静謐は緑青(2)

 初夏のまばゆい陽光は、日の傾きに伴っていくらか淡いものに変わっていた。穏やかな天気も相まって、名前と利吉の間には、すっかり長閑なお茶会のような雰囲気が流れている。いつになくゆるんだ利吉の心に追い打ちをかけるように、これまたゆるんだ名前の声が、
「それにしても今日はいいお天気ですねえ」
 などと暢気なことを話しかけた。先ほどまでのくノたまとしての言葉と比べると、今は声に含まれる芯のようなものがすっかり抜けている。先日再会したときと同じような、聞くものの心の棘を抜くのではなく溶かすような、何ともゆったりとしたトーンである。
「くノ一教室の備品もあれこれ洗濯してから出てきたけど、このお天気だったら戻った頃にはからっと乾いていそうです」
「たしかに洗濯日和だ」
 生まれてこの方、晴天を仰いで「洗濯日和だ」などと思ったこともない利吉だが、何故だか自然とそんな言葉が口をついて出た。名前の暢気さが、すっかり利吉にもうつってしまっている。しかし当の利吉はこの穏やかな空気にあてられ、そんなことには微塵も気が付かないでいた。風が利吉と名前の髪を、そっと揺らす。
「なんだか空気が夏に近づいてきましたねえ」
「そうだな、ちょっと重くなってきたというか」
「今年はたけのこの頃に帰れなかったから、たけのこご飯も食べそびれてしまいました」
「たけのこ? 春休みは帰らなかったのか」
「帰りましたけど、あっちはほら、たけのこって六月すぎだから」
「そういえばそうだったっけ」
 そう返事はするものの、利吉には覚えのないことだった。たけのこの旬など、四季の移ろいを気にかけている暇もないほどに忙しい利吉には日ごろ無縁のことである。しかし名前はそれこそが最も重要なことであるかのように話すので、つられて利吉も、そう言われてみれば実家のたけのこご飯は毎年夏前だったような、などとぼんやり考えた。
 名前が言っている氷ノ山で採れるたけのこというのは、チシマザサの若芽のことを指す。スズコと呼ばれる初夏の味覚でつくるたけのこご飯は、利吉の母の得意料理のひとつでもあった。
「あれはなかなか平野で食べられるものじゃないから。食べそびれたの悔しいなあ」
 顔を顰めて心底口惜しそうに言う名前に、利吉は思わず吹き出す。なにも今年食べられなければ未来永劫食べられないというものでもない。来年だって再来年だって、スズコを食べる機会くらいどれだけでもあるだろう。
 そもそも、若い娘がたけのこご飯ごときにそこまで執着するのが、利吉の目にはもうおかしく見える。黙っていても女が寄ってくるような風貌を持つ利吉だが、しかし彼の周りにはこれまでこういう娘はいなかった。少なくとも、利吉の前でいじいじと何時までもたけのこご飯の話をし続けるような娘には、ひとりも思い当たる者はいない。
「君は食い意地が張っているな」
 思ったことをそのまま口にすると、名前はむっと口を尖らせて、
「別に、そういうわけじゃないですけどぉ」
 と、ようやく恥ずかしそうに視線を伏せた。
 それからすぐ話題を変えるように、
「氷ノ山は今頃ちょうど過ごしやすい時期ですねえ」
 としみじみ言う。つい先日帰省したばかりの利吉は、これにはたしかな実感を伴わせて頷いた。
 故郷の山暮らしと今の平野暮らしではどちらがより快適かなど、今更比べるべくもない。しかし単に今現在の気候の過ごしやすさを比較するのであれば、氷ノ山に軍配が上がるのは当然のことだった。本格的な夏を目前にして、すでにこのところは蒸し暑い日が続いている。日中はそれでも過ごせるのだが、夜の寝苦しさは日に日に増していた。
「言ってる間に学園も夏休みだ。すぐに帰れるさ」
「そうですねえ、何かお土産でも買って帰らないと」
 利吉の慰めともつかない言葉に、名前がふんわりと笑う。けれどその笑みの中に、どこか頑なさに似た感情が潜んでいることに、目敏い利吉は気付いていた。いや、目敏さではなく機微を察する嗅覚がすぐれていると言うべきか。
 利吉だから気が付けたその微細な感情のぶれ、揺らぎ。名前の表情の中にほんの片鱗を見せたその感情の揺らぎに、利吉が何故気が付くことができたのかといえば、答えは至極簡単なことである。
 その感情の揺らぎは、利吉が自らの胸の中に抱いているのと似たような、そんなにおいを発する揺らぎだったからに他ならない。
