夜兆

 例の鳥探しの仕事が何の成果も得られなかったことは言うまでもない。利吉はそれどころではなかったし、最早鳥などどうだってよかった。
 大体が、依頼した城主すらそんなものが見つかるとは思っていないのだ。ゆえに何の成果も得られなかったからといってこれといって文句を言われることもなく、むしろ忍びらしからぬ仕事をよくぞ引き受けてくれたと労いさえ受けたほどだった。
 翌日、報酬を受け取った利吉は取るものもとりあえず、忍術学園へと急ぎ舞い戻った。その目的はただひとつだ。名前からは仕事が終わる目途がついたら連絡をと言われてたが、その連絡もし忘れるほどに急いでいた。
 相当に急いで駆けてきたので、くだんの城を昼に出たにも関わらず、夕方前には忍術学園に着いていた。仕事でもないのに全速力で駆けることなど滅多にないが、今回は緊急事態である。出し惜しみをしている場合ではない。
 駆けてきた勢いそのまま、利吉は力強く木の門扉を叩く。門を破壊しかねないその激しさに、すぐに中から小松田が顔を出した。
「あれ、利吉さんじゃないですか。最近はよくおみえになりますねえ」
「うん、入門票をくれるかな」
「そう急かさないでくださいよ」
 ひとまず中に招き入れられる。しかし、こう急いでいるときに限って何故だか入門票と出門票を間違えて持参してきていたりするのが、ポンコツ事務員・小松田秀作という男である。悪意など一切ないそのお気楽さが、彼の持つ善良なたちの悪さに一層の拍車をかけていた。
「はい、どーぞ」
 手渡された出門票をひと睨みし、気付かなかった振りをして記名するかひと悩みし、しかし結局、
「小松田くん、これ出門票だよ」
 と、利吉は極力静かなトーンで突き返した。今の利吉にできる、最大限の大人の対応である。
 が、対する小松田は何とも呑気なものだった。
「うわあ、失礼しました。いけないいけない……、ってあれ? ぼく入門票どこやったかな……。さっき掃き掃除の前にその辺に置いたと思ったんだけど……」
「その辺に仕事道具を置くな!」
 一時はあくまで時間の節約のために大人の対応を心掛けた利吉であったが、さすがにこれには怒鳴るしかなかった。小松田が首をすくめる。
「ひゃあ、そんなに怒鳴らないでくださいよぉ」
 利吉さん声でっかいなぁ、と小松田が自分の物忘れを棚に上げてぼやくので、利吉はいよいよ頭に血が上るっていくのを感じる。
 普通利吉がこれほど怒鳴れば何か急ぎの用事と察しがつきそうなものだが、しかし察しの良さを小松田に期待したところで仕方がない。こういう時、怒りは何の役にも立たずただただ利吉を苛立たせるだけだった。どれだけいらいらしたところで利吉はただ、その場で貧乏ゆすりよろしくわなわなと震えながら小松田が入門票を見つけるのを待つしかない。
 ──くそっ、幸先が悪い!
 出鼻を挫かれたような気がして、利吉は憤懣やるかたない思いを込め小松田を睨む。しかし物理的なダメージがあるわけでもないただの視線に、小松田が今更怯むはずもない。それどころか探し物をしながら、
「今日はどなたに御用ですか」
 と呑気に話しかけてくる始末である。利吉は内心で激しく舌打ちをした。話していないで手を動かせよ、と言いたくなるのをぐっと堪える。それから何とか怒りを鎮めるため、二度三度ほど深呼吸を繰り返した。
 ──いけない。小松田くん相手に怒っても何の解決にもならない。
 ようやく少しばかりの平常心を取り戻した利吉は、そっけなく「誰だっていいだろ」と答えた。小松田相手に無暗に体力を消耗するのをやめただけであり、別に機嫌よく接してやろうという気は毫(ごう)も持ち合わせていない。
 しかし利吉のその無愛想な言い方が、却って悪い方に転がった。
 一瞬視線を利吉に向けた小松田は、
「あー、その言い方。さては苗字さんですかぁ?」
 と、謎の勘の良さを発揮して見せた。これにはさすがに利吉は一瞬言葉に詰まったが、咳払いをしてそれを誤魔化す。
「……入門票への記入はともかく、誰に何の用件かの仔細まで小松田くんに話す筋合いはないよ」
「でも苗字さん、今日は朝から出掛けてますよ?」
「えっ、そうなの? なんで?」
 思わず素のリアクションを返してから、しまった、と後悔した。これでは利吉が名前に用があって忍術学園まで赴いたことがばればれだ。利吉は一瞬焦ったが、しかし小松田は利吉のその反応を訝しく思うこともなく、ただ淡々と、
「なんでって、そんなことまでは知りませんよ。苗字さんの外出許可出してるのは山本シナ先生でしょうし、山本シナ先生に伺ったら分かるんじゃないですか?」
