真髄を君が求むならば(1)

 利吉が忍術学園に逗留し始めて一週間ほど経った、とある日のこと。
 その日、は組の手裏剣術の補習を監督し終えた利吉は、名前の待つ昼過ぎの食堂へと足早に向かっていた。そろそろ夏休みに入るつもりだという名前と一緒に、遅めの昼食をとる約束をしていたためである。
 夏休みといっても団子屋でのアルバイトに通う名前が急いで実家に帰ることはない。帰るとしても夏休みが始まってから数日経ってからというつもりでいる。加えて就職活動に忙しい六年生や、長期休暇は実家に呼び戻されるほかのくノたまたちに代わって、くノ一教室の数少ない上級生として名前が二学期以降の実習の準備も手伝わねばならない。もはや一介のくノたま、生徒の域を出ていると思われるほどくノ一教室の事務や運営に献身的に携わる名前のその姿勢は、教師の間でもひそかに評価されているほどであった。
 とはいえ名前がいくら熱心に働こうが何をしようが、忍術学園が夏休みに入るのは動かしようのない事実である。それに伴い食堂のおばちゃんも夏休み期間に入るので、ひとまずはこれで食堂のランチも食べおさめとなる。名前と利吉が約束をしていたのも、ランチの食べ納めをしようという、何とも呑気な理由によるものだった。
 昼時を過ぎているためか、利吉が食堂に到着するとすでに人の姿もまばらであった。いつもは下級生忍たまたちに楽しそうな声が響く食堂も、今日はどこかがらんとしている。
 食堂に入るなり、奥の席で名前が手を振っているのを利吉は見つけた。注文したB定食を手に、足早に名前のもとへと向かう。
「やあ、待たせてすまない」
 椅子を引くと、がたりと大きな音が鳴る。普段は床に座して食事を摂ることがほとんどのためか、利吉は未だに椅子に座って食事を摂る生活に慣れ切らない。
 利吉が来るのを待っていたのか、名前の盆の上の料理はまだ手付かずだった。利吉が腰を下ろしたのを見てから箸をとる。
「いえ、わたしも今来たところですから。それより暑い中、補習の監督おつかれさまでした。どうですか? は組の子たちは夏休みに入れそうですか?」
「実技は、まあ何とか……。土井先生が悲壮そうな顔をされていたから、教科の方は正直何とも言えないけど」
「うまく夏休みに入れたとしても、新学期早々に補習が始まりそうな予感がしますね」
「父上も土井先生も、心安らかに夏休みに入れるといいんだけどね。放っておくといつまでも仕事しているから」
「それは、は組の子たちに頑張ってくれるようお願いしないと」
 くすくすと笑う名前だが、利吉にとっては笑いごとでは済まされない、文字通りの死活問題である。ただでさえなかなか実家に帰らない父を家に連れ帰ることができるとすれば、夏休みのような長期休暇ほど丁度いいチャンスはない。折角今は利吉が学内にいるのだ。補習準備などに追われて普段は帰れない父をどうにか家に帰すべく、利吉も躍起になっていた。名前との待ち合わせに遅れてしまったのも、そんな思いからは組の補習に熱を入れすぎ、授業時間が長引いてしまったためだ。
 話しながら名前の正面に陣取ると、利吉もまた箸を手にする。と、名前がひとつ、顎が外れそうなほど大きなあくびをした。呑気な態度はいつものことだが、これで名前は案外だらしないところを利吉の前で見せることは少ない。名前の目許にじわりと涙がにじむのを、利吉は物珍しそうな顔で眺めた。
「どうしたんだい、昨晩は眠れなかったのか」
 利吉が魚をほぐしながら尋ねると、名前はぐりぐりとこめかみを押さえて顔を顰めた。
「いえ……、実はくノたま長屋の方に居ついている猫が、ここのところどうにも恋の季節のようで」
「恋の季節──ああ、発情期ってこと?」
 名前が頷く。
「そうなんです。夜な夜な元気なのは結構なんですけれど、そのせいでこっちはちょっと寝不足気味です」
「それは大変だな」
 忍術学園は木々が生い茂る山奥にあり、またその敷地は学園とは思えないほどに広大である。ゆえに野生生物が敷地内に入り込むこともけして少なくはない。
 裏山には頻繁にイノシシが出るし、時にはクマと遭遇することもある。辺りの山岳地帯で鍛錬を積む忍たまたちは、卒業までには皆一度はクマと遭遇する羽目になる──というのが、下級生忍たまたちを震え上がらせる話として、忍術学園では代々語り継がれているほどだった。そしてそれはあながち嘘というわけでもない。実際、不運大魔王の名をほしいままにする六年の善法寺伊作や、裏山および裏々山、果ては裏々々山までもを庭のように縦横無尽に駆け回る七松小平太などは、入学してから今日まで、すでに数度はクマと遭遇している。程度の差こそあれ、校外演習が増える上級生ともなれば、大抵一度はクマと遭遇しているものだった。
