羽化の山

 名前が言葉を発する間、利吉はただ黙って耳を傾けていた。
 普段とは違う声の調子は、利吉を名前ではない誰か他人の声を聞いているような気持ちにさせる。けれどその言葉は間違いなく、いつもの名前の言葉だった。
 名前がこれまで隠してきた、押し殺してきたと思っていた気持ちや言葉は、利吉からしてみれば、どこまでも名前らしいものでしかなかった。もうずっと利吉が愛しいと思ってきた名前の心そのものだった。
 部屋に差し込む光は、いつのまにかより濃い白に変わっていた。日が高くなりつつある。今日は冬場には珍しいほどの、悲しいほどの晴天だった。
 利吉はわずかに居住まいを正した。あぐらはかいたまま、けれど背筋は伸ばす。そして腹の底から息を吐きだし、言った。
「自分のことを考えて、それの何がいけないんだ」
 その言葉に、名前が顔を上げて利吉を見た。やつれた頬は目許から真っ赤に染まり、あふれた涙がすっかり顔を濡らしていた。まだ年が明ける前、いっしょに椿を見た日の名前の涙を利吉は思い出す。
 あの日、利吉ははじめて名前の涙を見た。
 すぐそばにいて、肌と肌が触れて、けれどついぞ唇を交わす以上のことはできなかった。あれからふた月と経っていないというのに、今となってはあの日が遠い昔のことのように感じられる。一方で、二度も立て続けに名前の泣き顔を見ている事実に気付き、しくりと利吉の胸が痛んだ。
 ここのところは利吉は名前を泣かせてばかりいる。そしてきっと、これから先も幾度と名前を泣かせることになる。そんなことを、泣き濡れた名前を見て、思う。
 何度でも泣かせることになるだろうし、きっと何度でも悲しませる。
 それでも一緒にいてほしいと思う。だからそのためにできることならば、利吉は何だってする。何だってしたいと思っている。
 どんな言葉だって尽くす。どんな名前だって受け止めて見せる。
「利用してくれればいいよ。私のことをだしにして、言い訳だって何だってすればいい。それで少しでも名前の心が軽くなるのなら──名前の選ぶ道の理由になれるなら、私はそれでかまわない」
 そうして名前の人生に関わることができるのなら──それはむしろ、利吉にとっては幸福ですらある。名前に余計なことを言うな、名前のくノたまとしての未来を邪魔をするなと釘を刺され、自分でもけして名前の邪魔をすまいと、これまで利吉は厳しく己を律してきた。
 そんな利吉にとって、名前が自分から利吉を関わらせようというのなら、それがたとえどんな理由によるものであったとしても、いっそそれは本望だ。
 部屋の外で、鳥の鳴く声がした。
 一切の音が消えたようだった部屋の中に、少しずつ音が戻ってくる。張りつめた空気が、ゆっくりゆっくり、端の方からゆっくりとほどけてゆく。
 名前の薄く開いたくちびるがそっと空気を揺らす音が、利吉の耳には聞こえたような気がした。
「私はね、名前が何を考えていたって、何を思っていたって、何を言ったって、そんなことは全然かまわないんだ。君がくノ一を目指すことも、目指すのをやめることも、それすらどっちだっていい。そりゃあ本音を言えばああしてほしいとか、こうしてほしいとか、思うことは色々とあるさ。どうしてそんなことを言うんだとか、なんで辛いことが分かっている方を選ぶんだとか、口を出したくなることもある」
 名前がくノ一に向いていないだろうという利吉の考えは今もけして変わっていない。今だってどれほど名前が傷ついていようと、これでよかったのだと思う気持ちがまったくないわけではない。こんな形ではなかったとしても、いずれにせよ名前がくノ一となる道を選ばないでくれたらということは、もうずっと利吉が考えていたことだ。
「だけどそれは、必ずしも君のことを考えていっているわけじゃない。私だって、私のために君を思っているふりをすることくらいあるよ。もちろんそのことに自分自身うんざりすることもある。自分が利己的な人間で仕方がなくて、嫌になることもある」
 名前といると、特にね。
 そう言って、利吉はかすかに自嘲の滲んだ笑みを浮かべ名前を見た。その笑みの裏にひそんだ普段の利吉らしからぬにおいに、名前の胸がざわりと騒ぐ。
 名前が自身の汚さに自己嫌悪するように、利吉もまた、自分自身が名前が思うような立派な人間であるという自覚は持っていない。人より器用で要領がいい、生きるのがうまい、それだけの人間だと、そう思っている。
 ──そして、だからきっと、名前に惹かれた。
「だから私は、君が自分のことを考える理由に私を使ってくれたってかまわないし、むしろ嬉しくさえ思うよ。私は君が生きていてさえくれれば、それでいい。君が生きるための選択をする、その理由になりたい。あるいは私以外の誰かの思いが理由になっていたって、それだって別に構わない。名前が自分で、その思いを負おうと決めたのであれば、私はそれを応援する。──大丈夫だよ、君は頑固で強情なところがあるから。本当にしたくないことは、きっと誰に頼まれたって、私に願われたって、きっとやらないだろうから」
 そう言って、利吉はもう一度笑った。
 今度は名前が利吉を恋しく思う時に思い描く、いつもの利吉の笑顔だった。
 利吉はゆるりとした動作で膝を立てると、そのままよいしょと腰を上げた。そうして布団の上でじっとしている名前に向けて、
「ひどい怪我を負って、当分は動けないだろう。このまま学園でくノたまを続けることもままならないかもしれない。それでも、私は待っている。君がどんな道を選んでもいい、君がゆっくり心を決められる日を、ずっと待っているから」
 と、いたわりの言葉を投げかけた。
「利吉さん──」
「私は、たとえ君がどんな道を選んだって、どんな道を選ばなくたって、君が君でいてさえくれればそれでいいんだ」
 肌に傷が残ろうが。
 自分の浅ましさに自己嫌悪していようが。
「私はずっと、君のことが大切だよ。それだけは何があっても変わらない」

