実りゆく未知

 とある週末、名前は忍術学園からふた山離れた町に住む高名な書道家のもとに、学園長直々のお遣いでやってきていた。その書道家には学園長が、庵に飾る掛け軸を書いてくれるようかねがね依頼しており、この度それがようやく完成したとの連絡を受けたためである。
「それではたしかに、掛け軸頂戴いたしました」
 書道家の弟子という男から掛け軸を受け取り、名前は笠を被りなおす。秋もだんだんと深まってきたころではあるものの、日はまだ高く日暮れはまだ遠い。名前の足ならば日帰りで戻ってこられるだろうと送り出されてはいるのだが、存外に早く用件が片付いてしまった。
 ──といっても、預かりものの掛け軸を預かっている以上は寄り道もできないんだけど。
 仕方がないので今日のところはまっすぐ忍術学園に戻ることにする。ただでさえ新学期が始まってからというもの忙しく、名前はこれまでよりもアルバイトの頻度を減らしていた。余計な散財は今後の学園生活の命取りになりかねない。
 と、書道家の作業場である庵を出たところで。
「あ」「あら」
 今まさに庵に足を踏み入れようとしていたその人と顔を合わせ、思わず声をそろえた。
 そこにいたのは何と、つい先日絆を深め合ったばかりの恋人、利吉であった。

 ◆

「はあ、それでは利吉さんはマイタケ城の城主さまから、掛け軸を一筆書いてもらえるよう頼んで来てくれないかと、そういう依頼を受けていらっしゃるのですね」
 忍術学園への道を戻りつつ、名前は今利吉から聞いたばかりの説明を律儀に一から繰り返す。その隣を歩く利吉は「そういうこと」と鷹揚に頷いた。利吉が名前の隣を歩いているのは、次なる仕事先が忍術学園の方角にあるからだ。
「マイタケ城の城主が、私があの書道家の先生と知り合いだと聞いてわざわざ頼んできたんだよ。何せお忙しい先生だから、一国の城主であっても気に入らない相手には何も書かないともっぱらの噂で」
「それじゃあ今回は忍者の仕事というわけではないんですね」
「まあ、そういうことだ」
 利吉が苦笑する。つい最近の鳥探しに続き、ここのところは忍び本来の仕事以外の仕事を引き受けることも多い。何せフリーでやっていく以上はそうそう仕事を選んでもおれず、忍術学園で言うところの「悪い城」からの依頼をかたっぱしから退けてゆくと、後にはこうした何でも屋のような仕事しか残らない、というようなことも少なくないのだった。
 今回の場合はまだ利吉の持つコネを利用しようと言うのだから、それでも気持ちとしてはましな方である。これで「別に山田利吉に頼まなくてもいいんだけど」というような正真正銘の雑事を頼まれたときなど、依頼は依頼として受けつつも、やはりがっくりと来てしまう。
「私の仕事のことはともかく……。それにしても学園長先生は、限りなく個人的な用事にも平気で生徒を駆り出すんだな」
 名前が背に負う掛け軸をちらりと一瞥し、利吉は言う。
 名前たち忍術学園の生徒が何かにつけて学園長からお遣いを言い渡されていることは知っているし、上級生ともなれば外部からの護衛依頼などを割り振られることもある。しかしお遣いの場合はあくまでも学園の運営に関わることがほとんどなのだと利吉は思っていた。掛け軸を受け取ってくるなど、生徒の私物化もいいところである。
 ただ生徒をいいように使っているというのであれば、利吉も特に文句はない。しかし自分の恋人がこうしてちょくちょく便利に使われるとなれば話は別だった。憤慨して見せる利吉に、名前は苦笑する。
「まあ、あれでも学園長先生はあらゆる勢力からお命を狙われておりますから。そうそう迂闊に外出することもできませんよ」
「そういうことなの? その割には迂闊な行動も多いような。花見とか行くし、何かにつけて金楽寺の和尚に会いに行くし」
「ふふ、よくご存じで。ですが一見迂闊に見える行動もすべては深謀遠慮に基づくこと──というか、自分にそう言い聞かせていないと、何かにつけお使いを頼まれる身としてはやっていられないといいますか」
「なるほど」
「でも、私用度が高いほどお駄賃がちゃんとつくので、それはそれで構わないとも思っているんですけどね」
「名前らしいよ」