 とはいえ、ごくまれに遭遇するかもしれない──つまりは非日常に存在するクマと、長屋に居ついた発情期の猫──どちらの方がより生活に根付いた実害を及ぼしているかと言えば、それは間違いなく後者なのだった。ほかのくノたまたちはこれから実家に帰省するのでまだいいが、学園に残る予定の名前はもう暫く猫の発情期と付き合っていかなければならない。目の下のクマが六年い組の潮江文次郎の域に達するのも時間の問題だろうと思われた。
「忍たま長屋の方ではそういうことないんですか」
 へろへろとした何とも覇気のない声で尋ね、名前は自分のランチを口に運ぶ。寝不足によって食欲までもを減退させられている名前の今日のランチは、さっぱりとしたおろしうどんである。名前がちゅるちゅるとうどんを啜るのを見ながら、利吉は曖昧に首を斜めに傾けた。
「どうかな。そういえば時折、それらしきものが聞こえてくることはあるような気もするけれど」
 利吉の言葉は忍びとしては何とも胡乱だが、しかしそれも仕方がないことだった。
 前述したとおり、忍術学園の敷地は広大である。ゆえに忍たま長屋とくノたま長屋とでは、同じ敷地内にあるといってもそれなりに距離を隔てている。くノたま長屋の手前には、明確に領分の区別がつくようにと衝立も用意されており、基本的には生徒はそうそう自由にそれぞれの長屋周辺を出入りしてはいけない決まりになっていた。
 利吉が宿泊している客間は、領分としては忍たま長屋の中にある。とはいっても近くには医務室などが置かれていて、実質的には忍たまとくノたまとの共用区域という位置づけである。本来くノたま禁制の忍たま長屋に名前が自由に出入りすることができているのはそのためだ。
 いずれにせよ、くノたま長屋での猫の乱痴気騒動は、利吉の宿泊している客間までは届いていない。忍びとして浅い眠りを習慣にはしていても、だから利吉が名前ほど寝不足に陥ることはなかった。
「まあ、お盛んな時期がそう長引くこともないでしょうし、一日も早く落ち着いてくれるのを待つだけです」
 溜息まじりに名前が言う。生きているものの営みである以上、それをどうこうするすべはない。名前にできることはただじっと猫たちが落ち着くのを待つことだけだ。
「ちなみにだけど、学園内で猫が生まれてしまったらどうするの」
 と、利吉が問う。発情期で騒がしくしている以上、遠からず子猫が増えるのは明らかだ。そうなれば、今度はくノたま長屋で猫の育児が始まる。
 しかしこの問いに対する名前の返事は、何とも淡白なものであった。
「基本的にはどうもしませんよ。勝手に居ついているというだけで、飼っているわけではないですから。基本的には野の生き物扱いです。まあ生物委員会が飼育している動物を襲いかねませんし、虫獣遁用に飼育しているネズミや虫をやられても困りますから、そうなればまた話は別ですが」
「じゃあひとまずはそのまま放置なんだ」
「あまりにも目に余るようだったら裏山に、という感じですね。餌をやってるわけではないんですけど、どうにもくノたま長屋には猫が住み着きやすいんですよ」
 そう言うと名前は再び大きなあくびをした。先ほどから会話の最中にも何度かあくびを噛み殺してるようだが、今回は噛み殺しきれなかったらしい。あくびをしてから、誤魔化すようにはにかんで笑って見せた。
「早く猫たちの恋の季節が終わるといいんですけど」
「猫はともかく」
 と、ここで利吉がおもむろに箸を置いて言う。
「名前の方はどうなんだ。そういう話はないのか」
「そういう話──というと、わたしの恋の話ですか」
「そう。君ももう五年生だろう。そろそろそういう話があってもおかしくない頃だと思って」
 実は利吉は、名前に好い人がいるのかどうかということについては常々気にしていた。しかし如何せん名前の気が抜けるような雰囲気に誤魔化され、これまではその手の話題に持ち込むことができずにいたのだった。猫の発情期の話から恋の話に持ち込むというのは些か無理がある力業のように感じられないでもないが、これでもここ数日の名前と利吉の会話の中では、もっともそれらしい糸口だった。
 とはいえ、やはり話題の変遷にいきなりの感があったのはどうしても否めない。怪しまれただろうかという懸念が利吉の胸をかすめる。しかし唐突に恋の話題を振られた名前の方はといえば、眠そうな目をぼんやりと宙に向け、ふうむと考え込むような素振りをしていた。
 やがて、名前はぽつりと言う。
「たしかに、くノたまの中には好い人がいる子もちらほらいるにはいるんですけど」
