たとえるなら単なる群

 当然ながら、弥次郎のこの「頼み」は名前の仕込みの賜物である。数日前、弥次郎が洗って干しておいた城主の愛犬の前掛けを見かけた名前は、干してあった前掛けをわざと引っ掻け、大きなほつれを作っておいたのだ。
 手ずから針仕事で修繕するすべを持たず、かといって城主が目に入れても痛くないほどの可愛がりぶりの犬の高級な前掛けを破損したとあれば、弥次郎が叱責されるのは間違いない。ゆえに秘密裡に頼み事をしやすく、また繕い物が得意であると豪語していた名前のもとへ弥次郎が前掛けを持ち込むのはいたって自然なことであり、すべては名前の計画の通りだった。
 ──まあ、まさかお犬様の前掛けがあんなに堂々と陰干しされているとは思いもしなかったけど。
 そうと知っていれば、わざわざこんな面倒な策を考えずとも、何かもう少し簡単な策があっただろう。それにそんなにも無防備に干されていると山本シナ先生が知っていれば、そもそも実習の課題からしてもっと難易度の高いものに変更されていたかもしれない。
 ともあれ、前掛けである。
 無事に名前の計画通りに頼み事を持ち込んだ弥次郎から前掛けを預かり、名前はほくほくとした面持ちで女中部屋へと戻った。
 ──あとは偽物を弥次郎さまにお渡しすれば、これで課題は完了だわ。
 難なく忍術学園に帰れそうなことにほっとしながら、名前は女中部屋の貴重品の中に隠していた、用意しておいた偽物を取り出し思わず微笑む。
 もちろん、わざわざほつれさせるなどと手間の掛かることをしなくても、その場でさっさと奪ってしまうこともできた。これが実習ではなく実際の忍務であったのなら、名前も躊躇わずそうしただろう。
 しかし此度は実習である。かりにそんなことをすれば、弥次郎はきっと前掛けを紛失したことで困り果てるに違いない。何せ前掛けの端がほつれているというだけで、弥次郎はこれほど狼狽しているのだ。紛失などしようものなら、それこそ責任をとって腹を切りかねないのが弥次郎という少年の不器用な実直さだった。
 いくら城主が事情を知っているとはいえ、弥次郎はその事情を城主が知っているということを知らないのだ。紛失すれば咎められると考えるのが道理である。
 ──巻き込まれただけの弥次郎さまが、わたしのせいで気に病むようなことにはしたくないしね。
 これは弥次郎の人となりを知ってから一層強く思うようになったことだが、しかしながら弥次郎を突破口に前掛けを手に入れるという策を練った時点から、偽物とのすり替えについては考えていた。
 その証拠に、名前は実習の初日から、目当ての前掛けと似たような品をひそかに制作していた。
 幸い、お犬様を目にする機会はいくらでもあり、前掛けの実物を目にすることも可能であった。もちろんお犬様の前掛けは上等なものだから、名前が代わりに用意するといってもまったく同じものというわけにはいかない。しかしそこは名前もくノ一である。暇を見つけては城内を探し回り、どうにか前掛けの偽物をつくるのに相応しい生地や装飾を調達した。名前が夜な夜な探していた「あるもの」とは、偽の前掛けをつくるための資材である。
 犬の前掛けを紛失する咎(とが)に弥次郎が苛まれるのは不憫に思うが、そのためにあらゆるところから前掛けの材料をくすねてくることにはそう罪悪感を抱かない。そのあたりの割り切りは、やはり名前のくノたまらしいところであった。
 もちろん城主には事前に話をつけてある。ほつれさせた本物の方も元通りに繕い直し、後日弥次郎には知られないように届ける手はずになっていた。

 弥次郎からほつれた前掛けを受け取った翌日、暇を見つけてはうろちょろと厨の周りを徘徊していた弥次郎に、名前は一見すると本物と見分けがつかないような自信作を返した。
「こ、これを本当に一晩で……?」
