いまはしずかに(2)

 腰を据えた縁側の木が、名前のわずかな身動ぎに合わせて小さく音を立てる。
 ほんの一瞬の沈黙の後、意を決したように、名前は口を開いた。
「わたしは、わたしだって、これでもくノたまですから……忍びというのが必ずしも正しい道ばかりを選べるものでないということは分かっています。結果が正しければ過程がどうだっていいとは思わない、けど……でも、最速で最善を選ぶためには、多少の犠牲を払わなければいけなかったり、不本意でないことをしなければならないことも、ある……と、いうのは分かっています」
 つっかえながら、言葉を慎重に取捨選択しながら。名前はひとつずつ、自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「だけど、頭で分かっていることと、心が納得することは、違うから……。だから、利吉さんがたとえ仕事のためとはいえ、わたし以外の女の人と親しくなされば、もやもやするし、悔しいし、悲しいし、──やめてほしいって、本当は、そう思います。でも、そう思ってはいけないことも、そう思ったってどうにもならないことも分かっているから……、だからそんなことを思ってしまう自分にこそ、腹が立つ」
 腹が立つ──自分にこそ、腹が立つ。名前はそう言った。
 利吉に対してではない、まして、利吉のそばに寄ったであろう女にでもない。ほかならぬ自分自身に憤った。覚悟の足りない自分の不甲斐なさに腹を立てた。
「利吉さんが、意味もなくわたしを裏切るようなひとでないことを、わたしは知っています。だからもしもわたしの与り知らぬところで何か──何か、私の想像するようなことがあったとしても、それは利吉さんが本心から望んだことではないのだろうと、わたしはそう思えます。相手のひとだって、利吉さんのお仕事に巻き込まれただけの立場なのだと思えば、……まあ、まったく憎くないと言えば嘘にはなりますが、それでも、恨むほどではないんです。
 だけど、自分は──わたしは、違う。わたしは利吉さんに慕っていると言っていただけたときにも、山田先生に意思表明をしたときも、その後も、それより前も、ずっと、ずっとずっと、自分の中で心を決めてきたつもりでした。プロの忍びをしていらっしゃる利吉さんの迷惑にならないよう、そんな利吉さんの隣に立つことが恥ずかしくないような人間になろうと。
 わたしが悩んでいた時、心を軽くする言葉を利吉さんはくださいました。忍びとしての言葉で、わたしを救ってくださった。だから、そんな利吉さんに報いようと、そう思っていたのに、それなのに、こんなにも簡単に……仕事の上での些細なことだと分かっていてもなお──こうも簡単に、揺らいでしまう」
 心が。気持ちが。
 まっすぐ一途にありたいのに、揺らいでしまう。惑ってしまう。
「ごめんなさい」
 ごめんなさい、利吉さん。
 最後の言葉は、ほとんど声にならなかった。
 不甲斐なくて情けなくて、こんな自分では利吉の隣に立つのにふさわしくないと分かっているのに、それでも利吉の隣にありたいと思ってしまう。それでも、利吉の隣を誰かに明け渡したくなどないと思ってしまう。たとえ相応しくない人間だったとしても、浅ましくもそこを望み続けてしまう。
 一度手に入れた利吉の隣を、誰にも渡したくないと思ってしまう。
 目頭が熱くなるのを感じて、名前は慌てて顔をうつむけた。この上泣き顔まで晒すようなことがあれば、それこそ利吉に呆れられてもおかしくない。ただでさえ聞き訳が悪いことを言っているのだ。これ以上面倒な女にはなりたくなかった。
「どうして。どうして名前が謝るんだ。別に名前は何も悪いことをしているわけじゃないだろう」
「でも、わたしは──」
「思うことは自由だし、それを口にしない、態度に出さないようにと努めたんだからけして名前が謝らなければならないようなことはないよ。忍びとして、正しいことをしたと思う」
 利吉の本心からの言葉だった。
 誰にも迷惑をかけようとせず、自分の中だけで感情を処理しようとした──心を、殺そうとした。それはきっと、忍びとしては正しい選択のはずだ。プロの忍びとして、利吉は名前のその姿勢を正当に評価する。利吉しか知らない話を聞いたのだから、いずれ褒めてやれるのは利吉しかいない。
 しかし利吉の心はただそれだけにとどまらない。