 と、返事をした。となると、利吉の方も自然と何気ない風を装いたくなる。
「いや、そこまでして知りたいわけでは……」
 すでにやぶれかぶれの感はあるものの、しかしあくまでも物のついでに名前に会いに来たのだとでもいうような雰囲気を捨てきることもできず、利吉はふいと視線をそらした。
 ──そうだ、別に名前に会う以外にも用件くらいある。
 いくら小松田が利吉と名前の関係を知っているからと言ったって──というか忍術学園の関係者のほとんどがふたりのことを知っているからと言ったって、何も利吉は名前に会うしか忍術学園に用がないわけではない。まるで名前に会うためだけに足繁く通っているような、利吉が名前に骨抜きにされているような印象を持たれるのは、いくら何でも本意ではなかった。利吉の大人の男としての矜持が、そんな印象を持たれることは許さない。
 ──名前のことを好いていることは認めるけど、それは向こうだって同じことのはずだ。それなのに、何というかこう、私ばかり必死みたいに言われるのは違うだろ。
 良くも悪くも女に不自由したことのない身である。そんなささやかな自意識が利吉の胸にはひっそりとあった。
 そんな利吉を見て、小松田は思案するように眉根を寄せる。そしてやにわにぽん、と手を打つと、
「……もしかして利吉さん、苗字さんと喧嘩でもしてるんですか?」
 と、一切の気遣いを感じさせないいつもの呑気な声で尋ねた。その質問に、利吉の頬がひくりと引き攣る。
 喧嘩。いや、もちろん喧嘩などしているわけではない。名前との間にはまったく衝突らしきものはなく、表面上はいたって穏やかな交際そのものである。名前が最後に利吉に向けた表情は笑顔だったし、この後名前に会っても、やはり利吉は笑顔を向けてもらえるだろうという自信がある。
 しかし明確な喧嘩ではなくても、名前との間に行き違いやすれ違いが発生しているだろうことは最早疑いようのない事実であった。だからこそ、利吉はこうして仕事を片付け次第大急ぎで名前のもとへと駆け付けたのだ。まさか名前が不在とは思わなかったが。
 ──その上、小松田くんにすら訳ありなことを見抜かれるとは……。
 忍たま同様、妙なところで勘のいい男である。そのことは分かっていたのだが、まさか男女の機微に精通しているとはまったく思えないこの小松田にまで、名前との間の限りなくうっすらとしたわだかまりを指摘されるとは思いもしなかった。
 元々小松田は人の機嫌や場の空気を読むことに長けた人間ではないはずだ。色恋のことなど、そうした微妙な読み合いの粋のようなものだろう。
「小松田くんさ、どうしてそう思うの」
「そう、とは?」
「私と名前が喧嘩してるって、どうして思うの。何かそう思う理由があるんじゃないのか」
 利吉の不機嫌は今日に限ったことではない。とかく利吉は小松田と相性が悪く──というより一方的にイライラさせられたり脱力させられたりすることも度々で──ゆえに小松田の前で語調が荒くなるのも珍しいことではない。
 それなのに今日に限って利吉の不機嫌を「苗字さんと喧嘩でもしたのか」と結びつけるには、小松田なりに何らかの理由があるのではないか──利吉の質問の意図は、その何かを知るところにあった。
 小松田は暫しきょとんとして利吉を見る。
 しかし利吉の問いに対する小松田の答えは至極シンプルであり──そして、思いがけないものだった。
「だって苗字さん、ここのところすっごく元気ですから」
 予期していた類の返事からは大幅にずれた回答に、利吉は思わず「え?」と間の抜けた声を発する。元気。喧嘩をしているのに、元気。しょぼくれているとか、いらいらしているというのであればまだ分からないでもないが、元気。いまひとつ、利吉の中で話がつながらない。
 それでも小松田の中ではきちんとつながっていることらしい。
「だから、苗字さんがすっごく元気なんですよ」
 利吉のぽかんとした顔にもお構いなしで、小松田は続けた。
「くノたまの五年生なんて多分この時期ものすごく忙しいと思うんですけど、それなのに苗字さん、僕のお手伝いもいろいろとしてくれて。おかげで仕事がどんどん消化されていくので、ここのところは吉野先生もすごくご機嫌なんです」
「えっと……、ごめん。それと喧嘩と、どういう関係があるの」
「女の人が元気なのは、男に見切りをつけたときだって昔お兄ちゃんが」
「……」
 しれっと恐ろしいことを言われ、利吉の背を冷たい何かが走り抜けた。
 ──見切り? え、私、名前に見切られたのか?