 本物か偽物かなどということよりもむしろ、弥次郎にとってはそちらの方に驚いたらしい。何せ本物をほつれさせるとき、名前は弥次郎でもぱっと見て「これはまずい」と思うよう、それは大々的なほつれさせ方をした。それを昨晩のうちにきれいに修繕としたとなれば、弥次郎が驚くのも無理からぬことであった。
 ──しまった、もう一日くらい返すのを遅れさせればよかった。
 内心冷や汗をかきながら、名前は表面上を取り繕って、
「ほかならぬ弥次郎さまの頼みですから。頑張らせていただきました」
 と、返す。これには弥次郎もまんざらではなかったようで、嬉しそうに顔をほころばせた。
「そうか、そうか。助かったよ。いやしかし、みつは本当に繕い物が得意だったんだなぁ」
 普段から手ずから洗濯をしているだろうに、弥次郎は急場を凌げたことで、手にしている前掛けが偽物だということにはまったく気が付かないようだった。いや、もしかしたらこの際偽物でもいいとすら思っているのかもしれないが、そこまでは名前の関与する範囲でもない。
 ──よくよく見るとそれなりにボロもあるけど……、まあ、気付かれないのならいいか。
 何とも大雑把なことを考える名前である。
 とはいえ、まんまと弥次郎の目を誤魔化せたところで、これにて名前の課題は終了だった。あとは事情を知る数名に挨拶をして、さっさと忍術学園に戻るだけだ。
 しかしここで、予測していなかった事態がひとつ起こった。
 その晩、暇(いとま)の挨拶をするため、何やらお勝手で慌ただしくしていた女中頭のもとへ向かうと、その先で思いがけない頼まれ事をしてしまったのだ。
「申し訳ないんだけど、みつ、あと一日だけ実習を延長して下働きを手伝ってくれないかい? 明日は何でも大事なお客人がくるとかで、今あんたに抜けられるとちょっとまずいっていうかさ……」
 なるほど、慌ただしくしているのは明日の客人をもてなす準備なのだろう。下っ端の名前にはそこまでの仕事は任されていないものの、その下っ端を取りまとめる立場の彼女はすでに明日に向けての準備があるらしい。
 だが、それこそ名前とは本来関係のない話である。名前はここの女中ではない。給金をもらっているわけでもない完全なただ働きなのだから、「実習は終わりましたので」と、ずばりと断ってしまってもいいことである。実習の日数だって、短く済めばその分だけ点数が高くなる。
 しかし何とも申し訳なさそうに言う女中頭の女を見ていると、人のいい名前はすっかり困り果ててしまうのだった。
 ──人が足りなくて困るのは分かるんだけど……。
 下をまとめる上の立場の気苦労は、何かとくノたま下級生の面倒を見ることの多い名前にとっては身につまされる話である。下の能力が低い、得手不得手があって作業が難航するという話ならばいざ知らず、そもそもの人数が足らないとなれば手の打ちようがない。どれだけ上の人間が頑張ったところで、人間ひとりの働きには限度があるということは、名前も嫌というほどよく知っていた。
 それだけではない。これまでは名前と女中頭の女は「新米女中」と「女中頭」という立場だったので、名前はあれやこれやと仕事を言いつけられてはそれに従うという、歴然とした上下関係のもとにやってきている。だからそこに多少居丈高な態度が透けて見えても、そういうものだと割り切っていた。
 しかし実習終了を間近に控え、今こうして女中頭の女は名前に申し訳なさそうな態度で頼み事をしているのだ。あの居丈高に振る舞っていた女中頭が、である。それは名前が本来ここの人間ではないことを分かっていて、それでも無理を押して頼み事をしているという、逼迫した状況を如実に表しているようだった。
 名前は素早く、頭の中で実習日数の残りを計算する。
