向けた。オズもナマエを見つめていたから、自然とふたりは見つめ合うような恰好になる。もっとも、風邪で朦朧としているナマエの視線は胡乱だし、オズはオズで心配しているような気配ひとつない淡白な視線を送っている。見つめ合うというよりはむしろ、偶さか視線がぶつかっているだけというのが正しいのかもしれない。
 窓硝子を嵌めこんだ窓の木枠が、吹きつける風によってかたかたと細かく鳴っている。
「オズ様、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」
 掠れて上擦った声で、ナマエが言った。
「なんだ」
「オズ様は私の名前をご存知ですか?」
「……何故」
 奇妙な間ののち、オズが問うた。ナマエは白湯で口を湿らせてから答えた。
「先程、フィガロ様に向けて『この娘』と私のことを示しておりましたので、もしや名前を忘れてしまわれたのかと思い……そうであれば、名乗った方がよいのだろうかと」
 本当のことを言えば、ナマエがオズに問いかけたいのはそんなつまらぬことではない。しかしこれもまた、気に掛かっていることには違いない。どのみち今のナマエには、それほど深く物事を思案する能力もなかった。
 オズとはじめて顔を合わせてからこの方、ナマエはオズに名を呼ばれたことがないことを、かねがね気にしていた。そもそもオズと向かい合うときには一対一であることがほとんどで、わざわざ名前を呼ばずとも用が足りてしまう。
 ナマエの掠れた問いかけに、オズは眉間の皺を縦に刻んだ。
「一度聞いた名を忘れたりはしない。覚えている」
「本当ですか……?」
「このようなことで嘘を吐く必要がない」
 憮然としている。これだけ聞けば苛立っているようにも、開き直っているようにも聞こえた。しかし今の思考力が落ちたナマエには、オズが本当に覚えていてむっとしているのか、それとも忘れてしまったのを誤魔化そうとしているのかの判断がつかなかった。
「本当に? 本当にご存知ですか?」
「しつこい」
 なおもナマエが食い下がると、オズが露骨に嫌そうな顔をした。覚えているというのなら、いっそ一度呼んで聞かせてくれればいいのに──ナマエなどはそう思うのだが、だからといってそれを口に出せるほど命知らずでもない。いくら熱で朦朧としているといったって、そこまで無礼を働くことはできない。
 ただ、頑として名を呼ぼうとしないオズの頑固さは、ナマエにとっても多少面白く感じられた。
「ふふ、申し訳ありません」
 笑ったはずみに咳が出る。オズがむっとして「大人しく休んでいなさい」と、またしても諭す口調で吐き出した。
 室内にはナマエとオズのふたりきりだ。フィガロが馬車を呼びにいってからそう時間は経っていない。まだ暫くはこのまま此処で休んでいるしかないだろう。
 布団の中でもぞもぞと足を動かす。先程まではかっかと身体が熱かったが、次第に身体の先から冷えを感じるようになってきた。布団の中で身体を丸め、ナマエは身体を横向きにする。そうするとベッドサイドについているオズと目が合った。
「オズ様、ずっとおそばにいてくださらなくても大丈夫です。風邪がうつっても困りますので、どうか私のことは気になさらないでください」
「私がそばにいては気が休まらないか」
「そういうわけではございませんが……」
 返答に窮し、口ごもった。
 オズの言うことも的外れというわけではない。ナマエはオズに一定の親しみを覚えているが、だからといって体調不良の醜態を晒したいわけではない。看病こそされていないが、こうして見守られていることに多少の引け目だって感じている。
 一方で、そばにオズがついていてくれることは単純に心強くもあった。風邪のせいか、普段よりも心細い。誰かそばにいてくれたらと、ついついそんなことを思ってしまう。
