いわなくていいこと(2)

 夜っぴて歩いてきた甲斐もあり、無事に期限内に学園長に仕事の報告を済ませることができた。ついでに暇を持て余しているらしい学園長から将棋に付き合っていかんかと誘われたが、そちらについては丁重に断って、利吉は庵を後にする。将棋はけして嫌いではないが、今はそこまで頭が働くような状態ではない。
 とはいえ、これでひと月がかりの仕事もひと段落だった。明日からはまた新しい忍務につかねばならないが、ひとまず今日のところはこれで仕事も終わりである。この後の予定は特になく、どこかでゆっくりと身体を休める予定だった。
 ──あわよくば名前のところでゆっくりしていこうと思ったんだけど、さすがにそううまくはいかないか。
 そんなことを考えながら、利吉はとぼとぼと正門に向けて歩いていく。
 一応名前の顔をもう一目見ていこうと思い、帰りがけにくノたま長屋にも寄ってはみたのだが、生憎と名前は不在であった。五年生ともなれば座学の授業もほとんどないので、授業に出席していて不在ということもないだろう。そもそもそうであれば、先ほど事務室に顔を出したりはしていなかったはずである。
 ──さっきも実習要綱がどうのと言っていたし、名前は名前で忙しいのだろう。帰りに事務室に寄って、そこにいなければ今日のところは帰ろう。
 夏休み前に忍術学園に世話になっていた頃、利吉は名前本人の口から、秋以降にはいよいよ本格的なくノたま実習が始まると聞いている。その関係で、今の名前が忙しくしているだろうことは利吉にも想像ができることだった。
 名前の場合、ただでさえ学業とアルバイトの二足の草鞋だというのに、そこに実習や実習準備までこなさなければならなくなる。となれば、その忙しさたるやそこいらの娘の比ではないに違いない。案外、先ほど利吉に対してそっけないような態度をとって見せたのも、そうした慌ただしさのあおりを受けてのことなのかもしれない。利吉はそう考え、ひとり納得する。
 ──当然だけど、私が一か月忍務で潜っている間にも名前は自分の一か月を過ごしているんだな。
 利吉とて、一か月もの間名前がただ利吉を思って物思いに耽って過ごしていたなどとは考えていない。名前にだってすべきことはたんとあり、それはけして軽んじられてよいものでもない。
 しかしこの一か月間、利吉が名前のことを思い、考えていたのと同じくらい、名前もまた利吉のことを思い、考えてくれていたらいいのに──利吉はそう思っていた。利吉が名前のことを恋しく思うのと同じだけ、名前にも利吉のことを恋しく思っていてほしい。利吉が抱えていたのと等しい分量の感情を抱えていてほしい。そう思うことは、利吉にとってはけして我儘なことでも高望みでもないはずだった。
 そしてやっとの思いで仕事を終えたときには、名前に笑顔で迎えてほしいとも思う。忍務の殺伐とした気分をそそぎ、束の間でも「こちら側」に帰ってきたことを実感させてほしいと思う。そのささやかな期待があっさりと打ち砕かれたとなれば、利吉が多少気落ちするのもむべなるかなというところだった。
 ──でもこれから名前の実習が始まれば、顔を合わせるタイミングが合わないことも増えるのだろう。まして、名前がくノ一として働き始めれば尚更だ。
 そういえば名前の進路は結局どうなったのかも、利吉は聞いていなかった。大方実習の準備や日々のことに追われてまだ定まっていないのだろうとは思うが、しかし名前が悩んでいるとき、大変なときにそばにいてやれないことは心苦しくもある。
 名前に癒してほしいと思う分だけ、利吉も名前の支えになりたい。そんなふうに思うにつけ、名前がくノ一として働くかもしれない未来のことを思い描き、何とも言えないもどかしさに襲われる。
 今日もまた、そのもどかしさを感じながら学園内を歩いてゆく。やがて門の前までやってくると、箒を持って外掃除をしていた小松田が利吉に気付いて「あれっ」と声を上げた。
「あれっ、利吉さん。今日はもうお帰りなんですか?」
「うん。今日は報告だけだったからね。それより小松田くん、出門票をくれないか」
