紅茶とチョコレート

 カインはこのまま部屋に戻らず、魔法舎裏の森に訓練に行くという。魔法舎の玄関前で箒から下ろしてもらったナマエは、そこでカインと別れてオズの部屋へと向かった。面会の約束はしていないが、オズはたいてい自室にこもっている。カインから特に何も言われなかったということは、今日もオズは部屋にいるのだろう。
 五階へと続く階段の踊り場には、西日がするどい眩さで射しこんでいた。知らず識らずのうちに階段を早足で駆けのぼり、あっという間に最上階まで上り切る。
 五階に部屋を持つ魔法使いは年長者が多い。そのためか五階はほかの階と比べると、いつ歩いてもどこか空気が重く厚く感じられる。人の気配のない廊下をさっさと通り過ぎ、ナマエはオズの部屋の扉をノックした。
 数秒ののち、ゆっくりと開いた扉の隙間から、不機嫌そうなオズがのそりと顔を覗かせた。いつもならばオズは椅子に腰かけたまま魔法で扉を開くが、今日は約束もなしに来てしまったため来訪者の確認をしたのだろう。扉の前に立つナマエと視線が合うと、オズは一層不機嫌そうな、それでいて何処か訝しげな表情をした。
「こんにちは、オズ様」
 はきはきとナマエが挨拶をする。先日の作業室での一件から、ナマエはオズからの挨拶が返ってくることを期待したのだが、生憎と今日のオズからの挨拶を聞くことはなかった。
「今日は仕事の日はではないだろう」
 オズがむすりと言った。依然としてナマエは扉の前に立ったままだ。いきなり入室を許してはもらえるはずはないか──ナマエはことさらめげることもなく、
「はい、たしかにお約束はしておりません。ですが魔法舎に寄りましたので、せっかくですからご挨拶にと思いまして。ご迷惑でしたでしょうか」
 手早く用件を伝えた。実際には魔法舎に寄ったついでにオズに会いに来たのではなく、オズに会うために魔法舎までやってきた。しかし何となく、オズに会いに来たとはっきり口にするのは何やら面映ゆいような感じがした。
 ナマエはじっとオズを見上げる。オズは多少居心地悪げにして視線を逸らした。
「迷惑ではない」
「よかったです」
 オズの気まずさを気にせずナマエが笑うと、オズは呆れたようにナマエを見下ろして、それからようやく扉を大きく開いた。いつもと寸分違わぬオズの部屋が、ナマエの前に開かれる。
「……入れ。紅茶を淹れる」
「そこまでお手間をとらせるつもりでは」
「手間ではない」
「それでは、お邪魔いたします」
 すっかりオズへの恐れなど忘れてしまったように、ナマエは何とも気楽な調子でオズの部屋へと足を踏み入れた。

 オズが魔法で紅茶の支度をするのを、ナマエはぼんやり視線で追いかける。以前に一度、ナマエはこの部屋でお茶の準備をしようとしたことがある。しかしオズの部屋では常に何もかもを魔法でこなしてしまうため、人間のナマエでは結局、お湯ひとつ満足に沸かすことができずに終わった。
 大体からして、この部屋には湯を沸かすための道具がない。オズが呪文を唱えると、どこからともなく現れた水差しがポットに熱湯をそそぎ、棚から飛び出した適量の茶葉が勝手に用意されるのだ。カップは勝手にあたたまり、そうこうしているうちにナマエの前には文句なしに美味しい紅茶が供される。
「魔法というものは、本当に便利なものなのですねぇ」
 ひとりでにカップに注がれた紅茶を眺め、ナマエはしみじみ呟いた。アーサーやカインの魔法を間近で見る機会もあるにはあるが、魔法や魔法使いの存在は今なおナマエにとって身近なものではない。アーサーは城内──人目につく場所では魔法を使わないし、それはカインも同様だ。魔法使いが魔法を使うという、いわば当然の権利を、彼らは滅多に行使しない。
 オズはカップを手に取ると、
「ここには魔法を使わなくても、私よりもうまく紅茶を淹れられる者がいる」
 ナマエの呟きに答えているようでいて的外れな、そんな返答をした。ナマエもカップに口をつける。茶菓子のチョコレートに合わせているのか、爽やかなかおりがふわりと口いっぱいに広がった。
「オズ様の淹れてくださる紅茶も十分美味しいと思いますが……。オズ様よりお上手と言いますと、ネロさんのことでしょうか」
「ネロ以外にも、何人かそうした者はいる」
「そうでしたか」