 相反する心情は、朧気になった思考の中でぐるぐると渾然となっていく。普段であればきっと、理性が勝りオズに席を外してもらうところだろう。しかし今のナマエには、そもそも何が理性的で何が感情的なのかの判断すら困難だ。
 だから結局、返答として口から洩れる言葉はどれも、取り留めのない思考をそのまま垂れ流すだけになった。
「オズ様がそばにいてくださることは、嬉しくて、もったいないことだと思います」
 問いの答えにはなっていない。しかしオズは何も言わなかった。ただ話を聞く気はあるようで、長い脚を組みなおし、わずかに身体をナマエの方へと傾けた。
 ふたたびナマエとオズの視線が合う。先程のあやふやな返事が呼び水になったのか、ナマエは熱に浮かされたかのごとく、口を開き掠れた声で言葉を紡ぎはじめた。
「オズ様にこうして親切にしていただくたび、アーサー様が一刻も早くオズ様の正しい偉業を世に伝えたいと願った気持ちが分かるような気がいたします。私もできることなら会う人全員に、オズ様が本当は面倒見がよく、親切で、寡黙ではあっても冷酷ではないことを話して回りたいときがございます」
「そのようなことはしなくていい」
「もちろん、実際にはいたしません。それに、したいと思ったところでしてはならぬことでもありますから」
 オズの眉がわずかに上がった。ナマエはかまわず──気付かず、続ける。
「アーサー様がオズ様とともに幼い日をお過ごしになったことは、元はと言えば王妃殿下の──アーサー様のお母君の、当時のご乱心に端を発しております」
 話題が大きく飛躍した。しかしナマエの中ではたしかにそれは繋がった、ひと続きの話題だ。
「ですからアーサー様とオズ様の深く強い絆は、いわば偶然の産物──ひとえに僥倖というほかないものであると、私は思っております。またアーサー様が中央の国に御帰還なされたことも、おふたりの意思とは無関係のところで決定した事柄です」
 今でこそアーサーは、オズと共に過ごした幼少期を掛け替えのない思い出として大切にしている。しかし本来、それはアーサーにとって不幸な生い立ちの裏返しだ。
 ともすれば、その時命を落としていてもおかしくはなかった。北の国で無事に生き延び、こうして中央の国の王子として帰還したこと、それらはすべて奇跡であり──幸運の重なった結果だ。偶然の産物でしかない。そこにはアーサーや、世界最強の魔法使いであるオズの意思すらまったく介在しない。
「ですが、城内にはそうした背景を顧みることもなく、アーサー様はオズ様の傀儡であるだとか、あるいはアーサー様がオズ様と結託し、国政を魔法使いたちの思う儘にしようとしているなどと、根も葉もないことを言う者もいるのです」
 オズがアーサーを拾い育て上げ、師として幼いアーサーに尽くしたこと。それは完全な偶然だ。オズの根城のそばにアーサーを捨てたのはほかでもない中央の国の臣と女王なのだから、そこにオズの意思や意図が関与したなどということはあり得ない──関与のしようがない。
 アーサーがふたたび中央の国に舞い戻ったこととて同じことだ。アーサーもオズも、けしてそのようなことを望みはしなかった。もしも中央の国から迎えがこなければ、今もアーサーはオズの城で暮らしていただろう。世界最強の魔法使いの弟子として、健やかに、ひとりの魔法使いとして幸福に成長していたに違いない。
 アーサーがオズの傀儡と化し中央の国を乗っ取ろうとしているなど、そんなものは愚にもつかない妄想にすぎない。卑しく不遜で、不敬な言いがかりも甚だしい。
「むろんそうしたことを口にする者たちはごく少数派で、ほとんどの臣はアーサー殿下のお人柄の素晴らしさを知っております。執務も真摯にこなされて、常に市井に目を配るお姿は王子として少しの瑕疵もございません。ですが、そうしたアーサー様のお姿を慕っている多くの臣ですら、心の何処かではまだ、アーサー様が魔法使いであることを憂いているように見えるのです」
