昼過ぎの光を受けた水面

 晩夏の太陽がじりじりと、赤茶の石畳を焦がしている。
 いつ来ても活気に満ちた街ぶりだなぁ──栄光の街をそぞろ歩きしながら、ナマエはふうと息を吐く。暑いのは苦手ではないし、散歩だって嫌いではない。ただしそれは、自分ひとりか、あるいは気の置けない相手との散歩に限った話だ。間違っても親しくもない異性と、デートの真似事のようなことをしたいわけではない──と、ナマエは自分の二歩先を歩く男性の肩口を眺めながら考える。
 とある名家の次期当主──ナマエが目の前の男性について知っていることといえば、それでほとんど全部だった。実のところ、ほとんど言葉を交わしたこともない。それでも目下決まった相手のいないナマエは、デートを申し込まれれば断るだけの理由も持たず、こうしてそれらしい真似事をするに至っている。
 とはいえ、普通の貴族の娘は供もつけずに己の足で町中を散策したりはしない。貴族としては変わり者のナマエの趣味嗜好にデートプランを合わせてくれている時点で、相手が相当な善人か、あるいは相当な変わり者なのだろうことが察せられるというものだ。
 ──友人としてならぜひとも仲良くしていただきたいくらいの、良く出来た人というか何というか。
 しかしながら目の前の彼が、ナマエと友人になりたいがゆえにデートを申し込んだのではないことくらいはナマエも承知している。このデートの先には当然ながら結婚が待ち構えている。
 ──いい人ではあるのだろうけれど、今は縁談話をお断りしていることだし、早いところそのことをお伝えした方がいいのかな。
 そもそもナマエは相手が誰であろうと、当分は結婚するつもりはない。だから結婚相手選びのデートの相手として、ナマエは甚だ相応しくなかった。互いのためにもそぞろ歩きはここらで打ち止めにして、早々に解散にした方が建設的だ。
 そんなことをナマエが思い、しかしどう切り出したものかと頭を悩ませ、いつの間にやら下がっていた視線を前方に向けなおした──ちょうどその時。
 ナマエの視界の先に、見覚えのある男性の姿があった。
「あら、オズ様」
 自分では独り言を呟いた程度の声量だったつもりが、その声は晴天の下に思いのほかよく響いた。すぐ目の前を歩いていた男性はもちろん、その先にいるオズにまで気付かれたらしく、オズがナマエたちに悠然と視線を向けた。
 これ幸いとばかりに、ナマエは「失礼、知人です」と男性に告げて早足でオズに近寄る。軽やかな足取りにつられるように、ワンピースの裾がひらりと揺れた。
「こんにちは、オズ様。おひとりで街にいらしたのですか? カインたちが一緒でしょうか?」
 返事を待たずに重ねられる問いに、オズはむっと眉根を寄せた。しかしそれしきの表情ではこの頃のナマエは怯まない。オズが小さく嘆息した。
「カインは……先程までいた。しかしこれから城に用事があると」
「ああ、ちょうど別れたばかりだったのですか」
「そうだ」
 短く肯定を表してから、オズはつと視線をナマエの背後で固まったままの男性に向ける。オズの真紅の瞳に見据えられ、たちまち男性はぎくりと肩をこわばらせた。
「ご紹介いたします。こちらはヴェチェッリオ卿──」
 ナマエは笑顔で男性を紹介しようとし──それ以上の紹介の言葉を思い付くことができず、曖昧に笑って誤魔化した。むろん家柄や府中での彼の父親の職など一通りの事情は頭に入っているものの、そのような情報をオズが求めているとは思えない。
 しかし紹介された男性──ヴェチェッリオ卿には、ナマエの中身のない紹介などほとんど耳に入っていなかった。
「オズって、まさかあの、伝説の魔法使いの……?」
 これ以上ないほどに目を見開き、往来の真ん中で恐怖に頬を引き攣らせている。憮然とした表情で屹立するオズを前に、それは如何にもオズの恐ろし気な伝説を信じる人間らしい反応だった。数か月前のナマエもオズへの恐れは人並み以上に持っていたものの、彼の場合は輪をかけて酷い。
