足跡を追う

 いよいよ秋も深まって、吹く風がどこか寂しさを感じさせるようになった頃。無事に東の国での出張から帰還したナマエは、帰還から二週間ののち、慢性的に寝不足の身体を引き摺り魔法舎へと足を運んでいた。
 伝記編纂事業もいよいよ佳境──などということは一切なく、ナマエは現在、およそ五百年ほど前のオズの軌跡を辿っているところだ。この頃のオズは何やら精力的に活動していたらしい。時系列に沿って記録を並べようと試みたナマエは、すぐに各地から散在した記録物を集めるはめになった。
 そも、オズは人間とは比べ物にならぬほど長命の魔法使いだ。ひと所に留まっている分には記録するのも手間ではないが、ひと度彼が動き出せば、その行動には何十年という時間が掛かることもある。ひとりの観測者がオズの行動を追い続けるのには土台無理がある。
 そうでなくてもただでさえ、世界最強の魔法使いであるオズを観察、記録しようなどという怖いもの知らずは少ない。その足跡(そくせき)を後世の者が文献をもとに正しく追うことは、ことのほか難しい。ナマエの仕事もそのせいで暗礁に乗り上げている状態だった。
 そんな現状を打破すべく、ナマエはオズのもとへと赴いた次第だ。記録の穴はオズ本人への聴取で埋めるしかない。

「──以上で本日お伺いしたい確認事項はすべてです。お時間をいただきありがとうございました」
 肘掛け椅子に腰かけたままでナマエが頭を下げると、オズは無言で顎を引いた。
 普段ならば、ひとつの事柄について真偽を問いあわせたり、補足をしてもらったりするところだが、今日は長い年月にわたる移動経路を世界地図をもとに思い出してもらうという作業を行った。大抵疲れた顔をしているナマエはもとより、付き合わされたオズまでも、普段より疲れているように見える。疲れてなお美しいオズのかんばせを視界にとらえ、ナマエはこっそりと息を吐いた。
 五百年前──正確にはその前後二百年ほどの時代のオズの伝承は、どうにも凶悪で血も涙もない化け物じみた説が多い。巷間で聞かれるオズの印象や評判そのものとでも言おうか。この時期の伝承が、現在のオズに纏わりつく数多の悪評の近因ともいえる。
 ──伝承のすべてが本当、とは思わないけれど。
 しかしまさかオズ本人に「これらの非道な行いは実際に行われたのですか」などと聞けるはずもない。今日のところはオズが実際に辿ったルートと時期を、地図上におおまかに記してもらうに留めた。このルートをもとに、ナマエが伝承の信憑性や整合性をたしかめていくことになる。
 もしも潔くオズ本人に聞くことができたなら。そうすればきっともっと、話は早かったに違いない。実際、伝記編纂を命じられたばかりの頃のナマエならば、オズへの恐怖を抱きながらもオズ本人に事実か否かを問いただしたのだろう。せっかく本人に直接事実確認をできるのだから、実践しない手はない。
 しかし今のナマエは手っ取り早さを捨て、地道で迂遠な道を選ぼうとしている。オズのことを信じたい気持ちと、配慮のない質問でオズを傷つけたくない気持ち──それらがナマエを、伝記編纂における最短の道から遠退かせていた。
「ぼんやりしていると紅茶が冷める」
 オズの声が、ナマエを思案の中から引き戻した。カップに手をかけ、ナマエは曖昧に笑って誤魔化す。もっとも紅茶が冷めてしまったところで、オズは魔法で温め直してくれる。その場合、紅茶を飲んでいるナマエに事前の声掛けはなく、いきなり魔法を使用される。だからナマエとしても「私のために魔法を使わないでいただきたい」とは言えない。
 幸いにしてカップの中身はまだそれほど冷めていなかった。部屋の中はあたたかく、紅茶が急激に冷めてしまうこともない。
 ひと口紅茶で口を潤してから、ナマエは先程までよりもやや砕けた調子で、
「思ったよりも大変な作業でしたね」
 と世間話のつもりで切り出した。すぐに城に戻ってもいいが、どうせいつもの狭い作業部屋に篭り切りになるだけだ。それならば少しくらいここで気分転換をしていっても、叱る者はいないだろう。
「こうして改めて地図を見てみますと、オズ様の移動に掛けた時間も長ければ移動された範囲も広いですから。足跡を辿るだけでひと仕事です」