 ◆

 空までのきざはしを踏むようだ。
 そんなことを思いながら、山田利吉は歩き慣れた道をひたすら歩む。山道は険しく、けして整備された路ではない。それでもこの辺りで生まれ育った利吉の目には、どの道を行けば最短かつ最小の労力で目的地に達することができるのか、見えない地図の上に線を引いてあるかのごとく明らかだ。
 それでも、此度の帰省はいつものようにはいかなかった。利吉の少し後ろを歩く名前の姿を気遣いながら、利吉は普段よりも格段にペースを落として進む。
「大丈夫? 少し休もうか」
 名前の息遣いが荒くなってきたことに気付き、利吉はそう提案する。
 ただでさえ病み上がりの身体である。長距離移動など本来勧められたものではない。その上、利吉としては本当ならば名前の分の荷物も持ってやりたいところだが、それも名前が断固として固辞している。そのような経緯があって、今日の利吉は普段以上に名前を気にかけているのだ。
 その気にかけられている名前はといえば、額に汗を滲ませながら、へらりと眉を下げて笑った。
「平気ですよ、と言いたいところですが、正直に言えば疲れました」
「だと思ったよ。この先少し行ったところにある丘で少し休もう」
「すみません……」
 しゅんと項垂れる名前の頭を、近づいた利吉が桂巻の上から撫でた。利吉が贈ったかんざしは、落とすといけないからという理由で今日は名前の着物の衿もとに挿し込まれている。
「大丈夫だよ。療養生活も長かったし、まだ体力が戻っていないのも仕方がないさ」
「本当にお恥ずかしい……山本シナ先生からは早く体力を戻して演習に顔を出すよう言われているんですけれども」
「ははは、相変わらず山本先生は美しい見た目に反して鬼のようなことを言う」
 目の前にせまりつつある氷ノ山の尾根を見上げ、利吉は苦笑した。

