揺るがせてはならない

 その声がオズに似つかわしくなく虚ろに響き、ナマエは不覚にも狼狽えた。
「……え?」
「聞いて、失望したのではないのか」
「聞いた、とは」
「だから私が、夜間に魔法を使えないという──ことについて」
 オズの発した深く暗い言葉の調べが、運河より吹き抜ける夜風と重なった。背後の木立が風に吹かれ、葉ずれの音がばらばらと鳴る。
 それでもオズの発した一言が、夜風でほどけてしまうことはなかった。意味を持った言葉のまま、それはたしかにナマエの耳まで運ばれた。届いて、伝わった。
 その言葉の意味を、理解した。理解してしまった。
「そ──それは、真でございますか」
 分かりにくくも悄然としていたオズが、やおら顔を上げる。憂いをたたえたかんばせは、当惑するナマエの表情を見てみるみる驚きに塗り替わっていく。
 オズもその時点ようやく、自分が無用な言葉を吐いたことに気付いたようだった。
 まぎれもなく、失言だった。
 言わなくてもいいことだった。
「わ、私は──私はただ、中央の国の臣として、私的な理由でオズ様に魔法を使っていただくわけにはまいりませんと、そういうつもりで──申しました」
 知らず、ナマエの声は震えていた。
「賢者の魔法使いは世界のためにその御力を使う方々ですから、その、魔法舎が中央の国にあるからという理由で私のようにたまたまおそばにいる人間が恩恵に浴するというのは、場合によっては国際的な問題の引き金になりかねないかと──そう、思って」
 そう、思って。それだけだった。
 職業意識の発露とでもいうべきか。
 それだけのつもりで吐いた言葉だった。
 まさか自分が、オズの秘密を知ることになるなどとは思いもしなかった。そんな誤解をオズに与えているなど、ナマエは考えもしなかった。
 オズの視線とナマエの視線が交差して、互いに言葉を失い見つめ合っていた。何を言っていいか分からないのはお互い様だったし、ナマエに関して言えばまだ、オズの言葉の意味を完全には理解できてもいなかった。
 世界最強の魔法使いが、夜の間は魔法を失う。
 そんなことは到底信じられることではない。
 けれど。オズは冗談を言うような性格ではないことも、ナマエはすでに知っている。まして、このような話を冗談などで口にするはずがない。オズに限って、それはあり得ないのだ。
 それならば。
「お──オズ様、馬車を拾います。今すぐフィガロ様のところに参りましょう」
 勢いに任せて腰を上げたせいで、手に持っていたカップが音もなく地面に落ちた。周章している。そんなナマエを、オズが表情を消して見つめている。ナマエは立ち上がりオズは未だ座っているのに、視線の高さはそう変わらない。
「何故、フィガロのもとへ」
「フィガロ様は記憶の操作がお得意でいらっしゃると先日伺いました。今オズ様からお聞きしたことを忘れるよう、記憶を消していただくのです」
 彼ならば頼めばおそらく、ナマエの願いを聞き入れてくれるに違いない。ナマエはそう確信していた。何故ならフィガロはオズの兄弟子で、魔法舎では若い魔法使いの面倒を見る古老にも近い立場にいる。オズの秘密を口封じするためならば、得意の魔法を使うことも吝かではないだろう。
 しかしオズは首を横に振る。
「そこまでする必要は、」
「ありますでしょう」
 オズの言葉を遮って、なおもナマエは言い募った。
「オズ様、私は魔法使いではないのです。同じ賢者の魔法使いが事情を知るのとでは訳が違います。もしもオズ様に仇為そうとする者が私からオズ様の情報を引き出そうとしたとき、私には自衛のすべありません。魔法で自白などさせられれば、それこそたちどころに口を割ってしまいます」
 同じ自衛のすべを持たぬ人間でも、晶とナマエとでは役が違う。自衛のすべを持たなくても、晶は賢者として堂々と──晶の意思にかかわらず──魔法使いの保護を受けられる。<大いなる厄災>との戦いを前に、異界より招かれた特別な賢者を害するなどと愚かなことをしでかす者もそうはいない。
 しかしナマエは違う。ナマエは平凡で凡庸な人間だ。たとえ何処ぞで死んだところで、誰かが困るわけでもない。まして、世界が亡ぶわけでもない。
「賢者の魔法使いに害為すことができぬ者でも、私のような無力な人間ならばいくらでも甚振ることができるでしょう。もしも秘密が外に漏れれば、オズ様も、それにアーサー様だって危険に晒されるかもしれません。秘密になさっていることなのでしょう? その、オズ様の、弱点となるようなこと、なのですから」
