いまはしずかに(1)

 秋とはいえ日差しは厳しい。名前の着替えのためくノたま長屋に一度立ち寄ると、日よけを求め、ふたりはくノ一教室で使っている茶室へと向かった。
 授業時間外なので茶室のカギは締まっているが、茶室の前の縁側ならばちょうどよく庇(ひさし)がある。長屋からも離れており、人の気配もない。どちらからともなく、縁側に腰をおろした。
 ──果たして何から話すべきだろうか。
 ここに至るまでの道中にもぽつりぽつりとした会話はあったものの、やはり普段のような気兼ねしない雰囲気とは程遠い。そもそも普段は名前が話をして利吉が聞き役に回ることの方が多いのに、今日の名前は口が重く言葉数も少なかった。
 ──果たしてどう切り込むべきか。
 名前と話をしなければと思いおっとり刀で駆け付けたはいいものの、肝心の話さねばならない内容については何一つ考えてこなかった。ただ逸る心のまま足を動かし、利吉は今ここにいるのだ。そうした感情先行の行動をとるのは本来の利吉らしからぬことであり、ゆえに利吉はこうした場面で、自分がどう振る舞うべきなのかについて、正しい答えを持ってはいなかった。
 だんまりの利吉を見かねてか、名前がそっと息を吐き出し、
「今日はどうして忍術学園に?」
 と問う。何のことはない質問である。しかしその何のことはない質問すら、今の利吉の胸をびくりと跳ねさせるには十分すぎるほどの威力を持っていた。
「来てはいけなかったかな」
 慎重に言葉を選んで、答えにもならない答えを返す。
「そんなことはありませんけど──」
 名前は眉ひとつ動かさず、言う。
「利吉さんが忍術学園に見えるときには、私と会う以外にも何か用事があることの方が多いですから」
 その言葉に、利吉はまたどきりとする。もしかして、先ほど小松田と話していた内容を聞かれたのだろうか、名前に会いに来るのはあくまでおまけのようなものだと、そう思われたのではないだろうか──そんなことを思った途端に、利吉はびっしょりと汗をかいたようなうそ寒い心地に襲われる。
 ──いや、何も名前に会うのは毎度おまけというわけじゃないし、そんな話をしていたわけでもないけど。
 しかし利吉の心にそんな思いがあったのはたしかである。いや、正しくは名前に会うために足しげく忍術学園に通っていると思われたくない──名前に惚れぬいているように人から思われたくはない、そんなところが利吉の心情としては妥当なところなのだろうが、それにしたって名前にそれを知られるにはタイミングが最悪だった。
 ──いやいやいや、でも聞かれていたかどうかも分からないし。
 内心にびっしょりとかいた汗をぐいと拭って、利吉は極力いつものような笑顔を張り付ける。たとえそれが空回りであったとしても、ここで無様に取り乱すよりはずっとましのはずだ。
「名前と話をしたくて来た、それだけだよ」
「話──ですか」
「いや、違うな。話をしたくてというか、話を聞いてほしくてというか……名前の話を聞きたくて、というか」
「話を」
「……ああ」
 名前からの反応は鈍い。自然と利吉の言葉もだんだんと短くなっていき、最後には頷くしかなくなった。打っても響かない会話というのはこうも空しいものなのか──利吉は思う。
 小松田の前ではまだ普通だった。それに最後に会った時──裏山で祠(ほこら)がどうのという話を聞いたときも、名前はにこにこと笑っていた。名前の口数が少なくなったのは、利吉が今日ここにきてあからさまな弁解をしようとしていると名前が察してからだった。
 ──やはり、名前はこの話をしたくないんだ。
 逆に言えば、その話さえしなければ名前は普段通りに振る舞おうとしてくれるのだろうとも思う。名前の中で整理がついているのかいないのか、いずれにせよ名前が触れたくない話題だと思っていることにはまず間違いない。
 ──それでも、いつまでも避けていられる話題でもないんじゃないか。