「ああ、はいはい。今出しますね。っと、しまった。さっきのお客様で紙がいっぱいになっちゃってました。申し訳ないんですけど利吉さん、事務室まで新しい紙を取りに行くのでちょっとお待ちいただけますか?」
「構わないよ」
 いつもであれば小言のひとつでも言うところだが、今日の利吉は違う。元々事務室を覗いて帰ろうと思っていたから、むしろ堂々と事務室に寄る理由ができて都合がいいくらいだ。
 いそいそと事務室に戻る小松田の後をさりげなく追い、利吉も事務室の中を覗いた。中では事務のおばちゃんと吉野先生がふたり、何やら新学期の準備と思しき用具の点検をしている。利吉に気付くと、ふたりともにこやかに挨拶を送った。そこに名前の姿はない。
「それより小松田くん」
 何やら棚をごそごそとしている小松田に向かって、利吉はあくまで世間話を装って声を掛ける。
「くノ一教室の何かやらなきゃいけないことは終わったの?」
「はい。苗字さんに手伝ってもらったら四半刻もかからずに終わっちゃいました」
「どうしてたったそれだけの仕事を一週間も後回しにしたんだ……」
「そんなことおっしゃったって、事務員だって色々と忙しいんですよぉ」
「はいはい」
「っと、あったあった。はい、出門票です」
「どうも」
 受け取った真新しい紙と筆で、さらさらと自分の名前を記入する。と、その様子を横で見ていた小松田が、
「それにしても利吉さん、今日はやけにいいにおいがしますねぇ」
 と、ぽつりと呟く。思わず利吉は手を止めた。小松田の言うことはいつも突拍子がないが、今の発言はただの突拍子もない言葉として処理するわけにはいかない類の発言である。
「え? におい? 私におう?」
「はいー。なんだか女の人のようないいにおいがします。何のにおいだろ、何かの花?」
 くんくんと鼻をひくつかせる小松田は、まるで腹をすかせた犬のように利吉に近寄る。忍びとして普段から体臭のみならず香りものには気を付けている利吉だから、この粗忽ものの小松田にすら指摘されるようなにおいを纏っているとすればそれはそれで問題だった。においがいいとか悪いとかの問題ではない。そもそも何かしらのにおいを特徴として身に着けてしまうこと自体が忍びとしてあるまじき問題なのだ。
 利吉は暫し考え、やがてその原因に思い至った。
「ああ、そういえば。昨日の夜まで女装をして仕事をしていたから、もしかしたらそのにおいが残っているのかもしれないな」
「へえ、女装ですか」
「今回は結構長く女中として潜入していたから、どうしても身についてしまうんだよね。しかし、そうか。一か月もの間このにおいに慣れ親しんでいたせいか、どうにも自分のにおいに無自覚になっていたな」
 よくないことだ──利吉はひとり反省する。ただでさえにおいが付いているというのは忍びとしてあるまじきことなのに、よりにもよって女のようなにおいがするという。女装中でもないというのに女のようなにおいがするとあっては、無暗に目立って仕方がない。これは次の仕事の前に水浴びでもしておかねばならないな、とすでに次の仕事のことを念頭に置いて、利吉は抜け目なくこの後の予定を調整した。
 と、そこで利吉はふと気付く。
「ねえ小松田くん。においって、そんなにきつくにおう?」
 問われた小松田は、はて、と首を傾げた。
「まあ、そうですねぇ。わあ、いいにおいだなーと思うくらいには」
「君、鼻はいい?」
「普通だと思いますけど」
 小松田の対侵入者への嗅覚の鋭さは相当人間離れしたものがあるが、しかし基本的には彼の身体能力は凡人のそれである。たまごとはいえ忍者になるための教育を四年半も受けている名前と比べたとき、小松田が気が付くことに名前が気が付かないということは有り得るだろうか。小松田が気が付くほどのにおいということは、即ち名前も当然気が付いたと考えてもおかしくはないのではないだろうか。
 まして、名前は女子である。くノ一教室のような子女の学び舎に長年在籍しているのだから、女子のにおいには人一倍に敏感なはずだ。
 名前は利吉から女のにおいを嗅ぎ取ったのではないだろうか。
