王子のお墨付き

 このところ時折魔法舎に出入りしている少年は、実際には少年ではなく今年二十歳をむかえたばかりの女性文官である。きりりとした眉に、ひとつに結わえまとめられた髪。まだ娘と呼べる年頃の女性でありながら少年のように見えるのは、化粧っけがないからでもあるが、何より彼女のいでたちが、聖職者のような丈の長い上衣にズボンとブーツというものだからだろう。
 名をナマエ・ミョウジという。革命により現王朝が勃興して以来、代々文官として仕えた家の末娘である。
 上衣の裾を翻して魔法舎の扉を開けた彼女は、迷いなく談話室へと歩を進める。途中すれ違った魔法使いに会釈をしながら談話室へと入ると、室内が無人であることを確かめてから、ソファーのわきに直立した。
 中庭に面する大きな窓からは、燦々と陽光が差し込んでいる。ほんの一瞬、ナマエは前方に向けていた視線を窓へと遣り、そして溜息をつく──つこうとして、談話室へと向かってくる人の気配に気づいてはっとした。
 ほどなくして、談話室の扉が音もなく全開になった。瞬間、ナマエしかいない談話室の気配がきりりと締まる。絨毯ばりの床は足音も何もかも吸い込むが、ドアの向こうに立つ人物は重く冷たい空気を纏わせているから、側にくればいつでもすぐにそうと分かる。
 談話室に姿を現したのは、ナマエの待ち人でもあるオズだった。その長身から発するただならぬオーラにすくんでしまいそうになるところを、どうにか気力を奮い立たせて礼をとる。
「お忙しいところお時間作っていただきありがとうございます」
 強張った顔できびきび言うと、
「かまわない」
 と端的な返事が返ってきた。
「今回は『オズの爪痕』での伝説について、お話を伺いたいと思っています。こちらで城の書架に残されていた記録をもとに草稿をつくっていますので、まずはそちらに目を通していただき齟齬がないか確かめていただけますか。その後調査の中で浮かび上がった疑問点について、お話を伺えたらと思います」
「そのようなもの、おまえたちが好きなように書けばいい」
「よろしくお願いいたします。アーサー殿下が伝記の完成を楽しみに待っておられます」
 本来であれば、一文官に過ぎないナマエが一国の王子の名を軽々に持ち出すことは、とてもではないが許されることではない。しかしこの仕事に限ってはその限りではない。今のナマエは上司の指示を離れ、ただアーサーの命にのみ従い役目を果たそうとしていた。
「こちらが草稿です」
 むすりとした視線を受けたまま、ナマエは持参した草稿を、半ば突き付けるように差し出す。ナマエの顔と草稿を交互に見遣ったオズは、不承不承といった様子ながらもそれを受け取り、どかりとソファーに体を沈めた。
 連ねた文字を億劫そうに、それでも丁寧に読み進めていくオズの表情は険しい。心胆を冷やすような思いをしながら、ナマエは目の前の長身の男から逃避するように、視線をまた窓の外のうららかな風景へと転じた。