「ああ」
 返事は茫漠としていた。慣れたもので、ナマエは気にも留めず続ける。
「地図を見たかぎりですと、各国の主要な都市や大きな港はほとんど経由していたのではないですか」
「たしかそのような経路を通ったはずだ。そうすべきだとフィガロが決めた」
「なるほど、フィガロ様が」
「経路の相談はされたが、私の方から積極的に行きたい場所を伝えたことはない。フィガロの説明に耳を傾け、提案された経路を行くことがほとんどだった」
「なるほど。フィガロ様は旅行の計画がお得意なのですね」
 雑談に興じつつ紅茶を飲み干してから、地図を片づけるためにナマエはテーブルに向け手を伸ばす。
 テーブルの上に広げられた世界地図には、北の国を始点にして長くインクの線が伸びている。数百年もの昔、オズが実際に通ったルートだ。要所要所に記念碑やオズにちなんだ地名も残っているため、ナマエの知識とオズの記憶を付き合わせれば大体のルートの推定はできる。
 とはいえ細かい経路はオズも完全には記憶しておらず、最終的には「詳しいことはフィガロに聞け」と投げ出されてしまった。旅は道連れとでもいうのだろうか、どうやらその時期オズは兄弟子であるフィガロと行動を共にしていたらしい。
 ──当時のオズ様には、何か思うところでもあったのかしら。
 くるくると地図を巻き取って、ナマエはふと思案する。当時すでに世界最強の魔法使いだったオズが、兄弟子と長い旅をする──それは一体どういう心境だったのだろう。
 記録や伝承、そして目の前のオズを見る限り、オズはあまり拠点を変えたり居場所を移動することをしない。どしりと構えてひと所に落ち着くのが好きというよりは、単に移動する理由も必要も感じないというだけだろう。仮に魔法使い同士での縄張り争いが勃発したところで、オズが自らの縄張りを明け渡し撤退しなければならないような敵など遥か昔から存在しない。せいぜいが周囲がやかましいので静かなところに居を移すといった程度だろう。
 しかしこの時期に限っては、オズは居場所を転々としている。短いスパンで移動を繰り返しているのだ。何か思うところがあり、兄弟子を誘って──あるいは兄弟子に誘われ旅でもしていたというのが、ナマエの漠然とした推測だった。
 ──赴いた旅先で、伝承のように恐ろしいことをなさったりもしたのかな。
 一瞬浮かんだその考えを、ナマエは脳内ですぐに却下する。わざわざ旅先で残虐非道なことをせずとも、北の国で暮らしていればそういう機会はいくらでもあっただろう。それにオズが好んで非道な行いをするとは、ナマエにはどうしても思えない。
 ──オズ様ほど強大な魔法使いが突如現れたりすれば、何もしなくても恐ろしい伝説のひとつやふたつは作られていてもおかしくはないか。
 世にも恐ろしい伝承の数々は、そのようにして捏造され今の世まで伝わっているのだろう。世界征服などその最たる例だ。そう考えれば、この時期に集中してオズの悪評──もとい伝承が発生しているのにも理由がついた。
 とはいえ、それもまだきちんと検証していない、仮説の域を出ない話だ。その検証こそ、ナマエの仕事だった。
 思考がうまく落としどころを見つけたところで、ナマエはふと視線をオズに向ける。いつにも増してぼんやりしたオズは、やはりぼんやりとナマエの方を眺めていた。
 見つめられていたというには、その視線は焦点を暈している。ただオズの顔の正面にナマエが座っていただけというのが正しそうだ。
「オズ様?」
「よく働いた」
 オズが短く、苦々し気に呟いた。要するに、疲れたといいたいのだろう。ナマエは苦笑した。
「そうですね。たしかにオズ様は骨身を惜しまず協力してくださっております。おかげで私は大変助かって──」
「違う。私の話ではない。お前がよく働いたと言っている」
「え? わ、私の話ですか」
 面食らい、ナマエは素っ頓狂な声を上げた。オズが表情の険をあらわにする。
「お前以外に誰がいる」
「お、オズ様ですとか」
「私のことはいい。私は疲れてなどいない」
