いわなくていいこと(3)

 利吉の思惑にどこまで尾浜たち五年生が気が付いているのかは定かではない。が、ただひとつ言えるのは、利吉が思っているほど名前は男の気を引くような娘ではないということだった。醜女ではないが、取り立てて器量よしでもない。だから利吉のけん制というのは、傍から見れば利吉の贔屓目──惚れたものの弱み的な贔屓目にしか映らないものだった。ゆえに尾浜も気を悪くすることなく、というよりただ面白がるように眼を細め笑っている。
 その尾浜は悪戯めいた笑顔のまま、
「で、早速喧嘩ですか?」
 と揶揄するように尋ねた。十四歳の男子らしい茶目っ気に溢れた表情だが、それよりも利吉が気にかかったのは尾浜の発した言葉の方だ。
「え? 喧嘩?」
「はい、苗字と。あれ、違いましたか」
「いや、違うけど……」
 思いもよらない言葉を投げかけられ、利吉は素直に困惑した。
 今に限らず、利吉は名前と喧嘩などしたことがない。何せ相手はあの名前なのだ。実家に帰ったときには親きょうだいと多少衝突するところを見たものの、基本的には温厚で、しかも心底から利吉に惚れぬいている。利吉も利吉で年下の彼女のことを相当に可愛がっており、喧嘩をするような理由などまったく思いつきもしないほどだった。大体、十四の女子を相手に喧嘩するほど利吉は大人げなくはない。
「喧嘩はしてないけど、どうしてそう思うんだい? 尾浜くん」
 利吉が尋ねると、尾浜はくるりと振り返り、自らが来た方角をひょいと指さす。ちょうど正門とは正反対、忍術学園そのものを指さすような仕草である。
「だってさっき、苗字が悲壮感溢れる顔で裏山に歩いていくのが見えましたから。あれはきっと、利吉さん絡みで何かあったに違いないな──って、三郎と」
「三郎──って、鉢屋くん?」
「はい。あ、一応言っておきますけど、鉢屋三郎が苗字のことを見かけたとき、悪戯を仕掛けるならともかく、声を掛けて揶揄うのを躊躇するって相当のことですよ。まあ、苗字は普段が普段だから、たまに本気でへこまれると声を掛けづらいのも分かりますけど」
 「本気でへこまれると」──その言葉に利吉はぴくりと反応した。喧嘩と言われると心当たりがないが、名前のことを落ち込ませたかもしれない原因になら心当たりがある。それに名前の性格を思えば、利吉から女のにおいを察したところで怒って食って掛かるよりも、黙手ひとりでしおしおと落ち込む姿の方が想像しやすかった。
 ──これはいよいよ、フォローしないわけにはいけない雰囲気だな。
 己の手抜かりが招いた事態だけに、名前のことは置いておくとしても利吉のショックも甚大である。
「あの、大丈夫ですか……?」
「……尾浜くん、名前、そんなに落ち込んでた?」
「まあ、おれたちが未だかつて見たことがない程度には」
「そうか。ありがとう」
 短く尾浜にお礼を言って別れた。尾浜は事情を聞きたげだったが、そこで深追いできるほど向こう見ずでもない。利吉がそれ以上話したがらないだろうことを察して、正しく引き際を見極めたらしい。ぺこりと頭を下げると尾浜は利吉を見送った。
 利吉の次なる目標は、ひとまず名前の捜索である。
 折角出門票を書いたところだったが、利吉は来た道を引き返すことにした。
 とはいえ、忍術学園の中を突っ切って裏門から出ようというのだから、出門票を書いたのもまったくの無駄というわけではあるまい。何も言わずに出ていくとなると、たとえ裏門からの出入りであったとしても口うるさい事務員が約一名いる。名前のことだけでもすでに半分厄介事に足を突っ込みかけているのだ。そこに小松田に労力を割けるほど、利吉は今元気いっぱいな状態ではない。
 疲れた足を無理矢理動かし、利吉は裏門から出ると裏山へと分け入った。尾浜と鉢合わせた時間を考えても、すでに名前は裏山の随分奥まで入っていてもおかしくない。
 ──大体、落ち込んで裏山に入ろうという思考がまずよく分からないんだよ。