 利吉が病床の名前を見舞ってから、すでに半年が経った。現在八月、夏の盛りである。
 この半年の間に名前は進級し、くノたまの最上級生である六年生になった。──なるはずだったのだが、名前本人の意向と名前の両親の意見のもと、五年の末をもって名前はくノ一教室を退学した。傷病のため学業の継続が難しいというのが、退学事由だった。
 そして現在、名前は新野先生指導によるリハビリをこなすかたわらで、くノ一教室担任の山本シナ先生の助手の仕事を任されている。くノたま長屋でのひとり部屋から教職員長屋での山本シナ先生との相部屋へと住まいを移し、目下後進の育成に携わる日々である。
「それにしても、名前が忍術学園に残る道があってよかったよ」
 丘に到着し、ひと休憩挟むさなかに利吉が言った。
 夏の盛りの移動は厳しい。名前の家は氷ノ山の山頂ではなく麓(ふもと)であるため登山まではする必要もないのだが、それでも田舎道を歩かねばならないことには変わりなく、何かと不自由が多いのはたしかである。
 大体、いくら町と比べて気温が低いといえども、夏なのだから暑いものは暑い。いつも涼し気な顔をしている利吉の顔にも、今日は汗のつぶが浮かんでいた。
「山本先生はわたしが実家との折り合いが悪いこともご存知でしたから。もちろん山本先生は一言もそんなことは仰いませんけれど、わたしが生徒としてでなくても忍術学園に残ることができるよう、いろいろと動いてくださったのだとお聞きしています」
 そもそも、くノ一教室の指導助手に名前を推したのは山本シナ先生である。名前は推挙された後から話を受けたに過ぎない。もしも山本先生が尽力してくれなければ、名前は今頃実家に戻っていただろう。
 くノ一教室の運営にくノたま時分の名前が携わっていたことからも分かるように、基本的には忍術学園の事務の人手はくノ一教室までは十分に回っていない。その上、くノたま担任は山本シナ先生しかいないことで慢性的に教員不足であることは、もう何年も前から大きな問題として指摘され続けてきた。
 名前ならば今在籍しているくノたまとも知った仲であり、年ごろの娘たちの指導をするにも都合がいい。また五年生までの教育課程を修了していることで、座学も演習も一通りのことを教えるだけの力量を身に着けている。山本シナ先生の助手を務めるのに、これ以上の人選はなかった。ついでにいえば、くノたま時代の行いから他教員陣からの信任もあつい。
「父と母への説得も山本先生がしてくださったのですよ」
「え、そうなの? それは聞いてなかった」
 利吉が意外そうに目を見開いて、返事をする。
 ここ暫く忍務が立て続けに入っていた利吉は、忍務の合間を縫うようにしてしか名前と会えておらず、こうしてじっくりと言葉を交わすのは久し振りのことだった。
「郷に戻るより忍術学園に残った方が、腕のいい医師──新野先生に常に診ていただくことができるといって」
「たしかに、それは重要だ」
「それで両親も納得してくれたんです。ただ、山本先生の助手をさせていただくにあたって、実習だけはわたしもまだ大した経験を積めていないので、助手をしながらも色々と経験させていただく予定ではありますが……。いずれにせよ、わたしの身体が全快しないことにはそこから先の話はまだ先送りですね」
「いや本当、全快もまだのところを無理に連れ出してすまないね」
 言外に身体が本調子ではないことを言われ、利吉は心底申し訳なさそうに口を曲げた。しかし名前は気にしたふうもなく、それどころかどこか嬉しそうに目許をほころばせる。
「いえいえ、大事なことですから」
 何せ、縁談話ですからね──そう言って、名前は照れたように笑った。

 利吉と名前は、名前の身体がある程度回復するのを待ってから、ひとつ約束を取り交わした。その時点で名前が山本シナ先生の助手として忍術学園に残る選択肢は提示されており、約束はあくまでもその話に乗っかった形になる。
 名前は少なくともあと一年は忍術学園にとどまり、経験を積みながらくノ一教室の指導助手をする。
 そして一年経ち、本来であれば名前が六年生を終えて卒業となる時期を見計らって、利吉と婚姻関係を結ぶ──これがふたりの交わした約束だった。
 此度の帰省は、その婚約の許しを得るための挨拶である。まだ半年以上先のことと言えども、正式に夫婦となる約束を交わしたのだ。当然、両家の了承を得ないことにはどうにもならない。
 山田の家に関してのみいえば、忍術学園でいつでも話をすることができる伝蔵だけには、すでに話をつけてある。しかし今回の帰省では利吉の母も交え、改めて挨拶の場を設けるつもりでいた。
 両家ともに文で事情は説明してあり、あくまでも事後承諾を得るような形式だけでの挨拶ではあるのが、挨拶は挨拶である。夫として名前を貰い受ける立場の利吉の緊張はひとしおだった。
「そろそろ行きましょうか」
 そう言って立ち上がる名前を、利吉はまだ地面に腰を下したまま見上げる。腰が重いのは、ただ身体的な疲労のせいだけではないことは言うまでもない。
「ええ? もう少しここでのんびりしてもいいんじゃないか。名前に無理させたくもないし」
「わたしのことならばお気になさらず。今の休憩ですっかり回復いたしました。大体、そんなことを仰っていると日暮れまでに到着できなくなってしまいますよ。ここまで来たんですから、腹をくくっていただかないと」
「それは分かってるけどさ」
 それもまだ腰を上げようとしない利吉の手をとり、名前はぐいと引き寄せる。ここで利吉が腰を上げないと名前の背に負担がかかるので、こうされては利吉は嫌でも腰を上げるしかない。
「ほらほら、参りますよ」
 楽しそうに笑う名前を眇めるように見て、利吉は溜息をついた。どうにもこの押しの強さには覚えがある。利吉の母のそれ、そして名前の母のそれに、ひどくよく似ていた。
「名前、何だか逞しくなっていないか?」
 恨み言のように尋ねるが、名前はまったく堪えた様子もない。それどころか一層楽しそうに笑みを深め、利吉の手をぎゅっと握った。
「もちろん。だって強くしたたかでなければ、山本先生の助手も、みんなの憧れの的である利吉さんの妻も、どちらもつとまりませんからね」
「……まったく、かなわないなあ」
 そう苦笑して、利吉もようやく歩みを再開した。
 氷ノ山の山稜が、そんなふたりを見下ろしていた。

 了


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