 それこそここから先もずっと一緒に居たいというのなら、利吉が仕事の上で女のことをまったく排除することはできないという事実は避けられないことだ。それならば今、一番最初にこの問題にぶち当たったときに話をしておくのが正しいことなのではないかと利吉は思う。
 分かっているのに、切り出す勇気がない。仕事であればどんな難しい依頼であっても機智と実力で乗り越えようと思える利吉だが、ここに至ってもなお、心の何処かで怖気づいている。
 利吉の知る名前ではない名前に対して、どんな言葉を届ければいいのか分からないでいる。
「……今日はお土産を買ってくるのを忘れたな」
 誤魔化すように本題とはかけ離れた話題をふれば、やはり名前はいつものように笑って利吉を見る。ふたりの間に厳然と横たわる問題にさえ触れなければ、きっと名前は何事もなかったように過ごそうとしてくれる。
「そういえば。いつもわたしに会いに来てくださるときは何かお土産がありますもんね」
「食べてる君が好きだからね」
「かんざしをくださったこともありましたよ」
「あれは特別」
「特別……。たしかにそうですね。わたしにとってもこのかんざしは特別です」
 そう言って、名前はそっと頭巾の上からかんざしに触れた。利吉の胸がつきんと痛む。
 利吉が女の話を蒸し返したりしなければ、こうして楽しいだけで今日を終わらせることができる。きっと名前だってそれを望んでいるだろう。たまにしか会えないというのであれば、できるだけ楽しく、幸せに一緒に過ごしたい──そう思うのは名前も利吉も変わらない。
 けれど、それでいいはずがない。今日を楽しく過ごしたところで、明日は。明後日は。利吉のいないところで名前は、それでも利吉の前にいるときと同じように、機嫌よく、楽しく過ごせるのか。名前のいないところで利吉は、何のうしろめたさも感じずにいられるのか。
 これから先、何度も同じことを繰り返して、そのたび見て見ぬふりをしていくのか。
 ──そんなこと、できるはずがない。
 名前──ようやく利吉が腹をくくってその名を呼ぼうとしたとき。
「別に、怒ってないですよ」
 まるで利吉の心の動きをすべて見透かしていたようなタイミングで、名前が毅然として発した。
「名前」
 一拍遅れて、ようやく利吉も声を発する。しかしまさか、名前の方から問題について触れてくるとは思いもしなかったから、少なからず面食らっていた。「別に怒っていない」というただそれだけの言葉であっても、何について怒っていないのか、それが今まさに利吉が言及しようとしていた件についてであることを推察するのは容易いことだった。
 先んじて言葉を放たれてしまい、利吉は再び言葉を失った。
 怒っていないと言われてしまえば弁解の余地もない。まだしも怒っているとはっきり言ってくれた方がましだった。
 利吉をまっすぐ見つめていた名前だったが、再び口を開きかけ、しかしすぐに唇を真一文字に引き結ぶ。
「名前、」
「本当に、怒っていないんです。ただ、ちょっとうまく纏まっていないだけで」
 ふつりと視線を膝に落とし、名前は呟く。纏まっていない。それが気持ちの問題なのか、思考の問題なのか、利吉にはうまく判断がつかなかった。
 場違いなほど、太陽はあたたかくふたりを照らしている。空気はからりと乾いている。
 やがて小さく息を整えた名前は、ぽつりぽつりと言葉をこぼすように話し始めた。
「あのですね、利吉さん。わたし、本当に怒ってなくて、拗ねてもいなくて、機嫌が悪いわけでも、気に入らないわけでも、まして文句を言いたいということだって、全然、そんなのは全然ないんです。それに、山田先生が前に仰ったことを忘れてもいません。わたしは忍者として活躍なさる利吉さんのことが大好きですし、尊敬もしています。だから、お仕事のことをどうこう言うようなことは絶対にしたくないですし、するつもりもありません。これからもきっと、それは、それだけは──変わらないと思う」
