吹雪の名残

「ひと月おそばを離れる前に、ひと目オズ様にお会いしたいと思うことは、それほどおかしなことでしょうか」
 気が付けば、そんな言葉が勝手に口から飛び出していた。意図せずむっとして口にした言葉は、しかし己の言葉ながらいささか子供じみている。その幼稚な響きにナマエはすぐさま我に返り、ひとり顔を赤らめた。
 ──二十歳にもなって、なんて子供じみた物言いをしてしまったのだろう。
 まして、オズは仕事相手でもある。いくら向こうが途方もないほど年上だからといったところで、流石にこれは幼稚すぎた。オズのぼんやりした視線を受け続けるのも気恥ずかしい。ナマエは羞恥心から顔を俯けると、誤魔化すように急いで口を開いた。
「要するに、対人関係のマナーとでも申しますか、無礼や粗相のないように十全に気を配るべしという心づもりで本日は参ったわけでして」
「それは分かった」
「そ、それに、オズ様はわざわざとおっしゃいますが、カインが魔法舎に戻るところに丁度出会ったものですから、それほど手間をかけてここまで参ったわけでもないのですよ」
 だから別に、どうしてもオズに会いたくて魔法舎までわざわざやってきたわけではないのだ。ひと月程度の留守を前に、オズにどうしても会いたかったというほどではないのだ──直前の言葉を打ち消すような勢いで、ナマエはこの来訪が手間ではないことを強調し、弁明をした。
 しかしナマエが弁明を口にした途端、オズがむっと眉を顰めた。
 オズが不機嫌な顔をしているのはいつものこと。それ自体は取り立てておかしなことではない。しかしオズの纏う空気がかすかに変わったことに、一拍遅れてナマエは気が付いた。先程までの不可解だと訝しむ気配とは違う、何か苛立ちの前触れのようなものが空気に混ざり、ナマエの肌をざわつかせる。
 だが思考をそれより進める前に、
「カインと?」
 オズから先に、切り込むように尋ねてきた。
「はい、城の中庭で会ったので。カインは剣術指南で騎士団に顔を出していたそうですが」
「カインの箒で戻ってきたのか」
「そうですね。城下を少し見て廻ってから、カインの箒に乗せてもらいました」
 む、とオズがもの言いたげにナマエを見たあと、仏頂面のままで視線を下げた。
 オズが言い分を飲みこむところは数多見てきているナマエだが、しかしここまではっきりと言い淀まれたのははじめてだ。このところ随分とオズの前でも太々しくあるナマエだが、さすがに多少狼狽えた。
「如何なさいましたか、オズ様……?」
 様子を窺うように問いかけると、オズはつと視線を上げ、じっと黙り込んだままナマエを見つめる。やがて思案を打ち切ったかと思えば、やおら低く唸るような調子で、
「先日お前は私に対し、賢者の魔法使いを頼ることは中央の国の臣として、すべきではないことだと──そう言ったな」
 そう念押しでもするかのごとく問うた。
 しかしナマエは一層狼狽え、視線を泳がせる。
「ええと、私、オズ様にそのような話をいたしましたでしょうか……? いえ、もちろん常々そのように思ってはおりますが、その、オズ様にそのような話をいたした覚えがないと申しますか……」
「お前は覚えていないかもしれないが、たしかに聞いた」
「そう、ですか……。ああ、もしかして酔っているときの話だったのかな……」
「……そのようなものだろう」
 しれっとオズに肯かれ、ナマエははぁ、と気の抜けた返事をした。
 これでも文官をたつきとしているのだから、ナマエは自らの記憶力にそれなりの信頼を置いている。たとえ酔いに任せて口にした言葉であったとしても、一度口にしたことを、そう易々と忘れるとは思えない。
 だがオズが聞いたと言う以上は、ナマエはオズにそういう話をしたのだろう。実際それはナマエの思考と合致する内容だ。何処かで口にしていてもおかしくはない。