 実習の日程はまだ数日の猶予を残している。本当ならば期間をめいっぱい使うつもりだったが、思いのほか本題の前掛け調達がうまくいったことで、予期せぬ余裕が生まれていたのだ。
 逡巡ののち、名前は莞爾(かんじ)と笑って頷いた。
「大丈夫です。それじゃあ明日一日はただの女中として頑張らせていただきます」
「本当に悪いね、明日までよろしく頼んだよ」
「はいっ」
 ぺこりと頭を下げると、名前は回れ右をして厨を出た。
 あと一日。あとたった一日だ。一日くらいならば今更うまくいった実習の結果がひっくり返ることはないだろうし、実習期間を過ぎてもいない。
 ──明日一日乗り切れば、ただのくノたまの苗字名前に戻ることができる。
 息苦しさを感じる衿を少しだけ開いて、名前はそっと息を吐き出した。
 と、その時である。
 女中部屋のほど近くにある庭の生垣の裏から、やにわに「おい」と男の声が飛んできた。完全に気を抜いていた名前思わずびくりと肩を震わせ──しかしすぐに警戒の体勢に入ると、懐の忍具に手を伸ばす。
 実習中は身元を隠しているから、こうしていきなり暗中から声を掛けられたところで、いきなり荒事にもつれこむことはない。ひとまずは通りすがりの女中として対応するよう指導されており、名前もそのつもりでいる。
 しかし同時に名前には、声を掛けてきた相手にどうにも心当たりがあるような気がしてならなかった。もちろんこの城の中での知り合いではなく、忍術学園関係者であることは言うまでもない。だからこそ、名前は今こうして忍具の確認をしているのだ。相手が忍びのものであれば、有事の際にはほんの一瞬で勝敗を決することもある。
 ──いざとなれば立ち回れるように用意はしているけれど……、この声、やっぱりどこかで聞いたことあるような気がする。
 声をひそめているので、声の主までは判然としない。しかし名前には、それがどこかで聞いたことがある声だという確信があった。どこかで知った誰かの声。もっと言えば、それは敵の誰かの声ではない。
「……誰」
 敵ではないと判断し、素直に素性を尋ねた。声を掛けてきた男に倣い、尋ねる名前もまた、そっと声をひそめている。すぐそばにはほかの女中が寝泊りしているのだ。大声を出して人に来られたら厄介だった。本当は矢羽音でも使いたいところだが、名前が扱える矢羽音はくノ一教室の中で使われているものだけだ。声の主が男である以上、矢羽音を使っても意味がない。
 ややあって、生垣の向こうから返事が返ってきた。
「五年い組」
 ささやくほどの声量だったが、これには名前もぴんときた。五年い組で名前と言葉を交わす仲なのはふたりしか該当者がいない。
「久々知?」
「ああ」
 姿をあらわさないままで、生垣の向こうの久々知が首肯した気配がした。
 くノ一教室の窓口として忍たまとの間の折衝を勤めると名前は、同じ五年の中でもとりわけ学級委員長委員会の尾浜・鉢屋との親交がもっとも深い。とはいえ尾浜はともかく鉢屋は友好的というわけでもないから、親交というよりは腐れ縁というのが正しいだろう。
 その尾浜と鉢屋と比較すれば、久々知とは縁が薄い。それでも同じ五年生同士、顔を合わせれば言葉も交わすし、それなりに相手を信頼してもいる。久々知の天然ながらも温厚な性格なおかげもあって、久々知とはそこそこに良好な関係を築けていると、名前は一方的にそう思っていた。
「どうしたの、こんなところで。そっちも実習?」
 相変わらず声をひそめたまま、名前は尋ねる。久々知が「うん、まあ」と短く返事をした。
 忍術学園とも友好な関係を築いているこの城は、自軍に忍軍を持たないこともあって、何かというと忍術学園を頼りにする節がある。家臣の中には武名をとどろかせる者もいるにはいるが、忍軍を持たないという時点で、真っ向勝負には強くとも諜報には弱い部分があるのは否めない。そのため、日ごろから忍術学園と懇意にしておくことで他国をけん制し、またいざというときには手を貸してもらおうという算段をつけているのが、この城の愛犬家の城主の考えであった。
