灰の世界できみを待つ

 伊作と別れ、くノたま長屋の名前の部屋までやってくると、障子の前で利吉は一度、大きく深呼吸をした。いつになく緊張している。その緊張は呼気に滲み、利吉の喉を震わせる。
 障子の向こうからは、ひとの気配がした。同室者を欠き、今この部屋を使っているのは名前ただひとりだ。一度ぎゅっと目を瞑り、利吉は腹をくくった。
「名前、入るよ」
「どうぞ」
 室内から返答があって、利吉はゆっくりと障子を開けた。
 やはりというべきか、そこには当たり前のように名前が待っていた。布団の上に長座になって、足の上には冬用の布団をかけている。
 面差しは利吉が思っていたよりも変わりない。頬は少しやつれているが、そこまで意気消沈して鬱々とした雰囲気ではなかった。ただ、長くゆたかだった髪だけは、肩より下のあたりでばっさりと切られていた。炎の中を逃げ延びたときに焼けて傷んでしまったのだろう。切りそろえられた髪の房が、名前が顔を傾けるのに合わせ、鎖骨のあたりではらりと揺れる。
「すみません。こんなお見苦しい格好で」
 布団の上に座ったままの名前が申し訳なさそうに言う。利吉の来訪を事前に誰かに聞いていたのか、最前まで布団に横になっていたというわりには髪も顔もきれいなものだ。見ると部屋の炭に、先ほど火を入れたばかりの火鉢が置かれていた。これも布団に入っている名前には不要なものだから、利吉のためか、誰か見舞いにきた客のために置いているに違いない。
「いや、こちらこそ見舞いに来るのが遅くなってすまない」
 言いながら名前の布団の横にあぐらをかいて座った利吉に、 
「大丈夫ですよ。お仕事おつかれさまでした」
 と名前が、いつものようににっこりと笑って返す。
 その表情は多少力ない笑みではあったものの、これまで利吉に向けていたのとほとんど変わりのない笑顔だった。その笑顔を見て、利吉は少しだけほっとする。
 ここに来るまでに漠然と、名前が何かを欠いていたら、失っていたらと不安に思っていた利吉である。少なくとも、顔色が悪くあきらかに傷病人であるという風情があることをのぞけば、そこにいるのはいつもの名前だった。不可逆的な喪失は、今のところ目につかない。
 束の間ほっとする利吉をさらに励ますように、名前が笑顔で口を開く。
「さっきまで鉢屋が来ていたんですよ」
 そう言って名前が枕元に置かれた掌ほどの包みを「ほら」と指す。了承を得て利吉がそれを解くと、中には小さな落雁がおさまっていた。
「これを鉢屋くんが? でも忍たまはくノたま長屋には立ち入り禁止のはずじゃないの」
「そうなんですけど、わざわざ屋根裏からおいでなすって。それで何をしに来たのかと思えば、わたしのことを散々に馬鹿にして帰っていきました。それは委員会の残り物だからとか言って勝手に置いて行ったんです。鉢屋、わたしが実習先で菓子をもらって毒にあたったのを知っててそういうことするんですよ。まったく、何しにきたんだか」
「励ましにきたんだろう」
「ええ? そうですかね。鉢屋に限ってわたしを励まそうとか、そんな殊勝なことは考えていなさそうなものですけれど。本当にただ、へまをやったわたしのことを馬鹿にしにきただけのような気もします」
 いかにも真剣な様子で眉をひそめる名前に、利吉もようやくくすりと笑った。
 普段の利吉ならば、ふたりきりのときには自分以外の男の名前を出さないでくれ、とでも言うところだが、今は名前が普段と変わらず元気そうな様子を見せてくれるだけで十分に嬉しい。たとえ話題が鉢屋のことであろうとも、そんなことはわざわざ取り沙汰さなければならないようなことではなかった。
 くすりと笑った利吉を見て、今度は名前がほっとした顔をする。利吉が部屋に入ってきてから──いや、部屋の前に立ったときから発していた緊張感がわずかにほぐれたのが分かり、名前もようやく人心地つくことができた。
