ひだまりに似た死もあった(1)

 久し振りに殺伐とした仕事、そして殺伐とした「厄介事」だった。疲弊しきった身体を引きずるようにして、利吉は黙々と帰路を急ぐ。薄暮れの通りに人影は少なく、また通りを行くものがあったとしても、堅気の者らしからぬ形相をした利吉のことは皆避けて通り行く。さながら修羅のごとき様相の利吉は、歩きながら、まとまりのない思考をずるずると流す。
 手足は正常に動く。眼球はつつがなく回り、耳は気味が悪いほど明瞭に、かすかな音すら聞き分ける。
 体も感覚も、常以上に過敏に稼働していた。本来であれば今の利吉の身体の状態は、忍びとしての活躍にうってつけ、好調とすらいえる。にも関わらず、足を動かすための見えない糸は、まるで鉛で編まれたものかのように重かった。動かそうと思えばいつでも動かせるはずの四肢を、そもそも動かすだけの気力が今の利吉にはない。
 ──疲弊しているのはむしろ、身体よりも精神だ。
 そのことに思い至るのとほとんど同時に、頭の後ろが鈍く痛だ。腕を持ち上げ、痛んだ部位に手を添える。上げた腕を伝って、ぼたりと血液が地に落ちた。

 ◆

 利吉がはじめて人を殺めたのは、彼がまだ駆け出しの忍びだった頃である。その頃の利吉にはまだ大した仕事もなく、忍びというよりはむしろ、人手の足りない戦場での臨時雇いの仕事の方が多かった。ほかにもアルバイトらしきことをしてはいたが、男ひとり生きるだけの糧を得るには、本業の片手間に詰め込むまっとうな仕事では稼ぐ要領が悪い。店には利吉の評判を聞いてやってくる女の客などもいたのだが、当時の利吉は女にうつつを抜かしているだけの余裕もなかった。生活はそれなりに逼迫していた。
 幸か不幸か幼い頃からの努力の賜(たまもの)として、利吉は鉄砲の腕にはおぼえがあった。剣術にも一通り通じており、また馬術の心得も兵法の知識もある。戦場で名を上げるには十分すぎるほどの腕前と頭脳を持っていた。それだけの宝を持っていて、まさかそれを利用しない手などあるはずもない。利吉の生活はしだいに、戦場での暮らしへと変わっていった。
 戦場において、利吉の活躍は華々しいものだった。
 かつて戦忍びとして知られた父に負けず劣らず、利吉は大いに働き、そして大いに活躍した。その働きぶりを買われ、臨時で雇われた身でありながら、時には重要機密の伝達や、敵方の諜報まで任された。ここでも利吉は忍び本来の身のこなしと鍛え上げられた武の力で、雇い主の期待を裏切らない、報酬以上の働きをした。
 とはいえ、利吉の本分はあくまで忍びである。いくら戦場で武功を上げて名を売ろうと、武士ではないのだから何の意味はない。それによって禄がもらえるわけでも、取り立ててもらえるわけでもない。むしろ隠密行動を基とする忍びとして、無暗に名が広まるのは利吉の望むところではなかった。
 利吉が名を売りたい相手は、彼を雇えるだけの立場にある人間だけである。しかしそうした高みに在る人物たちに名を売るためには、結局のところ武功を上げるしかない。忍びの仕事を得るためには、忍びの本分以外の働きをするしかない。
 斯くして利吉は、現在の生活に落ち着くまでに数多の戦場を駆けることとなる。
 ──殺めた敵の数を数えることは、早々にやめた。

 ありがたいことに、忍びの仕事が軌道に乗ってからはそうそう命の遣り取りをすることもなくなった。仕事で誰かを殺めることも、今はもうほとんどなくない。忍びの本分は情報を求めることにある。戦は本来武士の領分であり、暗殺もまた、そのようなことを本分とする専門職種の仕事である。忍びの技術でそれらをこなせないわけではないものの、基盤となる考え方や正義のよりどころを異とする以上、忍者と武士、忍者と暗殺者とは似て非なるものだ。それらの仕事を積極的に引き受けるのは、忍びとして三流の者のすることだというのが利吉の考えであった。
 忍びが持つ武の技術は、あくまでも本分を為すための補助でしかない。誰の命も奪わぬままに仕事を遂行できるのならば、それに越したことはない。ごくまれに忍びを暗殺者の一種と勘違いした筋からの依頼もないではないのだが、利吉はそのような手合いからの仕事は極力断るようにしている。それが利吉なりの、忍びの職で糧を得るにあたっての線引きであった。
 しかしその、見ようによっては綺麗ごとの謗りを免れないような利吉の在り様にも、どうしたって限界はある。その「限界」が今日だった。

