誤りを正す役

 白壁のグランヴェル城を背に負って、ナマエは文官の制服のままで城下町を闊歩していた。隣には腰に剣を佩いたカインが並び、周囲の景色を眺めているよう装いつつも、それとなく城下の治安を探っている。時折道行く子供らがカインを指さし「騎士だ!」と喜ぶのを眺めながら、ナマエは微笑ましいような気分になって口許を弛めた。
 今日の仕事を一段落させたナマエが城の中庭で休憩していたところ、たまたま城に剣術指南に来ていたカインと鉢合わせしたのはつい先ほどのことだ。カインは騎士団長の任を解かれてからも、たびたび指導の名目で騎士団に召喚されている。時には多忙のアーサーに代わって魔法舎と中央政府の橋渡しのような仕事も任されており、団から退いた現在もそれなりに忙しい生活を送っていると聞く。
「カイン!」
 ナマエは中庭を横切ろうとするカインに気付くと、すぐに声を上げカインを呼んだ。近寄りその手に触れれば、ようやく視線がぶつかる。すでに稽古を済ませてきたらしいカインは、わずかに乱れた髪すら却って爽やかに見えるほどの極上の笑みを浮かべた。
「少し久しぶりだな。今日の仕事はもう済んだのか?」
「ええ、まあ大体のところは」
 答えるナマエは、薄暗い作業室に山積みになっている、オズの伝承にまつわる資料のことを今だけ頭から追いやった。伝記編纂事業はナマエにとってほとんど唯一と呼べる仕事なのだが、実際のところそれは大して急務というわけでもない。アーサーやナマエの心情としては急務に違いないのだが、残念ながら直接的に国事にかかわる事柄と比べれば、その優先度はどうしたって下がってしまう。
 特にナマエは今、別の仕事にも駆り出されようとしているところだ。オズの伝記編纂については、そちらの仕事が片付くまでは一旦保留となっていた。
 とはいえ現在ではすっかり政とは縁遠くなったカインに、そこまでの事情を話す理由はない。ナマエは頭の中だけでそれらを片づけて、仕切りなおして顔を上げた。
「ところでカイン、見たところ剣術指南に呼ばれていたようだけれど、カインこそ今日の仕事はもう終わり?」
「ああ、城での仕事はな」左目を隠すカインの前髪が、彼が顔を動かすのに合わせてゆるりと揺れた。「用もないのにいつまでも城内をぶらぶらしても仕方がないし、今日はもう魔法舎に戻るよ」
 その言葉にカインらしからぬ苦いものを感じ取り、ナマエは知らず眉を顰めた。またぞろ魔法使いに否定的な高官から、愚にもつかぬ嫌味でも言われたのだろうか。カインが騎士団長だった頃から、市井の出身であるというだけでカインに対して風当たりが強い向きはある。特に彼が魔法使いだと発覚して以後は、その不条理も顕著になっていた。
 もっともカイン本人の人柄と人徳ゆえに、城内の多くの人間はカインに対して好意的だ。騎士団長の座を退いた今もこうして剣術指南に召喚されるのが、その最大の証左だろう。そしてカイン本人が愚痴など口にしない以上、ナマエがとやかく言う筋合いでもない。ナマエは「それはよかった」と、素知らぬ顔でカインに笑いかけた。
「よかったって何がだ?」
 カインが首を傾げる。
「今から少し外に出るのだけど、よかったら付き合ってくれない?」
「俺が?」
「時間あるんでしょう?」
「そりゃあ、あるにはあるが」
「だったらいいじゃない。ちょっと気分転換に外に出たいのよ。それに、私も魔法舎に寄ろうと思ってたんだ」
 そう付け加えると、カインがなおさら不思議そうに首をひねった。尻尾のような毛先が揺れる。
「オズと会う用事があるのか?」
「それはないけれど、まあオズ様に会いに行くのはたしかだね。ちょっとご挨拶に」
「挨拶?」
 ナマエの言葉を繰り返し、しかし結局カインは立ち入った話をすべきでないと判断したのか、はたまた単に立ち話にも飽きてきたのか「まあいいか」と大雑把に話を切り上げた。そんなわけで、ナマエはカインと連れだって城下を逍遥することになったのだ。