 名前は名前なりに利吉が気に病んでいないかと不安に思っていたのだった。
 ともあれ、利吉がようやくくつろいだ雰囲気になってくれたことで、名前の肩の荷がひとつ下りた。名前は一度視線を伏せ、それから部屋の隅へと視線を遣る。
 不自然にがらんとしたその場所は、年末までは松の長持ちが置いてあったはずの場所だった。
「とにかく」
 と、利吉が先ほどよりは幾らか明るい声で切り出す。
「名前が無事で本当によかった。話に聞いたところでは、かなりの人死にがあったというから。まさかそこに名前が巻き込まれているとは思いもしなかったけど」
 その言葉に、名前の肩がかすかに揺れた。
 一拍置いて、名前は重苦しく口を開いた。
「利吉さんに、お話あります」
 その声を境にして、ふたたび部屋の空気がぴんと張りつめた。
 名前の表情は険しいものではない。しかし今から彼女が何か大切な話を始めようとしていることはその淡々とした声音から明らかだ。利吉は一度ほぐしたはずの緊張感をふたたび肌にひたりと纏うと、ごく慎重に、
「何だい」
 と、そう尋ねた。
 名前は利吉の目を見つめ、そして言った。
「わたし、忍術学園を退学しようと思っております」
 ふたりの間に、暫し沈黙が流れた。
 利吉はじっと、名前の目を見つめる。その瞳の環は揺らぐことなく凪いでいて、今しがた発した言葉がけして嘘でも冗談でもないことをはっきりと示している。
 ──そう来たか。
 利吉もまた、動揺はしなかった。心の何処かで、名前がそういう決断をするかもしれないと、そう思っていたからだ。
 利吉は直接名前の巻き込まれた惨禍を目にしたわけではない。しかし幾多の戦場を渡り、そして今もフリーの忍者として誰かの死と近い場所にいる利吉には、名前が見たものの大体の想像はついている。
 長期の実習だったということは、そこで培った人間関係もあっただろう。かりそめのものとはいえ、大切に思う人や思い入れのある場所だってできたかもしれない。偽物の自分をかぶっていたとしても、そこで感じたことや得た経験は本物だったはずだ。
 それらが一夜にして燃え尽きた。その酸鼻を極めたであろう状況を想像することは、利吉にとってはそう難しいことではなかった。
「今回の事が堪えた?」
 利吉は静かに問う。
 忍びの道は甘いばかりではない。むしろ凄惨さとは隣り合わせの仕事だ。当然その現実離れした異質さに耐えられない人間がいることだって分かっている。いくら世に戦がありふれていようとも、人の生き死にが当たり前に繰り返されていようとも、誰が望んでそんな深淵を覗きたがるだろう。誰だって暗闇に己が手を浸すのは恐ろしい。
 だから、温厚で呑気で優しい──言い換えれば凄惨さに耐えることができなさそうな名前が忍びの道の現実を目の当たりにして、そこで耐え切れずに道を諦めるということは、利吉にとって何ら不思議なことではなかった。むしろ、どうかそうであってほしいと思うほどだ。
 凄惨で悲惨なものを目にしても動じずにいられる不感症な心など、名前には持っていてほしくはない。
 しかし名前は、利吉の問いにゆっくりと、はっきりと、かぶりを振った。
「いいえ。そうではありません。もちろん今回のことはわたしにはつらい体験でしたし、まだ夢に見て魘されることもあります。色々と堪えることがあったのは事実ですから、そこはまったく違うと言い切れることではありません。わたし、つい今の今まで言葉を交わしていた相手が、いきなり目の前で泡を吹いて絶命するなんてところ、はじめて見ました」
「……それは、随分と衝撃的な体験をしたんだな」
 利吉が思っていたよりも名前が衝撃的な場に立ち会ったことを知り、利吉の声には困惑と同情が滲む。名前もまた、しみじみと思い出すことで胸の内に苦いものが広がるようだった。顔を顰め、利吉に頷く。
