星を紡ぐより儚く(2)

 名前の静かな、それでいて心の底から掬い取ったような言葉が、やわらかな日差しの差し込む森閑としたお堂の中にぽつんと響き、そして消えた。その響きが消えゆくさまを、利吉はただ茫然として聞いていた。
 ──「利吉さんは、わたしがほかの誰かに奪われてもいいんですか」
 そんな言葉を名前の口から聞かされることになるなど、今日ここに来た時点の利吉はまるで想定していなかった。今だってまだ、信じられずにいる。あの名前が──温厚で、呑気で、人当たりがよく、不器用で、男女の事に疎い名前が、まさか利吉を煽るようなことを言うなど。
 ぐっと拳を握りしめ、悄然として唇を噛んでいる名前を、利吉は言葉もなく見つめた。
 最愛の名前にあんな言葉を言わせた現実が、じわじわと利吉の心を重くしていく。水を吸った木綿のように、ずしりと利吉に重さを課す。
 ──名前を誰かに奪われてもいいのかなんて、そんなこと、いいはずがないのに。
 考えるまでもない、悩むまでもない。それほどまでに、利吉にとっては当然のことだった。
 ほかのどんな女とも違う、唯一無二で替えのきかない存在。利吉は利吉なりに名前に誠実であろうとしてきたし、これから先だってそうするつもりでいた。いつだって、名前が望めば何だってしてやりたいと思っている。
 しかし、こればかりは名前の望むままを与えてやることはできなかった。名前に誠実にありたいと思うからこそ、無責任なことを言うわけにはいかない。名前を大切に思えばこそ、後先考えない行いに走るわけにはいかなかった。
 それが利吉の誠意であり、それが利吉の愛情だから。
 今まで関係を持ったほかのどんな女にもできなかったこと、しようとも思わなかったことを、名前のためなら為すことができる。名前のためならどれだけだって待てる。
 他ならぬ名前のためならば、たとえ名前がこんなにも泣きそうな顔をしていたって、大切に守り抜く覚悟がある。踏みにじらない決意がある。
 それが名前のためだから。
 ──だから、手は出せない。
 利吉の無言のまま、暫し沈黙が流れた、お堂の中にはこれまでふたりの間に流れたどんな沈黙よりも重たい沈黙が、どんよりと澱のように積み重なっていく。呼吸も苦しくなるような沈黙に、利吉は果たしてどう収拾をつけたものかと思案した。
 どうすれば名前に分かってもらえるのか。いくら大切にしたいだなんだと言ったところで、名前がじきに誰かによって春を散らされるかもしれない現実には変わりない。利吉がどう思ったところで、当事者である名前がそれより先にせめて利吉と、と考えるのは、ある意味では至極まっとうかつ健全な思考だった。利吉にとってもそれは光栄なことで、願ってもないことである。
 誰だって、一番最初の思い出は美しいものにしておきたい。
 誰だって、一番最初の思い出は美しいものにしてやりたい。
 「捨てる」のではなく「捧げる」ものにしたいと思うのは、女心の動きとして何らおかしなところはない。
 だが、どう言えば伝わるだろう。
 どうすれば、これ以上名前の心を傷つけずに済むだろう。
 大切にしているから、だからこそ何もしないのだと、大人びた顔で諭すのが果たして正しいことなのだろうか。それとも名前と一緒に傷ついた顔をしてやるのが正しいやり方なのだろうか。
「名前、私は──」
 思考は依然として纏まらないままだが、しかしいつまでも沈黙に甘んじているわけにもいかない。利吉はようやく口を開く。しかし次に発するべき言葉を探しあぐねている間に、目の前の名前が利吉の言葉を遮るように、言った。
「利吉さん、すみません」
 利吉が顔を上げる。
 顔を上げ、息を呑んだ。
 そこには、困ったように眦(まなじり)を下げた、いつもの名前の困り顔の笑顔があった。
 ふくふくとした頬。頼りなさげに下げられた眉。薄く開いて弧を描くくちびると、穏やかな瞳。
 ──なんで、どうして。
 利吉の背中を冷たいものが伝う。目の前で笑う名前の笑顔が、何かとてつもなく奇怪なもののように思えた。
 ──なんで。どうして。
 今の今まで利吉に感情をぶつけ、泣きそうな顔でどうしてどうしてと繰り返していたはずの彼女は、そこにはもう跡形もなかった。そこにいるのは利吉が知る名前によく似た、誰か。
 取り繕うのがうまく、覚悟を決めさえすれば利吉の目すら欺くことができる娘。利吉はその娘を知っていた。
 以前女装の香をそのままに忍術学園へやってきたとき、裏山まで名前を追いかけていった先にいた娘。銭袋を落としたのだと、事実を並べるような気軽さで軽々と嘘をついた、あの娘。