 忍たまの下級生をお使いに出す程度ならともかく、くノたまの、それも上級生をお遣いに出すというのはそれなりに高くつく。何せくノ一教室には山本シナ先生がついており、忙しい彼女たちを貸し出すには相応のお駄賃がなければ、と学園長にきつく言い含めてあるのだった。そのおかげで名前も、アルバイトを減らしていても学園生活がうまく回っているのだ。
 名前と利吉が世間話ともつかないような話をしながら歩いていると、すでに目の前に迫っていた山道から子どもが何人か、まろぶように飛び出してくる。名前たちが出たばかりの町の子なのだろう。何人かでかたまってはしゃぎながら通り過ぎていく様は、名前の目に何ともいえず可愛らしいものとして映る。
 ──そういえば姉さんのところ上の子は、あの子たちよりまだもう少し小さいくらいか。
 ふとそんなことを考えるともなく考え、それと同時に「姉のこと」と同じ脳内抽斗にしまい込んでいた自分の進路のことまで思い出してしまう。途端に名前の心の中に、もやもやとした感じの悪いものが広がった。
 ここのところは利吉とのあれやこれやで棚上げしていたが、名前の進路にまつわる悩み一式はけして消え去ったわけでも解決したわけでもない。むしろ卒業までの時間は刻一刻と目減りするばかりだ。猶予は今この瞬間にも着々と失われつつある。
 そんなことを考え、にわかに暗澹とした気分になっている名前を目に留め、利吉は首を傾げた。
「名前? どうかした?」
「……いえ、元気だなあと思って」
「ああ、子どもか」
「はい」
 ふっと微笑んで返す名前に、利吉は何か、名前が気にかけていることがあるのを察する。それが何か解き明かしてしまいたいという気がする半面、名前が話したがらないことを無理矢理聞き出すのは気が引けるような気もした。
 いくら何でも腹を割って話そうと決めたからと言って、それはあくまでも利吉と名前の間のことであり、利吉が踏み込むべきではない名前の個人的な領域というのは、それとは別に存在する。利吉にだって、名前に踏み込まれたくないことのひとつやふたつはある。
 ──ただ、名前は素直なようで案外頑固で強情だってことは、この間のことで身に染みて理解したからなあ……。
 どうせ直球で聞いてもはぐらかされるに違いない──そう考え、利吉はひとまず搦め手で攻めることにした。より深くまで踏み込むかどうかは、ひとまず攻めてから考えればいいことだ。
「名前は子どもが好きなの?」
 あくまで何気ないふうを装って尋ねる。利吉の思ったとおり、名前は利吉の質問をこれといって特別なものととらえた様子もなく、ぼんやりとした瞳のままで頷いた。
「そうですね。子守りのアルバイトも苦ではありませんし。あんまり考えたことはなかったのですけど、好きか嫌いかと言われれば、好きです」
「下級生の面倒もよく見ているしね」
「そうですね。まあ下級生のことは『子ども』というふうには見ていないんですけど」
「それもそうか」
「あの子たちは、一応は親元を離れる覚悟を決めてきていますから。わたしたち上級生も、あくまでそういうふうに接します。それでも、やっぱり子どもは好きですね。女子なら子ども好きの方が何かと都合がいいとも思いますし」
 その何処か遠くを見据えるようでいて、しかし妙に実感のこもった声を聞き、利吉は名前が自分の進路のことを考えているだろうことを察した。以前名前に進路相談をされたときにも、たしかこれと似たような話をしていた覚えが利吉にはある。どこの城に就職するかというよりも、もっと根本的な問題──忍びとなるか、人並みの道を選ぶか、そのことにこそ名前は悩んでいるようだった。
 結局利吉が進路相談を受けた日には答えは出なかったが、あれ以来名前が進路のことを利吉の前で口にしたことはない。ただ、名前の性格からして恋人である利吉に将来の展望を語らないとは思えないから、話をしないということは答えが出ていないということなのだろう。利吉はそう理解している。
 ──子どもに視線を奪われるということは、やはり人並みの幸せを諦めきれずに心を揺らしているということか。
 もちろん、くノ一としての経験を何年か積んだうえで、結婚して子どもを、ということだってありうる。現に利吉の母はそうした人生を歩んだ。しかしそれはくノ一として働きたい、活躍したいと利吉の母が望んだからに他ならない。