「はい。本当に、いろいろありました。あんなことはもう二度と御免だと思います。──ですが、それが理由で退学を決めたわけではありません」
 そこで一度言葉を切ると、名前はそっと視線を伏せる。何かを悩むように、決めあぐねるように、視線は二度三度、うろうろと布団の上に揃えられた名前の指先の上を往復する。
 やがて、名前は意を決したように、そう言った。
「利吉さんに見ていただきたいものがあります」
 そう言うなり、名前はやにわに着ていた夜着の帯に手をかけた。思いがけない展開に、利吉が思わず狼狽える。
「なっ、名前っ、」
「──お見苦しいものですが」
 惑う利吉にかまわず、名前はそろりと夜着をはだけさせ、見る間に上半身の肌をあらわにした。それからわずかに腰を浮かせてると、身体に響かないようなゆっくりとした動作で、そろりと利吉に背を向けた。
 向けられたその肌を見て、利吉は絶句した。
 はじめて見た名前の肌は、焼けただれた痕がはっきりと残り、肩から腰までのほとんどの部分が赤黒く変色していた。これでは仰向けになるのは愚か、肌がひきつるような体勢をとることも難しいに違いない。
 利吉は今日この部屋に入ってから今まで、名前がほとんど身じろぎすることなく佇んでいたことを思い出す。思わず利吉の口から「ああ」と掠れた言葉が洩れた。
「ようやく包帯がとれて、今は薄皮が張った状態なので部屋に戻ってもいいと許可をいただきました。先週まではずっと医務室でうつ伏せになっているしかできなかったので、これでもだいぶ回復した方なのですよ。今は日に三度の新野先生の往診と、塗り薬で処置をしてもらっています。遠からず薬も塗らなくてよくなると新野先生は仰っいました」
 まるで他人の状態を説明するような、淡々とした口ぶりだった。
 こうして背を向けているために、利吉は名前がどんな顔をしているのかも知ることができない。ただ、説明を続ける名前の声にはひとつの乱れも揺らぎもなく、名前がすでにこの背を受け容れつつあることだけは、たしかに察することができた。
「回復はします。新野先生の見立てでは、日常生活にも大きな支障はないそうです。ですが、この先どれだけ時間が経とうとも、わたしの肌がもとの通りに戻ることはないでしょう。生涯わたしはこの奇異な背中を背負って生きていく。──それがどういうことか、利吉さんならお分かりいただけますよね」
 くノ一にはなれない。
 それはつまり、そういうことだった。 
 見ると背中だけではなく、名前の肩や二の腕にも大小さまざまな傷跡があった。そのうちのいくらかは時間とともに薄れ消えるだろうが、そうではなさそうなもの、金輪際名前の肌に刻まれ続けるだろうものも少なからず散見される。
 利吉の目から確認できる範囲でこれなのだ。全身をくまなく確認すれば、その傷の数はもっと増えるだろうことは容易に想像できる。
 くノ一を生業としていく以上、大なり小なり傷をこしらえることは避けられない。だから肌を見せるときには、そういった身体の傷は白粉で隠すのが一般的である。生身の肌をさらす以上、できるだけ後々個人を特定されないようにつとめとるのはくノ一でも忍びでも同じこと。小さな傷やほくろの位置まで正確に把握し、場合によっては消したり足したりしながら、如何に本来の姿かたちを見せないかが重要だった。
 だから、名前はもうくノ一にはなれない。これほどまでに大きく目立つ傷を負ってしまっては、人前で肌を晒すことなどできるはずもない。いくら化粧がうまかろうと、白粉で隠すのにも限度がある。
「だから、忍術学園を退学しようと思います。これ以上ここに居残ったとしても、わたしにはもう学びを活かす道に進むことができようもありませんから」
 そう言って名前は身なりを整えなおし、それきり唇をきゅっと引き結んで黙った。利吉はその動作を、ただ言葉もなく見つめていた。