 オズがわずかに身じろぎした。表情は険しく、発する空気は氷のように冷たい。
 熱が上がってきているのか、ナマエの息も上がっていた。しかしその苦悶の表情は、けして熱のせいだけではない。アーサーの忠臣として、そしてオズを知ろうとする者として。ナマエは歯がゆい思いを抱えている。
 普段は自ら律してけして口にしないその思いが、こうして熱に浮かされたことで溢れ出しているかのようだった。まるでナマエの口を借りて、別の誰かが話をしているようですらある。
 しかし、口からこぼれる言葉はすべて、混じりけのないナマエの本心だ。そしてまた、アーサーとオズの絆を思えばこそ、ナマエにもより深い自制心が求められている。
「オズ様とアーサー様の絆が強く、深く、そして清廉なものであることは承知しております。けれど、オズ様と親しい府中の者がアーサー様だけであるからこそ、アーサー様が傀儡だなどという不敬な噂が、少数の者たちの中だけで留まっているのです。そのうえアーサー様に近い私までオズ様に良くしていただいているなど、『懐柔』されたかのようなことを言い出せば──それを聞きつけた口さがない者たちが何を言い出すかなど、考えるまでもありません」
 清廉潔白、誉れ高い王子であるアーサーですら、そのような陰口を叩かれる。このうえナマエがオズと距離を縮めていることが吹聴された日には、どうなるかなど火を見るより明らかだ。
 今のこの距離ならば、まだ主からの命令を遂行しているだけだと言い訳が立つ。私服で栄光の街を一緒に歩いたことも、十分に偶然で通せるだろう。たまたま出会ったのだということを証言してくれる人間もいる。
 しかしたとえば、ナマエがオズを城に呼びつけるとすれば。ナマエが人目もはばからずオズと談笑している姿を、反アーサー派の貴族たちに見られなどすれば。
「アーサー様の、ご迷惑になりたくないのです。私は、私が何を言われても、そんなものはくだらないのだと思えば……。ですが、アーサー様やオズ様の足を引っ張るわけには参りません。だから私は、本当は、オズ様とこれ以上親しくなりたいだとか、そんなことを望んだり、考えたりしてはいけなくて──」
 言葉を発するそのさなか、ナマエの瞼は意思に反し、ゆっくりと閉じていく。
「でも──オズ様とお会いして、お話をさせていただくたびに──」
 強張りまるまっていた肩が静かに開く。
「仕事だとか、伝記だとか、そんなことは関係なく──私は──」
 語尾は曖昧に溶けて消えた。かわりに荒く繰り返される呼吸とともに、布団の下のナマエの肩が不規則に上下した。

 ★

 気を失うように眠りに落ちていったナマエの真っ赤な顔を、オズは薄暗闇の中でぼんやりと見下ろしていた。部屋の灯りは落としていない。じきに迎えが来るだろう。どのみち起こすのであれば、いたずらに眠りを深くさせない方がいい。
 そっと腕を伸ばしたオズは、汗で張り付いたナマエの前髪を左右に分けて額をあらわにさせる。触れた肌はオズが想像していた以上の熱を持っており、知らずオズは顔を顰めた。
 幼い頃、アーサーも時折熱を出してはふうふうと荒い呼吸を繰り返していたことを、ふいにオズは思い出す。自分自身はもう何年も、何十年も風邪など引いたことがない。だからこうしてナマエが熱に喘いでいる様子を見ても、苦しそうだと思いはするものの、その苦しさを自分の感覚として想像することは難しかった。
 ──弱いのに無茶をするから、風邪など引く。
 ナマエの寝顔を眺め、オズは考えるともなく思い耽る。
 幼少時のアーサーもそうだった。身の丈に合わぬ冒険を望んでは、熱を出したり怪我をこしらえたりしてきた。そのたび狼狽えるのはオズの方で、泣きじゃくるアーサーを抱え南の国まで急いだことも一度や二度ではない。
 ナマエは、その頃のアーサーに少し似ている。むろん幼児と同じだなどとは思わぬものの、長命のオズからすれば実際幼児も二十歳も大差なく子供だ。
