静か鏡の湖畔に現る獣

「わたしは、でも、その人の望みをかなえることが、きっとできないんです。わたしだってその人と一緒になりたい、その人の望みをかなえたい、けど……」
「……なにか事情があるんだな」
 弥次郎の言葉に、名前は浅く頷いた。
 利吉の願いを、名前は知っている。
 利吉から言葉にされたことはない。けれど、利吉が何を名前に望んでいるのか、そのことには薄々察しがついていた。
 利吉はきっと、名前には自分とは違う──忍びとは違う、ふつうの道を歩んでほしいと思っている。それはただ忙しさだとか身の危険だとかそういう問題によってだけ作られた望みなどではない。もっときっと深い部分で、利吉は名前に、血なまぐさい道を歩まないでほしいと願っているのだと言うことを、名前は本当は知っていた。
 忍務が続いた後に名前に会いに来る利吉は、いつも険しい顔をしている。野生の獣のように全身の肌をぴりぴりとさせ、常に周囲に警戒を払っている気配を漂わせている。
 そんな利吉が、逢瀬のあとには穏やかな顔をしているのを名前は知っていた。自分という存在が、利吉にとってどのような役割を果たしているのか──利吉が何を求めて名前をそばに置いてるのか、名前は朧気ながら察していた。
 けれど同時に、利吉がそれを名前に伝えたことはない。利吉はこれまで一言たりとも、名前に対して自分の望みを口にはしてこなかった。
 名前が幾度進路の相談をしても、一度だって利吉は「くノ一にならない方がいいよ」とは言わない。だから名前は、気が付かないふりをした。利吉の望みを、見て見ぬふりした。
 利吉に求めてほしいと思う一方で、利吉に我慢を強いている。利吉のことを尊重する一方で、自分の保身ばかりを考えている。その最たる証左が、利吉に何故抱いてくれないのかと問うたことだ。
 もしも利吉が名前を抱いていたら、きっと自分はくノ一になる道を絶っていただろうと分かっていながら、抱いてほしいと縋った。自分の意思決定のためだけに、利吉を利用しようとした。
 そして今は、松からの願いと利吉の望みの間に立ち、どうしていいのか分からなくなっている。
 誰の思いも無下にはしたくないのに、自分で誰かの願いを切り捨てなければならないこと、取捨選択しなければならない現実から目をそらそうとしている。
「わたしでは、その人を幸せにできない……でも、その人には幸せになってほしくて、それなのに、その人のそばにいたいと、そう、思ってしまうんです」
 ぽつりぽつりと、庇(ひさし)から雨粒が少しずつ垂れてくるような、そんな不規則で要領を得ない答えだった。名前自身、この話を誰かに話したことはない。自分の中ですらまとまらない剥き出しの感情を、たとえ誰かに話したところで分かってもらえるとは思っていなかった。分かってほしいとも思わなかった。
 それなのに、今名前は弥次郎にこうして感情を打ち明けている。今日限りの相手だと分かっているからなのか、それとも弥次郎の人柄ゆえなのか──いずれにせよ、名前ははじめて、自分の迷いを口にしていた。
 利吉にも松にも話したことがない言葉を、自分が騙した相手にぽつぽつと、不格好に投げかけていた。
 それから暫く、弥次郎は考えこむようにじっと黙っていた。
 彼が色恋のことに精通しているとは名前も思っていない。だから名前の心を瞬く間に軽くし、悩みなどたちどころに霧散させてしまうような解決策を提示してくれるなどということは、まったくもって期待していない。
 而して弥次郎は、ほんの束の間唸り声ともつかない声をあげると、こう言った。
「家のことか、それとももっとほかのことか、何がみつの望みを阻んでいるのかは分からないけど……。ひとまずはどうすべきか、何をすべきかことよりも、みつ自身がどうしたいかを考えてみればいいんじゃないのか」
「だけど、それは……」
「大体、こんな時代で自分の意思や希望がそのまますんなり通りことの方が稀なのだ。自分がどうしたいかを決めたところで、もっと大きなほかの事情──それこそ家のこととか仕事のこととか、天下の決まり事とか、とにかくそういう事情でそれが叶わないなんてことだって幾らでもある。しかしその希望が罷り通らないと言うのなら、その時はその状況で次にどうしたいか考えればいいだろう。ままならないことだって色々とあるけど、とりあえず自分はその状況で何をしたいかを明確にしておけば、いざというとき土壇場で腰が引けずに済むと、私は思う」
