厄災を齎す

 大きな留め具でまとめた紙の束を差し出して、ナマエは相変わらずの引き攣った笑顔をオズへと向けている。
「本日もお時間をいただきありがとうございます、オズ様。こちらが本日分の草稿です。ご確認ください」
 はきはきと決まり口上を口にしたナマエに、オズはいつも通りの険しい表情で、返事もせぬまま草稿を受け取った。そのまますぐに談話室の肘掛け椅子に腰をおろし、黙って視線を紙面に落とす。手持無沙汰になったナマエはオズから声がかかるまで、暫し窓の外を眺めて時間を潰すことにした。
 今日の魔法舎訪問はナマエにとっては二週間ぶり、三度目の魔法舎である。この二週間、ナマエは前回オズに見せた草稿をまとめなおしたり、関連する新たな逸話のいくつかについて調査したりして忙しく過ごしていた。何せアーサー直々に任じられた仕事であるから、優先度は当然高い。しかしこの伝記編纂の担当者は、この国にナマエただひとりなのだ。悠久にも等しい時を生きる最強の魔法使いの伝説は枚挙にいとまがなく、ナマエが無理して頑張らねば、伝記の完成がいつになるかも不明だった。
 命令をくだしたアーサーは魔法使いであるから、たとえ伝記の編纂に百年かかろうが二百年かかろうが、完成しさえすれば構わないのかもしれない。しかしナマエは普通の人間だ。自分が任された仕事を自分の代でやり遂げるためには、とにかく頑張るしか道はない。
 今日のナマエの顔色が悪いのは、窓の外が曇天で室内が仄暗いからというだけではないだろう。化粧っけの無さが災いして、疲労がそのまま顔色に映っている。身なりこそ小ざっぱりとして清潔ではあるものの、瞳の奥に淀んだ疲労までは如何することもできない。
 ──最近は帰宅が遅いことを両親も心配している。今日は天気も悪いから早めに帰ろうかな。
 いくら仕官しているとはいえ、ナマエが嫁入り前の娘であることには変わりない。貴族の令嬢が毎日遅くまで職場の机に齧りついて仕事をしていては、家族が心配して不安がるのも無理からぬことだった。
 ナマエの仕官は父親の教育方針とナマエ本人の意向によるが、一族全員がその仕官に肯定的なわけではない。うっかりここでナマエが体を壊しでもすれば、それ見たことかとすぐに実家に戻されるだろうことは分かり切っている。そうなればここぞとばかりに縁談が降ってくるだろう。ナマエとしては、それだけは何としてでも避けたかった。今のナマエにはまだ、そのようなことを考える気がまるでない。
 疲労で頭脳が疲弊しているためか、普段ならば考えないような雑念がここぞとばかりに思考の中に蔓延った。ナマエは慌てて頭を振る。勢いよく雑念を頭からはじき出すと、視線を目の前のオズへと向けた。今日も今日とて世界最強の魔法使いの表情は固く、険しい。
 と、その時。束になった草稿を捲るオズの手が、一瞬ぎくりと不自然に止まった。紙面の文字を追う視線は、まるで不味い食べ物でも口にしたかのように、何か言いたげに細められている。ナマエがオズと向かい合うのは今日で三度目だが、オズがこうした反応を見せるのはこれがはじめてのことだった。
「どうかされましたか、オズ様。何か記述に間違いがございましたか」
 間違いがあるのであれば、正さねばならない。オズ本人に目を通してもらっているのは、そもそも正しく事実を記すためだ。
 オズの機嫌を損ねないよう、極力静かにナマエは尋ねる。しかしオズは、
「どうもしない」
 そう短く答えると、ふたたびむっつりとした顔で草稿に目を通し始めた。何となく釈然としない思いを抱きながらも、しかしぴしゃりと言われてしまえばそれ以上ナマエに言葉はない。ナマエもまた、口を噤む。そしてテーブルの上に置き去りにされた、草稿とともに持参した参考文献一覧を見るともなくぼんやり眺めた。
 ナマエが今日持参しているのは、数百年前に北の国の辺境の地で起きた厄災についての伝承である。オズにまつわる逸話や伝承は国を超えて世界の各地に散らばっているが、北の国にはオズの根城があるためか、伝わる言い伝えの数も分けて多い。
 言い伝えの内容は様々だ。もっとも多い物語の型としては、不心得な行いをする人間がいる村があればそこにオズが現れて、村に厄災を齎す、あるいは子供たちが危険な場所に近寄るとオズに食われるというものだった。もっとも、実際にオズが何らかの厄災を齎したかどうかは不明な場合が多い。オズの名だけが利用されているのだろうという伝承も相当数散見された。
