まつろわぬものたちの変成(1)

 忍術学園と利吉とは、基本的には協力関係にある。もちろん利吉はフリーの忍者であるから、その職務の性質と都合上、あまり大っぴらにどこかの勢力に与するということを公言したりはしない。そんなことをすれば仕事の幅が減ってしまうだけである。また戦乱の世においての同盟関係の儚さなどは、今更言うまでもないことだった。
 それでも自分の親族が教員として名を連ねる忍術学園とは、どうしたって敵対するようなことはしたくないという思いが利吉の根底にはある。そして幸いなことに、利吉の中にある善悪──それはそのまま仕事を受注するか否かにも関わり、利吉にとっての「悪」に属する勢力からの依頼であれば、利吉が仕事を受けることは有り得ない──と、忍術学園の定める善悪の基準は、今のところはおおむね一致している。
 だからといって、確たる用もなく忍術学園に利吉が出入りするのは、本来であればあってはならないことなのだろう。そも利吉がどうという以前に、忍術学園は周辺の支配地域まで含めれば、一国の戦力に匹敵するだけの戦力を有している。その本丸ともいうべき学園の敷地内を、本来忍術学園の関係者とは言い切れない利吉が好き勝手に闊歩していいはずがない──いいはずがないのだが、利吉はこの日も平然と、何食わぬ顔で忍術学園の門をくぐり職員室を目指していた。
 職員室で伝蔵に帰宅するよう催促し、ついでに食堂でおばちゃんの手料理をごちそうになった、その帰りのことである。
 その日の気分で普段通らない裏庭を通って門に向かうと、ちょうど角を曲がった先にふたつの影が見えた。
 影の主たちは、利吉が角を曲がってやってきたことにまだ気が付いていない。日ごろの習慣で、利吉はすぐそばにあった井戸の影に身を隠すと、そこからふたりの様子を観察した。
 利吉の視線の先にいるのは、名前ともうひとり、瑠璃色の忍び装束を纏った少年である。
「尾浜」
 名前の呼びかけに、その少年──尾浜勘右衛門が、くるりと振り返った。名前の数歩先にいた尾浜は名前と視線が合うと、ごく自然な動作で踵を返して名前との距離を詰める。
「やあ、苗字。くノたまの苗字がこんなところにいるのは珍しいな」
 尾浜がそう言ったのは、そこが忍たま長屋にほど近い場所だからである。余程のことがない限り、基本的にはくノたまが忍たま長屋に足を踏み入れることはない。
「もしかしておれのこと探してた?」
「ご名答。尾浜のこと探してたんだ」
 素直に首肯し、名前は尾浜に柔らかな視線を向けた。
「ちょっと確認したいことがあって。今度の文化祭、経理とかもろもろ学級委員長委員会の仕切りだよね?」
「ああ、そうだけど」
「聞きたいんだけど、くノ一教室の方の予算ってどのくらい出てる? あと備品発注とかって学級委員長委員会通した方がいい? その辺が会議出た子からうまく伝わってきてなくて、いっそ尾浜に聞いた方が早いかなと思って聞きに来たんだ」
 ふたりの会話に、我知らず利吉は耳をそばだてる。どうやら話題は文化祭に関連した事務連絡らしい。利吉が記憶している限りでは忍術学園には学校行事としての文化祭は設定されていないから、今回もまた学園長の突然の思い付きとやらであろうことは想像に難くない。
「くノ一教室はたしか山本シナ先生が学園長先生に直談判されていたはずだから、忍たま側とは別予算だったはずだよ。おれもだから、あんまりよく分かってないというか何というか。詳しいことは山本先生がご存知だろうからそっちに聞いてほしいかな」
「んん、そうなんだ……。了解した」
「あ、でも備品は一括でまとめて発注のが助かるから、何か発注するにしても一旦こっちに話持ってきてほしいかも。あと文化祭用に買ったものを各委員会と分けるときには、うちとは別に会計委員会からのチェックが入るから、それはできるだけ早めに購入品一覧を回してほしいかな。ほら、委員会と分けるってなると委員会予算から補助が出るんだ」
「委員会と文化祭だとお金の出どころが違うってこと?」
「そういうこと」