 頷くナマエの頭の中に、紅茶が似合いそうな魔法使いの顔がいくつかよぎった。魔法舎には高貴な身分の者や、洒落者、それに気遣いのこまやかな者も多い。嗜みとして上手な紅茶の淹れ方を心得ているということもあるのだろう。
「オズ様は魔法をお使いにならずに紅茶を淹れたりはなさらないのですか?」
 ナマエの素朴な疑問に、オズが目を細める。
「何度か挑んだことはあるが、魔法を使っても使わなくても味に大差はなかった」
「なるほど」
 それならば魔法を使った方が楽なのかもしれない。魔法を使えないナマエには分からないが、オズほどの魔法使いならば魔法で細かな作業をこなすことも造作ないだろう。
 と、オズが、
「それにカップやポットがひとりでに動くのを、昔アーサーはひどく面白がっていた」
 ついでのように、そう付け足した。ナマエは思わず笑みをこぼす。何のことはない、味が何だのと言ったところで、結局オズは幼いアーサーが喜ぶ顔を見たくて魔法で紅茶を淹れていたのだ。
「ふふ、たしかに私も毎回じっと見てしまいます」
「手順がどうあれ味は変わらないというのに」
 最後の言葉は半ば照れ隠しのようだった。ナマエはゆるむ顔を引き締めようともせず、にこにことオズを見つめた。
 幼い日のアーサーのため、オズはおそらく必要以上に華やかにカップやポットを舞わせていたに違いない。今はそれほどでもないが、それでも時折、ナマエの視線を意識したような動きで茶器が舞うことがある。オズの優しさを垣間見るようで、ナマエはそれが好きだった。
 ナマエはカップを置き、オズを見据える。オズは表情の読み取りにくい瞳でナマエを見返すと、無言でナマエの言葉を待った。
 ひと呼吸置いてから、ナマエは切り出した。
「実は、明日からしばらく東の国に出張することになりました。ですのでそれもあって、本日こうしてご挨拶に伺ったのです」
「しばらくとは」
「だいたいひと月ほどでしょうか。本来私のような新米が出張を任されることもないのですが、今回は行き先がブランシェット領ですので、私も同行する運びとなりました」
 本来であれば新米文官のうちのひとりに過ぎないナマエに、他国への出張の命令が下されることはない。外交となれば相応の立場と役職に就いた官僚が担うものだ。
 しかし今回は出張先がかつてのナマエの遊学先であるブランシェット領だったことや、そのほか様々な要因によりナマエにも声がかかったのだった。大抜擢としか言いようがない。
 貴族の娘を公務とはいえ他国に派遣することについては、それなりに議論もあったとナマエも聞いている。しかし結局はナマエに出張命令が下ったし、ナマエも迷わずその命令を受けた。いつか再びと願っていた遊学先にふたたび赴くことができる機会を、みすみす蹴るはずもない。
 ナマエが出張に出ている間は、オズの伝記編纂事業も当然一時的に作業が止まる。オズとも暫く顔を合わせることはなくなる。それでナマエは今日、オズのもとに挨拶に来たのだった。
 ナマエの言葉を受け、オズは束の間視線を伏せた。まるで何か思案するように、そのままじっと固まっている。ナマエはチョコレートをひとつつまんで、オズが言葉を紡ぐのを待った。ナマエがチョコレートを好きだと話してからというもの、オズはナマエが部屋に来るたび茶菓子にチョコレートを出してくれる。
 やがてオズは「嬉しいのか」と、静かにそう問うた。
「え?」
 チョコレートを頬張ったまま気の抜けた返事をするナマエに、オズが赤い瞳を幽かに眇めた。
「いつもよりも話しぶりが興奮している」
「そ、そうですか……? そう言われてしまうと、なんだか照れますね……」
 口に残っていたチョコレートを飲みこんで、ナマエは照れ隠しにひとつ咳払いをした。カップの紅茶で口を潤す。
「何といいますか、まあ、正直に申し上げますと、世界の各地をあれこれ見て回りたいというのは昔からの夢ですし、此度の出張がその足がかりになればというか、まあ、そういう下心があったりするのですけれども」
「下心」
「本や資料で読んだり、人伝に話を聞くだけでは分からないことも沢山ありますでしょう。たとえばオズ様とアーサー様がともに過ごされた北の国など、アーサー様から伺うところでは一面の銀世界だとか。ですが、私はそれほど積もった雪というものを見たことがございませんから、どれだけ話で聞いたり絵で描いていただこうと、想像には限界があるのです。せっかくですから、そういう色々なものを見て回りたい野望はございます」