 悶々とする利吉の思考を邪魔するように、再び小松田が「そういえば」と発する。
「何だよ、小松田くん。まだ何かあるのかい」
「さっき苗字さんが、作業しながらの独り言で『お仕事なら仕方ないですよね』って言っていたんですけど、利吉さん何か心当たりはありますか?」
「あるよ!」
 心当たりがありすぎる。このタイミングで名前がそんなことを言いだすなど、理由はひとつしかなかった。十中八九、利吉が纏っていたにおいについてだ。それ以外には考えられない。
 利吉の背中につうと嫌な汗が伝った。
 小松田ならば「わあ、いいにおい」で済むところであっても、普通はそのにおいの元を考えるものではないだろうか。日夜忍びとしての教育を受けている名前ならば、ほぼ間違いなく考えるだろう。
 普段ならば徹底してにおいに気を付けている利吉が、女のようなにおいを纏わせている。利吉自身から発せられるにおいでないのなら、どこかで誰かにつけられたにおいであると考えるのは当然の思考の帰結である。
 ──しかし、いや、待て。たとえ名前がそんな意味深な独り言をこぼしたからといって、そして私が名前からあらぬ誤解を受けていると仮定したって。
 忍務の疲れも、この急場においてはそんなことを言っている場合ではない。利吉は必死で脳を回転させ、考える。
 「仕事なら仕方がない」という言葉から推察するに、名前は利吉の纏う香りについて「仕事によってついたもの」と分かっているはずだと思われる。逆に言えばそのくらいしか名前の考えていそうなことは分からないのだが、ともあれ仕事でやむを得ずついたという部分が今は最も大事であることには相違ない。
 それなのに利吉が余計なこと、言い訳めいたことを言ったりなどすれば、却って名前に怪しまれたりしないだろうか──利吉の胸には、そんな懸念が沸き上がる。
 もちろん利吉に疚しいところは一筋もなく、探られて痛む腹もありはしない。今回のことに関していえば利吉は完全に潔白だ。忍務に託(かこつ)けて女と関係を持ったわけでもない。ただただ、自分の女装のせいでついたにおいだ。
 しかし名前の方が触れてこなかった話題を、自分からわざわざ蒸し返すのはどうだろうか。そもそも名前の言っていたという通り、これは仕事の名残である。においのことに無頓着になっていたのは利吉の落ち度だが、だからといってそれで名前にどうこう言われる筋合いもない。気にかかることがあるとすれば、名前がこの女のにおいを誰かほかの女から、いかがわしい行為の際に付けられたものではないかと思うことくらいか。そこに関しては仮にそのような誤解を受けているとすれば訂正しないわけにもいくまい。
 困惑と疲労と焦りから、利吉の思考はあっちに寄ったりこっちに寄ったりと忙しなくふらつきながら収束してゆく。弁解をすべきという誠実さと、余計な事を言うべきではないというわが身可愛さが変わりばんこに顔を出しては利吉の思考をかき乱してゆく。
「あのう、利吉さん? どうされたんですか、そんな百面相をして」
 小松田が怪訝そうに尋ねるが、生憎と今は小松田にかまっている余裕はなかった。いくら利吉が売れっ子エリート忍者だからといったって、十八歳の男子であることには変わりない。十八歳男子は面前の恋路の雲行きが怪しくなってきたとき、無関係な事務員にかまっている余裕などないのだった。
 ──というか、名前が勘違いをしていたとして、誰にどうして付けられたにおいなのか、その辺りのことが気になったりしないのか……?
 名前の性格を思えば、恐らくそのような勘違いをしていると思って差支えないだろう。色恋にはとんと疎い娘だが、利吉に接するときの態度を見るに、まったくそういった方面に関する知識がないわけでもない。くノ一教室の五年生なのだから、仕事の中で男女の交わりが往々にして発生することだって理解しているはずである。
 だからこそ、利吉は納得がいかない。
 ──普通、自分の恋人からほかの女のにおいがしたりすれば、気になって事情を聞くものじゃないのか? そこを「仕事だから」と端から何も言わないというのは、あまりにも聞き分けが良すぎないか?