 まさかそんなはずはない、と思う。しかしこればかりは名前の気持ちの問題であり、生憎と今の利吉はそんなはずはないと断言できるだけの自信も持っていなかった。
 何せ利吉には今、浮気の嫌疑がかけられているかもしれないのだ。恋人以外と不埒でみだらな好意に及んだとなれば、それは夫婦であっても離縁を迫るのに十分な理由となる。況(いわん)やただの恋人同士であれば、問答無用で相手を見限ってもおかしくない。
「いや、でもねえ、名前だし……」
 温厚で呑気で、長年利吉に憧れ続けていたあの名前である。そんなことはないと信じたい。これしき──と言えるようなことでもないのだが、しかしこれしきのことで名前が利吉を見限るだなんて、そんなことは信じたくない。
 そもそも利吉はまだ、名前に何も言われていないのだ。さすがに何の挨拶もなく見限ったりはしないだろう。そして見限る挨拶などあれば、利吉は全力で名前を引き留める。先ほどまでの「私ばっかり好きなわけじゃないし」というような思考は、今や完全にはるか地平のかなたへと葬り去られていた。
 ──絶対、見限るなんてこと許さないからな……!
 わなわなと打ち震える利吉にかまわず、小松田はさらに続ける。
「あっ、でもそれじゃあ利吉さんは苗字さんに見切りをつけられたってことですか? えっ、それじゃあ苗字さんのことを訪ねてきたのは復縁を迫るため……」
「一から十まで全部間違ってる!」
 ついに利吉は怒鳴った。小松田が一向に入門票を出してこないことにもいい加減しびれを切らしていた。
「もういい、邪魔したね」
「あれっ、入門票いいんですか。見つかったんですけど」
「もういいよ。今日は帰る」
 どのみち名前は不在なのだ。今日は忍術学園には用はない。まだ「でも、折角入門票見つかったのにぃ」などと言っている小松田に憤慨しながら利吉が踵を返そうとした、その時。
「利吉さん、お帰りになられるんですか?」
 唐突に背後から声を掛けられ、利吉の肩が大げさに跳ねた。普段であればここまで驚くこともない利吉だが、今この瞬間に限っては、利吉はその声の持ち主に対して常以上に敏感であった。
「──名前」
 いつの間にか利吉に背後の門をくぐり、名前が学園に戻ってきていた。外出用の小袖は利吉が見慣れたものである。
「ただいま戻りました、小松田さん。入門票を貸していただけますか」
「それなら利吉さんの手に」
「あら。利吉さん、帰られるなら入門票を貸してくださいよ」
 名前の態度に名状しがたい違和感を感じつつ、しかし利吉はその違和感の正体にまで辿り着くことができない。感じた違和感の正体を暴くべく、利吉は名前をじっと見つめてもみたが、やはりうまく答えに辿り着くことはできなかった。
 いつまでたっても入門票を渡そうとしない利吉に、名前は不思議そうな顔をする。利吉ははっとして、「私が先に書く」と短く一言だけ発した。
「え、でも利吉さん、お帰りになられるのでは……?」
「事情が変わったんだよ。小松田くん、悪いけど筆にもう一度墨つけてくれないか。乾いてしまってるよ」
「利吉さんがいつまで経っても入門票をお書きにならないからじゃないですか……。もう、仕方ないですねえ。ふたりとも、ちょっとここで待っててくださいね」
 元はと言えば自分が入門票を見失っていたのだということを棚に上げ、小松田はやれやれと溜息をつくと利吉から筆を受け取った。そうして微妙に気まずい利吉と名前を残し、取り立てて急いだ様子もなく事務室へと戻ってゆく。
 その背中を並んでみるともなく眺め、名前と利吉はその場に棒立ちになっていた。もちろん積もる話はあるし、話さなければいけないことは山ほどある。利吉は弁解したいだけでなく、名前の話も聞きたいと思っているし、だからこそこうして顔を合わせて話をしにきた。