 プロの忍びとして名前を褒めてやりたい気持ち以上に、名前の恋人として、言いたいことがある。
「でも──」
 そう発して、利吉はそっと視線をやわらげた。
「名前の恋人としての意見としては、正直に話してほしかった気持ちの方が勝るかな」
「り、」
「だって、恋人に妬いてほしくない男なんていないだろう」
 利吉のその言葉に、名前は弾かれたように顔を上げる。それからはっとしたようにぱちくりと瞬きして、まじまじと利吉を見た。
 利吉は眉を下げ、申し訳なさそうな顔を名前に向けている。
「ごめん、名前がそんな泣きそうな顔をしているというのにこんなことを言って、本当は私の方が謝らなければいけないくらいなんだろうね」
「そんな、」
「だけど私は、申し訳ないとは思うんだけど、可愛い恋人が私のことで一喜一憂してくれるということが、この上なく嬉しいんだ。名前が私のことで心を揺らしてくれたこと。名前が私のことで頭を悩ませ──私のことをずっと考えていてくれたことが、私は、嬉しい」
 そう言って、今度こそ利吉は名前を抱き寄せた。名前の細い肩がぎこちなくこわばっている。しかし利吉は構うことなく、回した腕に力をこめた。
 ふと名前の首の後ろにできている頭巾の結び目をほどけば、はらりと剥がされた頭巾の下から真っ赤になった耳があらわれる。
「り、利吉さん」
 何を、と抗議の声を上げようとする名前の言葉を封じるように、名前の頭ごと抱え込むようにして、利吉はいっそう強く名前を抱きしめた。
「好きだよ、名前。だからこれからも、私のことで心が揺らぐようなことがあれば、その都度ちゃんと教えてほしい。私にできることは何でもするし、できないことであっても、何かできることはないか、ちゃんと考える。時には諦めてもらうしかないこともあると思うけど、その時は名前に分かってもらえるように、私なりに頑張るから」
「──どうして」
 利吉の肩に顔を押し付けられた名前が、押し付けられたままで呟いた。
「どうして利吉さんは、そんなにも優しいんですか」
「すごい、分かり切ったことを聞くなぁ」
 呆れて笑い、それからようやく利吉は名前の身体を解放した。
「そんなの決まっているだろ。私が名前のことを、この上なく大切に思っているからだよ」
 ただそれだけだった。もっともらしい理屈など必要ない。賢しらな理論など、どこにも必要なかった。ただ、大切だから。名前が利吉を思って心を殺そうとしたのと同じように、利吉は名前のことが大切だから、それだけだ。
 優しくしたいのも、甘やかしたいのも、妬いてほしいと思うのも、それでも泣かせたくはないと思うのも──全部ぜんぶ、結局はただ大切だからに他ならない。それ以外の理屈はきっと、すべて後付けの理屈なのだと思えるほどに、利吉は名前のことを想っている。
 自分だけ必死のように見えるなんて、最早利吉は思わない──むしろ自分の方が名前よりもずっと名前のことを思っている、それでいいのだとすら思う。ここまで名前に思われているのだ。はたからどう見えていようと、そんなことは関係なかった。
 ふと視線を名前に向けると、名前は茹でだこも斯くやというほどに首から耳まで万遍なく真っ赤になっていた。どうやら自分が利吉に思いのたけをぶつける分には平気でも、利吉から直截的に愛情表現をされることにはまだまだ不慣れらしい。利吉はにやりと笑うと一度名前に回した腕をゆるめ、その後いっそう強く名前を抱きしめた。
「もう、利吉さん」
「まあまあ。いいじゃないか、どうせ誰も見ていないんだし」
 恥ずかしげに口を尖らせる名前にもう一度笑みをこぼし、それから利吉は「あのさ」と切り出す。
「多分名前が思っている以上に、私は名前のことが大切なんだ。もちろん君がもう長い間ずっと私に憧れてくれていたことは知っているし、そこで張り合えるとも思ってないよ。時間の長さを比べれば、私は名前には遠く及ばない」
 名前が遠い昔から何年も利吉への淡い憧れを胸に抱き続けている間にも、利吉は名前のことなどすっかり忘れて自分の時間を生きてきた。そのことは今更覆らないし、覆そうとも思わない。何故ならその時間を軽く見ることは、その時間の分だけ気持ちを育んできた名前の気持ちをも否定することだからだ。それだけは、利吉はしたくなかった。たとえ自分にとっては空白の十年だとしても、名前が利吉を思っていた十年なのだと思えば何より尊い十年だと思える。
