あなたの白いうなじをそっと視界におさめて(3)

 最初に決めていたとおり、日が暮れる前に忍術学園まで戻った名前は、重たい身体と心を引きずるようにして部屋へと足を向けた。またぞろ同室の松に恋愛事情を話してくれとせがまれたらどうしようかと考えるだけで、胃の腑の辺りがきりきりと痛む。
 ──わたしのためを思ってくれてのこととはいえ、松は案外平気で過激なことを言う子だからなあ……。
 まさか大切だから抱かない、と利吉が頑なに一線を守ろうとしているなどと、松は思いもしないに違いない。利吉の恋人である名前ですら、利吉がそこまで名前を思ってくれているとは思わなかったのだ。果たして松には説明したところで納得してもらえるかどうかもあやしい。
 ──わたしと利吉さんのことである以上、別に松にすべてを納得してもらう必要もないのだけど……。
 それでも、色恋に関しては疎い名前の身の回りのことを何かと気にかけてくれる松に対しては、名前もできるだけ素直で誠実でありたかった。慕ってくれ、かつ対等にものを言い合える友人などそうそう作ろうと思って手に入れられるものではない。特に松とは、生家の家格も違えばそもそもの身分も違う。年の差以上の差異がふたりの出自にはある。だからこそ、こうして育んできた友情は大切にしたかった。
 どんよりとした気分のまま、名前は自室の障子を開けた。
「ただいま」
 と、黄昏の薄暗い色の空気に満ちた部屋の中では、松がひとり、何をするでもなくぽつねんと壁に背を預けて座っていた。長い睫毛に縁取られた瞳はうつろで、何もない部屋の真ん中をただぼんやりと見るともなく眺めていた。
 一歩、名前が部屋の床を踏む。その軋む音で、ようやく松はゆるりと顔を上げた。うっすらと微笑む表情は翳り、はっきりとした眼の下にはどんよりとした隈が張り付いている。
 その尋常ならざる後輩の様子に、名前は利吉との逢瀬のこともはるか彼方へと忘れ去り、ごくりと大きく息を呑んだ。気丈な松がここまで分かりやすく落ち込むさまなど、これまで名前は見たことがない。
「──あ、先輩。お帰りになられていたのですか」
「えっと……。うん、そう。今戻ったところ」
 ひとまず当たり障りのない返事をし、名前は荷物をおろす。その間にも松は緩慢に名前の動きを視線で追いかけるだけだ。
「どうでした? 利吉さんとお出かけになって外泊されるの、付き合ったばかりの頃以来でしたんでしょう」
「そうだけど……、まあ、ね」
「あら、何です? その煮え切らない返事。おかしな先輩」
 それだけ言って口をつぐんだ松に、名前はいよいよ不安を募らせた。
 松のことだ。曖昧に誤魔化せばてっきり厳しく追及してくるものと思っていた。松の様子のおかしさを測るのにわざと曖昧な物言いをした名前ではあったものの、こうも様子がおかしいとなると本当に何かひどいことがあったのではないかと心配になってくる。
 ──だけど、こういうことは、松の方から言い出してくれるのを待った方がいいのかもしれないし……。
 そもそもどういう事態なのかも不明な現状で、あまり不用意に事情を聞くのも憚られた。名前はひとから悩み事を相談されることも多いが、それはあくまで相手が持ち込んでくる場合に限る。自ら悩める友人を訪ねることはせず、来るもの拒まず去る者追わずの姿勢をつらぬいてきた。
 不用意に、分遠慮に他人の思考に踏み込むことの恐ろしさを、名前は家族だからとずけずけと物を言う母や姉から嫌と言うほど学んでいる。
 とりあえず松の隣に腰をおろすと、松と同じように何もない部屋の真ん中を眺めてみる。こうすることで彼女の考えているものの一端でも分かるかとも思ったのだが、生憎と名前には、ただきれいに磨き上げられた床が見えるだけだ。心に何かが思い浮かぶことも、松の悩んでいそうなことを察する気配もない。
 ──まあ、そりゃあそうだけど。
 何の特別なちからも持たない名前には、隣合って松を真似てみたところで彼女の心の中身など到底分かるはずもない。くノたまとしての洞察力だけは磨いてきたものの、こうして松本人が心を内に向けている以上は、名前がその仔細を想像することはできない。
 名前は心の中でそっと溜息をつく。待つことは得意だが、それでもこうも息苦しい沈黙の中でずっと息をひそめているというのは、やはりなかなかに堪えるものがあった。いっそ、真っ向から聞いてしまうことができればどれほど楽かとも思う。
