あなたの白いうなじをそっと視界におさめて(2)

 屋敷の中に上がると、息つく暇もなく利吉は名前を床に倒した。そのまま指をしっかり絡め、名前の上へと覆いかぶさる。すでに呼吸は荒く、その普段は涼し気な瞳には滾るような熱が宿っていた。
「名前、手、絶対に離さないで」
 どうして、などと聞く必要もなかった。利吉はあくまで名前と一線を越えるつもりはないのだ。たとえ誰も見ていない場所であったとしても、自分の心と名前の心にひと欠片の後ろめたさも持たなくていいように、断固として決意を曲げるつもりはなかった。
 しかしその堅牢なまでの自戒は、名前の上に跨った時点で砂上の楼閣と化そうとしている。手を握り離さないでほしいと名前に頼んだのは、せめて手の自由を奪うことで、己の欲求に箍(たが)を嵌めるために他ならなかった。
 利吉によってしっかりと指を絡められ握られた手を、名前もまたぎゅっと握り返す。それを合図にして、利吉はごくりと唾を飲みこみ、しかし躊躇うことなく名前に口づけを落とした。
 部屋の中にはふたりの温度と、ひとつになった影がまるく落ちているだけだ。衣擦れの音が、やけに大きく耳につくような気がしたが、しかし名前はすぐにそんな音など気にしていられなくなった。
 利吉のくちびるが、はじめはそっと触れるように、次第に食むようにして名前のくちびるを吸う。それに合わせ、ちゅ、ちゅ、と短くも扇情的な音が響いた。その音が、静寂の満ちた部屋を少しずつ満たしていく。
 利吉以外誰も触れることのないくちびるが、触れられ吸われることで少しずつ赤みを帯びていく。だんだんと感覚が研ぎ澄まされ、それなのに利吉との境界は次第に曖昧になる。その曖昧さが心地よく、思わず名前のくちびるの端からは悩まし気な息が洩れた。
 ただくちびるを重ねているだけなのに、とてつもなく淫靡なことをしているような気分になり、名前は閉じた瞼にひときわぎゅっと力を込める。直接触れ合っているのは、手とくちびるだけ。それなのに、もう全身がとろけてしまいそうに熱を持っている。名前の指に絡められた利吉の指が、するりと名前の手のひらを指の腹で繰り返し撫でた。その感覚に、名前はぞくりと身悶えする。
 食むような口づけは、やがて少しずつ角度を変えて、重なるたびに深さを増していく。いつの間にかくちびるの隙間から入り込んでいた利吉の熱い舌が、呆けたように開いた名前のくちびるをべろりと舐めた。
「──っ!」
 たじろぐ名前を面白がるように利吉は笑って、そしてまた、すぐに深く深く重なりあう。
 利吉が一層、名前の手を強く握った。身体を縮こめた名前を、利吉の男にしては細身な、しかし名前よりもずっとしっかりした腕が閉じ込めている。その檻の中では、利吉が名前を舌先で激しく責め立てていた。唾液のまざる水音がことさら大きく聞こえるのに、手を封じられているから耳を塞ぐこともできない。
 それでも暫くすると、利吉に導かれるようにして、名前もそっと舌を絡めた。はじめてのことで勝手が分からないから、後のことは利吉に任せるしかない。利吉は一瞬だけ躊躇うようにして、けれどすぐに名前の舌をぬるりと掬い取った。
「んっ、ひゃ……ふぁ……」
 舌を絡めとられ、情けない声ばかりが名前ののどから洩れる。声を出したいわけではないのに、脳の芯がくったりして、自分の声すら自分で抑えることができない。
 と、利吉がふいに舌の先で名前の上顎をぬるりと撫でた。瞬間、そのぞわりとした感覚に、名前の口からあられもない声が洩れる。
「──っ!?」
 自分の声とは思えないその声に、名前の顔は瞬く間に羞恥の色に染まった。あまりの恥ずかしさに利吉から顔を背けようとするも、一度くちびるを離した利吉は、にやりと笑って名前を見下ろすと、
「もっと聞かせて」
 と嬉しそうに笑った。
「り、利吉さ、」
「名前、もっと。もう一回」
 そう言って、利吉は名前の頬に口づけを落とすと、次いで瞼、耳へと降るような口づけを落としていく。握りあった手は熱く、それなのにそれ以上の熱をもって触れる利吉のくちびるに、名前はただ息を殺して悶えるしかない。どれだけ喉を締めようと、利吉からの口づけが名前に小さな雷のような快感を与え続けるたび、名前の口からは絶え間なく悲鳴にも似た喘ぎ声が上がる。
「まだ口吸いしかしてないよ」
「だっ、だってっ」
「可愛いけど、これより先をしたら名前がどうなってしまうのか心配にもなる」
 言いながら利吉は楽しそうに笑うと、名前をぐっと抑え込んだまま、その耳をそっと咥える。
「ひぁ……っ!?」
「ん、いい声」