「それにしても、ううん……会計のチェックかぁ……。潮江先輩手ごわそうだなぁ。あ、というかそれってもしかして、尾浜たちに出すのとは別に報告書とか申請書とか出さないといけない?」
「いや、一枚で大丈夫。うちに出してもらった分をそのまま会計に回すから。だから期日早めに頼むってこと」
「ああ、なるほど──うん、分かった。それじゃあみんなに周知しておくね」
 てきぱきと尋ねる名前に、尾浜もまたてきぱきと返事をする。五年生同士で気心知れた間柄というのもあるが、傍から聞いていても実にスムーズな事務確認だった。影に身を潜ませた利吉が「へえ」と短く呟く。もちろんその呟きに名前と尾浜が気付くことはない。名前が手元の帳面に何事か書きつけて、それからにっこりと頷いた。
「よし……っと。うん、了解した。いきなり呼び止めちゃってごめんね、ありがとう」
「いや、構わないよ」
「あ、あとついでに今度の合同演習の話したいんだけど……、って尾浜?」
 と、そこで名前は首をひねった。どうにも会話の途中から尾浜の様子がおかしい。尾浜の視線は会話をしている相手である名前の方を碌に見ておらず、どこかぼんやりと明後日の方向を向いていた。
 と思いきや、尾浜のまん丸い瞳が驚いたようにいっそう丸くなったあと、にやりと楽し気に歪んだ。
「尾浜?」
「苗字、ゆっくり後ろ向いてみなよ」
「え?」
 訝しく思いながらも、尾浜に言われて名前は振り返る──そして仰天した。
「うわぁっ! り、利吉さん!」
 背後にはいつの間に現れたのか、利吉が立っていた。それもほとんど名前にくっついてしまいそうなほどの至近距離にである。普段から周囲に気を配るよう言いつけられてる名前だが、忍術学園の中とあってはすっかり気を抜いていた。そのせいで、利吉がこの距離に至るまでまったく気づきもしなかったのだ。
 ちなみに利吉が名前の背後に忍び寄ったのは、名前が尾浜にお礼を言っていたあたりである。そこで声を発することもしなかった尾浜も尾浜で人が悪いが、やはり気配を決して忍び寄った利吉のいたずら心が、名前の心臓には一番悪かった。いくら気を抜いていたとはいえ、利吉が普通に近づいてこれば名前にも分かる。名前がまったく気付かなかったのは、利吉が意図的に気配を決して忍び寄ったからに他ならない。
 まだ心臓をばくばく言わせている名前に、利吉はいつも通りの爽やかさで、
「やあ」
 と、声を掛けた。先ほどまで井戸の陰に隠れていた人間とは思えないほどの爽やかな挨拶である。
 ついでに尾浜にも声を掛けると、尾浜もにっこり笑って頭を下げた。その遣り取りを、名前は目を細めて睨むように眺める。
「やあって、利吉さんったらお人が悪い……。びっくりしたぁ……」
「悪い悪い、お取込み中のようだったからいきなり話しかけない方が良いかと思ってね」
「いきなり後ろに立たれる方がびっくりしますよ」
 大体、お取込み中だと思ったのならば話しかけずにおくのが自然である。それをわざわざこうして名前を最も驚かすような登場をしているのだから、利吉の方も口ほどには「お取込み中」だなどと思っていなかったのだろう。実際その通りで、尾浜と名前が交わしていたのはただの業務連絡である。
 名前が口を開いたせいで何となくほのぼのしかけた場を仕切りなおすように、
「利吉さん、こんなところでどうされたんですか」
 と、尾浜が尋ねる。名前に悪い笑顔を向けていた利吉は、そこでようやく「ああ」と発した。
「ちょっと父に用があって、そのついでに名前の顔でも見ていこうかと思ったんだけど。間が悪かったかな」
「いえ、そんなことないです。尾浜とはちょっと業務連絡の確認をしていただけなので。ね、尾浜」
 話を振られ、尾浜が頷く。
「苗字はくノ一教室のまとめ役のようなことをしているので、文化祭のような学校行事のときは、どうしてもおれたち忍たまと連絡しなければならないことが多いんですよ」
「そうなの? まとめ役に君が?」
 意外そうに名前を見て利吉が繰り返す。名前が下級生から慕われていることは、最初に学園で会ったときに見た後輩と名前との遣り取りから何となく察している。しかし、だからといって利吉の目には、とてもではないが名前がまとめ役を買って出るようなタイプには見えなかった。代表やまとめ役を立てる際、自推することもなければ他推されることもなさそうな、そういう気性の娘である。