 とある城での仕事を終え、隠れ家へと向かう道中でのことだった。利吉の命を狙うよう依頼された刺客たちが、田舎道をひとり歩く利吉を仕留めるべく、襲いかかってきたのだ。
 余程腕に覚えがあったのだろう。道のわきには鬱蒼とした森が広がっていたにも関わらず、白昼堂々刺客たちは物陰に身を潜めることもなく、不意に姿を現すとたちどころに利吉を取り囲んだ。
 その数、四名。それぞれ腰に刀を佩(は)いていた。皆それぞれに大柄で、それでいながら愚鈍さは欠片も感じられない獰猛な獣のような目をしている。堅気の者でないことは一目瞭然だった。
「山田利吉だな」
 低いしわがれ声で問われるが、利吉は何も答えない。しかし彼らはそれでも構わない様子だった。彼らは端から利吉に返事など求めてなどいない。利吉の方は彼らを知らずとも、彼らは利吉を知っていた。
 問うなり、四人が一斉に刀を抜く。ぬらりと光る刀身が、利吉へと狙いを定めた。
 ──暗殺者か。
 利吉は目を細める。職業柄、命を狙われることも珍しくはない。男たちの攻撃に用心しながら、利器は注意深く彼らの様子を観察した。
 男たちの着ている物はどれも違わず粗末だが、抜いた刀だけはけして粗悪なものではない。そして恐らく、獲物を扱い慣れているのだろう──刀を抜き構える動作にも、一切の無駄がなかった。間違いなく人を斬ることで生計を立てている者の動きである。
 ──相当の手練れだな。
 そう思った、刹那──男のうちひとりが、やにわに雄叫びを上げた。白々しく降る太陽に似つかわしくない、野太い声。その咆哮を合図として、利吉を囲んだ四人が一斉に動き出し、同時に利吉を襲う。
 利吉の草履が、砂を蹴った。
 ──勝負はほどなく決した。襲い掛かった刺客の四人を、利吉はたったひとりで打ち負かした。
 男たちが利吉に飛び掛かった瞬間、利吉は懐と腕に仕込んだ忍具で威嚇し、その上で刀を抜いた。本来、忍具での威嚇だけで済めばよかったのだろう。その威嚇で敵が彼我の力量差を推し量ってくれさえすれば、利吉とて無駄な争いに手を染めずに済む。
 しかし刺客として放たれた四人は、けして生半な相手ではなかった。四人と利吉の彼我の差は、けして絶望的なほどに大きなものではなかった。その差は数で覆すことができる程度のものだった。
 相手は四人、利吉はひとり。
 彼らは真っ向勝負の力押しという、最も無駄のない方法で利吉を殺しにかかっていた。そんな方法で挑まれては、いくら腕の立つ利吉といっても本気で相対せざるを得ない。
 これ以上の追撃や報復なきよう──そして相手方の高い実力があったがゆえに、名うての忍びである利吉ですら、刺客を相手に手を抜くことはできなかった。
 斯くして勝敗は決した。
 何とか勝ちは得た。しかし利吉もまったくの無傷とは言い難い。腕や足に、致命傷とまでは言わずともかすり傷くらいは負った。一対四であったことを考えれば、それでも完全勝利と言ってよいのだろうが、どうにもすっきりとしない後味の悪さであることは否めない。
 刀を鞘に納め、利吉は足元を一瞥する。
 刺客たちは、ほぼ即座に絶命していた。
 それだけが利吉なりのせめてもの優しさだった。