 それは利吉の知る名前と同じ人間でありながら、しかし利吉の知らない名前でもある。
 そこにいたのはくノたまとしての名前だった。山本シナ先生のもとで五年もの間勉強を続け、忍たまから煙たがられる存在でもある、くノたまの名前。
 利吉に向けられた名前の笑顔は、いつもの通りのはずだった。それなのに利吉にはどこかよそよそしく感じられたのはきっと、そこには計算された隙しか存在しない、無欠の笑顔を張り付けられていからだ。付けこまれる隙も、つけ入る猶予も与えない仮面の笑顔。だから、名前の真の笑顔を知る利吉には、その冷え冷えとした笑顔はよそよそしさを伴って見えた。
 その名前が、よそよそしい笑顔を張り付けたまま言う。
「わたし、考え無しなことを言いました。すみません。さっきの言葉は忘れてください」
 淡々と、世間話でもするように名前は笑って言葉を紡ぐ。
 傷ついてなどいないように、ことさら柔和な笑みを浮かべて。
「名前──」
「考えてみれば利吉さんはプロの忍びでいらっしゃいますものね。公私を混同してはいけないなんて、そんなこと当たり前のことでした。そんなことにも思い至らなくて、わたし、なんだか恥ずかしくなってきました。実習に行くというのなら、わたしにもそのくらいの心づもりがなければいけなかったのに」
 ふいに利吉の脳裏に、以前小松田から聞いた言葉が蘇った。
 ──「女の人が元気なのは、男に見切りをつけたときだって昔お兄ちゃんが」
 今、目の前の名前は空元気が痛々しいほどに、元気で、はきはきとしている。溌剌としていて、意欲に満ち溢れている。
「だって私はくノたまだから、このくらいのことは当たり前だって、そう思わなければ」
 ──あの時も、そうだったのだろうか。
 そう考えた瞬間、利吉はその事実に思い至った。
 ──名前は諦めてしまったのか。見切りをつけてしまったのか。
 みすみす名前を奪われようとしている、それでも何もできない、利吉に。名前ひとり奪い去ることのできない、手をこまねいて見ているだけの利吉に。
 ──諦めて、ほかの男に奪われることを受け容れようとしているのか。
 そのことに気が付いた瞬間、利吉の全身の血が沸いたように熱くなった。怒りとも嫉妬ともつかない感情が、溶岩のようにどろどろと溢れては利吉の中を満たしてゆく。腹の底から湧き出る衝動が、ぐらぐらと全身を駆け巡る。
 ──そんなこと許せるか。見切りなど、つけられてたまるか。
 ──名前は、名前の心だけは、誰に触れられようとも私だけのものだ。
 自分勝手な独占欲が、利吉の頭の先から足のつま先までを遍く飲み込んだ、その刹那。
「犬に噛まれたようなものなんだって、そうとでも、思わなければ!」
 まだ何か話している名前を制止するように、利吉は「名前!」と厳しい声音で名前の名前を呼んだ。一瞬、声を詰まらせた名前の肩がぎくりとこわばり、笑顔の仮面が顔からはがれる。
 不安げに瞳を揺らした名前が、怯えたように利吉を見つめていた。
 ──そんな顔するくらいなら、無理に笑ったりするな。
 ほかでもない自分がそうさせたのだということは棚に上げ、利吉は内心で舌打ちをひとつ打つと、倒れこむようにして力いっぱい名前を抱きしめた。
「えっ、待っ、利吉さんっ」
「待たない」
 そのまま名前を押し倒すと、抵抗を許さないようしっかりと両手の指を搦め床に縫いつける。
 薄く開いた名前のくちびるを割るように、乱暴に舌をねじこんだ。
「やっ、んぅ……!」
 無理矢理に開かせた口の中を、利吉はひとつずつ順番に舌の先で荒々しく検める。男に嬲られることを知らない名前の舌は、絡ませ方も拒み方も分からずに、ただされるがままになるほかなかった。その間にも、利吉は名前の舌を絡めとり、息つく暇も与えないほど責め立てる。
「んっ、……ふ、はぁっ、……ん、」
 重ねられたくちびるの間から洩れる切れ切れになった名前の声が、何時しかしだいに艶を帯びたものへと変わりつつあった。突然のことに頭も心もついていかないのに、ただ感覚ばかりが与えられた刺激を全身に拡散していくように感じられる。
 何も知らない無垢のはずの身体は、しかしこんなときにどう反応するべきかを本能的に知っているようだった。
 利吉の大きな手によって握りこまれた指先には、もう感覚などほとんどない。利吉が覆いかぶさり下敷きになった身体は身動きすら許されず、ほとんど無意識に膝から下をばたつかせ、もがくように利吉に抗っていた。