 オズが世界最強と呼ばれ恐れられるのは、彼が魔法使いであり、そのうえ世界最強であるからだ。それは取りも直さず、魔法が使えない、魔法使いと呼べぬオズなど恐れるに足らぬということでもある。魔法を使えぬオズを倒し排すことなど、魔法使いはもちろん無力な人間にとってすら容易い。
 ナマエは長く息を吐く。動揺して興奮のままに話したせいか、頭がかっかとして熱かった。冷静ではない。冷静でいられる状況ではない。
 しかし、冷静にならなければならない。
 もう一度、直前の呼吸よりもさらに長く、ナマエは深く息を吐いた。そして依然として無表情のままのオズをひたと見据えた。
「……もしもオズ様の身に何かあれば、アーサー様がじっとなさっているはずがありません。私のせいで、アーサー様の身に危険が及ぶようなことがあってはなりません」
 むろんオズの身を心配もしている。しかしそれ以上に、ナマエが懸念するのはアーサーに降り掛かる危険の可能性なのだった。臣下として、常に揺るがせてはならない最優先事項。ナマエがオズの秘密を知ることで、主君の身にいつ危険が及ばないとも限らない。
 オズはひたすらじっと構えて、ナマエの言葉を聞いていた。そしてやはりじっと身じろぎもせず考えこむ。
 ナマエはオズの返事を無言で待った。オズのアーサーへの思いの深さならばナマエも知っている。それ以上の言葉を付け加える必要は何処にもない。たとえ躊躇いの最中にあったとしても、オズが最後にどういう決断をするのか、ナマエには分かるような気がしていた。
 アーサーを案じる気持ちは、オズもナマエもよく似た思いを胸に秘めている。
 果たして、オズは目を閉じ沈黙したのち、
「分かった」
 唸りにも似た苦さの滲んだ声で、そう発した。続けて、
「ただし明朝まで待て。わざわざフィガロの手を借りる必要はない。私が──お前の記憶を消そう」
 フィガロにすら、ナマエがオズの秘密を握ったことを知られるべきではないと考えたのだろうか。オズの提案に、ナマエはかすかな疑問を抱く。
 しかし、そこまではナマエが気を回すことではない。魔法を掛けるのがフィガロであろうとオズであろうと、ナマエにとっては同じことだった。
 ナマエは疑問を振り払い、オズの言葉に頷いた。
「……分かりました。それでは明日、オズ様のお部屋にお伺いいたします」
「私が魔法でお前の部屋に出向く。その方が都合がいい」
 一度そうと決めてしまえば、後は事務的に話を進めるだけだった。今すぐにではないというのは多少の不安をナマエの心に残したが、それでも明朝まではもう何時間もない。いきなり刺客に襲われるとは考えにくかった。
 ナマエは頷く。オズにならば安心して記憶の操作を委ねることができる。心の底から、掛け値なしにそう思えた。
「それでは明朝、グランヴェル城で私が借りている作業部屋にお越しください。屋敷の私室では、万が一家人の目については困りますゆえ。作業部屋は書庫の隣の小部屋ですが、必要であれば城の見取り図を後ほどお届けいたします」
「無用だ。お前がいれば場所は分かる」
 おそらくは、ナマエの気配を魔法で辿るのだろう。ナマエの痕跡が残ったものならば、オズの部屋にはいくつか心当たりがある。一度でもナマエが触れたものがあれば、オズほどの魔法使いにはそれで十分事足りる。日が上った後でさえあれば、世界最強の魔法使いにできぬことなどない。
「今夜はどきどきして眠れそうにありません」
 ぎこちなく笑ったナマエに対し、オズは返す言葉を持たないようだった。そのままオズとは広場の馬車乗り場で別れ、ナマエは緊張で重たい心を抱えたまま、ひとり遅い帰路についた。

 その晩、ナマエは一睡もすることなく明朝を迎えた。一応ベッドには入ったが、とてもではないが眠気などやってこない。オズの秘密を知っている、世界最強の魔法使いの秘密を握っている──自分が、世界の趨勢をすら変えかねない情報を握っている。そう思うだけで心臓は嫌な昂りを覚え、じとりと汗が滲んだ。
 結局、自室に持ち込んだ資料の整理をして夜を明かすと、夜明けとともに家を出て城の作業室へと向かった。
 馬車の窓から外を覗くと、朝焼けに照らされた街並みが眩しく目に沁みた。しかし、夜明けを迎えたということはオズの魔法が彼の掌中に戻ったということでもあるはずだ。そのことを思えば少しだけ、ナマエの心はほっと安堵を覚える。
 ──世界最強の魔法使いが人間の、アーサー様の味方でいてくれるということを、私は気付かないうちにこれほどよすがにしていたんだ。
 もっともそれは、ナマエだけが持つ感情ではない。オズを脅威とする以上に頼りに思っていること、そしてオズさえいれば自分たちの足場は盤石だと信じ切る気持ちは、特にこの中央の都の人間には深く根付いているのだと、ナマエは寝不足の頭で考える。オズの伝承が広く伝わっていればいるほど、その波紋の効力は強い。