 ──もしも母上がくノ一の仕事をやりたいのか分からない、そんな状態で父上と出会っていたら、どうしただろうか、どんな選択をしたのだろうか。
 もっとも利吉の母はくノ一としても大変優秀だったという。そもそもそこからして名前とは事情が違うのだから、比べようにも単純に比べられるものでもないのかもしれないとは利吉も思う。
 いずれにせよ、人生をかけた問題であることには違いない。伝蔵との約束のこともある。利吉には安易な発言は許されておらず、また名前が今この状況で利吉からの言葉を求めているのかどうかも分からない。
 悩んだ末、利吉は今はその話題には結局触れないことにした。
 かわり気落ちした名前への励ましもかねて話題を逸らす。
「そういえば掛け軸って、どこに飾る掛け軸?」
 名前が背負った掛け軸の入った丸筒を顎でしゃくり、利吉は尋ねた。その問いはうまく名前の思考を進路のことから逸らしたらしい。
「学園長先生の庵ですよ」
 と、答えた名前の表情からは、先ほどまでのっぺりと張り付いていた憂いのようなものはほとんど消え去っていた。本来、名前は切り替えの早い人間である。
「あれ? でも庵にはすでに掛け軸がかかっていなかったっけ」
「はい。それを新しいものに取り替えるんだそうです。私は存じ上げなかったのですけど、今掛かっているものは三年前に同じ書道家の先生に書いていただいたもので、それをこの度新調するとか何とか」
 日当たりのいい学園長の庵には、特に夏のあいだには温かな日がよく入る。加えて忍術学園の中の騒動の舞台が学園長の庵になることも少なくなく、年中掛けっぱなしになっている掛け軸は、三年も経てば芸術品としての価値がすっかり落ちるほど傷んでしまう。
「でもあれって、私が知る限りずっと同じものがかかっていたと思うんだけど」
「書いてある文字は同じなんですけれど、二年か三年に一度新しく書き直していただいているそうですよ。『マイナーチェンジ』というやつですね」
 知ったように南蛮の言葉を使う名前に、利吉は呆れた目を向けた。名前は「貿易商の娘に教えてもらったのですよ」とはにかんだように笑った。

 田舎道を抜け、ようやく山道へと入る。忍術学園は深い山間にあるから、何処に行くにしても何処から帰るにしても、一度は山道を通らねばならない。元々山間部で育った名前はほかのくノたまよりも元々足腰が強く、また山の歩き方も十分心得ている。そのためか下級生の頃からお遣いに出されることも少なくなく、さらに人一倍の健脚に育った。
 山に入ると人気(ひとけ)はぱったりと絶える。聞こえるのは鳥が羽ばたく音、風が吹き抜け木々がかさかさと葉を揺らす音、そしてどこかで人ならざるものが身じろぎする音。そんなかすかな音の重なりに耳を傾けながら、ふたりは山道を進んだ。
 人の視線がなくなったことで、自然とふたりの間の距離も縮まる。何度か着物の袖が触れあい、やがてどちらからともなく指を絡めた。名前がきゅっと力を込めて握る利吉の手は、名前の力くらいではどうにもならないくらいにしっかりと固い。絡めた名前の指先が利吉の手の甲の真ん中あたりに触れるのが精一杯なのに対して、利吉の指先は名前の手首にほど近いところにしっかりと触れた。
 どきんと名前の心臓が跳ねる。手をつなぐことにももうだいぶ慣れてきたとはいえ、それはけしてどきどきしないことと同じではない。利吉に触れられるたびに毎度律儀に暴れる心臓をどうにか鎮めるため、名前はゆっくりと深い呼吸を繰り返した。その様子を見て利吉が小さく笑う。
 名前の心臓が通常の運動時並までようやく落ち着いた頃、名前がふと、
「利吉さんの手、わたし好きです」
 と、何の気なしに呟いた。指の先で利吉の肌の感触を確かめる。名前とは違う、くノ一教室のほかの女の子とはもっと違う、しっかりとした骨と皮。この大きくてがっしりとした指先が、忍務となると驚くほど繊細な仕事をするのだということを、くノたまの名前は知っていた。
 利吉の手を見遣り愛おし気に目を細める名前を、利吉は意外そうに見る。
「手?」
 利吉にしてみれば自分の手など見慣れた身体の一部分でしかない。名前が利吉を褒めるのは最早日常のようなものだが、とはいえ改めて手が好きだなどと言われると、どうにも不思議な感じがしてならない。