 利吉はけして自分の生まれ育った場所が嫌いではない。氷ノ山、それも山の頂近くにさながら要塞のように建てられた堅牢な生家は、幼い利吉が忍びとは何たるかを理解するのには実に手っ取り早い装置だった。そんな生家と寒さが厳しく娯楽の少ない土地ではあったものの、人里離れた場所でのびのびすくすくと育った経験。それらは忍びとしての利吉の現在の活躍に少なからず寄与している。
 もちろん幼いころから町での生活に憧れはあったし、今でも田舎育ちが引け目のようになって時々顔を出すことはある。しかし、それはそれである。なにも田舎が嫌いだからといってその土地と、そこで紡がれる営みそのものを厭うわけではなかった。山のにおいも、生家へと続くなだらかな山道の感覚も、利吉はけして嫌いではない。
 しかし同時に、利吉はそれが良好な家族関係があってこその「良き思い出」となっていることも知っていた。過酷ともいえる環境において、あたたかな家族がいることは慰めだった。頼る相手、帰るべきふところがあることは、何よりもの支えであった。それがなければ、過酷なだけの環境などどうして愛することができようか。
 そんな利吉自身の思考が、彼の中の何かを突き動かした。
「名前は実家が好きではないのか」
 自らの意思とは無関係に、そんな言葉が利吉の口をついて出た。
 口にしてからしまったと思うが、発してしまった言葉は戻らない。気付けば名前が、きょとんとした顔で利吉のことを見ていた。
「あ、いや、別に──」
 慌てて利吉が取り繕おうとする。さして親しくない間柄にもかかわらず不躾に家族関係のことを質すなど、非常識にもほどがあった。大体、聞いたところでどうなるわけでもない。他人の利吉には名前の家の事情などどうだっていいことだし、仮に肯定されたところで名前に掛けてやれるような言葉を持つわけでもない。
 しかし名前はそんな利吉の内心の狼狽を気にも留めず、名前は小さく小首を傾げた。
「別にわたし、家族との折り合いが悪いわけではないですよ?」
「え? ……ああ、そう」
 あまりにもあっけらかんと言われてしまい、利吉は何故だかひどく脱力した。もしや触れてはいけない話題に触れてしまったのではないかと、一瞬でもひやひやした気持ちが途端に馬鹿らしく思えてくる。
 ──なんだ、気を遣って損をした。
 自分から切り出したにもかかわらず、そんな勝手なことすら思う始末であった。
 しかしもちろんその思考もまた、名前には伝わらない。名前は相変わらずさっぱりとした顔で利吉を見ていた。利吉がどうして家族関係の話を持ち出したのかなどまったく理解していないような、何ともお気楽な表情である。
「あ、もしかして、わたしがアルバイトをしているからそう思われたのですか? でもわたしがこうしてアルバイトをしているのも、学費をまるっと稼ぐためではないですし。学費はちゃんと親が出してくれています。まあ、学費以外は出してくれないので、食券買ったりお小遣い稼ぐためにアルバイトをしているんですけれど」
 ──そういうことを聞きたかったのではないけど。
 名前の言葉に、利吉は胸中でそっと溜息をつく。どちらかといえば金銭的な問題よりも、心理的な壁があるのかとか、そういう想像を描いての言葉だった。利吉が秘境育ちをコンプレックスに思うように、名前もまた生家に何らかの負い目のようなものを感じているのでは、生家に対して何か言いようのない感情を抱えているのではないか──そんな思いからこぼれた言葉だった。
 しかし別に、名前が話したいわけでないのならば無理に聞き出すつもりもない。それに、名前の苦学生ぶりについてという今日最初に抱いた疑問は、図らずもこれにて解消された。
 話がちょうど一段落したところで、
「さて、そろそろわたしはアルバイトに戻ります」
 と名前が腰を浮かせる。ふたりの間に置かれた皿と茶碗をてきぱき重ねるのを、利吉は懐からを銭袋を取り出しながら眺めた。
「それじゃあ、私も行くよ。これ、お代ね」
 そう言って床几台に置かれた金額を見て、名前が訝し気に眉を寄せる。
「あれ、利吉さんが頼まれたのってお茶とお団子二本でしたよね? ちょっとこれじゃあ多いですよ」
「お釣りの分で君のお団子代くらいにはなるだろう」
 さらりと告げられた言葉に、名前が「え」と短く発した。そのリアクションは予想済みだったので、利吉は構わず続ける。
「休憩に入る前、旦那さんがお茶くらい出してあげるって言ってたから。さしずめ今食べていた団子は、君が自分でお代を出しているんだろ? お茶に付き合ってもらったお礼に、ここは私が奢ってあげるよ」