「しかし」オズが続けた。「お前はカインには頼み事をすると言う。カインも私と同じ賢者の魔法使いだ。それでは道理が通らない」
 その言葉に、ナマエはオズが言わんとするところを理解した。
「ま、まさか二枚舌だとお思いになりましたか……!?」
 ナマエの顔がたちまち蒼褪める。オズは一切の動揺なく首を横に振った。
「そうは思わない。しかし、一貫してはいないだろう」
「それを世間では二枚舌と言うのでございます」
 がくりとナマエは項垂れた。
 身に覚えのない発言を記憶されているだけでも、ナマエは十分頼りない印象をオズに与えている。そのうえ、その発言とナマエの行動が矛盾していると指摘されているのだ。これは公正さとアーサーへの忠義を担保にどうにかオズと渡り合っているナマエにとって、なかなかの死活問題だった。
 オズはじっとナマエの苦悩する顔を眺めている。茫漠とした瞳も今日は心なしか不信感を浮かべているように見え、ナマエの全身からどっと嫌な汗が噴き出した。
 もっともそれはナマエの気の持ちようの問題であって、真実オズがナマエに不信感を抱いているかは不明だ。それ以前にオズがナマエにどの程度の信頼を寄せてくれているのかすら、ナマエにはいまひとつ判然としない。
 渋面を浮かべたまま、ナマエは唇を噛む。ナマエの臣としての自我は、ここに至って今ぐらぐらと不安定に揺れている。正直に言えば、一刻も早くオズの視線から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
 しかしここで下手な誤魔化し方をするよりも誠実に本心を説明した方が、今後のオズとの関係を考慮するとよほど得策である──自分への信頼が揺らいでいるかもしれない現状に、ナマエはそう判断した。
 ごくりと一度唾をのみ、ナマエはゆっくりと切り出した。
「カインは──カインはまだ、私が彼を魔法使いだと知るより前からの友人ですから。賢者の魔法使いを頼ると言うよりは、友人に頼み事をする感覚なのです。持ちつ持たれつといいますか」
「私はお前の友人ではない」
「ええ。ですからオズ様に軽々に魔法を使ってほしいというような頼み事はできません」
「お前にとってカインは友だが、私は友ではない」
「その通りです。オズ様は……」
 友──ではない。オズの口からはっきりと告げられ、ナマエもまたその認識には異論がない。
 しかし、それならば。そうであるのなら。
「オズ様は──何なのでしょう?」
「私は私だ」
「いえ、そうではなくて。そうではないのですが……」
 そういう話をしているのではなく。
 ナマエにとってのオズとは。
 ナマエとオズは、一体どんな名前の関係だというのだろう──
 ふいに沸いたその疑問に、ナマエは言葉を失った。
 間違いなく、ナマエとオズは友ではない。それは正しく断言できる。かといって、オズをただの仕事相手として見做すには、ナマエはオズを好ましく思い過ぎていた。オズを知ろうと努める気持ちは、もはや職務の域を逸脱している。それこそ、ひと月の出張の前に会いたいと思うことに、違和感を生じないほどに。
 これまでのナマエの人生で、ナマエの持つ人間関係はそれほど複雑ではなかった。たいていの人間は家族、知人、友人、仕事相手くらいの組わけで十分に足りた。しかしオズは、そのいずれにも属さない。知人と呼んではあまりにも味気ないのに、友人と呼ぶのはこそばゆく、どうもおさまりが悪い。
「オズ様を友だと思うと、どうにも胸の中がうまくしっくりと来ないのです。ですが、友ではないとなると、どう表わしたらいいものか……」
 ぽつりとナマエが、言葉をこぼす。まるで胸の裡からぽろりとまろび出た思いが、声を伴いオズのもとまで転がるように。
 今までナマエは何の躊躇いも疑いもなく、オズと向かい合っていた。それなのに、ひと度疑問を持ってしまえば、その答えが己が内にないことが妙に気にかかって仕方がない。