 裏山に入った以上、人の通る道をいつまでも歩いていることもないだろうと、利吉は適当なところで道から逸れ、人の足でも歩きやすそうなけもの道を選んで進む。進みながら名前の思考をなぞろうとして、思わず溜息をついた。
 いや、もちろん理解はできる。名前のことだからしょぼくれるにしても何にしても、ひとまずは人目のなさそうなところに逃げ込もうとしたのだろうということくらい、利吉でも想像がつくことだった。
 それも、今回名前が心を痛めているのはほかでもない利吉のことである。忍術学園において相当な知名度を持ち、同時に各方面からの信頼もあつい利吉とのことで傷ついたなどと誰かに知られれば、利吉に「恋人を泣かせるような男」というような印象がついてもおかしくはない。
 今はたとえ忍たま・くノたまでしかない生徒たちだって、いずれはいっぱしの忍びとして世に出るような人材がほとんどだ。そんな子どもたちに、商売上で敵にも味方にもなりうる利吉の良くない印象を与えるべきではない──と、そこまで名前が考えているかどうかはさすがに定かではないが、ともかく人前で気落ちした態度を見せまいとして裏山に入ったのだろうことはたしかだった。
 ──そういうところは強情っぽいからなぁ……。
 いっそ自分のところに泣きついてきてくれたらいいのに──そう思い、利吉はまた溜息をつく。今回のことは利吉にも非があるからそうとばかり言えないが、何かにつけ、名前は自分ひとりでもやもやとしてしょぼくれようとする癖がある。それが四つも年上の利吉にとっては何とももどかしく、遣る瀬無い。
 以前利吉が忍術学園にお世話になっていた頃、鉢屋に見返りがどう下心がこうと言われたときだって、利吉が半ば無理矢理聞きだしてやっと口を割ったし、ともに帰省したときだってそうだった。姉と衝突したと言っていた名前はひとりで山を登っており、もしもあそこで利吉が通りかからねば、きっと自分ひとりでもやもやとして終わりにするつもりだったのだろうと容易に想像がつく。夏祭りのことだってそうだ。考えてみれば名前と知り合ってからのたかだか数か月で、名前が利吉を頼らず自分ひとりで問題を飲み込もうとしたことは、利吉とのことであれそうでなかれ、枚挙にいとまがない。
 ──くノたまとして頑張っているのも分かるし、私に迷惑を掛けないようにと思っているのも分かるけど、私からみれば名前はただの十四の女の子なんだから。
 少しくらい、泣き言でもわがままでも言えばいいと思う。それこそこれから先、無理も我慢も嫌と言うほどしなければならないのだ。それならば今くらいもっと頼ってくればいいものをと、利吉は普段の利吉らしからぬことを思う。
 ──それにしても、まったく名前が見つかる気がしないな。
 ふと頭上を見上げ、思った。太陽の位置は裏山に入ったときよりも西に寄っている。
 山道を逸れてからそれなりに時間は経過していた。利吉の袖から伸びた手の先には、すでに山の木々によってできた引っ掻き傷が無数に散っている。
 考えてみれば、名前は忍術学園のくノたまとして、この裏山にはもう何年も慣れ親しんでいる。単に山道を歩くだけならばアルバイト先の団子屋への通り道でもあるし、授業でも裏山は頻繁に利用する。
 だから本来この土地の人間ではない利吉と比べれば、名前は余程この山のことは知っているはずだった。人ひとりが隠れるのに十分な場所だって、それこそ利吉が想像も及ばないような場所まで含めていくつも知っているに違いない。
 ──こんなことなら、手の空いていそうな尾浜くんに手伝ってもらった方がよかったかも。
 しかし一瞬頭に浮かんだ思考は、すぐにその場に捨て去った。たしかに尾浜か誰かを連れてきた方が効率はよかったのかもしれないが、しかし万が一自分より先に名前のことを見つける人間がいたなどとなれば、それはそれで利吉の心境は複雑を通り越して業腹ですらある。そんなことになるくらいならばいっそ、自分ひとりで山中を探し回った方がいい。