「だけど、思いの深さは時間だけで測られるものでも、思い続けた時間でしか培われないものでもないだろう。時間で測れる気持ちがあれば、測れない気持ちだってある。私が名前のことを愛おしいと思う気持ちは、名前が予想しているよりうんと大きくて、多分、重い」
「重いんですか」
「まあね。少なくとも名前が私の纏っていた女のにおいに何も言わなかったことで、なんで何も言ってくれないんだ、私だったら絶対黙っていないぞと思ったくらいには重い」
 利吉の軽口に、名前はほんの一瞬、少しだけ笑う。しかしすぐに意外そうな表情になると、その意外そうな表情のままで利吉をじっと見つめた。
「どうかした?」
「いえ……、ただ利吉さんがそういうことを、たとえ思っていたとしても口にされるのは意外だなと思って」
「今はお互い、思っていることはちゃんと言おうって時だから。普段だったらこんなことは絶対言わないよ」
「なるほど、相手に求めるにはまず自分から、ですね」
「そういうこと」
 と、利吉はそこでふと考え込むように視線を下げた。それからやにわに名前の腰に手を伸ばすと、そのまま名前を勢いよく自分の膝の上までずり上げる。勢い、利吉に背中から抱きかかえられる形になった名前は、「ヒッ」と短く悲鳴を上げた。
 正面から抱きしめられるのとは違い、これはこれで恥ずかしいものがある。腹部に回った利吉の腕をほどこうともがくが、当然ながら名前の力で利吉の腕をほどくことなどできるはずもない。
「り、りり、利吉さんっ!」
「まあまあ。それより名前」
「それよりじゃないですっ」
 今この時点で子供のように膝に乗せられ抱きしめられること以上に重要なことがあるのだろうか。利吉には名前の表情はあまりよく見えないが、先ほどまで以上に真っ赤になっていること、そして照れと動揺が限界を突破して今にも名前の動作が停止しかねないことだけは分かった。
「大丈夫、恥ずかしいかもしれないけど、これは名前のためのことだから」
「何が私のためなものですか!」
 しかし実際にそうなのだから仕方がない。一見するとただ恋人同士がいちゃついているだけのようにも見えるが、というか利吉としても半分以上はそのつもりで名前を抱きかかえているのだが、しかし残りの半分はといえば、今から切り出そうとしている話の最中で名前が逃亡するかもしれないのを防ぐための処置でもある。
「あのさ、今から言うのは非常に言いにくいことなんだけど」
 先ほどまでとは違い重々しい口調で始められた言葉に、さすがに名前ももがくのをやめる。今この場において名前が利吉の膝に乗せられ抱きしめられていること以上に重要なこと──そのたったひとつの可能性を思い出し、名前は慌てて首をひねって利吉を見ようとした。
「いえ、利吉さん。その件はもう大丈夫です」
 名前が言う「その件」とは、言うまでもなく、先日の利吉がまとっていた女のにおいの話である。名前と利吉が腹を割って話すことで一応の解決は見たものの、肝心の名前の誤解は解けていないままだった。利吉はまだ何一つ弁解をさせてもらえていない。そしてこのままいけば、まず間違いなく名前は誤解したままだ。
「大丈夫ですから、分かっていますから。だからそのことはもう、何も言わないでください」
「いや、それがそういうわけにもいかないんだ。聞いておいてもらわないと、私と名前の間に発生した致命的な認識の齟齬が、やがて我々の関係に重篤な危機をもたらすことになると思う」
「な、なんですか、その胡乱な日本語は……」
 回りくどい上にいまいち要領を得ない。何となくそのままにしてはならない誤解があるのだということだけは名前にも伝わったが、とはいえ名前からしてみればそもそも誤解していることがあるのだということからして自覚がない。
「ええっと……利吉さん?」
「はっきり言うよ。先日私から香っただろう女性のにおいだけど、あれはけして、名前以外の女性からうつされたものじゃない。あれは名前に会う直前まで、長らく女装をして忍務にあたっていたから、その名残だよ」
 束の間、沈黙があった。名前の動きがぴたりと止まる。
「……女装?」
「ああ、そうだよ。女装をするとなれば、当然姿かたちだけでなく些細な時に立てる物音や、纏うにおいまで女性になりきらねばならないだろう。あの日は仕事の期日が迫っていて急いでいたから、それでついついにおいを落とし忘れたんだ」