 ナマエが草稿に纏めたものはその中でも比較的、信憑性が高い──つまりオズが実際に何らかのかたちで関与しているであろうものだ。とはいえ時代が古い言い伝えが多く、ナマエひとりの調査では限界がある。訂正や補足すべき箇所があれば、今ここでオズ本人の口から指摘してもらうつもりだった。
 ──それに、言い伝えと実際の記録を照らし合わせてみたところで、どうにもうまく繋がらない部分もあるんだよね。それをそのままにしておくのは、ちょっと気持ちが悪いし。
 ナマエは下っ端とはいえ曲がりなりにも文官である。伝記の編纂にあたっては、たとえアーサーの意志に反することがあったとしても、記録するものとして事実に即した正しい記述をすべきだと考えていた。実際にオズが脅威であったのならば、その事実もまた正しく記すべきだ。
 今日ナマエが纏めてきた草稿の記述では、オズがとある村に厄災を齎したとある。これはオズへの偏見の目を無くして見ても、けして不自然な内容ではない。アーサーには悪いが、オズには破壊の伝説がいくらでも付き纏っている。
 にも関わらず、ナマエはどうしても違和感らしきものを拭うことができなかった。何処がどう、というわけではない。漠然と違和感のようなものを感じている。その違和感の正体をオズが教えてくれれば──ナマエはそんな風に考えていた。
 オズが作業を再開し、ふたたび談話室に沈黙が落ちる。ナマエは注意深くオズの様子を窺いながら、カナリアが用意してくれた紅茶に口をつけた。あたたかく柔らかな馥郁たる香りが、疲労した身体にじんと染み渡る。
 暫くして、再びオズがむっと眉根を寄せた。草稿を読んでの表情であることは言うまでもない。
「あの、やはりどうかいたしましたか」
 カップをテーブルに戻し、ナマエは身を乗り出す。しかし。
「どうもしないと言っている」
「ですが先程から」
「うるさい」
「……すみません」
 にべもなく撥ねつけられ、ナマエはしゅんと項垂れた。
 結局、オズは一度も草稿の内容に触れることのないまま、最後まで読み通した草稿の束をナマエへと戻した。それを受け取り、ナマエはもう一度だけオズに問う。
「本日分も特にオズ様からの訂正はないということでよろしいでしょうか」
「ああ」
「……分かりました。お時間をいただきありがとうございました」
 立ち上がり、礼を述べる。用が済んだと見た途端、オズは挨拶もなく、さっさと談話室を出て行ってしまった。残されたナマエはひとり、不慣れな魔法舎の中でぽつんと動けず立ちつくす。
 むろんナマエとて、それなりに調査をしてから草稿として纏めている。そうそう記述に間違いがあるとは思っていない。しかし、今回に限っては何かしらオズからの訂正があるものだとばかり思っていた。正直に言えば、オズからの訂正を当てにしていた部分も多分にあった。
 訂正がないということは、記述に間違いはなかったのだろう。些細な齟齬くらいならば、オズもいちいち訂正しないのかもしれない。それならそれで、ナマエも納得するしかない。そもそもこれはオズについての伝記なのだから、オズがこの内容でいいと認めれば、ナマエにはそれ以上どうすることもできない。それ以上の詮索は、もはやナマエの領分を超えている。
 それなのに、ナマエの心はいまひとつ晴れない。気持ちの乗らないオズとの対面の時間を終え、本来ならばすっきりとした心持ちになっていてもいいはずなのに。
「……帰ろうかな」
 ひとりきりの談話室で、自分に言い聞かせるようにそう呟いた、そのとき。
「ナマエ」
 ふいに自分の名を呼ばれ、ナマエははっと扉の方に視線を向けた。そこにいたのは銀髪の好青年──ナマエの主君であるアーサーだった。
「アーサー様。今日はこちらにいらしたのですね」
 立ったままの姿勢で礼をとる。すぐに「楽にしてくれ」と笑われ、ナマエは顔を上げた。
 アーサーの清澄で気品漂う笑顔を見ているうちに、ナマエの疲弊した心もにわかに息を吹き返すようだった。ナマエよりもよほど多忙の身であるはずのアーサーだが、顔を合わせれば常に穏やかかつ溌剌としており、臣下への労いを欠かさない。今もまた、アーサーは親し気にナマエのもとへ寄ると、労うように笑みを向けた。
「ナマエがオズ様のもとに聞き取りに来ていると城で聞き、急ぎ戻ってきたのだ」
「そうでしたか。しかし公務は」
「大丈夫だ、急ぎの仕事は終わっている。それでオズ様は」
「ちょうど今しがた戻られました。本日分の依頼が終わったところです」
「そうか、入れ違いになってしまったのだな……」