 名前がくノ一になる道を諦めてくれたら。
 その道を絶ってくれたら。
 これまで利吉は何度も考えた。そうでありさえすれば、きっと今ほど不自由な思いはせずに済む。もちろん名前の未来からひとつの可能性を奪うことではあるけれど、畢竟どんな選択肢を選んだところで、選ばなかった選択肢を捨てることには変わりない。それならば、自分と一緒になる道を選んでくれたらいいと思った。
 無理に険しい道を行かなくてもいい。無理に過去の選択に固執しなくてもいい。そんな道を行かなくたって、利吉が、利吉の手で、名前を幸せにしてやる。だからただ、名前はふつうの娘のように笑って利吉を待っていてくれる、そういう道を選んでくれたらよかったのにと、利吉はもう何度も何度も、数えきれないほどにそう考えてきた。
 ──だからって、選ぶより前その道を閉ざされてほしいと、そんなことを思ったわけじゃなかった。
 そんなことを思ったわけじゃない。名前から可能性を摘みたいと思ったわけでもない。
 利吉はただ、名前に楽になってほしかった。名前にただ、幸福になれる道を選んでほしかった。それだけだった。
 利吉は長い息を、ふうと鼻から吐き出す。知らず識らずのうちに肩に入っていた力をゆっくりと抜き、それからようやく利吉は言った。
「そうか、何と言ったらいいのか、分からないけど……。でも、ひどい怪我は負ったけれど、やはり私は名前が無事でいてくれてよかったと思う。肌に傷があろうとなかろうと、私にとって大切なのは名前の命であり、名前の心だから。だから、名前が無事でいてくれてよかった」
 その言葉に嘘偽りはひとつもない。実際、利吉は心の底からそう思っていた。
 名前が無事に生き延びてくれたことだけが、利吉にとってはたったひとつの不幸中の幸いだったのだ。
 利吉は名前の肌を好きになったのではない。名前の傷のない身体を愛したのではない。利吉が好きになったのは名前の内面で、愛したのは名前の笑顔だ。だから名前の命が守られてくれさえすれば、極論そのうつわがどのようになろうと利吉はかまわない。
 たとえ背中に大きな傷があったところで、利吉にとっての名前の価値は何ら損なわれてはいない。
 しかしそれは、利吉にとっては今更言うまでもないことであったが、名前にとってはけしてそうではなかった。利吉に向けられた名前の目は不安げにゆらゆらと揺れて、やがて薄く開かれた口からこぼれた
「……いいのですか」
 という言葉もまた、瞳と同じく頼りなさげに震えていた。
「いいって、何が」
「こんな大きな傷のある女子、利吉さんには──」
「何を言うんだ」
 はっきりと発した言葉は、ことさら強く厳しく響く。利吉は急速に胸の内にせりあがる抱きしめたい気持ちを、何とかぐっと堪えた。かわりに、心を落ち着かせるよう一度大きく息を吐き出してから、わずかに声の調子を落として言う。
「私は、そんなことくらいで名前を手放す気はないよ」
 名前は何も言わない。返すべき言葉を探しているのかもしれないし、あるいは発するべき言葉を見失ったのかもしれない。いずれにせよ、利吉の言葉への返答はなかった。ただ、視線に宿る色は仄昏い。
 利吉はさらに言葉を続ける。
「名前、聞いてくれ。私は本心から、君の命が無事でよかったと思ってる。どれだけ人が死んだか、それも大体のところは聞いている。だけど、私にとっては名前の、そのたったひとつの命の方が身も知らない数十人の命より、余程大切なものなんだ。名前さえ無事でいてくれたなら、それで私は十分なんだよ」
 伝蔵から最初に話を聞いたとき、利吉は心臓が凍り付くかと思った。
 話を聞いている間中も、ずっと生きた心地がしなかった。
 戦の惨さも、毒の恐ろしさも、火の無情さも、すべて利吉は知っている。日頃自分が仕事の道具として扱うものだからこそ、嫌と言うほど知っている。知り尽くしている。その恐ろしさを──名前が生きて帰ってきたことが、如何に奇跡的なことであるのかを。