 唾液が混ざる音が、頭の中で反響するように大きく聞こえた。利吉の息も荒い。
 溢れた唾液をべろりと舐めとられ、「ひゃぅ」と声にもならない悲鳴を上げると、その悲鳴ごと利吉のくちびるに吸いつくされた。
 やがて名前が抵抗する気もなくなるほどに名前の口内を貪りつくすと、ようやく利吉はそっとくちびるを離した。
 名前の手を握って押し倒した体勢のまま、利吉は昂ぶる瞳で名前を見下ろした。
「り、りきち、さ──」
「私がいつ、平気だと言った」
 名前の言葉の終わりを待たず、利吉が発した。怒気を孕んだその声音に、名前がまたびくりと瞳を揺らす。
「私がいつ、ほかの男に名前を奪われてもいいなどと言った」
「利吉さん──」
「いいわけない、いいわけがないだろ。今だってこんなにも余裕がなくて、みっともなくて、それでも私は、こうやって名前を抱きしめて、名前の何もかもを私だけのものにしてやりたいって、嫌だと言われても、やめてと乞われても、誰かに奪われるくらいならいっそ乱暴なことをしてでも私のものにと──、そう思って、やまないのに」
 そこで利吉は、一度言葉を切った。何かの感情を吐きだすように、重く深い溜息を吐きだす。名前の手を握る手には力もこもっていなかった。
 名前は、そっと利吉の瞳をのぞきこむ。先ほどまで強く険しい声を発していたとは思えないほど、そこにある利吉の眼は静かで──そして、どうしようもなく痛ましい色をしていた。
 お堂の中にはいつの間にか静謐が戻っていた。湖の凪いだ水面のような静けさは、名前の胸をぎゅうと痛いほどにしめつける。差し込んでくる冬の日が、悲しいくらいにやさしかった。
「分かってるんだ」
 暫くの沈黙ののち、利吉が呟いた。
「名前のことを束縛するようなことを言ってはいけないと、そんなことは分かっている。私のわがままで、君の未来を閉ざすようなことがあってはならないと分かっている。分かっている、分かっているのに──こんなにも、名前のことを抱きしめたいと思ってしまう。名前のすべてを私だけの物にしてしまいたいと願ってしまう」
「利吉さん、」
「名前、君は優秀なくノたまだ。忍術学園の優れた先生方からお墨付きをもらえるほどに。だから私は、私の身勝手でその可能性を摘んではいけないと思っているんだ。名前を抱くということは、望むと望まざるとにかかわらず、君にはその……負担を強いる可能性だってあるわけだから」
 それだけ言って、利吉はゆっくりと身体を起こした。名前の腕を引き名前の身体も起こすと、あぐらをかいて再び深々と溜息をつく。
「ごめん、私も駄目なんだ。全然、うまく心を殺せていない。本当のことを言うと、今だってまだ君の未来のことなど考えず、ただ望むままに振る舞えたらよかったのにと、心の底から思ってしまう。君の未来のことなど知りもせず、ただ望むままに君を抱けるかもしれない男を、羨ましいとすら思うんだ。幻滅させたらすまない。でも、私はこんな男なんだよ」
 苦々し気にこぼした利吉は、それからじっと名前の目を見つめた。
「名前、すまない。私はまだ、君を抱けない」
 名前のことが大切だから。
 名前の今が、名前の未来まで、その総てが愛おしいから。
 だから、抱けない。
「許してほしい」
 利吉が最後、そう言葉を締めくくるのと、名前が利吉に飛びつくように利吉を抱きしめたのは、ほとんど同時だった。
 名前の腕が、利吉の首をぎゅうと抱きしめる。色っぽさなど欠片もない力任せな抱擁は、先ほどまでの荒々しさとはまた別の、不器用な触れあいだった。
「どうして、そんなことを仰るんです」
 利吉の首元に顔をうずめ、名前は言った。ことさらに大きな声を出す。そうしていないと、声が震えてしまいそうだった。大きな声で、元気よく笑っていないと、利吉の思いに報いることができないような気がした。利吉からの思いの吐露を、無下にしてしまうような気がした。
 顔を上げ、名前は笑う。遠慮がちな利吉の手が、そんな名前の背をたどたどしく撫でた。
「名前、」
「謝ったりしないでください。それに許してなんて、言わないで。だってそんなの、これ以上ないほど愛していると、愛し尽くしていると、そう仰っているようなものではないですか。ねえ、利吉さん」
 利吉に向けられた名前の表情は、けしていつもの笑顔ではなかった。
 そこにあったのはくしゃくしゃになって、今にも泣き出してしまいそうで、それでも精一杯虚勢を張って笑っている、無理をした笑顔だった。