 ──事実以上に恐ろしく伝わっている伝承も、悪いばかりではないのかも。
 欠伸をどうにか噛み殺し、ナマエは瞼を閉じた。昨日から今朝まで、ナマエはほとんど活動し詰めなのだ。城までの距離はわずか、仮眠をとるにも足らないが、安堵で重くなった瞼に抗う気力も残ってはいなかった。

 明け方の城はすでに人の気配がそこかしこに漂っている。人目を忍んで書庫の隣の作業室までナマエが辿り着くと、直後、室内に何処からともなくオズが姿を現した。
「おはようございます、オズ様」
「おはよう」
 意外にもきちんと挨拶を返されて、ナマエは却って言葉に詰まった。朝の挨拶と世界最強の魔法使いというのは、どうにも何だかしっくりこない気がする。しかし実際にはオズとは昼間に会うことの方が多いのだから、そう思うのもナマエの中のオズへのイメージがまだまだダークな面を拭いきれていないというだけなのかもしれない。
 しかしそのオズに、ナマエは今からすべてを委ねて記憶を消してもらうのだ。信用も信頼も、きちんとオズに寄せている。恐らくはオズが想像している以上に。
「ええ、と……その、魔法、ですが、どうしたらよろしいでしょうか」
「普通にしていればいい。しかし記憶を失う前後には意識を失う。その椅子に腰かけていれば怪我をすることもないのではないか」
 オズを迎えるまでナマエが座っていた肘掛け椅子を視線で示し、オズが無駄なく指示をした。言われたとおり、ナマエは椅子に腰を下ろす。オズを立たせたまま自分だけ座るのは落ち着かないが、そんなことを言っている場合でもない。
 椅子に掛けたナマエの前に、オズが立ちふさがるように進み出た。オズの手に握られた杖が、ゆらりとナマエの方に向けられる。いよいよかという段になり、ナマエはひとつオズに伝えねばならなかったことを思い出した。
「あの、オズ様」
「どうした」
「申し訳ございませんが、こちらをお持ちいただけますか」
 ナマエはあたふたと、机の上に置いていた万年筆を取りオズに手渡した。オズが受け取り、それをしげしげと眺める。
「これは」
「私にとって大切なものです」
 言うまでもなく、アーサーより賜った大切な万年筆だった。オズにも一度、話の流れでどのような品なのかを話したことがある。軽はずみにオズの部屋に置き忘れてきたことも一度はあったが、ナマエがそれを大切にしていることは紛れもない事実だ。
「魔法を掛け終えたのち、私にまたお戻しください」
「……分かった」
 オズは万年筆を手渡したナマエの真意に気付いているのかいないのか、表情をぴくりとも動かさずに僅かに顎を引いた。それを了承の意と受け取って、ナマエも一度頷いた。
 そして頷きついでにひとつ、気になっていたことをオズに尋ねた。
「ひとつだけお伺いしたいのですが」
「何だ」
「その、記憶を触るというのは、痛みを伴うものですか?」
 弱気が声音に滲まぬよう、ナマエは目に力をこめオズに尋ねた。
 むろんナマエとて、オズこそ世界最強の魔法使いであるのだから、オズ以上にこの仕事をうまくやってくれる魔法使いはいないだろうとは思っている。しかし、恐ろしいものは恐ろしいのだから仕方がない。記憶など本来自分の意思でどうこうできるものでもない。
 恐ろしいものは恐ろしい。不安なものは不安。
 それはもう、仕方がないことだ。
 ナマエは椅子に腰かけたまま、オズの顔を恐々見上げる。ナマエを見下ろすオズの瞳は、心なしかナマエを気遣っているようにも見えた。
 やがておごそかな口調で、オズは言った。
「苦痛はない。目覚めたとき、多少の混乱はあるだろうが」
「そうですか。それならば大丈夫です。どうかよろしくお願いいたします」
 覚悟を決め、ナマエはそっと瞼を閉じた。むろん完全に安心したわけではない。そもそも魔法がどういうものなのかも分からないのだから、安心などしようがない。
 それでもオズが苦痛はないと言ったのだ。これ以上何を言われ、何の言葉を聞いたところで、今よりも不安が和らぐことなどないはずだった。
 もともと薄暗い部屋なので、目を閉じるだけですぐに視界は深い暗闇に閉ざされた。自らの呼吸の音ばかりがやけに耳につく。
 ふいに空気が、ぴんと張りつめたような気配がした。
「≪ヴォクスノク≫」
 はっと、思わず息を呑む。けれど次の瞬間には、ナマエの意識はとろりとしたものに包み込まれたかのように曖昧になる。心地よい眠りに引き込まれていくように、そのままナマエは意識を失った。

 ★

 頭の中で何か小さな破裂音を聞いた気がして、ナマエは一気に意識を覚醒させた。
「はっ!」