「えっ、い、いえ、いいですよ。わたしだってこうしてバイトをしている身なんですから、利吉さんに奢っていただかなくても大丈夫です。自分の食べる分くらい自分で出せます」
 この反応もまた、利吉はすでに予想していた。すかさず、
「くノ一教室ではこういう時、素直に男を立てるべしと習わなかった?」
 と笑って問えば、
「うっ」
 返答に窮して、名前は言葉を詰まらせた。たしかに名前は山本シナ先生から、こういうときはあくまでスマートに甘えるのも女の手管のひとつと教わっている。意図せず借りをつくることと意図的に甘えや隙を見せることでは、くノ一にとっては意味合いがまるで違う。今回の場合、名前は意図したわけではないとはいえ、利吉がそうすべしと言っている以上は「そうと分かって隙や甘えを見せること」と言えなくもなかった。
 しかしそうはいっても、相手は利吉である。くノ一として学んだ技術を忍務の標的に対して行うのと、そうではない知り合いの利吉に対して実践するのでは、自分自身に感じる抵抗感がまるで違う。
 眉間に深く皺を刻んで、名前は顔をしわくちゃにして悩んでいる。あまりにも深刻そうに悩む名前を見かねて、
「大丈夫、このお礼は今度またお茶に付き合ってもらうのでチャラにしてもらうからさ」
 と、利吉が助け舟のような駄目押しをした。
 止めにここまで言われては、もはや名前に返す言葉はない。女慣れしている利吉の方が一枚も二枚も上手であることは覆しがたい事実であり、名前はただその提案に乗るしかなかった。
「うっ、うう……」
「まだ何か?」
「……ありがとうございます」
 やっとのことでそう絞り出した。声には明らかに「苦渋の決断」という色が滲んでいる。名前がたかだか団子一本をご馳走になることを如何に渋っているかが見て取れ、利吉は苦笑した。
「お礼を言うならもっと嬉しそうな顔をしなよ」
「すみません、殿方に奢られることに慣れておらず。くノ一教室でも殿方に無暗に借りを作るべからずと」
「殿方って。借りって」
 純然たる好意を「借り」とされては利吉としても奢ってやり甲斐がないことこの上ない。しかしここが名前にとっての譲歩ラインのようだから、仕方がないが今日のところは「借り」にしておくことにした。
「この御恩は必ずやお返しします。そうだ、今度はわたしがお茶の席を用意するので、是非……!」
「楽しみにしておくよ」
 ついには「借り」が「御恩」にまでなってしまった。貸しを作ったつもりも恩を売ったつもりもないが、それで名前の気が済むならば仕方がない。これはくノたま云々というものではなく、単純に名前の性格の問題なのだろう。ならばそれ以上は言うだけ余計なお世話である。
 ぺこぺこと頭を下げる名前に手を振って、利吉はふたたび件の屋敷へと歩き出した。歩きながら、頭を切り替え──急速に前進を忍務中の緊張状態へとシフトしていった。

 名前からドクタケが絡んでいるという情報を得た以上、何はなくともその裏付けをとることが必要である。仮に忍術学園の介入でドクタケが撤退としたとしても、ひとまずドクタケがそこにいたという証拠が欲しいところだった。そうでなければ仕事の報告をするにも信ぴょう性がない。
 そんなことを考えながら屋敷の辺りをうろついていると、ふと数人の男が利吉の進行方向の先、道のわきにしゃがみこんでいるのが目に入った。出で立ちからして、行商人だろう。商品が入っているはずの行李は壊れ、そこら中に木っ端が転がっている。
 ──賊にでも襲われたか。
 状況から、そう判断した。恐らくだが件の屋敷に出入りしている者とは別件であり、利吉には無関係の事件だろう。とはいえ、道に座り込んだ彼らはけして軽傷というわけでもなさそうだった。利吉はそっと顔を顰める。
 この場の状況からして、彼らが襲われてからそう時間は経っていないようだったが、利吉と名前が先ほどまで談笑していた団子屋まで、大きな物音が聞こえたり騒動が届くようなこともなかった。もしもそんな物音が聞こえていれば、何かあったのかと利吉も名前も駆け付けていたはずだ。悄然として傷をおさえる男たちを、利吉はそっと一瞥する。
 山が近いこのあたりでは、武装した山賊くずれの輩が旅のものを襲うこともけして珍しくはない。四人がかりの行商人を襲うというのは珍しいが、だからといってそういうことがまったくないわけでもないだろう。行商人たちの身なりからして、そこそこに貴重な品を運んでいたことが窺える。もしかしたら町からずっと尾けられていたということも、可能性としては十分に考えられた。