 ぐるりと談話室を見回したアーサーはオズの不在に少しだけ肩を落とした。その素直な反応を見て、ナマエはアーサーがどれほどオズを慕っているのかを改めて実感する。ナマエの前でのオズは、冷酷とまでは言わずとも冷淡で非協力的だが、アーサーに見せる顔はどうやら違うらしい。
 ──まあ、嫌々協力してくれているのだろうし、仕方がないことなのだろうけれど。
 オズにとってみれば、伝記の編纂など望んだことではない。世界最強の魔法使いが、望みもしない仕事のために時間を費やさせられているのだ。ナマエの前で機嫌よくいろという方が無理な話かもしれない。
 如何ともしがたい問題に、ナマエは主君の面前であることも忘れてひっそりと溜息をつきかけ、そして慌ててそれを飲み込んだ。アーサーが友でもあるとはいえ、いくら何でも不敬である。主君の前で溜息をつくなど、下っ端のナマエに許される振る舞いではない。
 しかしアーサーは、ナマエが溜息を飲み込んだことに気付いてしまったようだった。
「どうした、ナマエ。浮かない顔をして」
 直接的に咎めるのではなく、あくまでもやんわりと気遣う言葉でアーサーはナマエに問いかけた。ナマエはますます恐縮する。
「……申し訳ありません、浮かない顔をしているように見えましたか」
「そんな気がしたが、私の勘違いだっただろうか」
「アーサー様のお心を煩わせてしまい重ねて申し訳ござませんでした」
「そんな言い方はやめてくれ。ここでは城の者たちの目もないのだから」
 眉尻を下げ、苦笑するように、あるいは懇願するようにアーサーは呟いた。その表情に、ナマエの胸はきゅっと萎む。
 昔から、ナマエはアーサーのこういう表情を見るのが苦手だった。弟のようにも感じているアーサーの悲し気な表情は、どうしてもナマエを心をつらくさせる。しかし、だからといってアーサーに気安くなりすぎては、今のような関係でいられなくなることも分かっていた。市井の出でしがらみの少ないカインと違い、ナマエはアーサーとただ親しくするにも背に負うものが多すぎる。
 アーサーもそのことは重々承知していた。だからナマエがアーサーに負けず劣らずの困った顔をすると、ふっと一瞬諦めの滲んだ笑みを零し、それからすぐにいつもの笑顔をつくり直した。
「そうだ、ナマエは昔から本が好きだっただろう。折角だから魔法舎の書庫を見ていかないか」
「書庫、ですか」
 アーサーの言葉に、ナマエが顔を上げた。建国以来数多くの文官を輩出してきた家の出であるナマエが、昔から本に目がないことをアーサーはよく知っていた。
 今でこそナマエの読むものは仕事に関わるものがほとんどだが、昔はアーサーと一緒によく物語を読んだり、時には創作して遊んだものだった。その頃ナマエはすでに成人に近い年齢になりつつあったが、城に戻されたばかりのアーサーの心を慰めるために始めたはずの遊びに、いつしかナマエも熱中していた。
「魔法使いのために集められた書物ばかりだからほとんどは魔導書なのだが、中には古い言い伝えや伝承をまとめた民俗学の本などもあったはずだ。ナマエはたしか、古い時代の文字も読めただろう?」
「ものにもよりますが、多少は」
「私も詳しく調べたわけではないが、城に残っているものよりも古い時代のものもあったはずだ」
「もしかしたらオズ様について知る手がかりがあるかもしれないということですね」
「ああ。気分転換にもなるだろうし、どうだろう?」
 アーサーの提案に、ナマエはすぐに笑顔になった。
「ありがとうございます、殿下。ぜひ拝見させていただきます」
「そうか。書庫は階段を上がって五階の突き当りだ。広い部屋だからすぐに分かると思うが、もし分からなければ私に聞いてくれ。一緒に行った方がいいだろうか」
「いえ、大丈夫だと思います。それでは行ってまいります」
「そうだ、五階にはオズ様のお部屋もある。書庫で何かあれば、オズ様を頼るといい。きっと力になってくださる」
「それは……それはどうでしょう……?」
 むしろ、煙たがられるのが関の山だと思うのだが──とは言い出せず、ナマエは曖昧に笑ってごまかした。
 ともあれ、仕事と関係なかったとしても魔法舎の書庫は気になる場所だった。城内で働いているだけならば、きっと一生足を踏み入れることのない場所だ。
 アーサーの笑顔に見送られ、ナマエもしばらく前にオズが出ていった扉をくぐり、足取り軽く談話室を後にした。

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