 自分の手で名前を探し、自分で名前を見つけ出したい──名前に命の危機が迫っているとでもなればそうも言っていられないが、少なくとも今はそんな状況ではないのだ。だったら効率よりも自分の矜持を優先させたところで、誰にも迷惑はかからない。
 ──何が何でも、名前のことは私が見つける。
 そして闇雲に傷つけたとすれば、その弁解を正しくする。そうしないことには利吉も心穏やかではいられない。
 と、そんなことを考えながら道なき道を行き、どういうわけだかぐるりと回って最初の山道へと戻ってきてしまった利吉は、ふと少し離れた山道の先に、見慣れた着物の色を発見した。山の中ではあまりにも目立つ、くノ一教室の制服の桃色の忍び装束。
 思わず息を呑み、目を見張った。背格好からしても、そこにいるのは目的の人物で間違いない。
 ──名前だ。
 次の瞬間には、利吉は大声で名前の名前を呼んでいた。
「名前!」
 途端に名前がびくっとその場で跳ねた。位置関係からすると利吉は名前の背後におり、名前もまさかいきなり誰もいなかったはずの山道で名を呼ばれるとは思いもしなかったに違いない。
 しかしくるりと振り返った名前は、
「あら、利吉さん。どうかしたんですか、そんなに慌てて、息も切らして……」
 利吉の予想に反して、存外けろっとして利吉へと近寄った。尾浜の話ではすっかりしょぼくれ項垂れていたとのことだったが、少なくとも今目の前にいる名前からはそんな気配は少しも感じられない。しいて言えばいつものような呑気な笑顔というわけでもないのだが、とはいえ山にひとりで入って誰にともなくにこにこ笑顔を振り撒いていたはずもなく、これはこれで通常の名前ともいえる。
 ──あれ? 傷ついてしょんぼりしているって話だったはずなんだけど。
 けして傷ついていてほしかったわけではないが、すっかりそういうものだと思い込んで行動していた利吉からしてみれば、こんなふうにけろっとされると逆に反応に困る。利吉としては、あの手この手で言葉を尽くして名前に弁解し、慰めるつもりでいたのだ。
「……利吉さん?」
「名前、こんなところでひとりでどうしたの」
 ひとまず話はそこからだろう。名前の気分がどうであれ、ひとりで裏山に立ち入っているということは純然たる事実である。アルバイトに向かうというのならばともかく、忍び装束のままでひとりで山の中をうろつく理由など、名前にはないはずだ。
 鋭い口調で利吉に問われ、名前は一瞬、狼狽したように視線を泳がせた。その態度から、名前が何か目的を持って裏山に入ったことは明白だった。しかし肝心のその目的を口に出すことに抵抗があるらしく、名前は忙しなく視線を泳がせ、また指先をいたずらに弄んでいる。短く揃えられた爪をこすると爪は淡い黄色になり、すぐまた戻る。
 そうして名前は暫し、無言の利吉を前に逡巡していた。しかしいつまでも黙っていられるものでもない。やがて、観念したかのようにそっと息を吐きだすと、
「いえ、実は銭袋を、落としてしまいまして」
 と、何とも情けない声で答えた。
「……銭袋だって?」
 数拍の間ののち、利吉が問い返す。思っていたのとはまったく異なる言葉が返ってきたのだ。利吉の困惑は深まるばかりである。
 しかし名前は神妙な顔をして頷いて見せ、言った。
「はい。ついさっき、いつも銭袋をしまっているところに無いことに気が付いて……。大方、昨日のアルバイトの後に落としたと思うんですけど……。それで、落としたのならアルバイト先までの道中にあるかなと思って、ひとりで探しにきたんです。この年になって落とし物であたふたするのも恥ずかしくて、こっそりと」
 なんだ、そんなこと──そう言いかけて、利吉は何とか言葉を飲み込んだ。利吉にとっては「そんなこと」でも、苦学生の名前にはけして「そんなこと」ではなかった。
 休みも返上してアルバイトに勤しんでいる名前にとって、銭袋を落っことすというのはかなりの一大事である。最悪、自分で稼いだアルバイト代で賄っているという食事代が、完全に失われてしまうということにだってなりかねない。
