もどらぬ世界を横目に

 それからおよそ三日、名前は昏々と眠り続けた。全身に及ぶ負傷はもちろん、惨禍を潜り抜けたことによる精神的な傷も大きい。名前のくノたまとしての実力を考えれば、生きて戻っただけでも奇跡に近い僥倖だった。
 くノたまの五年生として、はじめての長期実習でこのような事態に見舞われることは、くノ一教室開校以来はじめての椿事だった。下級生たちの動揺を避けるためにも名前の身に起きたことは厳重に秘匿され、ごく一部の事情を知るものには洩れなく箝口令が敷かれた。医務室での面会も、ごく一部の生徒に限られた。
 事件の首謀者は、やはりあの日、城内を訪ねた大使を擁する国の城主であった。かねてより名前の実習先の城──便宜上、甲茸城とする──を政敵として警戒していたその城──便宜上、乙茸城とする──は、甲茸城主が忍術学園と懇意にしていることに対して、常々危機感を持っていた。
 加えて、乙茸の盟友であるタソガレドキを、忍術学園と結びつきの強いフリーの忍者がこそこそと嗅ぎまわっているという噂もある。探られて痛む腹がないわけではない乙茸城には、これ以上の猶予はなかった。甲茸城に戦を仕掛ける計画は、実際にはもう何か月も前から始まっていた。
 しかしここでひとつ問題が生じた。戦を仕掛けようと準備をしていた矢先、何やら忍術学園の生徒が、攻め入る予定の城の内外でうろちょろし始めたのである。
 そのうろちょろしている生徒というのは、実際にはただの実習でしかない名前や久々知といった生徒であった。しかしそんな事情をまったく知る由もない乙茸城は、大いに混乱した。堂々と忍術学園の人間が出入りしている様は、常に甲茸城を監視していた乙茸城の目には如何にも異様にうつったのだ。
 攻め込む予定の甲茸城と忍術学園が、手を組んで何か画策している。そうなれば、それがたとえ乙茸城に弓引く計画ではなくとも、場合によっては乙茸城にも火の粉が及ぶかもしれない。そう考えた乙茸城主には、もはや一寸の猶予も残されてはいなかった。
 正々堂々と戦を仕掛ければ、甲乙両城の戦力は互角だろう。
 しかし甲茸城の背後に忍術学園がつくとなれば、乙茸城の形勢は限りなく不利になる。そこで考えたのが、此度のむごたらしく卑劣な殲滅作戦だった。逆に言えば、ひとりの取りこぼしもないほど徹底的に殺しつくすしか、乙茸城には策は残されていなかった。
 甲茸側にひとりも家臣が残らなければ、忍術学園に仇討ちを頼むものもいない。そうなれば、本来は教育機関に過ぎない忍術学園が、彼らを恃む者も不在の戦など仕掛けてくるはずもない──そう読んだ。
 忍術学園の生徒がその惨禍に巻き込まれ、それによって忍術学園が報復に来ることも知らず。

 ◆

「──以上のことが、このひと月の間に起こったことだ。今はもう、すべて片はついておる。ここから先もしばらくは情勢不安は続くだろうが、ひとまず忍術学園ですべき『片付け』は滞りなく済んだ。ゆえに今後この件に関して、一切の勝手な行動は許さん。──分かっておるな、利吉」
 伝蔵の言葉に、利吉はただ唇を噛みしめ拳を握る。
 静かな部屋の中には、伝蔵と利吉のふたりだけがただ黙して相対している。