 昼下がりの城下には長閑な空気が流れていた。かつて革命を経て王朝が勃興した頃には麻のごとく乱れていた中央の国も、ここ数百年は平和が続いている。アーサーの父である現国王は傑物と仰がれ、また王子であるアーサーも心優しい人格者だ。家臣も一部をのぞいては人品卑しからぬ人材が揃っている。よく治まった城下の風景を眺めるたび、ナマエは心が穏やかになるのを感じた。
 しかしながら、城下が常に平和というわけでもない。栄光の街ほどの活気や熱気はないが、王家のお膝元でも悪どいことを考える人間はいる。カインは現在騎士団に所属していないので、もしもそうした不埒者と出くわしてもある程度個人の采配で対処することを許されていた。ゆえに、時折こうして城下を見て廻っている。
 カインの見回りについては大臣や役人にも黙認するよう下知が下っている。それもまた、騎士団を追われたカインへ、アーサーからの配慮でもある。
「そういえば──」
 さりげなく周囲に目を配りながらカインが切り出した。
「オズの伝記の編纂は進んでるのか?」
 顔を合わせるたびに伝記編纂のことを俎上に上げるのは、カインもまた伝記の完成を心待ちにしているひとりだからだ。
 しかし残念ながら、今日のナマエはカインに色よい返事をすることができなかった。
「いえ、捗々しくないことこの上ない」
「だろうと思ったよ。ナマエの方から俺に街に出たいから案内してくれなんて言い出すのは、机に向かう仕事が行き詰っているときくらいだろ?」
「そんなことないよ」
 見透かされている。ナマエは内心苦笑した。
「カインは美味しいお店をいろいろ知ってるし、街を歩くときにはこれ以上いない相手でしょう。聞くところによればオズ様のこともあちこち引っ張り出してるそうじゃない」
「オズは出不精だからな。それに美味しい店に連れて行けば案外素直に美味いって褒めるから、こっちも連れだし甲斐があるんだよ」
「ああ、それは何となく分かるような気がする。こちらが思っているよりずっと、オズ様の反応って素朴というか素直だよね」
 最近のオズの様子を思い出し、ナマエは相槌を打った。カインも我が意を得たりと深く肯く。
「そうなんだよ。──って、ナマエ、なんだか随分オズのことを分かってきたみたいだな」
「この間オズ様と栄光の街を半日ほど練り歩いたりもしたよ」
「それは凄いな!」
「食事もしたし食後のお茶まで付き合っていただいた」
 にやりとナマエが笑う。オズと行動を共にしたことは、次にカインに会った時に絶対に自慢しようとひそかに決めていたのだ。思った通り、カインは我が事のように喜んでくれた。
「快挙じゃないか。それ、アーサーには知らせてやったのか?」
「自分も一緒に行きたかったって、心の底からがっかりしたお顔をしていらしたよ」
「あはは、目に浮かぶよ」
 カインが声を上げて笑った。
 オズと栄光の街を廻ったことも、ナマエは職務の一環としてアーサーに後日報告をしていた。ナマエとオズとの関係はあくまでアーサーを間に挟んだもの。オズと共にいるとき、ナマエの意識には常にアーサーの存在がゆらめいている。
 もちろん正式な職務の時間中のことではないから、アーサーへの報告といっても茶飲み話のように語っただけではある。ナマエとオズがふたりで食事をしたと聞き、アーサーは子供のようにしょんぼりしたのだった。あまりにも主君ががっかりした顔をするものだから、ナマエはアーサーに土産のひとつでも買っていけばよかったとすら思ったほどだ。栄光の街など城からそう離れてもいないのだから、本来出掛けたからといって土産を買うような場所でもない。
「しかし、本当にオズと親しくなったんだな」
 大通りから路地へと折れ、カインがしみじみと呟いた。路地に折れたのは一応は人目を忍ぶためだ。大通りでいきなり箒を取り出し飛び立てば、いささか悪目立ちしすぎる。
 城に背を向け暫く歩き、商店の並ぶ大通りから一本奥の路地に入ると、途端に視界はぐっと暗くなる。ひしめくように並んだ住居用の建物に、吊り下げられた洗濯ものや果実や日よけ傘。住民のにおいが色濃くにおう。