 小柄な体躯で駆けまわり、オズの注意を聞いているんだかいないんだか分からない。出会った当初こそオズを人並に恐れていたが、今ではすっかり平気な顔でオズの部屋に踏み込んでくる。
 気になる──といえば、気になるのだろう。アーサーの臣下であることを差し引いてもなお、オズはナマエという娘のことを気に掛け、且つ多少は好ましくも思っていた。それこそ、私室に招いて紅茶を振る舞い、時にはナマエのために空間を移動するほどの大がかりな魔法を使うことを厭わないほどに。
 再度、オズはナマエの赤い顔を眺める。果たして自分がナマエに抱いている気持ちが、幼いアーサーを慈しんだのと同じたぐいの感情なのか。それとも未だオズの知らぬ、未知の心の動きなのか。そうであればといいと思う気持ちと、そうであってほしくない気持ちがオズの中の天秤をどっちつかずに揺らしている。
 ──子供のようにも思えるが、子供は私をこのような気持ちにはさせないか。
 少なくとも、アーサーに感じていた愛情とまるきり同じものをナマエに抱いてはいない。重なるところがあったとしても、それは似て非なるものなのだとオズは思う。
 そのとき、オズの背後から叩扉の音が聞こえた。「入れ」とひと言、オズが告げる。窓の外はとうに日が暮れており、いつものように魔法で扉を開けることは叶わない。
「俺だ。カインだ」
 そう名乗りながら入ってきたのは、ナマエの友人であるカインだった。カインは足音を消してベッドサイドに寄ると、そっとナマエの頭に触れた。ナマエの姿が見えていなかったせいで、布団のふくらみや枕のへこみを頼りに頭に触れるしかなかったのだろう。触れた手を顔の前に持ち上げ、「ずいぶん熱いな」と顔を顰めぼやいた。
「下でフィガロに聞いたんだ。もうじき馬車が到着するよ」
「そうか」
「ついていてくれたんだな。あんたがいてくれてよかったよ」
「私は別に──」
 何もしていない、と言いかけたが、面倒になってオズは口をつぐんだ。どうせ思った通り口にしたところで、カインはなんだかんだと理由をつけて「あんたがいてくれてよかった」ことにしてしまうのだ。それならばわざわざ否定をしなくても同じことだった。
 カインはナマエから視線を外した後も、ナマエとオズのそばから離れようとしなかった。カインがこの場にいてくれるのならば、オズはわざわざここに留まる必要もない。というより、ナマエとて友人のカインに見守られていた方が、堅物のオズに見守られているよりよほど安心するだろう。
 カインに後のことを任せて立ち去ろうと、オズは椅子から腰を浮かせる。しかし直後、カインが「しかし、ナマエもなぁ」と話を切り出してしまったせいで、どうにも立ち去る機会を失ってしまい、結局オズはふたたび椅子に腰を下ろすことになった。
 そんなオズの一連の動作に気付くこともなく、カインは溜息まじりに話を続けた。
「結構無理しがちなんだよな、前からだけど最近は特に」
 眠るナマエを起こさぬよう、声はあくまでひそめている。しかし静かな室内でのこと、カインの呆れるような気遣うような固い声音は、少しの欠落もなくオズのもとまで正しく届いた。窓を叩く強風も、今はひっそりと鳴りを潜めている。
「俺は城の中の駆け引きというか、そういうものには疎いんだが……まあ実際、ナマエは微妙な立場なんだよ。城ではなんというか、まあこんなふうでも一応は伯爵令嬢だから」
「貴族、だからか」
 オズの脳裏に、いつかナマエが見知らぬ貴族の男と並んでいた姿が蘇る。そのとき本人も話していたことだが、貴族の娘に生まれては何かとしがらみや思い煩うこともあるのだろう。アーサーの友人という立場をとるにしても、ナマエとカインでは立場があまりに違い過ぎる。
 オズの言葉と表情に、カインはああ、と短く肯いた。