「父上から言われたよ。名前のくノたまとしての誇りを踏みにじるようなことを言ってはならないと。だけど、私は心底ほっとしたんだ。優しくてあたたかくて、底抜けに人のいい君が、こうしてまだ笑っていられることに。ひどく傷つくような経験をしてもまだ、こうして言葉を話せることに。それ以上のことなんて何も望んでない。君がただ、こうして無事に生きていてくれたことだけが全部なんだ。私はそれだけで、もう十分なんだよ。だから──」
「やめて、ください」
 ふいに、名前のか細い声が利吉の言葉を遮った。
 か細くて、掠れて消え入りそうなその声は、しかしそれだけに切実さを孕んでいるようだった。
「やめてください、利吉さん。わたし、本当は利吉さんに心配していただけるような、そんな資格、ないんです」
 布団の上で握りしめた名前の手が、何かを堪えるように小さく震えていた。普段の喧騒も忘れたように、部屋の外も部屋の中も、まるでふたりの周りからは一切の音が消えたように辺りは静まり返っている。ごくりと息を呑んだ音だけが、やけに大きく聞こえた。
 名前の視線が一度利吉に向き、それから布団の上の自らのこぶしへと移る。細く長く吐き出された呼吸は空気に溶け、利吉との間に見えない隔てをつくるようだった。
 ややあって、名前が苦し気に口を開いた。
「わたしは利吉さんがおっしゃるような人間ではありません。利吉さんに望まれるような存在では、ありません。利吉さんが愛してくださるような、そんな女じゃ、わたし、ないんです」
 名前の声は掠れ、かさついていた。喉も本調子ではないのだろうが、それよりもむしろ名前自身が発している言葉こそが、名前のことを余計に苦しめているように利吉には見えた。
 それでも名前は口を閉じようとはしない。まるで何かに追われるように、急かされるように、名前は言葉を吐き出していく。
「本当はわたし、少しほっとしてるんです。くノ一にはもうなれないかもしれないと言われて、ほっとした。だってこれでもう、悩んだり決めたりしなくたっていいんだって思ったから。ああもう、悩んで苦しい思いをしなくてもいいんだって、そんなふうに心のどこかで安心してるんです。こんな、こんなときまで、わたしは自分のことばっかり、目の前で弥次郎さんが、みんな死んだのに、良くしてくださった姉さんたちだって、お殿様だってみんな、みんな、わたし以外みんな死んじゃったのに、それなのに、わたしは自分のことばっかり考えて、あげく死んだ人から着るものまで取り上げて。火の中にみんな置き去りにして。それなのに忍術学園の生徒だからって理由でわたしだけが助けてもらえて──だから本当は、わたし、自分のことしか考えてない人間なんです。薄情で、ろくでもない、そんな人間なんです」
「名前、」
「ごめんなさい、利吉さん、ごめんなさい。弥次郎さんも、松も、母さんも姉さんも、みんなに申し訳が立たない。わたし、本当に嫌な人間なの。だめで、情けない。結局わたし、そういう人間なんですよ。甘ったれで、情けなくて、自分のことしか考えていないくせに、いざ自分のことひとつ決めるとなるとそれだってできなくて」
 郷での生活が嫌だと言って忍術学園に入学した。本当にくノ一になりたいのかも分からずに、それでも与えられた課題をこなしていれば郷に帰らずに済むから、ただひたすら目の前のことに取り組んだ。自分の居場所がないのがつらくて、いい子のふりをした。後輩の面倒を見て、自分の価値を、自分のかたちを、そうして再確認しようとした。
 利吉に近づきたくて、利吉の世話を買って出た。やさしい人間なのだと、いい子なのだと思われたかった。それなのに利吉と結ばれてしまえば、これまで藻掻きながら手にしかけていたものを捨てることを考えた。くノ一としての道と、ふつうの幸せを、天秤にかけた。
