隙間風のような寂しさ

「何だよオズ、せっかくミチルと薬草の勉強をしていたところだったっていうのに。若い魔法使いの勉強の機会を奪うのは、中央の国の先生役としてどうかと思う──って、あれ?」
 さんざん文句を並べ立てていたフィガロは、そこでようやく室内にナマエがいることに気が付いたようだった。ナマエは肘掛け椅子から立ち上がり、フィガロに礼をとる。勢いよく立ち上がったものだから、うっかり足がふらついた。
「フィガロ様、こんにちは。お邪魔しております」
「うん、こんにちは。今日はこっちに来ていたんだね。仕事?」
「はい、オズ様に直接お話を伺いたいことがいくつかございまして」
「毎回来るんじゃ大変だろう。オズを城でも何処でも呼びつければいいのに」
 しれっととんでもないことを言うフィガロに、ナマエは冷汗を流す。
 呼びつけろなどとフィガロは気楽に言うが、ナマエのごとき木っ端文官が国の重鎮とも言うべきオズをたびたび城に呼びつけるなど、考えるまでもなくあってはならないことだ。そんなことをしているのがアーサーにバレた日には、ナマエは即座に役目を取り上げられ放逐される──などという仕打ちをアーサーがナマエにすることは流石にないが、それでもいい顔はされないはずだ。
「いえ、そういうわけには参りませんので」
「でも君が毎回馬車で乗りつけるより、その方が手っ取り早いと思うんだけど。オズの出不精も解消されるし──」
「フィガロ」
 軽やかにナマエに言葉を掛けるフィガロを、オズが短く、しかし厳しく諫めた。
「医者としての務めを果たせ。この娘は風邪だろう、診察を」
「えっ?」「え?」
 ナマエとフィガロの声が重なる。しかしフィガロはすぐに得心がいったらしい。
「ああ、それで俺を連れてきたのか。お医者様のフィガロ先生をお望みなら、最初からそう言ってくれればいいのに」
「私は言った。お前が聞いていなかっただけだ」
 辟易した表情で、オズが遠慮なく嘆息した。
 オズとフィガロの付き合いの長さゆえか、それともふたりの性格ゆえか──ひと度話が通じてしまえば、あとはナマエを置き去りにどんどん話が進んでいく。慌てたのはナマエだ。この場でナマエだけが、わざわざオズがフィガロを連れてきたことに納得していなかった。
「お待ちください、オズ様。私風邪などは」
「はい、口開けて。あーん」
 ナマエの反論は黙殺され、寄ってきたフィガロによって大きく口を開かされた。白衣を纏ったフィガロに「あーん」と言われて覗き込まれれば、ついつい言われるがままに口を開けてしまう。こうなるともはや思うように声を出すことすら困難だ。反論などできようはずもない。
 立ったまま口を開いて上を向くナマエの口の中を覗き込み、
「あー、腫れてるね。喉痛いでしょ」
 フィガロは医者らしい口調でそう言った。
「≪ポッシデオ≫」
 彼が呪文を唱えると、フィガロの両手とテーブルの上には舌圧子やらライトやら、診察に必要なものが一式たちどころに揃う。ナマエは上を向かされたまま、横目でそれを確認した。フィガロは魔法使いだが、診察に必要な道具は人間の医者と同じらしい。
「はい、もう口を閉じてもいいよ。今のところは調子がおかしいのは喉だけ?」
「いえ、ですからそういうことは、」
「お医者さんに嘘をつかない。体調管理も仕事のうちだよ。そして体調が悪いときに無理をしないのも体調管理のうち。──はい、これを咥えて」
 言うが早いか、フィガロはナマエの口に体温計を差し入れた。ナマエはやはり今度も反論のすべを失う。しかしどのみち、フィガロに対してこの手の嘘や見栄は無意味だった。ナマエは大人しく肘掛け椅子に掛けなおし、じっと体温を計り終えるのを待つ。
 ナマエが体温計を咥えてじっとしている間にも、フィガロは脈をとったり触診をしたりと手際よく診察を続ける。ナマエとフィガロを少し離れて見ていたオズが、ゆっくりとフィガロに近寄った。
「フィガロ」
 オズの呼びかけに「なに」とフィガロが短く応じる。
「頭痛や節々の痛みはなく、近親者に病の者もいないそうだ」
 するとフィガロは意外そうな表情で、オズ見上げてまばたきをした。
「驚いた。オズが問診したの?」
 フィガロの問いにオズがひとつ、億劫そうに頷いた。
 なるほど、先程のあれは問診だったのか──ナマエも体温計を咥え黙ったまま驚く。しかし唐突な健康相談も、風邪と見抜いての問診ならば理解できる。
 そんな考えが表情に出ていたのだろう。気付くとフィガロが、今にも笑いだしそうな顔でナマエを見ていた。対照的にオズは不服げにむすりとしている。