 オズは何も言わない。このような反応には慣れているのだろう。口を開かぬ方が相手を恐れさせなくてよいと割り切っているのが、オズの表情からはありありと窺える。
 ナマエはふたりの様子を順番に眺め、思案ののち、ヴェチェッリオ卿ににこりと笑いかけた。
「ご存知の通り、こちらは伝説の魔法使いのオズ様ですわ。実は私は今、アーサー殿下の命でオズ様の伝記編纂に携わらせていただいておりますの。その縁で、時折お話を伺いに魔法舎まで足を運んでいるんですよ」
「き、君はそんな仕事をしているのか!?」
 悲鳴じみた声だった。その動揺ぶりは凄まじい。ヴェチェッリオ卿は今にも尻もちをつき、そのまま倒れそうな顔色をしている。
「そんな仕事だなんて酷いおっしゃりようはやめてくださいませ。アーサー殿下より賜った名誉ある仕事でございますのに」
 嘘はひとつも言っていない。ナマエはオズの伝記編纂に携わっている──どころかほとんどひとりでその事業を担っているし、魔法舎にもたびたび足を運んでいた。アーサーからの命を誉れとも思っている。
 しかしわざわざそれを此処でヴェチェッリオ卿に伝えたのは、このデートをうまく切り上げたいという、そんな下心が働いたからだった。オズの名が持つ魔力については、文献を漁っているナマエが誰よりよくよく知っている。
 聞くだけで心胆寒からしむるオズの名が挙がったばかりか、こうしてオズ本人を前にしているのだ。大抵の人間は怖気付こうというものだ。
 果たして、効果はてきめんだった。
「も、申し訳ないが私は用を思い出した。くれぐれもお父上によろしくお伝えしてくれ。また近いうちに手紙を届けさせる」
「ええ、それではまた」
 慌ただしく立ち去るヴェチェッリオ卿の背中に手を振って、ナマエは上機嫌で見送る。
 その後ろ姿が雑踏に紛れて見えなくなったところで、ナマエはようやくオズの方へと向き直った。ナマエがヴェチェッリオ卿と遣り取りをしている間、オズはただ声もなくその場の成り行きを眺めるようにじっと立ち尽くしていた。
 ナマエが会話を切り上げるのを待っていた──というわけではないのだろう。ただ単に、その場を立ち去るタイミングを逃しただけだ。
 そしてまんまとデートを切り上げたナマエが満面の笑みで振り返ったことで、オズはまたしても立ち去る機を逃したのだった。
「お待たせいたしました。それにしても、ここでオズ様にお会いできて僥倖でございました」
 満面の笑みを隠すこともせずにナマエは言う。オズは早くもふたたび嘆息し、
「先程の男は」
 と端的に尋ねた。先程一応の紹介は済ませているから、聞きたいのは名前以上のこと──当人がいては話しづらい、ナマエからの遠慮のない紹介だろう。ついでに言えば、この国で身なりの良さそうな人間であれば、アーサーと縁があってもおかしくはない。アーサーのこととなると、オズも多少は関心の範囲が広がる。
「以前に父の付き合いで参加した夜会で知り合った男性です。いずれ家督をお継ぎになるのでしょうけれど、今はまだ城に上がってはおられませんよ」
 ナマエとの関係、アーサーとの関わりを手短にまとめた返答に、オズはまた一言「そうか」と言っただけだった。

 時刻は丁度昼の盛りを過ぎた頃だった。ちょうど道のわきを運河が流れており、昼過ぎの光を受けた水面がきらきらと眩く輝いている。観光客を乗せた舟が何艘か、河の中央をゆったり進んでいる。
 近くで何か催しでもやっているのか、風に乗った楽団の調べが聞こえていた。運河に沿うようにずらりと日よけの傘が並べられている。その陰の中では、そこかしこで老若男女が休日を満喫していた。ナマエもオズとともにそれとなく日陰へと移動する。ナマエは日傘を差しているが、オズは日よけを何も持っていない。オズ様と直射日光というのはあんまりしっくりこない、などと失礼なことをナマエは思った。