 その天秤を傾けることすら、人の意見という錘(おもり)を足して、誰かのせいにしようとした。
「挙句の果てにはこれで、これで利吉さんをがっかりさせなくて済むなんて、まだ利吉さんに理由を押し付けようとしてる。ずっとそうなんです。ずっとずっとそうで、だからきっと、利吉さんにそうまで言っていただけるような、そんな立派な人間じゃない。わたしは、そんな高尚な人間じゃない」
 弥次郎の言葉を思い出す。
 自分がどうしたいか、それを明確にしておけば土壇場で腰が引けるようなことはないのだと弥次郎は言った。父親の受け売りだと言って彼は笑っていたけれど、きっと弥次郎自身、その言葉に従うように己を持って生きていた。
 けれど名前は、ついぞ弥次郎の言うようにはできなかった。
 自分のしたいことを選んだら、その時点で何かを失うかもしれないということを、すでに名前は知っている。忍術学園に入学したことで、人並みの未来を選ぶことを躊躇してしまうようになったのと同じように。自分のしたいことを選んだら、大切な後輩の願いを足蹴にしてしまうことなると分かっているように。
 自分がどうしたいかになんて、素直になれない。自分の選択の責任を自分ひとりで負わなければならないことが恐ろしい。だから、利吉を、松を、選択することの理由にしようとした。どちらの道を選んだとしても、自分にそれを期待する人がいる──自分だけの力で未来を決めていくことから逃げるのに、大切な人たちの思いを免罪符にした。
 誰かのためにあることで、自分の責任を他人に押し付けようとした。
「利吉さんが、私にくノ一になってほしくないって思ってたこと、本当はわたし知ってます。知ってたんです、本当はもう、ずっと知ってたの。利吉さんが私にくノ一になってほしくなくて、でも、わたしのことを思ってそのことを口にしないってこと、知ってたの。知ってたけど、言えなかった。だってわたし、くノ一になるって、田舎のみんなのような流されるだけの人生は嫌だって、無理に忍術学園に入ったのに。それなのに、卒業を前にして悩んで、今更自分が放り出したものが羨ましく思える気がして、だけどそんなの、そんなこと認めるのは嫌だから、それで利吉さんに理由を被せて逃げようとして──でもそれが利吉さんに知られたら軽蔑されるから、やめたいって、くノ一になるのはやめるって言えなくて」
 言葉を紡げば紡ぐほど、がんじがらめになっていく。
 言葉を話せば話すほど、自分の汚さに嫌気がさす。
 それなのに喉からあふれる言葉はとめどなく、名前は突き動かされるように言葉を吐き出し続ける。利吉の反応をうかがうこともせず、利吉に意見を求めることもせず、ただ闇雲に、無軌道に、懺悔のような悔恨のような──呪いのような言葉を、ひたすらに垂れ流し続ける。
「駄目なんです、わたし、利吉さんに心配していただけるような、人間じゃない。自分のことしか考えてない、最低な人間です」
 果たして名前のやさしさの裏側にある下心を最初に暴いたのは誰だっただろうか。あの時彼に指摘された言葉が、今になってずくずくと、胸の疼きを名前に与える。
 彼は正しかった。どこまでも正しかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 思うような人間であれず、ごめんなさい。
 大切な言葉を教えてくれたのに、報いることができなくてごめんなさい。
 親切にしてくれたのに、返すものが何もなくてごめんなさい。
 大事に思ってくれているのに、顧みなくてごめんなさい。
 期待を寄せてくれたのに、応えられずごめんなさい。
 愛してくれたのに、その思いを言い訳にしてごめんなさい。
 こんな人間で、ごめんなさい。


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