 中央の国の首都にそびえる城は、その主であり現国王の血筋でもあるグランヴェルの名を冠している。まばゆい白壁に目の覚めるような蒼の屋根は、旅人だけでなく中央の城下に住まい日々王城を目にしている国民でも、思わず息を漏らすほどだ。
 そのグランヴェル城にあるアーサー王子の私室では、ナマエが椅子をすすめられ困惑した顔をしていた。
「オズ様の伝記、ですか」
 湯気をたてる紅茶のカップに手もつけず、ナマエは困り果てたようにアーサーの言葉をただ繰り返す。アーサーは端正なかんばせに憂いを浮かべ、神妙な様子で肯いた。
「そうだ。かねてより暇を見つけては城に残っていた書物に目を通していたんだが、どうにも事実無根のものや大袈裟に書き立てたものも多くてな。このあたりで一度、正しいオズ様のお姿を著し後世に伝えるものを編むべきかと思うんだ」
「なるほど」
 アーサーの言わんとするところを理解し、ナマエはそれだけ返事をした。
 アーサーが幼少期、国王の妃である実母に捨てられ、世界最強の魔法使いオズに育てられたことはナマエも知っている。アーサーよりも三つ年上ではあるが、ナマエはアーサーが北の国より戻って以来、何かと話し相手になることも多かった。高級文官の家に生まれ才媛にと育てられたナマエは、アーサーの話し相手としてうってつけだったのだ。
 だからこそ、アーサーの言葉にどのように返答すべきかナマエは悩んだ。いくらアーサーがオズに恩義を感じているといったところで、多忙の王子がみずから世界最強の魔法使いに肩入れするようなことはすべきではなかった。
「とはいえ差し出がましいことを申しあげますが、殿下はご多忙でいらっしゃいますから……」
 だから今は、そのようなことをしている場合ではない。暗にそう窘めたはずだったのだが、どういうわけだかアーサーは、ナマエの言葉を待ち構えていたように表情を輝かせた。
「そうなんだ。暇を見て私がどうにかしようと思っていたが、正直に言うとなかなか難しかった。そこで、おまえにこの任を就いてもらおうと思うんだが、どうだろう」
「え? こ、この任とは」
「ナマエにオズ様の伝記を編んでもらいたい」
 まばゆい笑顔で告げられて、ナマエは思わず座っているのに眩暈を覚えた。
「た、たしかに我が家系は代々、王城の各省で書記官の位を拝命いたしておりますが……、ですが私はまだ、そのような重大な仕事をお任せいただけるような立場ではございません。アーサー様もご存知でしょう」
「ああ、だがその分ナマエは自由に動くことができる。まだ決まった省への配属はないのだろう?」
 朗々と問われ、ナマエは渋々肯いた。アーサーの言うとおり、ナマエは仕官こそ決まっているものの、まだ正式な配属先が決まっているわけではない。本来であればとうに仕官している年頃だが、数年前に東の国に遊学に出ていたため仕官の時期が遅れていた。
「それならば、新人のひとりに私の一存で仕事を任せてもいいのではないだろうか。もちろんドラモンドや君の父上にはすでに話が済んでいる」
「……さすがでございます」
 要するに、ナマエに拒否権はない。もとより下っ端文官のナマエには、アーサーの命を撥ねつける権利などありはしない。
「オズ様は当代一の魔法使い──いや千年以上の長きにわたってもっとも強く、人々を援けてきた魔法使いだ。賢者の魔法使いたちの功績は正しく記録に残すようにと伝えてあるが、巷間に流布するオズ様へのいわれなき中傷やおそれを糺していくこともまた、魔法使いと人間の隔てを取り除く一助になるだろう」
 それもそうだろうとは思うのだが。それでもまだ、ナマエは肯くのを躊躇した。それも仕方のないことで、ナマエにとってのオズは伝説の怪物のようなものなのだ。そしてその認識を今更改めずとも、これといって困ることもない。
 だから思案のすえにナマエが肯いたのは、ひとえにアーサーの忠臣として、あるいは友人として、アーサーの望みを叶えたいというただそれだけの理由に依った。
 ソファーから腰を上げ、ナマエはブーツの踵を揃え立つ。正式な場ではないが、王子からの命だ。腰を屈め、恭しく礼をとった。
「アーサー様のお考えは理解いたしました。もとより私はアーサー様の臣下にございますれば、アーサー様直々のご命令を聞かぬ道理はありません」
「そう固くなるな。私とおまえの仲ではないか」
「……アーサー様のお願いなら、喜んでお聞きいたします」
「ありがとう、ナマエ。やはりおまえに頼んでよかった」
 ナマエが顔を上げると、アーサーは心底嬉しそうに破顔していた。そのあどけない笑顔を見ると、ナマエの胸がきゅんとときめく。
 ナマエが遊学に出ていた期間もあるから、ナマエとアーサーはけして長い時間をともに過ごしたわけではない。それでもナマエはアーサーを弟のように思っていたし、こうして喜んでもらえることは単純に嬉しかった。
 ──気乗りはしないけど、アーサー様のために全力を尽くそう。
 ナマエはひっそりと心を決める。と、アーサーが笑顔のまま機嫌よく言った。
「それに実のところ、オズ様に直接聞き取りをするとなると人選が難しいんだ。何せ相手はオズ様だろう。聞き上手で公正、なおかつ物怖じしない性格でなければ務まらない」
 その言葉に、ナマエの笑顔がこわばった。
「お、お待ちください、アーサー様」
「ん? どうした?」
「その、伝記を編むというのは残された記録を精査し、必要に応じて実地調査をするだとか、そういうことではないのですか?」
 ナマエの背を、冷たい汗がつうと流れる。アーサーはきょとんと首を傾げた。
「そうだぞ」
「しかし今、その、オズ様に直接聞き取りと」
「もちろん、過去の時代の偉人の伝記を編むわけではない。魔法舎に行きさえすればオズ様とは会えるのだから、何かあればオズ様本人に聞くのが早いだろう?」
 当然のように告げるアーサーの言葉に、ナマエは血の気が引いていくのを感じた。文官の仕事には当然力仕事もあるが、基本的にはデスクワークが中心だ。間違っても世界最強の魔法使いと対峙することはない──はずだった。
 幼いころから人一倍書物に慣れ親しんできたナマエだから知っている。世界最強の魔法使いは、世界でもっとも恐ろしい魔法使いでもある。武の心得などほとんどないひ弱な人間が、世界最強の魔法使いの眼前に立ち果たして無事に生きて戻ることができるのだろうか。アーサーには悪いが、ナマエにはその自信はまったくなかった。
 そんなナマエの気も知らず、アーサーは朗らかに「大丈夫だ」と請け負った。
「オズ様は慈悲深い方だし、おまえは私の友人だ。きっとすぐに打ち解けることができる」
 世界最強の魔法使いと打ち解けるとは。しかし今更王子からの命を退けられるはずもない。ナマエは呆然と、湯気の立たなくなった紅茶のおもてを見つめた。

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