 そういえば、と。運河から視線をオズに戻し、ナマエは思い付いた言葉をそのまま口にした。
「オズ様とお会いするのは、先日のガーデンパーティー以来ですね」
 魔法舎の中庭でガーデンパーティーが開かれたのは半月ほど前のことだ。それからしばらくはナマエの仕事もデスクワークがほとんどだったので、魔法舎でオズに聞き取りをすることもなかった。そもそも本来、ナマエの仕事はオズと面談することではない。それはあくまで仕事のおまけというか、必要であれば面談することもあるという程度だ。
「あの晩は本当に楽しく過ごさせていただきました。賢者様にはお礼状をお送りしましたが、また皆様によろしくお伝えください」
「……覚えていれば伝えよう。約束はできない」
「それで結構です」
 会話の間隙を縫うように、大きな荷台を引いた大型三輪車が、「冷たい飲み物はいかが」とふたりのそばに寄ってきた。ちょうど喉が渇いていたところだったので、ナマエはサイダーとアイスティーをひとつずつ買い求める。買ったばかりのアイスティーを半ば無理やりオズに手渡して、ナマエは日よけ傘のつくる長い影の中をゆっくりと歩き出した。
 運河に沿って並べられた傘は、最終的には広場にまで続いているらしい。催しは広場で開かれているのだろう。歩いているうち、先程から聞こえる音楽がだんだんはっきり聞こえるようになった。
「先日は賢者の魔法使いの全員にご挨拶できたわけではありませんが、それでも挨拶をしていない魔法使いも含め、やっと皆さんのお名前とお顔が一致しました」
 歩きながらナマエが言った。冷たい飲み物を飲みながら日陰を移動しているためか、歩いていてもそれほど暑くない。オズはナマエに押し付けられた紅茶のカップを、むすりとした顔で見つめている。
「そうか」
「アーサー様から伺っていたリケさんや、あとフィガロ様やスノウ様、ホワイト様にも挨拶をさせていただきました」
「知っている。リケは準備を手伝っていたから、外の人間の来訪を喜んでいた」
「ふふ、そうでしたか。ああ、あと、少しだけですが北の魔法使いとも話をしたのですよ」と、そこまで話をして、ナマエはオズが怪訝なことをしていることに気が付いた。「……オズ様? どうかされましたか」
 ナマエが首を傾げると、オズはたっぷりと間を置いたのち、
「お前は案外、北の魔法使いを恐れないな」
 やたらに神妙な声音でそう呟いた。ああ、とナマエが笑う。ナマエは最初のうちオズをはっきりと恐れていたのに、他の魔法使いを恐れていないのが意外だと、そういう意味なのだろうと解釈する。
「それはですね、オズ様とはじめてお会いした時の私は、アーサー様とカインしか魔法使いを知らなかったものですから。逆に今は、世界最強の魔法使いであるオズ様とも、多少打ち解けてきたと思っております。オズ様より凄まじい魔法使いなど世界のどこを見ても存在しませんでしょう。ですから北の魔法使いたちのことも、それほど怖くはありません」
 ともすれば怖いもの知らずなことを平然と口にして──しかし直後、ナマエは「ですが」と顔を顰めた。
「流石にオーエンとだけは口をきいておりませんけれどね。私はカインほど屈託なくないので」
「私には似たようなものに見えるが」
「そんなことはございませんよ。蛇のような人間なのです、私は」
 冗談めかして、ナマエがにやりと笑った。
 カイン本人がそれほど気にしていないことなのだから、ナマエがオーエンに対し複雑な感情を持ち続ける必要も、本来ならばありはしない。しかしそれではとオーエンに好意的に接することができるほど、ナマエも割り切った性格をしていなかった。
 ささやかな感情の発露として、ナマエはオーエンにだけは敬称をつけないことを決めている。もちろん面と向かえばそういうわけにもいかないのだろうが、それ以外の場ではオーエンに敬称をつけて呼ぶつもりはなかった。