「たとえば今、ナマエはアーサーの命であんたの伝記を編む仕事をしているわけだが、それもアーサー殿下に目をかけてもらっていると取るやつもいれば、体よく閑職に追われたんだと言うやつもいる。もともとアーサーが側に置いている年頃の女性というだけで、ナマエは権勢におもねるやつらから注目されているんだ」
「……くだらない」
「そう思うよな。俺もそう思うよ」
 カインが眉尻を下げ、その整った顔立ちを苦くゆがませた。
「大体、アーサーはそんな回りくどいことはしないってことくらい、アーサーを少しでも知ってる人間なら誰でも分かる。仕事ができる人間を、私情でわざわざ閑職に回すなんてこともしない。だが、そういうことを勘ぐって色々言うやつはいるって話だ」
 知らず、オズの眉間に皺が寄った。貴族の娘としてのしがらみといえば、何といっても婚姻の問題ばかりが真っ先に思い浮かぶ。オズがナマエから聞いた話も、ほとんどはそうした問題についてだった。
 しかしカインの目から見れば、それらはさして大きな問題ではないらしい。カインにとってはむしろ、ナマエが城内で如何に微妙な立場に立たされているか、如何に雑音に囲まれているかの方がより重大な問題なのだ。
 オズは、そのことを今まで一度も考えたことが無かった。人間社会のしがらみなど、オズにとっては縁遠いどころか無縁の問題だ。それにナマエは忙しいながらも楽しそうに仕事をしている。だからまさか、そんな孤軍奮闘を強いられているなどとは思いもしなかった。
「そうでなくてもナマエがアーサーと親しくすれば、いずれアーサーの妃候補になる娘がいる家の人間が黙っていない。どうしたって足を引っ張られる」
「しかし本人たちにその気はないのだろう」
「そんなことは問題じゃないんだろう。アーサーが人と接するとき、相手の家柄や見てくれを気にしないことは誰もでも知ってる。ナマエのような『友人』は──人となりをアーサーに認められているうえに家柄も申し分ない人間は、だから彼らにとっては脅威でしかないんだ。ナマエに取り入ろうとするやつもいれば、そういう理由で疎ましがるやつもいる。ナマエ本人の資質とは無関係のところで、そういう派閥争いは常に存在してる。市井の出の俺ですらそういうものに巻き込まれて一時辟易したくらいだからな、ナマエの方は相当だろう」
 オズは返事をすることもなく黙りこくっていた。
 アーサーもカインも、そして当然ナマエも、人間の社会のなかで生きている。オズがこれまで触れようとしてこなかった場所で、弾かれたり取り込まれたりしながら必死に生きている。むろん、彼らは望んでその場所で生きているのだから、そのことについてオズがとやかく言う道理はない。たとえオズにとって理解できない煩雑な環境でも、その中でしか得られないものもあるのだろうことくらい、オズとて理解していた。
 しかし、しがらみなどはないに越したことはない。人間の社会で生きていくことを望んでいたしても、本来不要な摩擦など少ないほどいいに決まっている。女だから、貴族だから、魔法使いだからなどという馬鹿げた理屈でアーサーやナマエが不遇をこうむることを、オズはけして望んでいなかった。
 ──もしもいつか、この娘が高級官吏になったとして、それでもナマエが世界中を見て廻ることができるような日は、永劫来ることはないかもしれないのか。
 それはナマエが貴族の娘だからでもあり、アーサーの忠臣で友人のひとりだからでもある。誰の目も届かぬ場所にナマエが行ける日など、きっとこの先来はしない。少なくとも、ナマエが中央の王城で己の使命を果たそうとしているうちは。
 北の国の吹雪を目の当たりにしたときのナマエの輝く瞳を思い出し、オズの心に暗い影が差した。あれは本当は、もう二度と見られないかもしれない景色だと分かっているからこその、奇跡を尊ぶ目の色だったのではないか。二十年貴族の娘として生きてきたナマエが、自分の出自ゆえの限界を悟っていないとは思えない。夢ばかり見ていられる年齢など、ナマエはとうに過ぎている。