 ──せめてこうして側にいるだけでも、心を癒す一助になれていたらいいんだけど。
 拒まれないず、ここにいることを許してもらえている。そのことだけを頼りにしばしそこで名前もぼんやりしていると、やがて枝から葉が落ちるように唐突に、松が「せんぱい」と名前を呼んだ。
「せんぱい」
「……なあに?」
「私、春を待たず……いえ、年明けを待たず……、忍術学園を退学することになりました」
 静かな水面に、そっと葉が落ちた──それほどひっそりとしたその言葉は、しかし油断していた名前の心をかき乱すには十分すぎるほどの威力を持っていた。
 松が忍術学園を退学する。
 予定していた四年生の最後を待たず。
 この部屋から、この学園から、いなくなる。
「……え? ど、どうして」
「実は、先輩がご不在の間に早馬で実家から文が届きまして。その、私の夫となる予定だったひとが」
 戦で命を落としたそうです。
 淡々と発する松の声は、震えてすらいなかった。きっともう、そんなところはとうに通り過ぎてしまったのだということを、名前はその平坦な声から思い知る。
 松によれば、彼女の許嫁は彼女の生家と同じ土着の武家の息子だったという。しっかり者ではきはきとした松とは対照的に、おっとりとした気質の男だった。戦や武芸は好まず、もっぱら草木を愛でるような、そんな男だった。
 その人の好い男が、戦で命を落とした。
「戦って、」
「先日、忍たまの五年生の先輩方が実習に出てみえましたよね。あの戦です。あの戦で、あのひとは負けた方の陣営に」
「ああ、そんな……」
 そう言うよりほかに、名前には言葉がなかった。
 利吉や鉢屋が印を取りにいったあの戦は、戦乱の世のなかでは比較的小規模な戦のうちに入る。後世に語り継がれることもない、小競り合いの延長のような戦だったのだろう。
 しかし、そこで松の夫となるべき男は戦い、そして死んだ。その事実だけは、戦の規模などとはまったく関係のない、純然たる事実だった。
「でも、あのひとが討ち死にしたからといったって、それで縁談の話がまるきり立ち消えになったわけではないのです。だって私とあのひとは、けして愛し合って娶せられたわけではないので……、だからその、弟御をかわりに私の夫に──と」
「そんな話って──」
 思わず声を荒げた名前の手を、松のひんやりと冷え切った指先が握る。
「あるのです。そんな話だって、普通に、どこにだって、当たり前みたいにあるのですよ。全然珍しい話ではないのです。ありふれていて、ありきたりな話なのです。だってこれは家同士のことだから。──私とあの人のことではなく、私の家と、向こうの家とのことだから」
 諦めきったその言葉に、名前は今度こそ沈黙するしかなかった。
 くノ一教室に通う多くの娘が、家の事情で夫となる相手を決められる。それは当たり前のことであって、何も悲観するようなことではない。ただの農家の出の名前ですら、実家にいれば遅かれ早かれそういう話にはなっただろう。だからこそ名前は家を出た。そんな未来から逃れるため、名前はさっさと家から逃げ出した。
 けれど松は、ほかの娘たちは違う。
 名前のように実家から距離があるわけでもなく、また家を出たからと言って放任にしておいてくれる親でもない。名前が逃げ出すために入学した忍術学園は、彼女やその親にとっていずれ人の妻となるそのために入学する場所だった。はじめから、終わりまで、ここはそういう場所だった。
 未来を選ぶ岐路に立ち、どちらの道がより幸福かなどと名前が呑気に頭を悩ませているその横で、彼女たちはただまっすぐの道を迷うことすら許されずに進むのだ。
 まっすぐまっすぐ、躊躇わず、足踏みせず。
 名前の知らない「家」を背負って、そして彼女たちは、名前よりも先に大人になる。
「ともかく、そういうわけで……。それで、その弟御も、まさか亡くなった兄上の手つきと娶せられるなどとなれば色々と複雑でしょうから、早めに顔を合わせて一緒に過ごす時間を持つようにしたいのだと、先方が仰っているのだそうです。そのためには忍術学園にいては何かと不便なことですから……だから、今月のうちには私は忍術学園を出てゆくことになります」
「わたし……何と言えばいいのか……」
 声を掛けたい、言葉を贈りたい──そう思うはずなのに、どのような言葉を掛けたらいいのか、そもそも言葉を掛けることが適切なのかすら、今の名前には判断することができなかった。よしんば声を掛けたとして、それは励ましの言葉であるべきなのか、形だけでも祝福すべきなのか。