 はっきりと力強く言い切られ、名前はぽかんとした。
 自分の意思で決める。
 自分のしたいことをする。
 名前が当たり前にしてきたと思っていたことは、しかし弥次郎に言わせてみればまったくできていないも同然だった。
 たしかに弥次郎に語った言葉の中には、利吉の思いや松の願いは反映されていても、名前自身の意思はどこにもない。しいて言えば「利吉を幸せにしたい」「利吉の望むようにしたい」というのが名前の意思だが、それは厳密に言えば名前の意思、願いとはいえなかった。
 主のため、雇い主のために働くのが忍びという仕事である。そこに自分の意思を差しはさむ余地はなく、心を殺して命をなすことが正しいことなのだと、名前はもうずっと教えられてきた。
 けれど弥次郎は違う。武士の子として育てられた彼は、仕えることが従うばかりでないことを知っている。誰かのために生きることが、時として自分の意思をはっきりと主張することであることを、当然のごとく知っている。
 弥次郎の感覚は名前とも、あるいは利吉とも松とも違う。
「弥次郎さん──」
 ぽかんとしている名前の視線を受け、弥次郎はへらりと恥ずかしそうに笑った。
「なんてな」
 そうして、いつもの癖なのか、またしてもぽりぽりと頬をかく。先ほどの菓子の粉がついた指でかいたために、頬にも菓子の粉がつく。
「偉そうなことをぶったが、これは私の父の受け売りだ」
「弥次郎さまのお父上、ですか」
「うん。先代からの縁で殿に仕えていたんだが、数年前に戦で死んだ。私が小姓に召し上げられたのはそれからだ。母はもっと前に病で死んでいたからな。母は、殿の遠縁にあたるんだ」
 小姓とはいっても、弥次郎は実の息子のように殿──すなわちこの城の主から可愛がられている。城主には実子がおらず、ゆくゆくは弥次郎を養子にとるのではないかと囁かれるほどである。名前もまた、弥次郎が城主から十分以上に大切にされていることには気が付いていたが、まさかそういった事情があるとは思いもしなかった。身寄りのない弥次郎をただ不憫に思って小姓にしたと、その程度のことだろうと思っていた。
「そうでしたか。それで弥次郎さまは殿に御恩を感じていらっしゃるのですね」
 名前の言葉に、弥次郎は今度は堂々と、はにかむ様子などひとつもなく、凛として笑った。その笑顔は紛れもなく、武士の血をもつ精悍な笑顔だった。
「ああ、そうだ。だからこの御恩は必ず返さねばと思い、私は日々精進している」
「存じあげております」
「だからみつも、そうくよくよと思い悩むことはない。案外やりたいようにやる、と腹をくくれば、人間どうとでもなるものだぞ。私を見てみろ。今は小姓の身だがいずれは──」
 と、その時。
 弥次郎が言葉の途中で口を閉じ、やにわにすっくと立ち上がった。つられて名前も視線を弥次郎の立ち姿へと向ける。
 弥次郎はそのまま、一歩二歩と前に踏み出した。が、その足取りがおかしい。ふらふらと、まるで幽鬼のごとき歩みを見せたかと思えば、おもむろに名前の方を振り返る。
「や、弥次郎さん?」
「う、ぐ、が……っ」
 思わず口から悲鳴がもれそうになるのを、名前は何とかぐっと堪えた。
 目の前の弥次郎は、白目を剥き、喉を掻きむしるようにして必死の形相で藻掻いていた。
 やがて喉を掻く手が中空をうつろに掻いたかと思うと、泡を吹いてその場に倒れ伏した。名前が慌てて駆け寄り、脈をとる。
 弥次郎は絶命していた。
 名前ははっと息を呑み、しかしすぐ様弥次郎の骸から飛びのき距離をとった。弥次郎の今際は、とてもではないが尋常のものではなかった。妖怪変化のことは信じていない名前であっても、不可思議な死は恐ろしい。そして不可思議な死を遂げる以上は何らかの原因があり、その原因が分からないうちに無防備に骸に近づくことは、みすみす自分も死のうとするのと同じようなものだ。
 弥次郎から十分に距離をとり、名前は混乱する頭をどうにか鎮め考える。