 十四歳の娘が必死になって取り繕った、精一杯の作り笑顔だった。
「私の方こそ、利吉さんのお気持ちを汲めずに自分勝手なことを言ってすみませんでした」
「……いや、謝らないでくれ。名前に謝られるとこっちが居た堪れなくなる」
「いえ、謝りますよ。だって、今わたしはすごく自分を恥じているんですから。居た堪れないのはわたしの方です」
 そう言ってわざとらしくしかめ面をつくって見せた名前は、利吉が苦笑したのに満足したのか、再び利吉にしなだれかかった。利吉のしっかりとした胸が、いとも容易く名前の身体を受け止める。
 利吉の首元に顔をすり寄せ、名前は言った。
「利吉さん、お慕いしております。この世界で一番、誰よりも」
「うん」
「だから、大丈夫です」
 その柔らかな声音に、利吉の胸が小さく軋む。その軋みに気が付かないふりをして、
「私も、名前のことが大切だよ。この世界で一番、誰よりも」
 利吉もまた、それだけ返した。

 ◆

 夕暮れより先に、ふたりはお堂を出た。すっかり冬が迫り、夜間は冷え込む日が続いている。名前の外泊許可もあり、折角なのでということでその日の晩は旅籠で部屋をとった。さすがにお堂で一夜を明かすのは寒いし、今は寄り添って暖をとれるような雰囲気でもない。昼間にあんな遣り取りをした以上、節度ある行動を心がけるべきだ、というのがふたりの間の暗黙の了解だった。

 夕餉を済ませ、近くの温泉で汗を洗い流すと、その日の晩はふたりとも早々に布団に入った。
 夕方頃に北から流れてきた雲は厚く、今夜の空には月は不在である。そのため常より一層薄暗い部屋のなか、灯りは付けたまま、どちらからともなく布団を肩までかぶってぼんやりと天井に視線を遣っていた。当然のように布団はふた組並べられ、隣同士で横たわっているとはいえ肌が触れあうこともなければ温度を分かち合うこともない。
 忍術学園の布団より、また家の布団よりもふっくらとした客用の布団に身を横たえ、しかし名前の目は爛爛としていた。眠気などまったくといっていいほど感じない。昼間の会話を、そして昼間知った利吉の荒々しい手つきや口づけを思いだすだけで、名前の意識はどんどんと明瞭になっていく。
 羞恥心とときめきが綯い交ぜになった感情が胸の内を埋め尽くし、名前の身体をどんどんと昂ぶらせた。
「ねえ、名前」
 ふいに、利吉が名前を呼んだ。そろりと眼球だけを動かし利吉を見るが、利吉はじっと暗い天井を見据えている。一瞬、名前を呼ばれたことも空耳だったのかと疑ったが、すぐに利吉は首を動かし名前の方を向いたので、名前は呼ばれた名前が空耳ではなかったと理解する。
「名前、そっちに行ってもいいかな」
 夜に相応しい、低く穏やかな声だった。
「……はい」
「じゃあ、そっちに行くよ」
 そう言って利吉は暗がりの中をのっそりと起き上がると、そろりと名前の布団に忍び込んだ。名前は布団の端に寄って、利吉のために場所をつくる。けして小さな布団ではなかったが、長身の利吉とひとつの布団を分かち合うと、思ったよりも手狭に感じた。利吉の方に身体を向けると、名前の背中が浮いた布団からはみ出し覗く。
「布団、足りてる?」
「大丈夫です、あったかいから」
「そうだな」
 きっと利吉の方も布団が寸足らずになっているのだろう。返事は苦笑が滲んだ声だった。
 暫し、ひとつの布団で身を寄せ合い、ただじっと向かい合って横たわっていた。昼間にはあれほど無遠慮に名前に触れた利吉の手も、今は別人のように大人しく布団の上に投げ出されている。
 利吉の視線が名前の眉間をじっと睨む。穴が開いてしまいそうなほどに見つめられ、名前は言葉を発することもできない。
 布団の上にあった利吉の手が、そっと名前の方へと伸びた。そのまま数度、前髪をするりと梳くように撫でる。
「名前、あのさ」
「はい」
 ──卒業しても、くノ一にはならなくてもいいんじゃないかな。
 そんな言葉が利吉の胸から喉までせり上がって、今にも口の端からこぼれ落ちそうになる。
 けれど、利吉はそれを深呼吸とともに再び飲み込んだ。
「……いや、何でもない」
「……そうですか」
 それ以上、名前も追及しなかった。追及したところで何がどうなるわけでもないことを、名前もまた理解していた。
 そうしてひとつの布団を分かち合い、ただ寄り添うだけの利吉と名前を見逃すように、冬の夜はゆっくりと更けていった。


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