「手のどこが好きなの?」
「なんというか、男の人の手という感じがして。この手の持ち主の利吉さんがどうして女装ができるのか、不思議だなあとも思います」
「そりゃあ女装するときは極力細部まで女性に寄せるけど、大切なのは全体のバランスだからね。案外ひとつひとつの部位はそこまで重要ではなかったりするんだよ」
 利吉の講釈を聞き、名前はわざとらしいほどに神妙な顔で頷く。
「なるほど、勉強になります」
「女装のコツが勉強になるのかい? 名前はもとから女の子なのに」
「細部ではなく全体をそう見せるようにするというのは、女装に限らず何にでも応用のきく話かなと思って」
「たしかに、言われてみればそれもそうか」
 つないだ手を持ち上げ、名前はしげしげと利吉の手を見つめる。つい最近まで女装して潜入していたためか、かさついているとはいえ、利吉の手は爪の先まできれいに手入れされていた。全体のバランス、調和が大事といいながらも細部までのこだわりを貫いているところから、やはり利吉はプロの忍者なのだと改めて思わされる。全体を重視するということは、細部を軽視することと同じではない。
 歩きながら利吉の手をまじまじと見つめ「はあ……」と気の抜けた息を洩らす名前を、利吉は暫し黙って見つめていた。
 こうしてじっと利吉の手を矯めつ眇めつしている名前を見ているのは、それはそれで可愛いと思うし飽きもしない。今の利吉であればたとえ名前が水を飲んでいる様子を眺めるだけであったとしても、倦むこともなく延々眺めていられるに違いない。
 しかしここでただ名前を眺めているだけでは治まらないのが、利吉の悪戯心──というより加虐心であった。
「というか」
 つと切り出し、利吉は足を止めた。
「好きなのは、私の手だけなのか?」
 突然利吉が歩みを止めたこと、そして何よりその唐突な問いかけに、名前は「えっ」と困惑したように声を上げる。その反応があまりに予想した通りだったので、利吉は内心にやりと意地悪く笑った──もちろん、外見上には特に変わったところはない。あくまで平常時の利吉のまま、利吉は名前の握った手をぐいと引き寄せ、そのまま名前との距離をぐっと縮めた。
「手以外には好きなところはない?」
 たちまち名前の顔がぼっと燃えるように赤く染まった。利吉の悪戯めいた視線から逃れるように、名前はふいと視線を逸らす。それでも利吉に手を握られている以上、物理的な距離は依然として近いままだ。
「す、好きなところなんて、そりゃあ沢山ありますけども……。好きなところのうちのひとつが手というだけで……」
「ふうん。それじゃあ他には? 他にはどこが好きなの?」
「ど、どこって、そんなこと恥ずかしくて」
「恥ずかしいかな」
 白々しくとぼける利吉は、心底この状況を楽しんでいるようだった。視線をそらしていた名前が、堪らず利吉に険しい瞳を向ける。この手のことにはとんと疎い名前には、利吉の余裕ぶった態度の意味もまた自分に向けられた質問の意図も、何もかもが理解の範疇を超えていた。そもそもここは屋外である。いくら人通りがまったくないからといって、いつ誰が通るとも知れない道の真ん中でこっ恥ずかしい遣り取りをするなど、名前には信じられないことだった。
「だって、利吉さんはどうですか? 私のどこが好きですか? なんて聞かれたら恥ずかしくなりません?」
 とにかく早くこの話題を終わらせたい──その一心で言い返した名前だったが、しかしそれも利吉の策のうちである。
「いや? 私は平気だけど」
 待ってましたと言わんばかりに返した利吉に、名前は「えっ!」と驚きと絶望がない交ぜになった声を上げた。まさかこの遣り取りが恥ずかしくないなんて──共感を求めて放ったはずの渾身の一撃の反撃は、いとも容易く打ち砕かれてしまった。
 信じられないという面持ちで利吉を見つめる名前に、利吉はやはりにやりと笑う。しかしすぐにその笑みをひっこめると、いたって真面目な顔で言った。
「たとえば──そうだな、私も名前の手や指先が好きだよ。まめがあって皮も厚いけど、それだけ鍛錬を怠らないのだということがよく分かる、きれいな手をしてる」
 言うなり、利吉は先ほど引き寄せていた名前の手をそっと持ち上げると、名前の手の甲にうやうやしく口づけをする。たまらず名前は悲鳴を上げた。