 まるで言い訳でもするように──というより真実言い訳じみてナマエはあくせくと言葉を重ねた。オズから指摘されるまでもなく、自分が多少浮ついていた自覚はある。しかしいざ指摘されると──それもナマエの顔色や機嫌になどまったく興味がなさそうなオズに指摘されるとなると、なんだか妙に気恥ずかしい。
「そうは言っても私など下っ端も下っ端の木っ端文官でございますので、まあこう息巻いてもそれほど大役を担っているわけではないのですが」
「アーサーを支える臣となるのだろう。臆せず自分の務めを果たせ」
「あ、ありがとうございます……?」
 気恥ずかしさを誤魔化すべく付け加えたはずの言葉には、思いがけない激励を受けてしまった。オズから伝記編纂以外の仕事のことで励ましを受けると思っていなかったナマエは、きょとんと首を傾げてから頭を下げる。オズの視線に力強さのようなものを感じた気がして、ナマエは一層不思議に思う。
 先日、早朝グランヴェル城の作業室で顔を合わせたときもそうだったが、オズはこの頃急速にアーサーの臣としてのナマエを認めてくれるようになった。ナマエにはこれといって思い当たる契機も理由もなく、ただただ不思議に首を傾げるばかりだ。
 ──まあ、認めてもらえないよりはいいのだけれど。
 認めてもらえぬよりは、認めてもらえた方が有難い。その方がよりスムーズに仕事も進むことだろう。
 いまひとつ腑に落ちぬ部分はこの際気にしないことにして、ナマエはカップに残っていた紅茶を飲んだ。挨拶を済ませてしまったので、もはや今日ここにやってきた目的は達成している。オズに追い払われれば出ていくが、今のところはそういうこともなさそうだった。思考を切り替え、話題を戻した。
「今日も先程まで、城で出張について打合せをしていたところでした」
「わざわざ挨拶のためにやってきたのか」
「そうと言えなくもありませんが」
「……挨拶以外に何か用件があったのか?」
「いえ、そのように尋ねられると用件はないとしか言いようがございませんが。オズ様のもとに挨拶に伺いたいなと思いまして、それで参りました」
 何故問い詰められているのだろうか。挨拶に来たのに責められているような気分になり、ナマエはもごもごと返事をした。
 オズはナマエの行動の意味を理解できないのか、眉根を寄せて不機嫌そうに困惑している。
「私が出掛けていたら、お前は無駄足を踏むところだった」
「ですがオズ様、このお時間はたいていお部屋におられるのではないですか?」
 悪気なくナマエが言い放った台詞に、
「……私にも出掛ける用くらいはある」
 オズは眉間の皺を深くした。ナマエが苦く笑む。
「失礼いたしました。ですがこうしてお部屋にいてくださり助かりました。オズ様へのご挨拶もないまま、ひと月も空けたくはありませんでしたので」
「ひと月などすぐだ。こうして今日お前が私のもとを訪れ挨拶などしなければ、お前に会わないことにも気付かぬうちにひと月過ぎ去っていただろう」
 今度はオズの方が、悪気なくナマエの心をちくりと刺した。ナマエは口をとがらせてオズを見る。今の言い方ではまるで、ひと月程度ナマエが勝手にいなくなったところで、オズは何ひとつ気にかからない、気付きもしないと言っているようなものだ。
 オズはナマエの心のささくれに気付く様子もなく、むすりとしているのかぼんやりしているのか、よく分からない仏頂面で紅茶のカップを眺めている。オズにしてみればひと月など、それこそ光のように過ぎ去る時間。だから自分がおかしなことを言ったという自覚も、オズには恐らくないのだろう。いや、それ以前にナマエがひと月不在にしたところで、本当に何も思わないだけなのかもしれない。
 しかしナマエはそうは思わない。初夏以来、ナマエはオズとそれなりの頻度で顔を合わせているのだ。いきなりひと月も顔を合わせなければ、何かあったのではないかと気にも掛かるし心配もする。オズもそうであると思い込むほど自惚れてはいなかったが、だからといって顔を合わせなくてもどうということはないとこうまではっきり言われては、さすがに不貞腐れずにはいられない。

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