 しかしその分、本来ならば嫌がられる忍たま・くノたまの実習も、こうして積極的に受け容れてくれている。だから久々知がここにいるとなれば、自分と同じように実習なのだろうと名前が考えるのは自然なことだった。
 だが、今は名前の実習の真っ最中である。通常、チームでの実習でもない限り、一か所に複数名の忍たまやくノたまを送り出すことは少ない。まして、ばらばらの思惑での実習がバッティングするなど有り得ないことだった。
「ええー、実習先がかぶることなんてあるの?」
「おれだって知らないよ。来てみたら苗字がいるんだから、驚いたのはこっちだ」
 互いに小声で文句を言い合う。が、すでにこうしてかち合ってしまっている以上、文句を言ったところで仕方がない。ふたり揃って溜息をついた。予定外なのはお互い様だ。
「うーん……。わたしの実習が終わりそうなのを分かってて、それで大丈夫と先生方が判断したのかな」
「さあ。というか苗字、実習終わりそうなのか」
「うん。本当は今晩にでも抜けられるんだけど、ちょっと別件であと一日働くことになってるの」
 特に何も考えずに事実を話せば、途端に久々知の溜息が空気を震わす音がする。表情こそ見えないものの、生垣の向こうの彼が呆れ顔をしているだろうことは想像に難くない。名前がすぐに面倒事を任されてしまうことを、同学年の久々知はよく知っていた。
「またどうせ、余計なことを引き受けたんだろ」
「余計なことって言わないでよ。まあ合ってるけど」
 名前自身、厄介な事を押し付けられたと薄々感じていたのだ。それを第三者である久々知にずばりと言い当てられたのだから、口を尖らせながらも頷くしかない。
「でも仕方ないのよ、明日はたくさんお客様がみえるんですって。こんなわたしでも一応はいた方がましだから、お世話になったお礼に明日一日は頑張って働くつもり」
「相変わらずだなあ」
 今度は苦笑が聞こえる。呆れられるよりはましかと思い、名前も少しだけ表情をゆるめた。
 梟(ふくろう)の声が城を囲む山から聞こえる。名前たちを包む夜の色は、じりじりと濃くなりつつあった。
 闇の中、わずかに久々知が身じろぎする気配がした。
「まあいいけど、実習が終わっているなら早く帰って来た方がいいと思う。なんとなく、最近この辺りもきな臭い──って、先輩方がおっしゃっていたから」
 穏やかではない情報に、名前がわずかに眉をしかめる。
「きな臭いって?」
「詳しい話は聞いてないけど。たとえば例年ならぶっつけで開催する六年の卒業試験も、今年は念には念を入れて利吉さんに事前調査を頼んだって話だし」
「そうなの?」
 驚きを帯びた声を上げる名前に、久々知が「そうなのって」と呆れた声を返す。
「苗字、利吉さんと恋仲なんじゃないのか」
「そうだけど、仕事の話は聞かないことにしてるもの」
「なるほど、たしかに」
 素直に納得した久々知に、名前はくすりと笑った。こういうところが久々知はほかの五年生とは微妙に違う、と名前は思う。とはいえ名前の「五年生」の比較対象はどうしたって尾浜・鉢屋の癖が強いコンビだ。彼らに比べれば残りの五年生三人が素直に見えるのは仕方がないことでもある。
「とにかく、厄介なことに巻き込まれる前に戻ってこいよ」
 そう言ったきり、久々知は夜闇の中に消えていった。名前は暫く久々知の溶けた闇を見つめていたが、やがて気配が完全に消えたのに気付いて、自身も踵を返した。


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