「それ、結構な事態じゃないか。見つかりそうなの? 私も一緒に探そうか」
「いえ、それには及びません! さっきほら、見つかりましたから」
 そう言って、名前は懐から銭袋を取り出した。随分と年着物なのか、袋の端々がほつれている。何度か繕いなおした後もあり、まさに名前の懐事情が透けて見える銭袋というわけだ。
「善良な誰かが拾ってくださったのか、山道の途中の辻にある祠に供えてありました。昨日通った道のわきの祠なので、やっぱり帰りに落としたんだと思います。だからちゃんと手を合わせて、『申し訳ありませんがこれは私の大事な大事な、だーいじな銭袋なので、持って帰らせていただきます』と神様にお伺いを立ててから回収してきました」
「ああ、そう……」
 なんだか気の抜ける話である。自然と利吉の返事も気の抜けたものとなった。
 ──なんだ、私とのことでしょげて裏山に駆けこんだのではないのか。
 ほっとする半面、何処かがっかりしている自分もいることに気付き、利吉は顔をしかめる。
 ──がっかりしてどうする。名前に余計な心配を掛けていなかったことに安心こそすれ、がっかりするのはおかしいだろ。
 と、利吉が自分の相反するふたつの心情の板挟みになっていると、目の前の名前が不思議そうに首を傾げた。
「そういえば、利吉さんはどうしてこちらへ?」
「ええと……ああ、いや……うん」
 ついつい言葉を濁した。
 してもいない誤解を解きにきた、落ち込んでもいない君を慰めに来た──正直にそう答えるのは、どうにも利吉の矜持が許さなかった。しかしこんなことでしょうもない嘘をつくのも憚られ、結局「いや、君が裏山に行ったと尾浜くんに聞いたから」と答えにもなっていない答えを返す。
「尾浜に、ですか」
 利吉の返事に、名前は少しだけ考え込むように視線を宙へ遣る。しかしすぐに視線を利吉へと戻すと、はにかんだように笑ってから小さく頭を下げた。
「なんだか心配をおかけしてしまったみたいですみません。でももう銭袋も回収しましたし、今から忍術学園に戻るところです。利吉さんも一緒に戻られますか?」
「いや、私は遠慮しておくよ。忍術学園への用事は済んでいるし」
「そうでしたか」
 さして残念がるそぶりも見せず、名前は言う。利吉が忙しいことはよく分かっているから、無理に引き留めるようなことはしなかった。
「それでは、わたしも今はくノ一教室での用事がちょっとだけ立て込んでおりますので、今日はここで失礼いたします」
「え? ああ、うん」
「次のお仕事がいつまでか、目途が立ったらまた教えてくださいね」
 そう言って、名前は再び頭を下げると、利吉の横を通り過ぎ忍術学園へと歩きだす。その姿を、狐につままれたような気分で見つめる。
 勢いで名前のことを迎えに来たものの、当の名前はけろりとしているし、むしろ利吉を気遣って用件を長引かせずにさっさと帰ってしまった。これでは利吉も何をしにこんなところまでやってきたのか分かったものではない。名前の顔を見ることができたのはよかったが、どうにも無駄足を踏んだ気分になりながら、先ほど山中を駆け回っているときに手の甲にできた、小さなかすり傷を眺める。
 ──そういえば、においのことを弁解し忘れた。
 ふと気付き、情けなさから嘆息した。無駄足を踏んだだけでは飽き足らず、本来の目的すら果たせていないというのは一体どういうことか。何となく利吉が予想していたような展開と違ったがために、すっかり名前のペースで話を片付けてしまった。
 ──まあ、いいか。私のことで落ち込んでいたわけではなさそうだったし。
 弁解しなくてもいいのならば、別に追いかけてまで話をする必要もない。そう半ば開き直りのような結論を出すと、利吉は忍術学園に背を向け歩きだした。背におった空で鳥が一羽、利吉を引き留めるように鳴く声がしたが、利吉はそれを気にも留めなかった。


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