 それから数刻が経った。骸を森の中に隠した利吉は、その足で本来の目的地である町中の隠れ家へと向かっていた──はずだった。
 それなのに、気が付けば利吉の足は忍術学園を向いている。町への道のりはとうに逸れ、このまま向かう先には団子屋と忍術学園くらいしかめぼしい当てもない。そして今、利吉の目の前には一軒の団子屋があった。名前がアルバイトで看板娘の「おみつ」を務める、くだんの団子屋である。
 ──いつの間にこんなところまで来てしまったんだろう。
 頭の片隅で考えながらも、そもそも思考はまともに機能していない。引き寄せられるようにして利吉は団子屋に近づいた。
 辺りはすっかり暗くなり、今にも夜が訪れようという頃だ。濃紺になった視界の隅──利吉の視線の先にある店の前にはひとり、閉店間際の後片付けをしている娘の姿がある。その娘が、引きずるような利吉の足音に気が付いて、ゆっくりと振り返った。
 途端に目を丸くする。
「えっ、利吉さん!」
 利吉に気付くなり、名前は片付けている最中の盆を置いて、慌てて利吉に駆け寄った。遠目に見ても利吉のただならぬ様子を察したのだろう。まろぶような足取りで駆けてくる。そのまま至近距離まで駆け寄ると、利吉の尋常ならざる様子に、名前はいよいよ顔を真っ青にした。
 顔面は蒼白、普段は涼し気な目許も今はうつろに淀んでいる。気温も下がってきた夕刻だというのに、全身にぐっしょりと汗をかいていた。
「……名前」
 利吉が名前の名前を呼ぶ。その声もまた、常の利吉らしからぬか細い声だった。
 ──アルバイトの途中、だったのか。
 名前がいるという確信を持って利吉はここまで歩いて来たわけではない。それどころか、自分がどうしてこんなところにやってきたのかすらも分からない有様だった。しかし心が知らず識らずのうちに名前のいる方へと向かっていたこと、そして名前の顔を見て張りつめていた気持ちの糸がぷつんと切れたことだけはたしかだった。
 利吉の全身をどっと倦怠感が襲う。利吉の身体が傾いで、咄嗟に名前が肩を貸した。
「ちょっ、うわあ! どうされたんですか。お顔の色が真っ青じゃないですか……」
 さながら幽鬼のような利吉に蒼ざめながらも、しかし名前はどうにか利吉を店先の床几台まで連れてゆく。あまりのことに名前の心臓はばくばくと鳴っていたが、それでも叫ぶこともなく利吉に手を貸すことができたのは、ひとえにくノたまとして培った四年以上の経験のたまものだった。冷静を装うのはくノ一の技術のひとつである。
「とりあえず何処かその辺りに座ってください、今何か飲むものを──」
 そう言って利吉をその場に残して店の中に入ろうとする名前の手を、ほとんど無意識のうちに利吉が掴んだ。名前は弱弱しく握られた自らの腕を見下ろす。
「……利吉さん?」
 控えめに尋ねるが、利吉は視線を伏せたまま、
「何もいらないから──だから、」
 と、たったそれだけ呟いただけだった。
 それきり利吉は何も口を噤んで何も言わない。利吉の言葉をじっと待っていた名前は、やがて困ったように小さく笑った。
「分かりました。それじゃあ、少しだけ。ちょうどお客さんもいませんからね。それにもうすぐ閉店ですし」
 そうして利吉に腕をつかまれたまま、名前は首を店の入り口に向けると、開け放たれた戸の向こうに向けて、
「旦那さーん、少しだけ休憩をいただいてもよろしいですか?」と声を投げた。すぐに店の奥から「今日はもうそのまま上がっていいよ」とのんびりとした声が返ってくる。本来であれば閉店間際の忙しい時間に休憩を願い出るなど、迷惑千万なお願いでしかない。それを快諾してもらえるのも、ひとえに普段の名前の勤務態度がいいおかげだろう。名前と店主の遣り取りを聞きながら、利吉は回らぬ頭でそんなことを考える。
 暫しの間、ふたりは並んで床几に腰掛けていた。視界を覆う紺色はさらにその濃度を強め、辺りには夜の帳が下りようとしている。
 利吉は名前の細い腕をつかんだまま、じっと地面を睨んでいた。先ほどまでの研ぎ澄まされた感覚は、その鋭敏さの反動のようにしてだんだんと鈍くなっていくようだった。それでも、利吉の指先にはあたたかな体温と、規則的な名前の拍動が伝わってくる。


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