もっとも合理的な方法

 食事を終えたふたりが店を出たのはとっぷり日が暮れた後だった。早めにレストランに入ったはずが、思いがけず長居をしてしまったらしい。
 肝心の会話はといえばナマエが話してばかりだったが、ナマエも最低限聞きたいことは聞けたので満足している。何よりワイン片手に耳を傾けるオズの表情がいつになく優し気だったので、ついつい調子に乗っていつも以上に話し過ぎてしまったのだった。
 昼間はからりとしていた街の空気も、日が暮れればしっとりと重い。オズとナマエは大通りに沿って歩き始めた。大通りは運河に面しており、このまま道なりに歩いて行けばじきに馬車を拾うこともできる。
「あら?」
 と、店を出て暫く歩いたところで、ナマエがふいに懐に手を遣り首を傾げた。オズが足を止める。ナマエはオズを見上げると、困り果てて眉尻を下げた。
「懐中時計を持ってきていたはずなのに、何処かに忘れてきてしまったようです」
「懐中時計?」
「仕事で使っているものを持ってきていたんです。今日はデートの後に城で仕事をするつもりだったので」
 オズの顔にははっきりと「休日だろうに」だとか「デートを切り上げて仕事をする気だったのか」と書かれていた。しかしそれをわざわざ口にしないのは、ナマエがそういう人間であることをオズが分かり始めてきたからだろう。ナマエがオズを知っていくのと同じだけ、オズも少しずつだがナマエについての理解を深めている。
 オズの顔に書かれている正論には気付かないふりをして、ナマエはひとつ溜息を吐いた。
「仕方がない、通ってきた道を探していくしかなさそうですね。オズ様、申し訳ありませんが私はここで失礼させていただきます。今日はお付き合いくださりありがとうございました。大変楽しく過ごさせていただきました。それでは」
「待て」
 挨拶をして踵を返そうとするナマエの肩に、オズがすっと手を掛けた。ナマエが驚き振り返れば、呆れているのか不機嫌なのか、とにかく仏頂面のオズと視線が合う。
「ひとりで夜道を歩くべきではない。私も行こう」
「え? い、いえ大丈夫です。どうかお気になさらずオズ様は魔法舎へ」
「この街の住人は陽気で気さくだが、だからこそ夜間に土地の者ではない若者がひとりで出歩くべきではない」
「それは、たしかにそうかもしれませんが……」
 ナマエは戸惑いを覚えたが、一方でオズの言うことが一理あることを認めないわけにはいかなかった。栄光の街は華やかで陽気な土地ではあるが、半面夜間の治安の悪さで言えば中央の国の中でも指折りだ。西の国の歓楽街ほど羽目を外せる店はなくても、まったくいかがわしい場所がないわけではない。場所によっては騎士くずれのごろつきが居ついていることもある。
 いくら土地勘があっても、ナマエはこの地の出身者でも住民でもない。夜の街の歩き方までは心得ていない。
「着ているものを見ても、お前の身分が高いことは分かる。そういう女は拐かしや金品を奪取しようとする不逞の輩にとって、これ以上ない狙い目になる」
「……御尤もです」
「同行する」
「それでは……お願いいたします……」
 結局オズに供をお願いすることにして、ナマエはとぼとぼ歩き出した。
 まずは先程後にしたばかりのレストランに戻り、座席のあたりを確認する。一応店員にも確認してみたが、落とし物を預かってはいないとのことだった。特別高価なものというわけでもないから、拾った誰かが持ち去ったということもないだろう。特にこの店は客層も悪くはない。手癖の悪い人間があまり寄り付かないことを知っていて、ナマエはこの店を選んだのだ。
 店を出て、広場への道を歩く。そして今度は運河に沿って、昼間歩いた道を、暗く染まった地面に目を向け遡っていく。オズは言葉少なにナマエの後ろをついてきた。ナマエのように地面に目を向けてはいない。どちらかといえばナマエが探し物に集中できるよう、オズが周囲に注意してくれているようだった。