 ──災難なことだが、私には関係のないことだ。
 そう思い、利吉は頭の笠を目深にかぶりなおした。歩幅をわずかに速め、絶えず足を動かし続ける。
 利吉は忍びである。通りすがりの哀れな人間に掛けるような優しさは持ち合わせず、むしろ助けた相手に顔や声を覚えられることの方が余程恐ろしい。必要以上に他人と関わることは、フリーの忍びを続けていくにあたっては極力避けねばならないことだった。
 損得で考えるまでもない。理は歴然としている。関わることは百害あって一利なし。知らぬ存ぜぬを貫き通すことこそ、忍びとしてとるべき行動──
 いつもの利吉ならば、きっとそのように考えたに違いない。路傍の彼らと視線も合わせず、彼らをなきものとして扱ったに相違ない。忍びとしての在り様を遵守して、目の前の親切など顧みなかったに違いない。
 それなのに今日は、どうにもそういう気分にはなれなかった。
 一度は速めた歩調をゆるめ、やがてぴたりと歩みを止める。自分でもそんなつもりはなかったのに、気が付けば足を止め、どころか踵を返すと行商人たちの方を向いていた。
 利吉の視線に気が付いたのか、ひとりが静かに視線を上げ、利吉を見る──彼らの目と利吉の目が合う。
 ごくりと喉を鳴らすと、路傍で悄然とする彼らに利吉は近づいた。一度は通り過ぎたにもかかわらず戻ってきた利吉に、行商人の一向は驚き、そして怯えた目を向ける。しかし彼らの怯懦な目を利吉は一顧だにせず、その場にしゃがみ、荷物の中から手早く持ち合わせの薬草を取り出した。
「申し訳ないですが、この程度しか今はお助けできそうな持ち合わせがありません。誰か、清潔な布をお持ちではありませんか」
 利吉の問いに応じて、男たちのうちのひとりが慌てて風呂敷を取り出した。元々は中に品物が入っていたのだろうが、その中身も奪われてしまったのだろう。今はただの布だけが残っている。それを利吉は持ち主に一言断ってから裂き、即席で簡単な包帯をつくった。
 四人の中でももっとも傷が深そうな者の方に身体を向けると、その者の傷に手を伸ばす。傷は足にあった。恐らく彼らが追ってこないようにと賊にやられたのだろう。応急処置を手早く済ませると、利吉はふたたび立ち上がった。
「あ、ありがとうございます!」
 足を怪我した者が、震える声で叫ぶ。
「よろしければお名前など──」
 しかし利吉は名乗ることもせず、礼を受けることもしなかった。もともとそんなことを目的に助けたわけではない。しかし、では何を目的にと問われれば、利吉は適切な返事など持ち合わせていなかった。そうしたかったから、そうした。ただそれだけである。
 背後に男たちの感謝の声を聞きながら、何だかむずむずとした気分で利吉は足早にその場を立ち去った。その態度はまるで、利吉こそが悪事を働いたもののようですらある。
 ──まったく、私らしくもないことをしてしまった。
 見も知らぬ相手に手を差し伸べることなど、利吉の生活の中にはそうそうあることではない。まして忍びとして活動を始めてからは、滅多なことでは損得勘定抜きに人を救うことはなかった。こちらを立てればあちらが立たず、誰かを助ければ誰かが損を被る。世の中はそうやって回っている。本来の仕事とは無縁のところで誰かに恩を着せたり、あるいは恨みを買うなど御免だった。
 忍術学園の生徒であれば知らない相手ではない。忍術学園と良好な関係を気付き、あるいは今後の仕事を受注してもらうためにも時々は無償で手助けをしたりもする。しかし先ほどの行商人たちのことは、利吉には本来何の関係もないことだった。名前すら知らず、彼らがどこからきて、どこへ向かうのかも知らない。利吉は彼らのことを何一つ知らず、ただ彼らは利吉の進行方向にいた、それだけだった。
 ──慣れないことはするもんじゃないな。胸の奥がどうにももぞもぞとする。
 自分がどうしてあんなことをしたのか、利吉には自分でも分からない。ただ、何となく名前と言葉を交わしたあとの凪いだ心が、利吉にそうさせたのだ。胸に残った何かに突き動かされるように、利吉は行動した。
 ──不思議なこともあるものだ。
 ただ、そう思いながらもけして悪い気はしていないということに、利吉本人は気付いていなかった。


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