 憮然として言うオズに、ナマエは何と言っていいものやら分からず、はあ、と気の利かぬ、気の抜けた言葉を漏らした。まさかオズから労われようとは思いもしなかったのだ。いや、オズが労うつもりで「よく働いた」と言ったのかは不明だが、文脈からして労いと取れなくもない。
「お前はよく働いている」
 駄目押しのようにオズが重ねる。そう言葉を掛けられた途端、何故だかナマエは急激に顔が熱く逆上せるような心地になった。突然胃のあたりがそわついて、どうにも落ち着かない気分になる。笑えばいいのか照れればいいのか、ナマエは困り、結果何やら珍妙な顔つきになった。
 ──何だろう、この、何とも言えない感覚……。
 思えば急に北の国に連れていかれた前回から、ナマエはオズに対してうまく対応できないこと続きだ。ただでさえ、オズの言動は真意がよく分からないものが多い。それなのに今のナマエは、自分自身の感覚や思考すらもどこか頼りない、はかないものに感じている始末だ。結果、うまい言葉を思い付くこともできず、もごもごと愚にもつかぬ言葉のようなものを発することになる。
 ──こういうとき、何と返せば正解なのだろう。
 咄嗟の返事を思いつかず、ナマエはひとまず、
「オ、オズ様。このチョコレート美味しいですね」
 無理やりにでも話題を変えることにした。
「ええと、どちらでお求めになったものですか?」
 ぎこちなく笑って尋ねると、オズはむっと眉根を寄せた。
「メリ……メリト……」
「……もしかして、『メリトロ』でしょうか」
「そうだ」
「ああ、そのお店なら存じております。店の前を通ったことはあったのですが、そうか、ふむ。あそこのお店かぁ」
 『メリトロ』といえば、少し前から魔法使いのシュガーと菓子職人のつくる巧みな砂糖菓子で人気を博している人気店だ。ナマエも気にはなっていた。話題を変えるために無理やりひねり出した会話だったが、思いがけない収獲を得たような気分になる。
「それほど有名な店なのか」
 オズが言った。
「そうですね、最近の流行です」
「流行」
「贈り物などでは流行りの店のお菓子を贈ると喜ばれるので、そういう情報は結構まめにチェックするようにしているのですよ。特に貴族のお嬢様がたは、市井のことには疎い方も多くいらっしゃるので。新しいお店など紹介すると喜ばれます。『メリトロ』は今の一番人気のようですね」
 もっとも、『メリトロ』には貴族階級の上客も少なからずいると聞く。人気の店は城への献上品などで貴族の目に触れることも多い。先日も城下で砂糖菓子の品評会が行われ、その会の入賞作品が城に献上されたと、アーサーから直々に話を聞いたばかりだった。その話の中で『メリトロ』の名が出たような気もしたが──
 ──変だな、こういうことは普段忘れないたちなのに……。
 内心首をひねりながら、ナマエはオズに負けず劣らずの眉間の皺をつくった。アーサーから聞いた店名を思い出そうとしてみても、記憶は薄膜をかぶったように曖昧模糊としている。
 ナマエは先月オズからも、記憶にない会話を指摘されたばかりだった。ここのところ、どうにも自分の記憶が信用ならないことが重なっている。
 ──まして、主君との会話の内容を忘れるなんて、臣下として言語道断だわ。
 知らず、ナマエの表情はどんどん険しくなっていく。
 と、ナマエが必死で自分の記憶を探っていると、
「このところ、何か変わったことはないか」
 オズがおもむろに、脈絡のない問いを投げかけてきた。はて、世間話だろうか、それとも仕事に纏わる話の先触れだろうか。
 ナマエは記憶の探索を一時中断し、オズに向き直った。
「変わったことでございますか。それはええと、たとえばどのような」
「頭が重いだとか、節々が痛むだとか」
 急に健康相談じみた様相を呈してきた。ナマエは訳が分からず、頭の上にクエスチョンマークを飛ばす。
「……そのような症状は特に感じませんが」
「それでは身内に病を得たものは」
「病を……? ええと、自宅には寝るために戻っているようなものですから、あまり家人の近況を詳しくは知らないのですが……いえ、そのような話は聞いておりません」
「そうか……」