 そこで名前は一度言葉を切り、宙に流していた視線の先を改めて利吉に固定した。
「わたしはそういう話とは縁がないんですよね」
「へえ、そうなんだ」
 名前が頷く。そのはっきりとした「ない」という言葉に、利吉は心のどこかでほっとした。
 もしも名前に好い人がいたとして、だからといって利吉にそれをどうこうする権利も資格もない。反対に、それを理由に利吉がどうこうされる謂われもない。名前と利吉はただの昔馴染みでしかないのだから、色事を理由にその関係を阻まれなければならない理由はない。
 しかしそれはあくまでも、利吉と名前が何でもない関係だということを知る者の理屈である。名前に好い人がいるというのであれば、名前と男女の仲というわけでもない利吉がむやみやたらと名前に近づくのは、やはり避けなければならないのが筋だった。
 そんな世間一般で通すべき筋も利吉は理解している。だからこそ、利吉にしてみれば名前に思い人などいないに越したことはないのだった。名前に好い人がいないというのであれば、利吉は誰に遠慮することもなく、名前とこうして食事をしたり顔を見にきたりすることもできる。
「忍たまの誰かといい雰囲気になったりもしないのか」
 試しにもう一押ししてみるが、名前はやはり特に思い当たる相手もいないようで、ちゅるちゅるとうどんを啜って眉を下げる。
「んー、くノたまの中にはそういう、忍たまの誰かと恋仲にという友人もいないではないんですけど……、御覧の通り、わたしの方はさっぱりですね。まあ忍たまからしてみてもわたしみたいにぱっとしないくノたまなんて気に入らないと思いますが」
 ふふっと笑う名前は、そんなふうに自分を評価した。ほんの一瞬、利吉はその言葉に以前尾浜と交わした会話を思い出す。良くも悪くも、名前はほかのくノたまとは違う。名前はほかのくノたまとは違って、おっとりとした性格ゆえに忍たまともそこそこに有効な関係を築いている──尾浜はたしか、そんなことを言っていた。
 それが事実であったのなら、名前に恋心を寄せる忍たまがまったくいないということもないだろうと、利吉は推察する。恐らくは名前が気が付いていないだけのことなのだ。利吉の目から見てみると、少なくとも尾浜は名前をそういう対象として見ていることはなさそうだが、だからといってほかの忍たまがそうであるとは限らない。利吉はまだ、名前が忍たまとくノたまの一部から敬遠されていることを知らない。
 ──殺伐とした状況に身を置く人間ほど、名前のような人間は得難い存在だろうしな。
 他ならぬ自分がそう思っているのだ。忍者のたまごたちが名前を特別に思っても、けして不思議な事ではない。
 と、そこまで考えて、ふと利吉は気付く。
 自分は今、名前を特別に思うことと恋愛対象として名前を気に入ることを、無意識に混同していなかっただろうか。名前のことを大切に思う気持ちを、色恋の相手として想うことと一緒くたに考えてはいなかっただろうか。
 思いがけず自分の思考の流れを顧みることになり、利吉は一瞬心を揺らす。
 自分は今なにか、途轍もないことに気が付いてしまったのではないだろうか。
 もしかしたら自分は、開けてはならない禁忌の箱を開いたのではないだろうか。
 一瞬、背中がすっとうそ寒くなる。しかしその肌の感覚とは反するように、身体の内側はかっかとしきりに熱をつくっているような、そんな相反するふたつの感覚があった。自分が何か、今まで気付かずに見過ごしていた何かに気付きかけ、そのことに身体全体が驚き、あるいは祝福しようとしているような、そんな何か──
「利吉さん?」
 不意に名前を呼ばれ、利吉は目の前の現実に引き戻された。思い切り襟首を掴まれたような気がして、はっとする。正面に座った名前が不思議そうな顔を利吉に向けていた。
「どうかされたんですか」
「ああ、いや……うん。何でもない」
 何とかそれだけ答え、利吉は取り繕うように笑顔をつくった。名前はまだ怪訝そうに利吉を見つめていたが、やがて何かを察したのか、「そうですか」とだけ呟き利吉から視線を外した。
 名前の視線から逃れ、利吉はようやくほっと一息つく。今しがた自分が気付き、掴みかけた何か。あと少しのところで手からすり抜けていったそれを、もう一度感情の奥深くに潜って何物であったか知りたいと思う反面、それを知らずに済んだことにほっとしている自分もいる。二律背反の感情が利吉の胸の中に渦巻いて、今もまだざわざわと心を波立たせている。


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