 松の気持ちは分かっても、松の家の事情や相手の男のことまでは分からない。だから今この場における正解が何なのか、それが名前には分からない。
 それに何より、名前自身がひどく狼狽していた。
 これまでの忍術学園での生活でたくさんの友を見送ってきた名前だったが、ここまで唐突に別れが訪れるのははじめてのことだった。まだ何の心の準備もしていない。
 まだ松と別れる準備ができていない。
 困り果てた顔で松を見る名前に、松もまた、困ったような顔で笑った。それはいつもの、名前のことを気に掛ける松の表情とよく似ていて、けれどいつもの松とはけして同じではない笑顔だった。
「大丈夫です。先輩がいつもそうなさるように、ただ『おめでとう』と、そう言って私のことを送ってくだされば、それで」
「松……」
「それだけ言っていただければ、松は大丈夫です」
 気丈に振る舞う松の笑顔に報いるためには、結局のところ名前もいつもの通りに振る舞うしかないのだろう。しっかりと頷いて、名前はそっと松を抱き寄せた。

 ◆

 その晩、布団にもぐりこんだ名前と松は、いつものように隣り合わせで横になった。昨晩とは打って変わって、今宵は月が銀色に輝いている。障子ごしにも届く明るさは、眠気を感じさせない名前の額をそっと照らす。
「先輩、この間は無神経なことを申し上げてすみませんでした」
 ふいに、松が呟いた。その声に視線を向けるも、松の瞳はまっすぐ木の天井を見つめている。
 長屋全体が眠りについたような静けさの外側で、山の木々がざわざわと鳴る音がした。
「この間って?」
「利吉さんとのこと……私、出過ぎたことを言いました。申し訳ありませんでした」
「ううん、いいの。気にしてないわ。松がわたしのためを思って言ってくれたことは分かっているもの」
「いえ……、分かりません。本当にあれが名前先輩のためを思って言った言葉だったのか……。私、今はもう自信がなくて」
 弱弱しく発した松に、名前は何も返さなかった。
 あの時、もしかしたら松はすでに何かを感じ取っていたのかもしれない。年度末での退学を控え、松と許嫁の男が夏以降、密に文での遣り取りしていたことは同室の名前も知っている。だからきっと、夫となるべきひとが戦に出陣するということも、あの時点では松は知っていた。
 確信はなかったのかもしれない。武家の出とはいっても松の家から、少なくとも松が物心ついて以降に戦で命を落とした者はいない。いくらくノ一教室に在籍しているといったって、くノたまの四年生という立場ではまだまだ生き死には身近なことではないだろう。
 だから、確信ではなかった。
 けれどきっと、考えた。
 愛する人と沿い遂げることができないかもしれないということを。
 愛する人と肌を重ねることもなく、別の誰かがその代わりになるかもしれないということを。
 だから余計なことだと分かっていても、名前と利吉の恋路に口を出さずにはいられなかった。
 幸せを目前にしながら足踏みをして、授業のためにと満ちた幸福が欠けるかもしれないことをみすみす看過しようとしている名前のことを、放ってはおけなかった。
 あの時、悲しいではないかと言ったのは松だ。けれどその悲しみの主もまた、松だった。
「先輩は私ができなかったことを幾つも成し遂げる可能性をお持ちです。心底好いたひとと一緒になることだってできるし、くノ一として活躍することだってできる。先輩なら、その両方を手にすることだって、きっとできると思います」
「……松はいつもわたしのことを買いかぶりすぎてるわよ。そんなの、忍たまにでも聞かれたら馬鹿にされるからおよしなさい」
「いいじゃないですか。どうせくノ一長屋は忍たま厳禁なんですから」
 くすくすと笑って、そして松は続けた。
「先輩、」
「なあに」
「きっとくノ一になってくださいね。きっときっと、私やほかの何にもなれなかった女子のためにも」
 洩れ入った月の光が布団を照らす。
 ふたつ並んだ固い蒲団も、来月にはまた、ひとつになる。
 これまで何度も繰り返してきたように。
「松……」
「私、先輩のことが大好きです。だいすき」
「……わたしもよ。わたしも、松のことがだいすき」
 松の瞳に涙が滲んでいたことには、名前は気が付かなかったふりをした。


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