 健康相談だろうか。そうでなければ卜占のたぐいだろうか。オズの師匠筋にあたる双子は予言を与えると聞く。もしかするとオズも、卜占や予言のようなことをするのかもしれない。
 しかし肝心の占いの結果をナマエに伝えることもせず、オズはむすりと宙を睨んでいる。オズに限って意味のない話をするとも思えないから、きっと何か深い考えがあるのだろう。ナマエは勝手にそう納得することにした。となれば、オズがふたたび口を開くのを待つのみだ。
 ナマエが何気なくカップに視線を落とすと、飲み干して空になったはずのカップには何時の間にか紅茶が満たされていた。紅茶のおもてからは淡く白い湯気も立っている。どうやらナマエが記憶を漁っている間に、カップが空であることに気付いたオズが二杯目を用意しておいてくれていたらしい。
 ──お礼を言いそびれてしまった。
 むすりと黙考しているオズにわざわざ声を掛けるのも忍びない。あとからお礼を言うことにしようと決め、ナマエはカップに口をつけた。そして紅茶をひと口、口に含んだところで。
「あら?」
 紅茶を飲み込んだナマエの口から、無意識の呟きがほろりとこぼれた。その声に、黙りこくっていたオズが視線をナマエに引き戻す。
「どうした」
「ああ、いえ……大したことではないのですが」口の中に残る紅茶のかおりを舌先で確かめて、ナマエは不思議に首を傾げた。「先程までと紅茶を変えられましたか?」
「……変えていないが」
「そうですか。なんだか味が不思議というか、いつもと違うような気がしましたが……いえ、私の気のせいですね、きっと」
 そう言ってナマエはすぐ、自分の疑問を引っ込めた。
 もとより自分の味覚にそれほどの信頼を寄せているわけでもない。本来全幅の信頼を置いている記憶ですら覚束ないというのに、それより一層胡乱な味覚など、大してあてにはならない。
 続けて紅茶を啜る。やはり不思議な味わいに感じられるような気もしたが、だからといって飲めないわけでもない。
 と、ふいにナマエの視界に影が差した。カップを置いて視線を上げると、テーブルを挟んで向かい合って座っていたオズが、やおら椅子から腰を上げてナマエを見下ろしていた。
「オズ様? どうされました?」
「少しここで待っていろ」
 言うなり、オズはナマエの返事も待たずにさっさと部屋を出ていった。残されたナマエはぽかんとしてオズの背を見送り、閉じる扉を声もなく見守る。
 ナマエがオズの部屋に出入りするようになって数か月経つが、今まで一度もこのように部屋にひとりきりにされたことなどなかった。
 ──ご不浄かしら?
 いくら世界最強の魔法使いでも、用足しくらいはするだろう。オズとトイレなど結びつきようもないのだが、それはナマエの想像力が足りていないというだけだ。
 くだらないことを考えるのをやめると、ナマエは思考をいったん切り替える。ぼんやりしていても仕方がないので、オズが席を外している間に少しでも仕事を進めることにした。
 ナマエはひとまず、オズとともに確認したばかりの数百年前のオズが通ったルートを思い出すことにした。しかしいざ考えようとしてみても、どういうわけだかうまく頭が働かない。地図を脳内に開こうとしても、うまく地名がつながらない。先程記憶を遡ったときと同様に、妙に思考の働きがにぶっているのを感じる。
 それどころか思考を無理に続けていると、次第に頭がくらくらしてきた。
 ──ううん、寝不足が祟っているのかな。
 味のおかしな紅茶をひと口含み、ナマエは嘆息した。出張から戻ってからというもの、ナマエは遅れた分の作業を取り戻そうと、これまで以上に熱心に伝記編纂事業を進めている。その疲れがそろそろ出ていても何らおかしなことではない。
 ──少し無理をしている自覚もあることだし。
 すっかり暮れた窓の外に視線を遣り、思いを馳せていると、締め切られた扉の向こうから、何やら不満を言い立ててていると思しき声が聞こえてきた。直後、部屋の扉が音を立てて開く。無表情のオズが部屋に入ってくるのに続き、先程から聞こえ続けている不満の声の主が続いて入室してきた。

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