 今際のあの苦しみようは、やはりどう考えても生半なことではない。しかしその直前まではいつもと変わらず話をしていたのだから、持病や何かがあったというわけでもないだろう。大体、あの苦しみ方はとてもではないが病によるものとは思えない。
 纏まらない頭で考えながら、ふと遠巻きに弥次郎の骸に視線を遣ったとき、名前ははっとした。
 まさか今さっき食べた南蛮の菓子に毒が混入していたのか。あの菓子を食べたから、弥次郎は事切れたのか。
 そのことに気付いたのとほとんど同時に、名前の視界が大きくぐらりと揺れた。
「う、あ」
 息が苦しく、視界がひずむ。たまらず蹲ると、胃の中からすっぱいものがこみ上げた。逆流したものをそのまま吐き出すと、先ほどの南蛮菓子の融けかけた欠片が、胃液の中にいくつかまざって吐き出される。地面に吐き出した胃液には、わずかに血も混ざっていた。この夜闇とひずむ視界では、それ以上のことは判然としない。
 ──なんで、誰が。
 その時、昼間の客の顔が名前の瞼の裏を掠めた。はっきりとは見えなかった大使の一行。それでも遠目ながらにどこかうさん臭い雰囲気があったのは、てっきり彼らが身に着けていたその南蛮の衣装ゆえかと思っていた。
 ──だけど、菓子は城内のみんなに配られたと言っていた。それなら、みんな毒を食らってしまったというの。
 それを最後に、名前の意識はぷっつりと途切れた。

 ◆

 重く鈍い瞼を開くと、名前の鼻をすっぱいにおいが刺激した。思わず顔をしかめれば、自分が吐き出した胃液に顔を伏せていることに気付き、慌てて名前は身体を起こす。しかし身体は思うように言うことをきかず、やっと上体を起こしたところで、再び倒れる前と同じように視界がぐらぐらと揺れた。平衡感覚が完全に死んでいるのか、上半身を地面に対し垂直に起こすことすら難儀する始末である。
 ──気を失ってからどれほど経ったんだろう。
 ふらつく頭で頭上を見上げるも、今日は薄曇りで月もうまく見えない。月の位置から時刻を割り出すことはできそうにもなかった。
 ──とにかく逃げなきゃ。ここにいてもどうにもならない。
 菓子に毒が仕込まれていた以上、敵が城外の者であることは間違いないだろう。加えて遅効性の毒を使ったとなれば、敵が後から仕事の成果を確認に来ないとも限らない。もしも名前がここで息をしているのが見つかれば、場合によってはそのまま殺されてしまう可能性もあった。
 懐に武器を仕込んでいるから、一応は戦うという選択肢もあるにはある。が、こんな状態の身体では相まみえたとて、碌に応戦できるとも思えない。
 ──まさかこんなことに巻き込まれるとは思わなかったけど、それでも、生きててよかった。
 生きてさえいれば、まだどうにかなる、希望はある──そう思いふらふらと立ち上がった瞬間、にわかに背後から闇を劈(つんざ)くような轟音が響いた。
 ──爆発音!?
 その刹那、名前の頭上から熱風と火の粉が舞い散る。
 咄嗟のことに背後を振り返り、名前は言葉を失くした。
 このひと月ちかく、名前が潜伏先として世話になりすっかり見慣れた城の建物が、轟々とうねる紅蓮の炎に巻かれて名前を見下ろしていた。
「うそ……」
 そんな言葉が、ひとりでに口からこぼれ落ちた。
 夜空にはすでに幾多もの黒煙が立ち上っている。本丸からも火の手が上がっており、城内のすべてを炎で飲み込まんとするかのごとく、火はその勢いを一瞬ごとに増していた。炎に煽られるようにして、名前は全身の血がぶわりと沸騰するような感覚を覚える。
 こんなことが、自然現象で起こりうるはずもない。毒を撒いた者たちの手によることであるのは疑いようもなかった。
 ──毒に火つけって、そこまでやるか。
 こんなものはもはや、正々堂々たる戦でも何でもなかった。蹂躙であり、殲滅だ。戦ではなく、一方的な侵略。冬の乾いた空気が、燃え盛る炎に加勢するよう吹きつける。
 ふと名前は気が付いた。
 火をつけられているというのに、城内は驚くほどに静かだった。ところどころから人の声はするものの、本来の城の規模とここで働く人の数を考えれば、もっと上へ下への大騒ぎとなっていてもおかしくない。それなのに、先ほどから声を上げているのはどうにも下働きの人間たちばかりだった。名前が世話になった女中たちの声も、このような状況でいち早く動くべき武士と思しきものたちの野太い声も、何ひとつ名前の耳まで届かない。