 それでも時折、オズが何か言いたげに口を開いては、結局何も言わずに口を閉ざすということを繰り返しているのがナマエにも分かった。最初は探し物に心当たりでもあるのかと思ったが、どうもそういうわけではないらしい。
 オズがもの言いたげにするのはいつものことなので、ナマエもわざわざオズに何を言いたいのかと問いただすことはしなかった。口にしないというのであれば、口にしないだけの理由がオズにもあるのだろう。そう片づけ、ナマエは探し物に集中する。
 そうして長く歩き続け、気付けば昼間、オズと出会った辺りに近いところまで戻ってきていた。さすがに草臥れ、ナマエは疲れた顔で足を止めるとオズを見上げた。
「ううーん、なかなか見つかりませんね」
「その懐中時計というのは、お前にとって大切なものなのか」
「見つからなければ仕方がないと、諦められるものではあるのですけれど」
 それこそアーサーより賜った万年筆のような特別な品ではない。単に馴染みのものを紛失するのは気分が悪いというだけの話だ。オズはまたしても眉間に皺を寄せている。堅気の人間ならば話しかけるのを躊躇うほどの凶悪な面相だ。
 連れまわされていい加減疲れているのだろうか。ナマエは探し物のかたわら、オズの表情を盗み見て思案する。しかし、そうは言ってもオズから半ば強引にナマエの供を申し出たのだ。自ら言い出したことで不機嫌になるとも思えない。
 夜風がごうと音を立てて吹き抜ける。ナマエはほんの少し肩を丸めて、自分の肩をそっと抱いた。
「だんだんと冷えてきましたね。やはり昼間は暑くても、夜は結構冷えます。河の近くだからというのもあるのでしょうが」
 そう笑ってから気付く。
 ──もしかしたらオズ様、寒くて眉間に皺が寄ってしまったのかしら。
 そうであれば尚更、早く探し物を見つけた方がいい。そして無事に見つけたあかつきには、お礼にあたたかい飲み物の一杯でもご馳走しよう。そうナマエは心に決める。
 視線を前方に向けると、ちょうど昼間に立ち寄った書店が、店じまいのため片づけしていた。店の前に出された看板を、老いた店主が慣れた様子で片づけている。
「あっ、あそこの本屋さんにも寄ったんでした。少し見ていってもいいですか? ぎりぎり閉店に間に合いそうなので。オズ様はこちらでお待ちください。すぐに戻ってまいります」
 大急ぎでそう告げると、ナマエはオズの返事も待たずに書店に向け駆けていく。背後で一瞬オズが動く気配がしたが、追いかけてくることまではしなかった。

 果たして、書店の主に尋ねてみたところ、ナマエの懐中時計は落とし物として主に届けられていた。どうやら本を選んでいる時に懐から出して時間を確認し、無意識のうちにそのまま近くに平積みされていた売り物の本の上に置いてしまったようだった。大切に保管してくれていた書店主に何度も何度もお礼を伝えてから、ナマエは急ぎ足でオズのもとへと戻った。
 オズは店のすぐそばで、所在なさげにぼうと立ち尽くしていた。
「お待たせいたしました、オズ様。ありました、見つかりました!」
 息を弾ませ近寄れば、オズはナマエの顔と、それからナマエが手に持った懐中時計を交互に眺めた。
「探していたものはそれか」
「はい。どうやら店の中を見ていたときに取り出して、そのまま」
「今後は注意した方がいい。皆が皆、そこの店主のように善良な人間とは限らない。持ち逃げでもされてしまえば、見つけ出すことは難しかっただろう」
「オズ様のおっしゃる通りです。今後はよくよく気を付けます」
「そもそもお前は、少しそそっかしいところがある。この間も私の部屋に万年筆を──」
「そ、そうそう、オズ様」オズの小言が始まりそうな気配を察し、ナマエは急いで口を開いた。「ここまで付き合っていただいたお礼と言っては何ですが、お茶をご馳走させていただけませんか? そこの露店でホットワインや紅茶を売っていて、それが美味しいんですよ」
 どうにか話を誤魔化しつつ、先程思い付いたささやかな提案を口にする。しかしオズの反応は芳しくない。ナマエは気まずげに、胸の前でもじもじと指を組んだ。
「さ、さすがに図々しかったでしょうか……? もう一刻も早くお帰りになりたい、でしょうか?」