 友ではない。友になりたいかと言われれば、それも何だか違う気がする。カインに接するのと同じように、ナマエはオズに対して気さくに接したいわけではない。しかしそれではオズにどう接したいのか、どう接してほしいのかと考えてみても、その答えはいっこうに思い浮かびはしないのだ。
 強いて言えば、もっと深くオズのことを知ってみたい。そんな探求心や知識欲による希求のみがナマエの自覚できるすべてだった。
 暫し、沈黙のとばりが落ちた。思慮深げに伏せられたオズの瞳は、睫毛の影を真紅の目の下に落としている。どんなときでも絵になる人だと、ナマエはついそう思わずにはいられない。芸術品を目にしたときのように、吸い込まれ、目を奪われる。
 果たしてどれほどの時間が、沈黙の中に呑まれていったのか──ふいに、オズが肘掛け椅子から立ち上がり、視線でナマエにも起立を促した。見惚れていたナマエははたと我に返った。
 オズは思案がまとまったのだろうか。訳も分からぬまま立つよう促され、ナマエは椅子から腰を上げる──と、その瞬間。
「≪ヴォクスノク≫」
「わっ!?」
 前触れもなく、オズの低い声が短く呪文を唱えた。同時にナマエの視界が突然ホワイトアウトする。
「──っ!?」
 ナマエの全身を、息苦しさと刺すような痛みが襲った。目を開くこともできず、呼吸もできない。恐ろしさに慌てふためきあわやパニックに陥りかけたところで、遠く海鳴りのようなごうごうという音の向こうより、かき消えそうなかそけき声でオズの呪文が紡がれる。
 息苦しさと痛みがふいに消えた。呼吸が楽になり、ナマエはぜえぜえと荒い呼吸を繰り返す。それも済んで呼吸が整うと、ようやく自分の全身をぬるい膜に覆われているような、やわやわとしてあたたかな感覚に包まれていることを知覚する。
「見よ」
 先程呪文が聞こえたのよりもずっと近い距離から、オズの声が降ってきた。
 凍り付いた瞼を抉じ開けるかのごとく、ゆっくりと瞼を開き──そしてナマエは言葉を失った。
 ナマエの視界に飛び込んできたのは、目に映るものすべてが白銀に覆われた世界。地平線の果てまでひたすらに白だけが続く世界だった。海鳴りにも聞こえた音は、耳元で吹雪が吹きつける音だったらしい。こうして見てみると、吹雪以外に動くものはひとつもない。
 白色と、風と、雪影。吹雪のただ中にいるのか視界もけして良好とは言いがたいが、ともかくそれがナマエの目の前にあるすべてだ。
 荒々しく、生き物の暮らしを拒絶するかのごとき気候。思い描いたこともないような、荒々しさと静謐が共存する光景。その景色にナマエが目を奪われていると、不意にナマエのすぐそばで人のみじろぐ気配がした。
 つられてナマエが見上げれば、表情ひとつ変えないオズが屹立し、ナマエをじっと見下ろしている。そこでようやく、ナマエは自分がオズの魔法によって、魔法舎のオズの部屋ではない場所へと導かれたのだと理解した。
「オズ様、ここは──ここは、き、北の国ですか……?」
 何故いきなり、どうしてこんなところに。疑問は次から次へと湧き上がるが、そのほとんどを言葉にはできなかった。突然の出来事に、まだ身体が衝撃から立ち直っていないのだ。
 そんなナマエを気遣うこともなく、
「そうだ。北の国の果て、お前が先程一度見てみたいと言っていた景色だ」
 オズは淡々とした調子で答える。その返答に、ふたたびナマエは言葉を失った。
 何故、どうしてという言葉にならぬ問いの答えは、図らずもオズの返事によって得られてしまった。たしかにオズの魔法を使えば、遠く離れた場所に一瞬で移動することとて、不可能なことではないのだろう。並の魔法使いではおよそ不可能な奇跡でも、世界最強の魔法使いには造作もないことだ。