 普段は利吉には敬語を話す名前が、語尾を乱暴にまとめた。そこに何か、名前の中に確固と決められた覚悟のようなものを感じ取り、利吉はごくりと喉を鳴らす。
 ──纏まっていないと、さっき名前はそう言ったけれど、本当のところはもう答えが出ているんじゃないか。
 自分がどうすべきで、利吉に何を望むべきか。名前の答えはもうきっと出ている。しかし十四歳の名前がその答えを受け容れるのは容易なことではないだろう。だからこそ出てきた言葉が「纏まっていない」なのだ。
 おそらく今利吉が言葉を尽くせば、名前の誤解を解くことはそう難しくはないだろう。事情を説明して、名前に納得してもらう。名前は多少頑固そうなところもあるが、基本的には利吉のことを信じている。名前のことを裏切り、傷つけるような嘘を利吉がつくとは思わないから、誤解さえ解ければ名前の態度が軟化するのもあっという間のことだろう。
 しかしそんなふうにして一足飛びに問題を解決したところで、果たしてそれは根本的な解決になるのだろうか。利吉には、その答えが分からなかった。
 たしかに利吉と名前の間に生まれた行き違いは解消される。今回のことは、それで決着がつくだろう。ほんの勘違いだった、些細な早とちり、取るに足らない言葉不足──それで片はつくだろう。
 しかしひと度名前の心に生まれた猜疑心は。傷ついた心は。憂いや心痛は、一体どこへやればいいのだろう。それらは問題を一時的に解消したところで、けして名前の内側から消えてなくなるわけではない。むしろ表だって問題がなくなった分だけ、より表面化することなく名前の心の奥底に潜り込んでしまうだろう。そしてきっと、利吉が今後名前に言えない仕事をするたび、名前の心に不安の胞子をまき散らす。いくら名前が平気といっても、撒かれた胞子は遅からず芽吹く。
 忍びの仕事を生業としている利吉には、そうした心の揺れ動きのようなものが手に取るように分かった。人は簡単に人を疑うこと、信じたいものしか信じなくなること、そして不信は破滅を招くこと──それらはすべて、利吉が普段仕事を行う上で操る技術のうちだ。
 ──しかし忍びが心に足もとを抄われてどうする。
 依然として自らの膝をぼうっと見つめる名前に、利吉はそっと視線を送る。そうして利吉はゆっくりと口を開いた。
「たしかに、仕事のことに口を挟まないでいてくれることはありがたいと思う」
 その言葉に、名前の肩が、かすかに揺れた。
 利吉が今自らの口から発した言葉は、彼が事前に用意してきた言葉とはまるきり違うものだった。元々大した準備などしてはいないが、とはいえ少なくともこんなふうに、場合によっては突き放しているとも取られかねない言葉を投げかける予定ではなかった。まだ十四歳でくノたまでしかない名前には、もっと耳障りのいい慰めと弁解の言葉を掛ける、そのはずだった。
 ──だけど、きっとそんな小手先の言葉では駄目だ。
 名前との関係を、正しく続けていくつもりならば。
 名前との人生を、後ろ暗いものなく営むのならば。
 利吉の目に映る名前の顔は、ぎくりとこわばっていた。先ほどの利吉の言葉に、あからさまに狼狽している。しかし話さねばならない。避けて通れるものではない以上、話さなければならないことは今、早いうちに伝えておかなければ後々に禍根を残す。
「名前、聞いてくれ。誰に何を言われたところで、私は為すべき仕事を為さねばならないし、何を聞かれたところで、仕事のことは部外者である名前には話せない。その線引きは君への気持ちがどうこうというものではなく、忍びとして最低限守らなければならないことだからそうるんだ。そこを侵してしまったら、きっと私は忍びとしてやっていけなくなってしまう」
「……分かってます。わたしも、そんなことを利吉さんに望むつもりはありません」
 分は、弁えていますから。
 そう震える声で発した名前の声の響きに、利吉はここ暫くの名前の心の動きを見たような気がした。ずくんと心臓が疼く。