「ひえっ!? り、利吉さん……!」
 しかし利吉は構うことなく、さらに続ける。
「他にもあるよ。きれいな形の額も好きだし、私が贈ったかんざしがよく映える艶のある髪も好きだ。普段は頭巾に隠れているけど、こうして私服を着ているときに見える耳の形も可愛い」
 そうして挙げていったところに、順番に口づけを落としてゆく。もはや名前は悲鳴を上げることもできず、ひたすらに身体を固くしてされるがままになっているしかなかった。利吉のくちびるが触れたところがどんどんと熱を持ち、それが瞬く間に全身に巡ってゆく。
「それから──」
「利吉さん、わ、分かりましたから……もう大丈夫です……!」
「あとは、そうだな。声も好きだし──」
 そこで利吉は一度言葉を切る。名前に向けられた視線には、いつの間にか熟れた熱が滲んでいた。利吉の薄く開いたくちびるから、静かな吐息が洩れる。
「いつも可愛く微笑んでいる、名前の口も好きだよ」
 利吉がわずかに腰を屈めた。あ、と思う間に、利吉の顔がゆっくりと名前の顔に近づく。
 ふたりの距離がみるみる埋まる。互いの、息を殺したささやかな吐息すら感じられてしまうような、そんな至近距離まで近づく。
 束の間、まばたきすら忘れる。
 握られた手は熱くかたく、胸の中では心臓が壊れてしまったように暴れていた。一瞬ごとに熱が高まる。利吉との距離が限りなく零に近づいて、いよいよ触れてしまおうとしたその瞬間──
「だ、だめです!」
 握られた手を振りほどき、名前が利吉の肩を押し返した。押し返された利吉は、ぽかんとした顔で名前を見つめる。今の今まで利吉の瞳に滲んでいた熱は去り、今はとにかく何が何だか分からないというような、そんな困惑の色を湛えていた。
 沈黙のとばりが下りる。拒否した側の名前も、拒否された側の利吉も、等しく気まずかった。そもそも利吉は、女に拒まれるという経験そのものが少ない。肌を重ねる前の戯れとして拒む素振りをされたことはあっても、本気で、しかもたかだか口吸いを拒まれたことなど、これまで一度だってなかった。それを唯一最愛の女にやられたのだ。気まずいし、相応の衝撃も受けていた。
 ──いや、今完全にそういう流れじゃなかったか……?
 思えば夏に故郷に帰省したときにも、利吉は一度口吸いをしようとして不発に終わっている。その時は突然の父親の登場でそれどころではなかったのだが、しかし今この場においては、そうした外的な邪魔な要因は一切なかったはずである。
 強いて言えば問題らしい問題はここが屋外だということくらいだが、それだって人の往来がないのだから、さしたる問題ではない。この場で合歓としけこもうというのならばまだしも、口吸いくらいならば屋外だろうと関係ないのではないだろうか──いずれ利吉にとっては関係ない。
 そんな利吉の苦悩を後目に、名前はまだ顔を赤くしたままおろおろしている。自分で拒んでおきながら事の次第をうまく把握できていない名前は、しかしそれでも多少落ち着きを取り戻すと、ひたすら恥じ入るような声で、
「人が、来るかもしれない、ので」
 と、今にも泣きそうにこぼした。それは名前の本心ではあったが、だからといって本音というわけでもない。少なくとも先ほど利吉を押しのけた時点の名前はそんなことを理性的に思考していたわけではなかった。あの時はただ、身体が勝手にそう動いてしまったのだ。
「……ふむ、なるほど」
 逡巡ののち、利吉がつぶやく。
 もちろん、名前の言葉を真に受けたわけではない。というより、今の名前の言い訳のような一言で、利吉の心は完全に固まった。
「つまり、名前は嫌なわけではないんだな」
「え……?」
「私との口吸い自体が嫌なわけではないんだろう?」
 微妙な心情の問題をはっきりと言葉にされてしまい、名前は困惑しながらも頷くよりほかにない。
「ま、まあ……というか何ぶん初めてのことなので、私にはいいも嫌もないと言いますか……」
「分かった、それならいい」
「あの……? いい、とは……?」
「何、こっちの話だよ」
 そう言って意味深に笑った利吉に冷や汗を流しつつ、名前はやはり「はあ」と曖昧に頷くしかなかった。


prev - index - next
- ナノ -