 きっとオズは他愛ない思い付きで、ナマエを北の国まで連れ出そうと思ったのだ。あるいは単に、初めて雪原を見たナマエがどんな顔をするのか興味があったのかもしれない。ナマエはやっと状況を飲み込んで、そして改めて目の前の景色に目を奪われていた。
「うわぁ……すごい……」
「どうだ」
「す、すごく雄大です」
 言葉をたつきとする者とは思えない、気の利かぬ幼稚な反応だった。しかし如何に言葉を尽くそうと、目の前の光景を十分に描写できるとは思えなかったし、ナマエが抱いた感動を不足なくオズに伝えられるとも思えなかった。
 オズが魔法を掛けたのか、吹雪の中にいてもナマエが凍えることはなかった。ぬくぬくと温かな気配に包まれたまま、ナマエは気が済むまで吹雪の吹き荒れる雪原に目を凝らし続ける。そのすべてを網膜に焼き付けんとするように、ただじっと、目の前の景色を写し取り続けた。

 やがて吹雪の勢いがわずかに衰え、視界がにわかに明るくなった頃、ナマエはおずおずと口を開いた。
「あの……」
 しかしナマエが言葉を続けるまでもなく、
「賢者の魔法使いとして、魔法を使用したわけではない」
 オズはナマエのまだ発してすらいない言葉を、先んじて否定した。
「しかし、私はお前の友人ではない。少なくとも、お前にとっての私は友人ではないのだろう」
「……はい」
 それはたしかにそうなのだった。オズはナマエの友ではない。ナマエにとっての何者かという問いへの答えはまだ無いが、友でないことだけは間違いない。
「≪ヴォクスノク≫」
 オズが三たび呪文を唱えると、そこは古びた本と薪のにおい漂ういつものオズの私室だった。吹き荒れる吹雪などは雪のひと片すら存在しない。肘掛け椅子の前に立ち尽くしたナマエは、目をぱちくりとさせて周囲を見回した。
「戻って──きたのですか」
 声がやや掠れていた。テーブルの上には底に紅茶の残ったカップがふた組、先程までと何ひとつ変わることなく置き去りになっている。まるで北の国の吹雪にさらされていた時間が嘘だったかのように。
「あの、オズ様」
「幻覚ではない。お前は今、極北の地に立ち、戻ってきたところだ」
「なるほど……」
 やはり呆然とした返事しかできなかった。それなりに適応力がある方だと自負するナマエだが、それでも頭が付いてこない。そんなナマエを見て、オズがひとつ嘆息した。
「遅くなる前に帰れ。お前はいつも寝不足の顔をしている」
 突き放すように労わるオズの声を聞き、ナマエは「はい」と素直に頷く。未だ全身を包む温もりから抜けきらぬ、夢見心地の気分が続いていた。直前までの出来事を信じ切れない、何とも言えない心許なさだけが、融け残った雪のかたまりのように胸に重く残っている。
 ふらふらとした足取りで、ナマエは扉の方へと歩き出す。扉のノブに手をかけて、そこでナマエは振り返ると、いつも通り肘掛け椅子に腰かけたオズに視線を向けた。
「オズ様」
「どうした」
「その──ありがとうございました」
 それ以外に、何を言うべきか分からなかった。オズがどういうつもりでナマエに北の国の景色を見せたのか、何を望んでいるのかも分からない。しかしナマエが見たいと言った景色を見せてくれたからには、そこにはオズなりの思いやりがあったのだろう。
 であれば、礼を言うのは当然のことだ。まして、賢者の魔法使いとしてではなく、ひとりの魔法使いとしてナマエにしてくれたことだというのだから。
 下げていた頭を上げてオズを見る。オズは、これもやはりいつも通り、仏頂面でナマエを睨むように見据えていた。
「……無事に戻れ」
「オズ様にそう言っていただければ、それだけで無事に帰ってこられそうな気がいたします」
 お土産買ってきますねと、ナマエは笑顔で扉を出る。しかしその心の中では、まるで吹雪の名残とでもいうように奇妙なざわめきが続いていた。

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