 きっと、名前にだって言いたいことはたくさんあるに違いない。利吉に聞きたいこと、問い詰めたいこともうんとあるのだろう。
 けれどそれは名前の領分──「分」ではない。そこまでのことは名前にも、そして誰にも許されていない。
 利吉は自分の心を恥じた。女のにおいに気がついた名前に妬いてほしいなどと考えた心をこそ、恥じた。
 利吉に望まれるまでもなく、名前は年ごろの娘として、当然のように心を乱していたのだ。けれどその心の乱れは、年ごろの娘のものとしては当然のことであっても、くノたまとして許されるものではない。ましてプロ忍者の利吉の恋人を名乗るものとして、到底許されるものではなかった。少なくとも名前はそう思った。だから、じっと黙って耐えるしかなかった。
 ──大切に想っているから、踏み込めないことだってある。
 ──大事だから、気が付かないふりをしなければならないことだってある。
 名前は利吉のことが大切だから。利吉が名前を大切にしてくれていることを知っているから。その思いは、目の前の問題を見て見ぬふりをすることで守られるものだと、そう思った。
 しかし利吉は、名前の思いを理解しながらもそれを肯定することはできなかった。自分の仕事を理由に、名前の心を無下にすることはしたくなかった。
 だから、利吉は言う。正直な心を、言葉にする。
「忍びとしての仕事はするし、果たすべき責任は果たすし、守るべき秘密は守る。時には後ろ暗いことに手を染めることもあるだろう。そのことを名前に隠しもするだろう。仕事のためもあるし、名前に嫌われたくもない」
「それは──」
「だけどそれは、けして名前の心を顧みないということと同じなわけではないよ」
 そう言って、利吉はふっと表情をゆるめた。傍らに置かれた名前の手に自らの手を重ねようとして、けれど利吉はそれをやめる。今は誠意を見せるべきときなのだ。そのためにまずは言葉を尽くすべきであり、こうして言外の手段でうやむやにするのは正しいこととは思えなかった。
 そのかわり、指の先で名前の指だけにそっと触れる。普段はあたたかな名前の指先は、今はすっかり冷たくこわばっていた。それでも、利吉の指先から逃れようとはしない。ただ触れられるまま、そこに在った。
「私はプロの忍びだから、当然、名前には極力話したくないような仕事だってする。きれいなばかりで食っていけるほど、この仕事が甘くないことは名前も分かるよね」
「……はい」
「だけどそれはあくまでも私の問題だから、名前がそのことをどう思おうが、それは名前の自由だと思う。仕事のことを聞かれたところで話せることはほとんどないけど、でもそのことについて名前が思っていること、考えていること、感じたことを聞くことなら、私にもできるよ。そしてそれは、けして悪いことじゃないと思う。名前が覚悟を持って私の仕事のことを受け容れてくれるのは嬉しいけど、私としてはそれで名前が何か思ったり傷ついたりしたことを、私にすら言えないまま隠していることの方が嫌──いや、悲しい、かな」
 「嫌だ」と言わず「悲しい」と表したのは、きっとその方が名前の心に重く響くだろうと分かっていたからだった。つくづく自分は人の心を扱う忍びの仕事に染まっているのだと、利吉は少しばかりうんざりした気分になる。
 それでも、そうするしかなかった。
 利吉は物心ついたときから忍びを志していたし、忍びとして生きていくやり方でしか、人生というものを知らない。何度も忍びを志すのをやめようと思っても結局この道に戻ってきてしまうのは、利吉にとっての忍びというものがそのくらい当たり前にそこにあるものだからだ。
「だから、聞かせてほしい。名前が何を思って、何を感じたか。何を嫌だと思って、何を悲しく思って、私のことをどう思ったか」
「わたしは──」
 名前の喉がごくりと鳴った。


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