「そうではない、そもそも礼など不要だ」
「ですが、私はお礼をしたいのです。オズ様さえよろしければ、もう少しだけお付き合いいただけませんでしょうか?」
 もちろん無理にとは申しませんが、とナマエがおずおず付け足す。オズは暫しの思案ののち、やがて妙に渋い顔でゆっくり深く頷いた。
「分かった。しかし一杯だけだ」
「ありがとうございます!」
 ほっと肩の荷が下りたような気分になり、ナマエは顔を綻ばせた。オズはまた、何とも言えないような複雑な顔で口を閉ざして立っている。
 さっそく露店に向かい歩き出す。露店はふたりのいる書店前とは目と鼻の先だったので、そう歩くこともない。
 オズにはホットワインを、自分には熱い紅茶を注文した。レストランでもオズはそれなりにワインを飲んでいたが、まったく酔っている様子はない。ナマエなど最初に一杯飲んだだけにも関わらず、いまだに頭の芯がぼんやりしている。
 飲み物のカップを持ち、すぐ近くのベンチに並んで腰かけた。ちょうど運河を臨むようにベンチが据えられていたので、視線を上げれば水面に月が映って揺れているのがよく見えた。さすがに夜間なので観光客を乗せた舟は浮かんでいないものの、昼間はほとんど見られなかった大きな荷を積む船が何隻か行き来している。
 情緒のある風景とは言い難い。しかしオズがぼんやりと船に視線を遣っている様子を見るに、こういう景色を見ることは少ないのだろうと察しがついた。魔法使いは船に乗るのだろうか。北の国には大きな船はあるのだろうか。そんなことを考え、今度調べてみようかとナマエは取り留めもなく考えた。
 買ってきたばかりの紅茶は煮出したばかりだったのか、舌を火傷しそうなほどに熱かった。
「そこの露店、ホットワインを出したのはつい昨日からだそうですよ。そろそろ夏も終わりだからって」
「そうか」
「もうそんな季節なんですねぇ」
 そんな話をしながらふと、ナマエは自分がオズとはじめて会ってから二か月以上経つことに気付く。なんだかんだと慌ただしくしているうちに夏が終わってしまっていた。伝記編纂の完遂までの道のりはまだ遠い。ひと夏を終えてなお、事業が進んだ実感はほとんどなかった。
 ──二千年以上も生きているオズ様にとってはこの夏など、ほんの一瞬のような時間だったのかしら。
 ふいにそんなことを考える。オズとも言葉は通じるし、現に今日は半日をともに過ごした。ナマエにとって、今日の半日は充実した時間だった。しかしオズには今日の半日もこのひと夏も、いずれ瞬きほどの短い時間だったのかもしれない。充足感を覚えられるほど、意味のある時間ではなかったのかもしれない──短い時間だからこそ、一緒にいるのを許してくれているのかもしれない。取り留めもなくそこまで思考が及んだところで。
「へ、っくしゅ!」
 勢いよくくしゃみが出て、ナマエは鼻をすすった。運河の川面を揺らした夜風はひんやりとして冷たい。ナマエが温い紙のカップを両手で握りこむと、オズはかすかに身じろぎをした。
「上着を持ってきていないのか」
「え? ああ、はい。まさか夜まで外にいることになるとは思わなかったので」
 何せ昼間はまだまだ残暑の厳しい季節。羽織など持ってきてはデート相手に「夜まで一緒にいましょうね」と言っているようなものだ。ナマエにまったくその気はない。
 オズの視線がナマエから逸れ、自らの肩から袖口へと流れる。そのまま黙して袖口を凝視するオズを見て、ナマエが笑いを零した。
「大丈夫ですよ。熱い飲み物を飲んでいますから、だんだんと身体があたたまって参りました」
「そうか」
「それに、オズ様のお召し物は私にはちょっと重たそうな気がします」
 ナマエがそう付け加えたその瞬間、オズが今日一番の深い皺を眉間に刻んだ。並大抵の人間ならば、オズが伝説の魔法使いと知らずとも震えだしそうな形相だ。もっともナマエはオズが伝説の魔法使いだと知ってはいても、冷酷非道なだけの魔法使いでないことも知っている。
「勘違いでしたら申し訳ございません」