 まるでばね仕掛けの人形になったかのように、ナマエは目を開くのと同時に椅子から立ち上がった──立ち上がり、自分がよく知った作業部屋にいることに気付く。明り取り用に設えられた窓から差し込む光は爽やかで、今がまだ朝の早い時間なのだと理解した。しかし直前までの記憶がどうにも曖昧だ。自分が何故ここにいるのかすら、ナマエには思い出すことができなかった。
「えーと……私、ここで仕事をしていて……それでそのまま寝落ちでもしていたのかな……?」
 誰に確認するでもなく、ナマエは大きく独り言を呟いた。そうとしか思えないような状態だったが、そう納得するには何かがうまく噛み合わない気もした。
 見ればナマエは文官の制服を着ている。ということは一度は家に戻って着替えをしたということだ。記憶がどこから不確かなのかすら定かではないが、昨日の自分がオズと半日栄光の街で過ごしたことだけは、かろうじて覚えていた。
「ううーん……ここのところ疲れていたからね」
 記憶があやふやになるほど疲れていたのだ、そうに違いない、とナマエは自分を納得させた。納得させると、同時にぐうと腹の虫が鳴く。この空腹の具合から察するに、朝食はおろか夜食すら食べていないのだろうと、ナマエはひとまず厨房に向かうことにした。
 と、部屋を出るべくくるりと振り向いたところで。
「わぁっ!?」
 ナマエのすぐ背後に、オズがぬっと立っていた。
「あっ、えっ、どうして……いえ、おはようございます」
「……おはよう」
「おお……」
 困惑の中にありながらも、オズから朝の挨拶が返ってきたことにナマエはかすかな感動を覚えた。しかし感動してもいられない。ただでさえナマエは自分がこの場所にいる理由も分かっていない。それなのにその上オズまで存在するとなれば、一層事態は混迷を極めた。オズのような偉大な魔法使いが、城の書庫の、さらに隣のこの作業部屋に足を運ぶ理由がない。
「ええと、その、オズ様はどうしてこちらに? というかどうして私もここに……?」
 ナマエは困り果て、率直にオズに問いかけた。それはひとえに、自分には理解不能な状況もオズにならば理解可能であるかもしれないという、ささやかな希望による問いかけだった。
 そんな藁にも縋る思いのナマエに答えるかのように、オズはおもむろに左手を上げ、ナマエに向けて差し出した。
「これをお前に届けに来た」
 そう言ってオズが手渡したのは、ナマエがアーサーから賜ったくだんの万年筆だった。
「こ、これは……! まさか私はまた失くして、しかもそのことに気付かず……?」
 オズは何も答えない。しかしその沈黙こそが肯定の何よりもの証なのだと、ナマエはそう判断した。
 急ぎオズから万年筆を受け取ると、ナマエは深く頭を下げた。これで少なくとも、オズがこの場所にいる理由には説明がつく。オズはこの作業部屋に用があったのではない。ナマエに万年筆を返すという用があり、たまさかナマエが作業部屋にいたので此処まで出向いただけなのだ。
 オズには以前にも、この万年筆が大切な品であることを話してある。それでわざわざ届けてくれたのだろう。ナマエは何度も頭を下げた。
「お届けくださりありがとうございます、オズ様。朝早くから申し訳ございませんでした」
 やはりオズは何も言わなかった。ナマエがこの万年筆を置き忘れるのもこれで二度目、呆れて言葉もないのかもしれない。実際、ナマエ自身あまりの情けなさに呆然としているのだった。まさかこの短い期間の間に、二度もオズのもとに万年筆を忘れるなどと思いもしなかった。
 万年筆はナマエの手の中、銀装飾を美しく輝かせている。アーサーの佇まいにも似た清廉な軸は、朝の光を受けひたすらに優美だ。
「こんなにも大切なものを何度も置き忘れてくるだなんて……。いよいよアーサー様に顔向けできません。こんなことでは臣下として失格です」
 いつになくナマエがしょぼくれ、愚痴ともつかない気弱な言葉を口にしたそのとき。
「そんなことはない」
 挨拶をしたきりずっと黙りこくっていたオズが、唐突にはっきりとナマエの言葉を否定した。突然のことにナマエは面食らい「え?」と間の抜けた声を発する。
 ナマエをまっすぐ見下ろすオズの目は、少しの侮蔑も揶揄も、それどころか照れすら感じさせないほどに、ひたとナマエを見つめていた。
「おまえはアーサーの臣下としてよくやっている」
「あ、ありがとうございます……?」
 何故万年筆をオズに届けられた自分が褒められているのかも分からずに、ナマエは困惑したままふたたび頭を下げた。

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