 ──しかし勢いでここまで来たものの、何処から誤解を解いていくかまったく考えていなかったな。
 いざ名前を目の前にしてみると、自分が如何に無計画にここまで来たかを思い知る。そもそも弁解をするには名前が誤解をしているということをはっきりさせねばならず、そのためには名前が聞きたくないであろう話──それこそ名前がすでに心の整理をつけたかもしれない話題を蒸し返さねばならない。考えるだに気が重くなる。
 そうして利吉がひとり静かに煩悶していると、名前が先に沈黙を破った。
「お久しぶりです、利吉さん──って言っても、そんなに久し振りでもないですね」
「ああ、うん」
 声を掛けられ、利吉は視線を名前へと向ける。一見、普段と変わりない笑顔を浮かべている名前だが、よくよく見つめるとその笑顔にはどこか硬さ、ぎこちなさのようなものが混ざっていた。夏休み前に名前と利吉がふたりで薬草園に行ったとき、悩んでいた名前の顔に浮かんでいたのもこれとよく似た表情だったことを思い出し、利吉ははっとする。
 ふたりの間には名前と利吉のふたりにしか分からないような、霞(かすみ)より細く薄い緊張が、ふわふわと空気の流れにたゆたうように細くたなびいていた。
 その緊張の糸をそっと手繰り寄せるように、名前は言葉を静かに発する。
「お仕事は終わられたのですか?」
「うん。今回は思ったより短く済んで」
「そうでしたか。暫く会えないかなと思っていたので、こうやって思いがけず早く会えてわたし嬉しいです」
「……そうか」
「はい。嬉しいです」
「私も、嬉しいよ」
 本当にそう思っているのだろうか──そんな疑問が利吉の心にぷかりと浮きあがる。
 利吉は当然、嬉しく思っている。ただでさえ恋人である名前のため割ける時間の少ない、会える機会の少ない仕事についているのだ。こうして顔を合わせれば、たとえ微妙な緊張状態の上にあるとしても、嬉しく思わないはずがない。
 しかし果たして、名前も同じように嬉しく思ってくれているのだろうか。単純で分かりやすく、良くも悪くもお人好し──そんな性格の名前のことを、これほどまでに「分からない」と利吉が感じるのははじめてのことだった。
 分からない。名前が本当に自分と会えたことを喜んでくれているのか。見限られてはいなくとも、多少は愛情が目減りしているのではないか。そんな猜疑心すら覚える。
 ──名前が落ち着いているのが逆に怖いな。
 そんなことを思っていると、遠くから慌ただしい足音が近づいてくるのが聞こえる。恐らく事務室に戻っていた小松田が走って戻ってくるところなのだろう。その足音を利吉が聞いていると、つと名前が切り出した。
「今日は同室の後輩が部屋にいるのですけど、どうされますか? 利吉さんがみえたといえば、短時間なら席を外してくれるとは思いますが」
 利吉の用件が名前にあることを見抜いた物言いに、利吉はごくりと息をのむ。しかしこれしきのことで怯んでいては年上の男として立つ瀬がない。しんと凪いだ視線を利吉に向ける名前に負けじと、利吉も身体の横に沿えた掌をぎゅっと握りこぶしにすると、無理矢理に薄い笑みを顔に張り付けた。
「いや、それはその後輩の子に悪いから、どこか適当に人がいないところにいこうか」
「そうですね。私もそれがいいと思います。ただ、服だけ着替えてきてもいいですか? 制服に着替えないと叱られてしまうので」
「うん、待ってるよ」
 話がまとまったところで、筆を握った小松田がようやくふたりのもとに戻ってきた。
「お待たせしましたぁ。はい、筆です」
「ありがとう」
 受け取り、利吉と名前は順番に入門票に名前を記す。達筆な利吉の名前の横に並んだ名前の文字は、普段よりもいくら線が細く頼りなさげなものだった。


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