 わざとらしく耳元で囁く声音は、ほとんどが吐息のように密度が薄く、そして滾るように熱い声音だった。名前の肩が大きく跳ねる。それでも利吉は、名前が逃げることをけして許さない。
 耳介に柔らかくあたった歯の感覚も、名前の頭の中から聞こえているように感じられる利吉の呼吸の音も、すべてが名前の身体を熱くした。高まった熱は腹の底をずくずくと疼かせ、これ以上は駄目だ、無理だと理性が叫ぶ反面、もっと欲しい、それ以上が欲しいとも願ってしまう。
 やがてたっぷりと名前の耳を弄び楽しんだ利吉は、再びくちびるを重ね合うと、今度は口内をすべて愛撫せんとするかのように舌を這わせた。時折洩らす苦し気な呼吸が、名前か利吉のいずれのものかも判然としないほど、何もかもがひとつになって混ざりあう。今差し出せるすべてを明け渡しながら、名前は苦しいくらいに利吉をそこに感じていた。
 ──利吉さんのからだ、着物の上からでも分かるくらい、あつい……。
 先ほどからずっと、立てた膝の内側に固いものが当たっている感覚があった。
 口づけの合間にうっすらと目を開いてみれば、息を荒くした利吉が険しい顔で名前を見つめている。その迫力と美しさに、名前ははっと息を呑んだ。
 整った面差しは紅潮し、瞳はじんわりと濡れている。未だかつて名前が見たこともないほどの、余裕など微塵も感じられない男の顔が、そこにはあった。
 利吉の額に浮かんだ汗が、ぱたりと名前の頬に落ちる。その汗の粒にそっと触れようとして、名前もまた、利吉によって手を封じられていることを思い出した。
 ふと、いつの間にかじんじんと痛むようになった手の感覚に気付く。利吉の箍(たが)であるその手は、同時に利吉によって封じられた名前の欲でもある。互いの欲を持ち寄り合い、それでもけしてその先を許すことはしない──その制約を象徴するように与えられた痺れる痛みが、名前にはどうしようもなく愛しく思えた。
「すき、です」
 溢れた気持ちは、掠れ声になって利吉との間のわずかな隙間の空気を震えさせる。
「利吉さんのことが、すきです、だいすき」
 稚拙な告白に、返事の声はなかった。そのかわりに名前の言葉ごと呑み込むように、利吉が自身の口で名前の口を塞ぐ。
 その性急な行為こそが、利吉からの返事だった。
 これ以上ないほどに愛情深く、甘くて深い口づけ。
 ──それなのに、こんなに悲しいなんて。
 これまでも幾度となく利吉と交わしてきたはずの口づけは、いつだって名前を特別にきらきらとした気持ちにときめかせた。昨日の荒々しい口づけですら、躊躇い戸惑う心のどこかで名前はどきどきと高揚していた。乱暴に奪われる感覚に、ひっそりと酔いしれた。
 利吉からの口づけは、いつだって名前を幸福に導くものだった。
 ──それなのに、どうしてこんなにも胸が痛むの。
 ──どうしてこんなに、悲しい気持ちになるの。
 目頭が熱くなって、それからすぐに鼻の奥がつんと痛んだ。
 頭の芯が重く鈍く痛む。息苦しさに瞼を開いてみたところで、名前の視界は頼りなくじわりと滲んでいた。
「名前、」
 名前を呼ばれ視線を遣ると、滲んだ視界では利吉が驚いたように名前を見つめていた。
 名前がゆっくりと身体を起こし、一度だけまばたきをする。それに合わせ、名前の頬をあたたかいものが伝った。
 滴がこぼれて明瞭になった視界には、名前を困惑の表情で見つめる利吉がいる。利吉の瞳の中には、ぽろぽろと涙の粒をこぼしている名前が映っている。
「名前──」
「──ごめんなさい。わたし、あんまり幸せで──それで、間違えて泣いてしまいました」
 そう言って笑うことだけが、その瞬間の名前に許されたたったひとつのことだった。それ以外にはどんな表情をつくることも、どんな言葉も口にすることも、名前にはできなかった。「悲しい」も「切ない」も、ほかのどんな言葉だって名前の心情を正しく言い表すことができるとは思えなかった。
 そんな名前自身すら持て余し捉えあぐねているものを、まさか利吉に差し出すわけにもいかない。だから名前はただ、笑って誤魔化すしかなかった。
 利吉が名前を見つめている。その視線から逃れるように、名前はつと視線を伏せた。涙の粒がひとつ、袴の膝にまるいしみを作った。
「──そうか」
 ややあって、利吉はただ、それだけ呟いた。そっと伸ばされた利吉の指が、名前の瞳の涙を掬う。
 ふと名前が視線を向けた先には、先ほど利吉が摘んでくれた椿の花がぽつんと心細げに転がっていた。


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