 ──火が回るより先に、ほとんどのものが毒を食らって命を落としているんだ。
 その事実が、また名前の心臓をぎゅうと握りつぶすようだった。だからこそ、城内すべてに配るようにと言われた菓子をもらい損ねるような下っ端の人間の声しか、今この場には人の声はない。
 ひずんだ視界が燃えるように熱くなる。敵からのひどい仕打ちに対して憤っているのではない。ただ、この状況において無力な自分が悔しかった。
 今の名前にできることなど何もない。ここまで情もなく、そして徹底した攻撃を仕掛けてきた相手に対して名前ができることなど、最早何ひとつなかった。一刻も早くこの場を去ることだけが、今の名前にできる唯一最善の策である。
 一歩踏み出し、しかしすぐにふらつき倒れた。
 足に力が入らない。視界も悪い。皮肉にも炎が派手に上がっているせいで、夜であってもいくらか視界は明るいが、そもそも毒の薬効下にある今の名前では視界の広さが普段よりも格段に狭かった。足元を見れば目の前が見られないような、そんな視野しかない。その上視界はぼやけて精度も悪い。焦る気持ちが、もつれる足をさらに重くする。
 仕方がないので起き上がることは諦めて、這うようにして進むことにした。身体を低く屈めたままで何とか身体を動かそうとして、暫し進んだ先で指先がなにか冷たいものに触れた。
 それは弥次郎の死体だった。
「ごめん、なさい」
 呻くように口にして、名前はまた先を進む。
 助けてはやれない。弥次郎を連れて、一緒に逃げてやることはできない。
 弥次郎の骸は、ここに置いていくしかない。
 ぐっと唇を噛んで、名前は弥次郎の骸から視線をそらした。
 ──こんなところで、こんなところで死ぬわけにはいかない。
 四つん這いになって、文字通り這う這うの体で進んでゆく。幸いだったのは、名前が倒れていたのが比較的城門に近い場所だったことだ。これで最も火の周りが激しい本丸のあたりにでもいようものなら、きっと目を覚ますより際に火に巻かれて死んでいただろう。それだけでも運が良かった。
 暫くすると、だんだんと身体の感覚も戻ってきた。四つん這いから立ち上がり、ゆっくりと城門へと向かう。この城は周囲を山に囲まれた山城だ。だから外に出てしまいさえすれば、たとえ敵が待ち伏せていたとしても、まだしもやり過ごしようもあった。山での戦いならば名前にも心得がある。
 ──あとちょっと、あとちょっとで城門……!
 途中数多もの骸の横を通り過ぎながら、名前は念じるように足を進める。骸は皆一様に苦悶の表情を浮かべており、城内はさながら地獄の様相を呈している。
 ──あとちょっと、あとちょっとで、城門……っ!
 ようやく城の最も外側に造られた三の丸まで到着したとき、再び近くで大きな爆発音がした。直後、近くに積んであった薪に火が燃え移ったのだろう、燃えた木材が名前の上に雪崩落ちる。
「ぐ……っ!」
 頭を守るために咄嗟に身体を丸めて地に伏すと、すぐに背中に重い衝撃があった。背中が焼けるように熱い。今にも悲鳴を上げそうになるのを、何とか口の内側を噛んで堪える。
 もはや全身が満身創痍の状態に近かった。それでも、何とか身体は動く。これ以上体力を消費しないよう必死で叫びだしそうになるのを押し殺し、材木の隙間を縫うようにして名前は這いだす。炎の燃え移った着物は、すぐさまその場で脱ぎ捨てた。
 とはいえ、何も身を守るものがないのではあまりにも危険過ぎる。羞恥心はこの際さておくにしても、常に火の粉飛んでくるような状況でみすみす素肌を晒すわけにもいかない。
 ──本当はこんなことはしたくない、けど……。
 すぐそばに下働きの男の骸が倒れているのを見つけると、名前は重い足取りでゆっくりと近づいた。それから簡単に手を合わせ、骸の着ていた襤褸(ぼろ)を剥ぎ、頭から羽織る。先ほど火が燃え移ったときに背中に火傷でも負ったのか、襤褸がこすれるたびに素肌の背中が焼けるように痛んだが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
 ──あとちょっとで城門、あとちょっとで城門……!