 そんなオズの心境を見透かすかのように、カインはそこで唐突に、表情をくるりと笑顔へと転じた。薄暗がりの部屋のなか、カインの笑顔がちょうどオズとナマエの中間くらいに向けられる。
「だけど最近のナマエは、楽しそうに仕事をしてるよ。きっとあんたと仲良くやれていることが嬉しいんだろう、オズ」
 励ましなのか本心なのか、いまひとつはっきりしないカインの力強い言葉から逃げるように、オズは気まずげに視線をそらす。
 ナマエがオズを慕っていることは、オズも薄々察している。しかしオズの方からナマエに何か慕われるよう働きかけたことなど、自覚している限りでは皆無だ。
「私は何もしていないが」
「そうでもないんじゃないか? 少なくともナマエはあんたに感謝しているはずだ。あんたはそういう、城内にはびこる権謀術数や奸計とは無縁だろうし」
 それはたしかにそうなのだろう。オズは孤独を好む。徒党を組んだことなど一度もなく、まして誰かと連れだって他人を陥れるようなことは考えたこともなかった。フィガロと世界征服をしかけた過去もあるにはあるが、それとてけして徒党を組んでいたわけではない。ただたまたま一緒に行動していた。それだけだ。
 しかし、それだけのことでナマエが救われるものだろうか。気の利いた言葉を掛けてやったこともなく、気遣いらしい気遣いをしたこともない。部屋に招けば紅茶と茶菓子くらいは出してやるが、そのくらいのことはナマエでなくてもすることだ。ただ一緒にいて話をするだけで相手を楽しませられるほど、オズは自分が愉快な性格ではないことを知っていた。
 しかし。
 ──そばにいるだけで癒されるということは、たしかにあるのだろう。
 オズ自身、ただアーサーと過ごしていただけの日々に心癒された経験があるのだ。大なり小なりナマエにもそういうことがあってもおかしくはない。その相手として自分が選ばれたことを怪訝に思いはするが、それはナマエの決めることでありオズがどうのこうの言える筋合いの話ではない。
 そしてもし、ナマエがオズと一緒にいることで、城内でのしがらみを忘れ本当に癒されているのだとしたら。
 ──私があの娘にしてやれることは。
 オズがそんな思案をした、まさにその時、
「ああ、馬車が来たんじゃないか? 窓の外に見えるぞ」
 オズの思案を破るように、カインが壁から身体を離し、窓に寄って外を覗いた。オズも視線を窓の外に向ける。見るとたしかに、魔法舎の門前に馬車が一台止まったところだった。
「俺が先に出て対応しておくから、あんたはナマエを連れてきてやってくれるか。もちろん逆でもいいけど」
 どうする、と問うカインに、オズは眠るナマエを見下ろす。余分な肉のつかない痩せた頬に、汗ばんだ額。小柄な体躯にはきっと抱えられないほどの重さはないのだろうが、それでもぐったりと気を失った人間はそれなりに重い。日頃から身体を鍛えているカインが抱えた方が、ナマエにとっても安全なのかもしれない。
 しかし。
「私が抱えていく。先に行け」
 どういうわけだか、カインにナマエを任せてはいけない──任せたくないような気がした。オズの言葉に微塵の疑念すら持たず、カインは「ああ、ナマエを頼んだ」と急いで部屋を出ていく。残されたオズは暫しナマエを見下ろしたのち、静かにナマエを抱きかかえた。
 幼い日のアーサーよりはたしかに重いが、抱えられないほどではない。それにオズが想像していたよりずっと、ナマエの身体は軽かった。
 ──体調を崩すほど働いているからか。
 この身体にどろりと重いしがらみが纏わりついていることを思い、オズの表情は険しく沈む。ナマエは目を醒ます気配もなく、ぐっすり眠りについている。しっかりとナマエを抱えなおしてから、オズはようやく慎重な足取りで客室を後にした。


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