 名前もそのことについては自覚があるのだろう。聞きようによっては失礼なことこの上ない利吉の言い分にもさして気分を害した様子もなく、むしろ図星をつかれたことに照れるような様子でへらりと笑った。
「まあ、まとめ役といっても輪番制なんですけどね。くノ一教室の上級生は、交代制でくノたまのまとめ役をするのが代々の決まりなんです」
「ははあ、なるほど」
 つまり、名前の人柄や頼りがいを理由にまとめ役を任されているというわけではないらしい。くノたま上級生の数は多くないと名前も言っていたから、ごく自然な成り行きでそういうことを任される回数が多いのだろう。利吉も納得した。
 何となく話題が落ち着いたところで、やにわに名前がぽん、と手を打つ。そしてさも名案を思い付いたとでも言いたげな晴れやかな顔で、
「そうだ、せっかくですからお茶にしましょう」
 と、切り出した。
「尾浜、学級の委員会室を使ってもいい?」
 男ふたりにはまったく脈絡なく切り出されたようにしか聞こえない話題だが、しかし名前の中では自然な成り行きである。そも、くノ一教室ではお客にお茶を振る舞うことは当然のことであり、そこに尾浜が居合わせているのだからついでに尾浜にも声を掛けたに過ぎない。名前はかねてより利吉にはお茶を振る舞う約束をしているので、その約束を果たすことにもなるまさに一石二鳥の思い付きだった。
 委員会室を場所に選んだのは単純に現在地から近く、尚且つ尾浜の権限で自由に出入りすることができるからだ。まさか尾浜をくノたま長屋に連れていくわけにもいかない。
 しかしそれはあくまでも名前の中での事情であり、名前の中だけで完結した理屈である。当然、巻き込まれただけの尾浜は至極面倒くさそうな顔をした。
「ええ……おれはいいけど、三郎がなんて言うか」
 当然ながら、尾浜はお茶をすることが面倒で言っているのではない。散らかっているでろう委員会室に名前と利吉を招くこと、そして本来そりが合わないはずのくノたまである名前と親しくお茶の席で会話を交わすことへの、尾浜なりのささやかな抵抗のポーズである。業務連絡を交わす程度ならともかく、利吉同伴とはいえくノたまの名前と仲良くしているところなどほかの忍たまに見られた日には、後から何を言われるか分かったものではない。
 もちろん名前も、尾浜のその文句が本心からの言葉ではないことくらいは見抜いている。名前とのお茶が嫌というわけではなく、「くノたまと」のお茶に抵抗があることも分かっている。だからこそ、名前はわざと砕けた調子で、顔の前で両手を合わせた。
「そう言わないで、お願い。ほら、この間くノ一教室のお茶の授業で使ったお菓子の残りをこっそりくすねてきてあげるから。それで三人でお茶にしましょう」
 名前のその態度に、利吉は「おや」と思う。
 名前が下手に出て、それを尾浜が承諾する──それが一番うまい形としてまとまるのだということを、名前は四年以上のくノたま生活を通していつしか自然に身に着けていた。そしてまた尾浜も、そういった予定調和を察する嗅覚には長けている。変に意固地にならないのは尾浜の美点のひとつでもある。
「そういうことなら、乗った」
 頼まれては仕方がない──あくまでも不承不承といった態度をつくって、尾浜が頷いた。名前が満足そうに笑む。
「それじゃあわたし、一度くノたま長屋に戻って準備をしてくるから、尾浜と利吉さんは先に委員会室に行っていてください」
 利吉の都合は聞いていないが、ここまでの遣り取りの中に異論をはさまなかった時点で、お茶会参加に同意していると見做したのだろう。名前は意気揚々と、まるで毬が跳ねるように軽やかな足取りでくノたま長屋の方へと駆けて行った。その後ろ姿を見送って、尾浜と利吉は目的の委員会室へと足を向けた。


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