「何がおかしい。意味もなくあのようなことを聞いたりはしない」
「いやぁ、オズに聞かれたら何かの呪いの話かと思うよ普通は」
 さすがにナマエもそこまで思ってはいなかったが、とはいえ並の人間ならばそう思ってもおかしくないだろうことも分かる。フィガロの言葉に、ナマエは声を出さずに苦笑した。
 オズは普段、同じ賢者の魔法使いたちからも敬われることが多い。そのオズに対し、これほどまでに遠慮なくずけずけとした物言いをできる相手は、ナマエの知るかぎりフィガロくらいしかいなかった。ふたりの遣り取りは見ていてはらはらする反面、ナマエにとって物珍しくて面白くもある。
「それにしても、そうか」
 仕切りなおすように、フィガロが言った。顔はまだ半笑いのままだ。
「うーん、見たところオズの言うとおり、ただの風邪だろうけど。それにしても熱いね。体温計、そろそろいいだろうから抜いて見せて」
 ナマエは口から体温計を抜き、それをフィガロに差し出す。フィガロは、ナマエの差し出した体温計をひと目見るなり、
「わぁ、高熱。よくこの熱で仕事していたね」
 呆れたように声を上げた。
「恐縮です」
「褒めてるわけじゃないよ。どちらかといえば今のは嫌味」
 今度こそはっきりと呆れを声に滲ませ、フィガロが溜息まじりに言い返した。本来、城内で日々揉まれるナマエは嫌味や皮肉のたぐいに敏い。しかし今日は風邪のせいで頭の働きも鈍っていた。フィガロの言葉にも、はあ、と気の利かない胡乱な声を返すだけだ。
 そんな会話を聞きながら、オズが不意に、ちらりと暖炉に視線を遣った。夏場であろうと赤々と薪の燃える暖炉は、今日もやはり炎をゆらめかせている。
 ほんの一瞬、ナマエはオズが自分のために火の加減を調整してくれているのだろうかと、そんな期待を心に浮かべた。しかしオズは、何か面白くなさそうに眉根を寄せて、すぐに暖炉から視線を外した。暖炉の火は変わらず大きく揺れている。
 ──どうかしたのかしら、オズ様。
 頭が回らないなりにも、ナマエはオズの態度に何処か違和感を覚えた。オズがナマエの不調を見抜いたのと同様に、数か月の間に重ねた面談のおかげで、ナマエもオズの異変には敏感になっている。
 ──オズ様も調子がお悪いのでなければいいのだけれど。
 と、自分の体調を棚に上げてオズの不調を心配し始めたところで、
「頭痛や節々の痛みはさておき──」
 フィガロの言葉に、ナマエははっと我に返った。何時の間にか思考にすっかり沈んでいたらしい。ナマエがフィガロを見上げると、フィガロは目を合わせて苦笑した。
「いつ頃から調子が悪いんだい?」
 もはや隠し立てしたところで何の意味もない。ナマエは、
「昨日から、少し熱っぽいです」
 と正直に答えた。
「風邪を引いた時にはいつも喉から痛くなる? それとも喉の痛みは今回だけ?」
「いえ、いつも喉が最初に」
「じゃあ風邪の始めを過ぎたところかな。とりあえず家に連絡しようか。馬車を呼ぶにも時間がかかるし、そのへんの馬車拾うよりは実家の馬車の方が何かと楽だろう。さすがに箒に乗せていくわけにもいかないし……」
 てきぱきと話を進めるフィガロは、今日一日でオズが発した言葉の総量をあっという間に凌駕するほどの言葉数で畳みかけた。風邪で半ば朦朧としているナマエは口を挟む隙もなく、はあ、とか、ああ、とか語尾の溶けたぼやけた言葉を返すので精一杯だ。オズに至ってはもはや静観を決め込み部屋の置物と化している。
 そのオズに、フィガロがついと顔を向けた。
「というか、オズがこの子の家に空間つなげてやればいいだけじゃない?」
 言われてみれば、それもそうだった。オズの魔法の力を個人的に借りることはポリシーに反するが、そうはいってもいちいち馬車など手配してもらう手間を考えれば、いっそ魔法を使ってもらった方がまだしもかかる労力は少ないだろう。先日北の国に連れて行かれたことを考えても、北の国よりずっと近所にあるナマエの生家に空間を繋げられないはずがない。
 しかしオズは一層の渋面を顔に浮かべると、一言、
「……すでに日が沈んでいる」
 とだけ答えた。オズの言うとおり、たしかに窓の外には夜の帳がおりている。しかし、それと魔法に何の関係があるというのだろう。ナマエは首を傾げるが、フィガロの方はそれだけで、何かの事情を了承したようだった。
「ああ、そうか。困ったね、こんなときに限ってミスラもいないしな」
 ナマエには意味の分からない返事をぼやくように口にして、やれやれと首を振るかわりに溜息を吐いた。ナマエに事情は分からないが、何か日が暮れてしまうと空間をつなぐのに支障をきたすような問題があるらしい。