 ちなみにほかの魔法使いのことは基本的には「さん」をつけて呼ぶことに決めている。アーサーが「様」をつけて呼ぶような相手──オズやフィガロ、双子に対しては、ナマエも当然「様」をつける。賢者の魔法使いは皆アーサーと肩を並べる仲間だが、全員を「様」づけで呼ぶのは仰々しすぎるという魔法使い側の意見を容れた形だ。
 くだんのガーデンパーティーで、ナマエは魔法使いたちや賢者から色々な話を聞き、また多くを教わった。そのほとんどは魔法についての事柄だ。魔法使いの知り合いが少ないナマエは、魔法使いや魔女について知らないことが山のようにある──そのようなことを、ナマエはつらつらとオズに話した。
「魔法使いの皆さんにそれぞれ得意な魔法があることも、教えていただいて初めて知りました。たとえば、ええと、フィガロ様は記憶の操作などがお得意だとか」
「……フィガロが自分でそう言ったのか?」
「いえ、丁度そこに居合わせたブラッドリーさんが教えてくださいました。今の私の言葉の七倍くらい口汚い感じで」
 ナマエが苦笑する。本来魔法使いはあまり自らの手の内を明かすことをしない。得意魔法くらいならば知られても構わないものだろうが、だからといってぺらぺらと親しくない相手に話すことでもなかった。ブラッドリーのそれはフィガロへの嫌がらせと、同時にナマエへの脅しを兼ねている。記憶を弄られて喜ぶ人間は少ない。
「脅しのつもりだろう」
 オズがつまらなさそうに呟いた。ナマエは一層苦笑を濃くした。
「ブラッドリーさんは元囚人でしたね。私がフィガロ様を恐れることを期待していたのでしょうか」
「恐らく」
「アーサー様が信用されている魔法使いのことですから、私は賢者の魔法使いの皆さんのことを基本的には信用も信頼もしていたいと思っておりますが」
「ブラッドリーはフィガロを警戒している。お前への脅しだけではなく、フィガロへの嫌がらせ目的でもあるのだろう」
「フィガロ様も偉大な魔法使いなのでしたね。アーサー様から伺いました」
 そしてナマエは、ふと思い出して悪戯っぽく笑った。
「そうそう、オズ様の魔法の秘密も伺いました」
 その言葉に、オズが無言のまま反応する。足を止め、オズはナマエを見下ろした。
「それは、」
 しかしオズがさらに何か続けて問いかけるより先に、ナマエが「あっ」と声を上げた。その勢いの良い声に負け、オズは中途半端に言葉を飲み込んだ。
 オズが視線を、ナマエの視線の先に遣った。ナマエの視線の先には、書店の木製看板が太陽の光を受けている。催しの出店ではない、正規の路面店だった。日光を避けるためか、店先に商品を並べてはいないが、店の構えは立派だ。
「あちらの書店に立ち寄ってもよろしいですか? ルチルさんにおすすめしてもらった本が売っていたら買っていきたいのですが」
 目をきらめかせ、ナマエはオズを見上げた。オズはもの言いたげに、むすりとナマエを見下ろしている。
 先程飲みこんだ言葉もあれば、今新たに浮かんだ言葉もあるのだろう。しかし結局、オズはそれら言葉をナマエに向け発することもなく、
「……好きにするといい」
 口にしたのはそれだけの台詞だった。途端にナマエの表情が輝く。
「ありがとうございます。すぐに戻ってまいりますので」
 そもそも一緒に散策をしているわけではないから、オズがナマエの買い物を待たなければならない謂れはない。それなのにオズは律儀に頷いてしまうのだった。そして言いたい言葉をナマエに向けてぶつける代わりに、オズの手はナマエから託されたサイダーのカップを半ば無意識に受け取っている。
 日陰を出て日向に駆けていくナマエの背を、オズは物言わぬまま見送った。

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