 カインの箒にまたがって、ナマエはカインの肩に手を置いた。ふわり、足が地面を離れる。カインは洗濯紐に引っかからぬよう、曲芸のように器用に高度を上げていく。
 城下が足元に見えた頃、ナマエはやっと、先程のカインの言葉に返事をした。オズとナマエが親しくなったという話についてだ。
「どうだろう。親しいと思ってもらえていると嬉しいのだけれど」
「大丈夫じゃないか? オズは人を見る目があるからな。きっとナマエも気に入られているはずだ!」
「どうだろう……?」カインの言葉の根拠がよく分からず、ナマエは苦笑した。と、履いていたブーツがうっかり脱げかける。慌てて爪先を上に向け、
「でも少なくとも、厭われてはいないと思う」
 慌てた声のまま、ナマエは答えた。気付いたカインが箒を上空で停止させてくれたので、ナマエはようやくきちんとブーツを履きなおした。
 気を取り直し、魔法舎へと再出発する。気持ちのいいほどの秋晴れで、今日の空には雲ひとつない。後ろにナマエが乗っているのを気にしてか、カインの箒ものんびりとした飛行を続けていた。
「オズ様は不思議な方ね。古より生きる伝説の魔法使いのオーラが全身から立ち上っているのに、話をしていると時々そのことを忘れてしまいそうになる」
「分かるよ。言葉は強くて短いけど、権高な感じでもないし」
「どちらかというと、むしろ労わりや気遣いの人だよね?」
「面倒見はたしかにいいな。オズは俺たちの魔法の先生でもあるが、教え方もうまい」
 カインの話を聞きながら、ナマエはオズがカインたちに魔法を教えているところを想像した。カインやリケがオズ相手にも物怖じしないことはすでに知っている。授業もけして一方的なものではないのだろうことが容易に想像できた。
 ナマエも以前オズの部屋で文献の内容を確認していたとき、古代の言語で分かりづらいところを丁寧に教えてもらったことがある。オズの言葉数の少なさは無駄を省いているだけで、けして言葉そのものを不要と切り捨てているわけではない。
 理解しようとするナマエの気持ちを否定し、繋がるかもしれない糸を断ち切るような真似はしない。
 ナマエのような人間の小娘が、長きを生きるオズを理解しようなどと思うことは傲慢で無謀なことなのかもしれない。それでも、少しでもオズについての理解が深まったと思う時、ナマエは言いようもない嬉しさを感じる。オズと分かり合えるのだと思うたび、ぽつぽつとした喜びが胸に咲く。
「最初はアーサー様に命じられて始めた仕事だったけれど……今は自分の意思で、オズ様のことをもっと知りたいと思うよ。過去のことも、今現在のことも、オズ様にとって大事なこともつまらないことも。それに世界中の人たちに、オズ様のことを知ってほしいとも思う。恐ろしい北の国の魔法使いとしてのオズ様ではなく、本当のオズ様のお姿を」
 今ならばアーサーが何故、城の歴史書に残るオズの禍々しい所業を削除しようとするのか、ナマエにも少し分かる気がした。オズが冷徹で残酷な北の魔法使いだなどとは、アーサー同様、ナマエも思えなくなりつつある。すべてが間違いとまでは言わずとも、どこかで事実がゆがめられたり、あるいは年月を経て伝承がねじれたのではないか──ナマエはそう思い始めている。
 書物の保全は重要だが、誤りは何処かの時点で正さねばならない。その役を自分が担えるというのであれば、これほど光栄なことはない。ナマエの胸を、誇らしさが満たしていく。
「応援してるよ、頑張ってくれ」
 ナマエに背を向けたカインが、力強くナマエを励ました。カインの背にへばりつくナマエには、彼がどんな顔をしているのかを確認するすべはない。しかしカインはいつもの通り、嬉しそうに笑っているに違いない──確信めいたものを感じながら、ナマエもカインに頷き返した。

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