 においの落とし忘れなど、忍びとして褒められたことでないことは利吉も重々承知している。そんな己の失態を忍者の道の後輩にあたる名前に打ち明けるのは恥ずかしいのを通り越して情けなさすらあったが、しかし無用な誤解をそのままにしておくくらいならば、情けない思いも甘んじて受け入れようというものである。利吉ひとりが情けなくなってそれで済むのなら、名前の心にくらい影を落とすよりもずっといい。
 利吉からの弁解を聞いた名前は、放心したように「はあ……」と生気の抜けたような声を発した。
「……そうだったのですか。わたしはてっきり……」
「うん、そうだろうと思った。本当は今日はその訂正にきたんだけど、思った以上に名前の中で拗れていそうだったから、ちょっと話の寄り道をしたんだ」
「なるほど、なるほど……」
 と、譫言のように呟いて。
 かと思えば、「うわあああ……!」と羞恥の声を上げる名前である。利吉の膝の上から逃れようとじたばたもがくが、そこは利吉が先読みしていた通りの展開なので、どうもがいたところで抜け出るすべはない。ひたすら利吉の目の前、利吉の膝の上で羞恥に身もだえるしかなのである。
「あああ……! 穴! 穴! 穴があったら入りたい! 喜八郎を呼んでこなくては!」
「喜八郎って四年生の綾部くん? 彼を呼んでどうするの」
「穴を掘ってもらうんですよ! とんだ早とちりで方々に迷惑をかけたわたしの罪の禊が終わるまで、わたしが籠るための穴を掘ってもらわねば!」
「禊って」
 一体何の罪や穢れを負っているのか。そもそも禊であれば川や海の水で清めるのが一般的である。土に掘った穴にこもって行う禊など聞いたことがなく、どちらかといえば穴にこもってそのまま即身仏になる儀式の方に近いような気もする。
 もちろん利吉はここで名前を即身仏にするつもりなど毛頭ない。何せ名前と利吉は恋人という煩悩まみれの関係を築いているのだ。清らかな関係から一歩踏み出してもいないのに、勝手に悟りを開かれた挙句に生入定などされてはたまったものではない。
「大丈夫だよ。迷惑なんて思っていないし、多分誰も名前に迷惑をかけられたなんて思っていないだろうから」
「でもですね!」
「じゃあ逆に聞くけど、私以外に迷惑をかけたと思う相手は?」
 問われ、名前は暫し考える。迷惑をかけたと思しき相手。利吉が仕事上やむを得ずとはいえ不貞を働いたと名前が勘違いしてから、数日経つ。その間に名前が迷惑をかけた相手といえば。
「……小松田さん、とか? 気をつかわせてしまったかも……」
「じゃあ大丈夫だよ。小松田くんに限って気遣いとかしないと思うし、さっきもむしろ君が事務の仕事を手伝ったおかげで仕事が捗ったって言ってたくらいだから。それに私も迷惑だなんて思っていない。だから誰にも迷惑なんかかけていない」
「利吉さん……」
 もがくのをやめてしおしおと淑やかになる名前に、利吉は苦笑した。名前のこういうところを可愛く思いつつも、しかしやはり、二人きりのときに利吉のことだけを気にかけていてほしいとも思う。
「というか綾部くんにしろ小松田くんにしろ、私とふたりきりのときにほかの男の名前を出されるのは、あんまり気分がいいことじゃないからね」
 はっきりと言った利吉に、名前は「えっ」と驚いた顔をした。その顔にはやはり「利吉さんがそういうことを言うなんて意外だ」と克明に記されている。それも当然のことだ。何せ今までの利吉は名前には極力そういう余裕の無さは見せまいとしてきた。
「名前は知らないかもしれないけど、私は実はものすごく嫉妬深いよ。本当はあんまりこういうこと言いたくないけど」
 それでも、言葉にしなければ伝わらないことはある。名前に何でも思ったことは言ってほしいと言った手前、利吉が気持ちを隠し立てするわけにもいかない。ただでさえ忍びは秘密が多い仕事なのだ。この上名前との関係にまで秘密を増やすことはしたくなかった。
 膝の上でしおらしくしている名前の腰に回した腕に力を入れ、名前の身体をぐっと引き寄せる。そして名前の耳元にくちびるを寄せると、利吉は悪戯っぽい声音でそっと囁いた。
「それとも、名前は困る? 私にやきもちを妬かれて」
「こ、困らないです……というか、むしろ」
「ね。そういうことだよ」
 耳元で吐息交じりの甘い言葉を囁かれた名前は、何も言い返せずに「うう……」とささやかに唸った。


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