 二月のはじめ、利吉がおよそひと月ぶりに忍術学園を訪れると、どうにも学園内の空気がぴりぴりとして張りつめていた。下級生たちは事情を知らないながらもどこか物憂げであったり不安げな顔をしており、また上級生や教員は、一見普段と変わらないように見えるものの、うっすらと緊張感を肌に纏わりつかせている。
 普段からそうした人間のにおいに敏感な利吉が、普段とは違うその異様さに気付くのは当然のことだ。おまけに入門票を差し出してきた小田から「どこにも寄り道することなく、学園内に足を踏み入れたらそのまままっすぐわしの部屋へ来るように、と山田先生から利吉さんに言付けをあずかってます」とまで言われれば、何もないと思う方が無理な話だった。
 斯くして訳も分からぬまま、緊急事態らしきことだけ察して急ぎ伝蔵の部屋を訪れた利吉が聞かされたのが、此度の事件の経緯である。
 想像を絶するなどという言葉ではとても足りない、忌まわしさすら感じる話だった。正座をした足の感覚がない。頭があらゆる感覚という感覚をすべて手放したかのような、そんな心地がした。
「どうして、」
 やっとのことで、それだけ吐き出した。
 どうして、そんなことに。
 どうして、名前が。
 どうして、誰も教えてくれなかった。
 「どうして」に連なる言葉はあまりに多すぎて、そのいずれかを選ぶこともできず、ただ利吉は譫言のように「どうして」と繰り返す。伝蔵がすらりと目を細めた。
「どうしても何も、お前はお前の仕事中だっただろうが。そもそも連絡なんぞつかんわい」
「そ──それでも、本当に知らせる気があればどうとでもなったでしょう! ここには父上を始め名のある忍びの先生方がお集まりじゃないですかっ!」
「よく分かっているじゃないか。そうだ、わしらは忍びだ。誰の依頼もなくお前に連絡する義理はない」
「義理って、それは名前が」
「その名前が、お前には言うなと言ったんだ。仕事の邪魔をしたくないからと」
 その言葉に、利吉は返す言葉を失った。
 名前が何も言うなと言った──伝蔵は、父は、今そう言った。名前は利吉に知られたくなかった。いや、遅からずすべてを知られることは分かっていて、けれど今はその時ではないと判断した。
 時が来れば否応なく知ることになる事情を、わざわざ別件で忙しくしている利吉にもたらさなければならない理由などないと、そう判断した。
 自分と利吉の間柄、自分と利吉の気持ちより、利吉の忍びとして職務を選んだ──それが自分のすべき最善であると、名前はそう判断した。
 苦虫を噛み潰したような表情で膝の上の拳を睨む利吉に、伝蔵はそっと溜息をつく。
 伝蔵には利吉の気持ちも分からないではない。たとえ家族や大切な人間に何かあった時でも、すぐにその場に駆け付けられるわけではないのが忍びという職であり、忍びという生き方だ。幸いにして伝蔵は妻も息子も健在だが、それでもいつかはと考えない日はない。戦忍びという生き方から教師に転向してのだって、そういう事情がまったく無関係と言うわけではない。
 それでも、忍びとして生きていく以上はそれが──私情より忍務を優先させねばならないのが定めだと、伝蔵はそう思っている。だから名前の「利吉には伝えない」という選択にも異は唱えなかった。その結果利吉がどのような気持ちになるのかも分かっていて尚、名前の意思を尊重した。
 部屋の中央に置かれた火鉢の炭が、ちいさく爆ぜる音がする。
 再び溜息をつき、伝蔵は口を開いた。
「此度の実習において、最後にケチはついてしまったものの、名前は無事に課題に合格した。あの惨状の中にあっても、無事に忍術学園に生還した。くノたまとして、くノ一として、これ以上誇らしいことはないだろう」
「しかし、名前の身は──」
「忍びの仕事は結果がすべてだ。そのことは利吉、お前だって分かっているはずじゃないのか」
 試されるように問われ、利吉はぐっと言葉に詰まった。伝蔵の言うことが正論だと分かっているからこそ、余計に言い返したくなる。けれど正論に何を返したところで負け惜しみにしかならない。だから結局、利吉は黙るしかない。
 ──たしかに父上の言うとおりだ。
 悔しいが、認めざるをえなかった。
 利吉はずっと、結果こそが肝要という姿勢で仕事を続けてきた。名前にだってその話をしたことがある。過程がどうあれ、思考がどうあれ、最後に為したと言えることだけが評価されるべきである、と。
 あの夏の日、己の「やさしさ」の在りかたに悩んでいた名前にそう説いたのは、他ならぬ利吉である。
「名前はくノたまとして正しいことをした。もちろん実習先で得体のしれないものを不用意に口に入れたことは問題だが、それ以外はおおむね合格点だ。だから利吉、お前もけしてその成果に水を差してはならん。あれをただの娘として扱って、名前の努力と誇りに泥を塗ることだけは、何があってもしてはならん」
 たとえ利吉にとっての名前が、「こちら側」へ戻るためのよすがだとしても。どれだけ利吉が名前には忍びの世に染まらないでいてほしいと望んだとしても。
 清廉潔白のまま、ただ笑っていてほしいと願っても。
 名前はもう、「あちら側」に足を踏み入れてしまった。
 自分の手を汚してはいなくとも、何も知らなかったとしても、遅かれ早かれ起こりうる事態だったとしても、それでも──自分が関わることでひとが死ぬ経験をしてしまった。
 もはや何も知らなかった名前ではない。
 ただ笑っていられた名前では、もうない。
 そしてその道を選んだことを責められるかどは、きっとどこにもない。
「分かったら、それ以上余計なことは言うんじゃない。それから、名前の見舞いにいく前に顔は洗って行きなさい」
 伝蔵の言葉に見送られ、利吉はふらふらとした足取りで伝蔵の部屋を後にする。部屋の外は刺すように空気が冷たい。利吉の肌がざわりと鳥肌を立てる。
 この後名前にどんな顔で会えばいいのか、どんな言葉をかけるのが正しいのか──利吉にはもう、ただそれだけのことですら、すっかり分からなくなっていた。