 しかしそこが名前の限界だった。朦朧とする意識と、どんどんとひずんでいく視界に耐え切れず、名前はその場に崩れ落ちる。ひと度崩れてしまえばもう、再び起き上がるほどの力は身体の何処にも残っていない。
 ──あとちょっとで、城門……。
 襤褸を掴んだ手から力が抜けた。
「名前! 名前!」
 遠くで、誰かが名前を呼んでいるような、そんな気がした。聞き覚えのある声が、必死で名前の名前を呼んでいる。
 ──利吉さん?
 薄れゆく意識の中で思ったのは、最愛の恋人の顔だった。
 ──はじめて晒す素肌がこんな場所になるなんて。
 そんな場違いなことを思ったきり、再び名前の意識は潰えた。

 ◆

 次に名前が目を覚ますと、そこは森閑とした山の中だった。ぞくりと全身の肌が鳥肌を立てる。指先が氷のように冷たく、そこに感覚は感じられなかった。土の上にうつ伏せに寝かされていることだけは分かるものの、それ以外のことは何ひとつ分からない。視覚もまだ完全には戻っておらず、靄がかかったように暗闇の輪郭が曖昧になって見える。
 ゆっくりと首を動かそうと身体に力を入れたとき、
「名前っ! 目を覚ましたか!」
 ふいに聞きなれたしゃがれ声が名前の耳に飛び込んだ。暗闇の中で自分のそばに寄った人物は、名前の目が開いていることを確認するとほっとしたように息をつく。その一連の動作と声で、名前はその人物が誰かを理解した。
「……山田、先生」
 どうやら気を失った自分をここまで連れてきたのは忍術学園教師の山田伝蔵であるらしい。どうして伝蔵がここにいるのか。どうして忍術学園の教師が、忍術学園から数里離れたこの山城で起きた事件を察することができたのか──そのことを考えようとして、名前ははっとした。
「先生! 城内にはまだ、まだ人が──」
 思わず叫んで、しかしすぐに激しい喉の痛みにむせた。名前は自分の身体が満身創痍であることを失念していた。大規模な火災の中を逃げ伸びてきたのだから、当然喉もやられている。全身くまなく負傷しており、傷ついていないところなど何処もありはしないような有様だった。
 うつ伏せで蹲ったまま激しく咽る名前に、伝蔵がそっと水を差し出す。水筒からは飲めないので、伝蔵の掌に注いだ水を少量ずつ、激しい痛みに耐えながら何とか喉に流し込んだ。
「城内のことはさっき確認してきた」
 名前に水をやりながら、伝蔵が低く答える。
「城内のほとんどが毒を盛られるか、そうでなければ腹を裂かれて死んでおる。その上あの火だ。もう助かる見込みのある者は残っておるまい」
 その時、名前と伝蔵の目の前で、本丸の御殿が崩れた。火の粉と黒煙をあげながら断末魔のような轟音を立てた御殿は、あっという間に炎の中に崩れ飲み込まれていく。その様を目の当たりにし、名前は言葉を失った。
 下働きの女中ながらも、忍術学園から派遣された生徒ということで多少の便宜を図ってもらっていた名前は、恐れ多くも新米の身分で本丸御殿の中にも足を踏み入れた。その御殿が、今まさに燃え尽きた。名前の目の前で、その形を失った。そこで働いた人間とともに、完全に炎の中に潰えた。
 蹲ったままの名前の肩に、伝蔵がそっと手を遣った。
 いつのまにか、名前は震えていた。がたがたと全身が震え、歯がしきりにかちかち音を立てる。その震えが恐怖によるものなのか寒さによるものなのか、いっそほかの何かによるものなのか、それは名前本人にすら分からなかった。肩からひっかけていたはずの襤褸はなく、かわりに伝蔵が掛けてくれたのだろう清潔そうな羽織がかかっている。
 やがて、伝蔵が言った。
「お前のその怪我では忍術学園まで持つまい。先ほど同行の伊作に信号を送った、じきに到着するからそれまでここでじっとしていなさい」
「……はい」
 返す名前の声はか細い。ゆるりと目を閉じると、伝蔵が数度頭を撫でた。
 ──ごめんなさい。
 心に浮かんだ言葉が誰にあてたものなのかを考えるより先に、名前は微睡の中へと落ちていった。


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