 もしも立場が逆であれば──すなわち名前からほかの男のにおいなどしようものなら、利吉は確実に事実を問いただすだろう。
 ただでさえ仕事が忙しくて思うように名前に会えない身である。少しでも疑わしいことがあれば、よからぬ展開になる前に問題の芽を摘んでおきたいというのが、利吉の男としての心情だ。今だって利吉は鉢屋や不破、尾浜、あるいはそれ以外の誰かから不埒な好意を持たれていないかと気が気でないのだ。名前を見るたびそれとなく全身を確認していることを、きっと名前は知らないだろう。知られるつもりも毛頭ない。
 しかしなかなか会えない身であるのは名前も同じこと。それなのに利吉から名前に対しての関心に比べ、名前から利吉への関心が極端に薄いような気がしてならない。
 ──仕事のことに首を突っ込んでほしくはないけど、だからといって女のにおいをかぎ取っておきながら何も言われないのは堪えるんだけど……。
 名前のことを追いかけるべきか、否か。誤解を受けたままにしておくのは本意ではないものの、自分ばかりが必死になっているのは何やら悔しいものがある。そもそも、繰り返しになるが利吉は何も後ろめたいことなどしていないのだ。仕事上のことですら、女と関係を持ったりはしていない。わざわざ却って疑われるかもしれないことが分かっていながら、名前のことを追いかけるのが果して正しいのか──エリート忍びらしからぬ躊躇いに頭を悩ませながら、利吉は事務室を出る。
 と、利吉が屋外に出たのとほとんど同時に、利吉に声を掛ける者があった。
「あっ、利吉さん」
 呼ばれた方に視線を向ければ、そこには瑠璃色の忍び装束を纏った少年、尾浜勘右衛門が機嫌よさげな顔をして立っていた。利吉が「ああ、尾浜くんか」と呟く。尾浜は一層にこにこと笑って利吉に近づくと、そうして利吉のすぐ目の前まで歩み寄り、
「おめでとうございます」
 とやにわに発した。その脈絡のない祝福の言葉に、利吉は困惑し、首を傾げる。
「えーっと……何がだい?」
「苗字とのことです。うまく纏まったと伺いました」
 にやにやと笑う尾浜に、利吉は「そのことか」と苦笑する。
 小松田が知っていた時点で名前とのことがある程度学園内に知れ渡っていることは利吉も覚悟していたが、やはりというか何というか、尾浜も名前と利吉とのことを知っていたらしい。
 とはいえ、尾浜と利吉はけして親しい間柄ではない。だからたとえ噂のことを知っていたとしても、わざわざこうして利吉に話しかけてきて、あまつさえその話題を振るとは利吉も思っていなかった。どうやら今年の五年生は利吉が思うよりずっと気さくで好奇心に満ちているらしい。
 ──いや、五年生というか尾浜くんが、なのかもしれないけど。
 そんなことを思いながら、利吉は、
「はは、君たちにまで話が届いているのか」
 と困ったように返す。
「またまた。利吉さんも苗字とのことを秘密裡にしようなんて思っていなかったんでしょう」
「まあ、はは……そうだね」
 利吉が思った以上に見透かされている。利吉は本気で苦笑した。
 尾浜の言う通り、実際には噂になったところで大して困ることもない。何せ仕事に忙しい利吉にとっては、この噂はけん制のつもりでもある。どうせ知られるのなら、いっそ大々的に知られればいいとすら思っている。そこに「自分から掠めとれるものならば掠めとってみろ」という気持ちがあったことは、否定できなかった。半人前の忍たまなんかに恋人を掠めとられるつもりもないが、それでもけん制はしておきたいのが利吉の心情である。
 もちろん利吉とて話をむやみやたらと広めようとは思っていない。わざわざ人に吹聴するような真似だってしていない。しかしこういうことは黙っていてもいずれは知られることだ。小松田にも言われた通り、ここは忍者の学校である。加えて利吉の知名度は高い。であれば、その噂は最大限有効活用した方がいいというのが利吉の考えだった。


prev - index - next
- ナノ -