 ◆

 伝蔵に言われたとおりに井戸で顔を洗ってから、利吉は重い足を引きずるようにしてくノたま長屋へと足を向けた。名前の状態はすでに医務室での経過観察の段階は過ぎ、今は自室で静養している──というのは先ほど伝蔵に教えてもらったことである。当分はまだ部屋からは出ないようにと新野先生からの指示も出ているらしい。だから部屋に行きさえすれば、まず間違いなく名前と顔を合わせることになるだろう。
 ──私はどうすべきだったんだろうか。
 歩きながら、ふとそんなことを思った。
 名前にはくノ一になってほしくないと思いながらも、利吉がその思いを言葉にしたことはこれまで一度もない。名前の将来のことである以上、最終的な決定をくだすのは名前自身である。だから利吉は、たとえ利吉が何を思いどう考えていようとも、最終的な名前の決定をすべて丸ごと受け入れる気でいた。
 ──けれど、その結果、名前は深い傷を負った。
 くノ一になれば危険がつきものであることは利吉も分かっている。そのくノ一になるための実戦的な学習なのだから、当然実習にだってある程度の危険はつきものだろう。そうでなければ実習の意味がない。
 けれど、利吉はどこかで高をくくっていた。
 実習は所詮授業の延長だ。六年生の実習ならいざ知らず、五年生の実習ならばそこまでの危険はない。だから名前の実習が如何に大変であろうとも、最後には無事に帰ってくるだろうと思っていた。いつものように笑って、「こんにちは、利吉さん」とまた自分を迎えてくれると、そう思っていた。
 ──こんなことになるのなら、あの時無理にでも名前を私のものにしておくんだった。
 名前の未来が大切だからなどと格好つけたりせず、なりふり構わず抱きしめてしまえばよかった。そうすればきっと、利吉はもう二度と名前を手放せない。名前もまた、そんな利吉を振りほどいてまでくノ一になろう、くノたまとして励もうなどと考えないに違いない。良くも悪くも名前はそういう娘なのだ。頑固で芯の強さはあるが、その芯は叩き方をひとつ変えれば存外あっけなく曲がる。利吉がうまく叩きさえすれば、きっと名前はくノ一となる未来を手放しただろう。
 そうすればこんな危険に巻きこまれず済んだ。
 騒動は止めらずとも、名前のことは救えた。
 誰から非難されようと、それだけは恐らく、事実だった。
 とはいえ、すべては済んでしまった話である。今更利吉が何を思い何を悔やんだところで、名前の身に起きてしまったことは何も変わらない。
 利吉がいかにすぐれた忍者であろうと、過去に干渉することはできない。未来を切り拓くのは名前自身自身だ。だから利吉に干渉できることがあるとするのなら、それは名前の「今」だけだ。
 と、くノたま長屋に向かって歩いている途中、向かいから落とし紙の山を抱えて歩いてくる少年の姿が見えた。その少年は利吉の姿に目を留めると、小走りで駆け寄ってくる。
 と、抱えていた落とし紙の山からひとつ、落とし紙がころりと落ちた。それを利吉がすかさずキャッチし、山のてっぺんへと戻した。
「はい、落としたよ。──善法寺くん」
「ありがとうございます、利吉さん。いらしていたんですね」
 それから人のよさそうな笑顔でにっこり笑って、
「利吉さんはこれから、彼女のところへ?」
 と、尋ねる。冬の寒さも、伊作の前ではかすかにやわらぐような気すらした。
「まあ……、うん」
 対する利吉は、何とも歯切れの悪い返事をして宙に視線を漂わせた。
 伊作の言うとおり、利吉は今まさに名前の部屋へ向かう途中である。しかし事件から一か月近くが経過してからようやくのこのことやってきたのだと思われているような気がして、その返事はどうしても曖昧なものとなる。もちろん伊作にそんな意図はなく、そうしたことを思うのは完全に利吉の被害妄想でしかない。そのことは利吉自身よく理解している。