 笑顔のままで軽く頭を下げると、すぐに顔を上げた。オズは決まりが悪そうに視線を明後日の方向に向けている。その表情こそが却ってナマエの推測──オズがナマエに上着を貸そうかと思案しているのではないかという推察を、はっきりと裏付けているようだった。
「私にとっては、オズ様の身体を冷やしてしまう方がまずいのです。私はこれでも結構頑丈なのですよ」
「くしゃみをしていたが」
「あれはまあ、そういうこともございます」
 ふふふと笑って、ナマエは紅茶に口を付けた。数か月前にはまさか、自分がオズの前で笑っているなどとは想像もしなかった。人生何がおこるか分からないものだ。もっとも、変化したのはオズへのナマエの構え方であって、オズは何ひとつ変化していないのかもしれない。それこそ二千年以上生きている魔法使いが、たった二か月で心情に変化をきたすことなどそうそうなさそうだ。
 ──それでも、この変化は間違いなくいい方向への変化だ。
 ナマエは嬉しさによる微笑みを隠さず、カップに残っていた紅茶を一気に飲み干した。熱い液体のかたまりが、喉から腹へ落ちていく。そんなナマエをオズがむすりと見つめている。
 やがてナマエがカップを口から離しひと息吐いたところで。
「お前は何故、私を利用しようとしない」
 低く深く、あたかも箴言を紡ぐようにおごそかに、やおらオズが投げかけた。ナマエは一瞬虚をつかれ、へ、と気の抜けた声を口から漏らす。
「利用──とおっしゃいますと?」
「こういうとき、人間は魔法使いに魔法を使って助けろと乞うものだ。寒ければ暖めよ、というように。──失せ物があれば見つけよと」
「オズ様にそのようなことを乞う命知らずな人間が?」
「私に頼む者は少ない。しかし他の魔法使いはしばしばそういうことを言われるものだろう。魔法使いは魔法を使えるのだから、人間を助けて当然だと言われることは珍しくない。人間とはそういうものだ」
「なんだかオズ様には前にも似たようなことを言われた記憶があります。貴族とは、というような」
 苦い顔でナマエは答えた。たしか貴族は頭を下げないものだとか、そういう話であったようにナマエは記憶している。
 もしかするとオズは案外、貴族とは、人間とは、というような属性で相手を眺めているのかもしれない。というよりも長く人間から離れた場所で暮らすうち、自然とそうなってしまったのだろう。
 オズにとって、目に映る人間はおしなべて自分に庇護を求める存在。北の果てでの暮らしでは、個々の人間の顔を覚える必要などなかったに違いない。あるいはアーサーを連れ戻しに来た中央の官人も、一人ひとりを識別するまでもなく現れ、去っていったに違いない。
 貴族とは、人間とは。オズが定型で人間の反応を想定するのは、それがもっとも合理的な方法だからだ。個を識別する必要はない。よしんば識別したところで、その個はすぐに死んでしまうのだから意味をなさない。
 長命のオズからしてみれば、すぐにいなくなるひとりひとりを理解し、記憶するのはただただ面倒でしかないのだろう。しかし目の前のただひとりと相対する場合、それは必ずしも正解とは限らない。
「私は人間ではありますが──少なくとも私はそのようなこと、乞いませんよ」
「何故」
「オズ様のお力を当てにはできませんでしょう」
 要するに、そういう人間による無自覚な仕打ちに、辟易する魔法使いが多いという話ではないのだろうか。だとすれば、ナマエがその仕草をしないことについて、オズから責められているわけではないはずだ。だからナマエははっきりと、オズの目を見て返事をした。
 臆することなく、真紅の瞳を見つめた。
 しかしオズは、ナマエの視線から逃れでもするように、すっと瞳を伏せてしまう。美しくも雄々しい横顔が、にわかに憂いを帯びた気がした。ナマエの胸を違和感が掠める。
 けれどもナマエがその違和感を掴むより先に、
「……聞いたのか」
 ぽつりとオズが一言問うた。

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