「あの、日暮れになると何かまずいことがあるのでしょうか……?」
 生来の好奇心から口を挟む。しかしフィガロはナマエににこりと笑みを向けると、
「君が気にすることじゃないから大丈夫だよ」
 そうやんわりと、それでいてにべもなく質問を拒んだ。その笑みに、ナマエはそこはかとない疎外感を抱く。とはいえ事実、ナマエは兄弟弟子であるオズとフィガロの前では部外者だ。拒まれればそれ以上、割って入るわけにもいかない。
 自分でも気づかぬうちに、ナマエの眉がハの字に下がった。普段ならばどうとも思わないことだというのに──それどころか、当然そうであるべきだろうと思うことだというのに、今日はやけに心が沈む。風邪で弱気になっているのか、心のうちに隙間風のような寂しさが忍び込むようだ。
 ──フィガロ様は私の診察のために、わざわざお越しくださったのに。
 それも半ば無理やりオズが引っ張ってきたようなものだ。世話になっている身の上で疎外感を感じて勝手に寂しく感じるなど、甚だおかしな話のはずだった。それなのに、心を冷たくする隙間風は止むことを知らない。頭や身体がどんどん熱を帯び熱くなっていくのに反して、心はどんどん冷たく固くなっていく。
「うん? なんだか熱が上がってきたんじゃないか?」
 オズと話をしていたフィガロが、ナマエのぼんやりした視線に気が付いた。フィガロの手のひらがナマエの額にひたりと当てられる。陶器のように冷たい指先に、ナマエはうっすら目を細めた。
「うーん、馬車が此処に着くまで、客室かどこかの空いているベッドを借りて横になっていた方がいいな。オズ、ついていてあげなよ」
「何故私が」
「オズのお客さんなんだから、オズが面倒みるのが筋だろ? たしか下の階に空き部屋があったな。馬車を呼んだら、手の空いている魔法使いを手伝わせて客室の準備をしよう」
「そこまでお気遣いを──」
 していただくわけには参りません、と続けようとしたナマエだったが、言葉の途中でこみあげた咳嗽によって、呆気なく反論を掻き消されてしまう。背を丸めて咽るナマエの背を、フィガロが宥めるように背骨に沿って撫でさすった。
「そうは言っても気は遣うよ。俺は医者で、君は病人なんだから。どうしても気を遣われたくないのなら、自分の体調管理をきちんとしなくちゃ」
「はい……」
 一分の隙もない正論だった。悄然とするナマエを見下ろし、フィガロは満足そうに頷いた。そうして軽やかに腰を上げると、そのまま扉の方へと歩んでいく。
「よし、じゃあ俺は客室を調えてくるから、君はオズとゆっくり下りておいで」
 ナマエとオズが揃って頷く。フィガロは何処か機嫌が良さそうに、軽い足取りでオズの部屋を後にした。

 フィガロが部屋を出ていくと、ふたたび室内は静寂で満たされる。フィガロの言うとおり、話をしている間にもナマエの熱はどんどん上がっていたらしい。医師の診察を終えて気が抜けたこともあり、椅子から立ち上がることすら億劫に感じられた。
 腰も頭も、全身が重い。立ち上がろうという気力が沸かぬが、それでもいつまでも座っているわけにはいかない。何よりこのまま椅子に座ったままでいれば、じきにオズの手を煩わせることは分かり切っていた。
 気合を入れて、どうにか立ち上がる。と、そのとき。
「わっ」
 一瞬、膝からふっと力が抜けた。よろめき倒れかけたすんでのところで、オズによって腕をとられ、どうにか倒れることだけは免れる。しかし長身のオズに腕をとられたことで、不格好な操り人形のような恰好になってしまった。
「申し訳ありませんでした、大丈夫です」
 ナマエは慌てて体勢を立て直す。オズの手が迷いながらもナマエの腕を解放した。
「階下に向かうが、自分の足で歩けるか」
 無理ならば抱えよう、とオズが淡々と付け足す。ナマエは慌てて姿勢を正した。オズに抱えられて階段をくだるなど、手を煩わせるどころの騒ぎではない。そもそもいくら長身だからといったって、とてもではないがオズがナマエを軽々抱えるだけの腕力を有しているとは思えない。カインのような肉体派は魔法使いの中では少数派だろうということくらいは、ナマエにだって想像がつく。
「だっ、大丈夫です。自分の足で歩きます」
 精一杯の気力をふり絞りきっぱり答えると、オズはわずかの沈黙ののち、一言「そうか」とだけ呟いた。

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