 ──やめよう、善法寺くんには他意はないんだ。
 溜息をつき、それから利吉は無理矢理に顔に笑顔を張り付けた。職業柄、本心がどこにあろうと笑顔をつくることは得意中の得意である。
「善法寺くんの最初の処置がよかったおかげで、名前の傷の治りも随分早いと父から聞いたよ。ありがとう」
「いえ、ぼくは新野先生に想定される状況と対処を聞いて実践しただけですから、そんな」
「それは十分すごいことだよ」
 私など、その場に駆け付けることすらできなかったのに。それどころか、何も知らずに安穏と日々を送っていたのに──そう言いかけて、利吉は慌てて言葉を飲み込む。こんな愚痴を吐いたところで、伊作をいたずらに困らせてしまうだけであることは分かり切っている。年長者として、また忍びの道の先輩として、そんな醜態を晒すわけにはいかない。少なからず尊敬のまなざしを向けてくれる後輩に対して、不甲斐ない姿を見せるわけにはいかなかった。
 それでもやはり、すべてにおいて遅きに失した自分への遣る瀬無さはなくならない。そんな利吉に、伊作はわずかに眉を下げて言った。
「苗字は先週ようやく自室に戻る許可がおりたんです。暫くは寝起きも医務室で、しかも保健委員会や事情を知っている生徒以外の生徒に見つからないようにって、いろいろと大変でしたよ」
「それは、何というか……苦労をかけたね」
「いえ、利吉さんがそう仰る筋のことではありません」
「たしかに、それもそうか」
 苦笑して答えるが、気持ちはずんと重い。
 忙しい毎日を送りながらも、利吉は忍術学園にはそれなりに顔を出すようにしている。忍たまからは慕われており、教員からも一目置かれている自覚がある。
 しかし、結局のところそれだけだ。
 自分は忍術学園の関係者だが、まったくのここの所属の人間というわけではない。そんな当たり前なことを利吉は、今更ながら思い知る。
 忍術学園の関係者ではない。
 名前の家族でも身内でもない。
 ただの恋仲で、それはつまり、名前に何かあっても連絡のひとつすらもらえないような──そんな距離感だということ。
 ふと、利吉は頭に浮かんだ質問を伊作にぶつけることにした。
「善法寺くんは、名前とは親しいの?」
 伊作は一瞬きょとんとして、それからすぐ、怪訝そうに眉をひそめる。
「いえ、そういうわけでは……。ただ、苗字はくノたまの中でもとりわけよく医務室に顔を出しては勉強をしていましたから、今在籍しているくノたまの中では、知っている方ではあると思いますけど」
「そうか」
 たしかにこれまで一度も、名前の口から伊作の名が出たことはなかった。同じ五年生の忍たまとは親しくしていても、恐らく先輩である六年生とは多少は距離があるのだろう。ほっとしたのか残念なのか──伊作にそんな問い掛けをしたところで、自分がどのような答えを求めていたのかすら判然としない。
 それでも重ねて、利吉は問うた。
「じゃあ、もうひとつ。善法寺くんは、名前はくノ一に向いていると思うかい?」
 その問いに、伊作は一層眉間の皺を深くした。しかし今度は訝し気というよりも、むしろ何かを悲しむようにそっと視線を伏せる。
 雲が流れて、太陽を覆う。利吉と伊作の影がもっと大きな空から落ちた影の中に飲み込まれて消えた。
「利吉さんも、随分ひどいことをお聞きになるんですね」
 伊作はただ、それだけ答えて苦笑した。


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