あなたの白いうなじをそっと視界におさめて(1)

 翌日、名前が目を覚ますと名前の身体は利吉の腕の中にあった。昨晩あのまま眠りに落ち、いつの間にか利吉の抱き枕がわりにされていたらしい。大方、明け方の冷え込みに耐えかねて、無意識に温度を持った名前を抱き寄せたのだろう。どきどきと高鳴る心臓をどうにか抑え込み、名前はそっと嘆息する。
 視線だけで周囲を窺えば、外から差し込む光は淡い。まだ夜明けからそう時間も経っていないだろう。試しに耳をそばだててみても、室内はもちろん窓の外の往来まで、人や獣の声はひとつたりとも聞こえはしなかった。
 利吉を起こしてしまわないように注意して、名前はそっと体勢を変える。
 寝ぼけて手探りに抱き寄せたからか、名前の頭は利吉の腕の上にある。このままでは利吉の腕がしびれ感覚をなくすのも時間の問題だ。もぞもぞと最低限身体を動かし、利吉に荷重がかからないよう頭の位置をずらすと、そのまま何の遠慮もせず、名前は利吉を見た。
 ──あ、利吉さん、案外まつげが短い。
 寝顔までもが精悍に整って見える利吉の顔を、名前は利吉の腕に抱かれたまま、しばし身じろぎもせずに眺めていた。忍びとして普段から浅い眠りの利吉にしては珍しく、名前が目を覚ましたというのに一向に瞼を開く気配はない。それどころか寝ぼけて一層腕に力をこめるので、名前はされるがまま、利吉の胸に身体を押し付けられていた。
 利吉に抱きしめられることにはだいぶ慣れたが、ここまで無防備な姿を晒されるのははじめてのことだった。利吉の着物の衿がだらしなくゆるみ、厚い胸板が大胆にのぞいている。名前ははっとして、慌てて自分の胸元に手をあてた。幸い、そう大きく着崩れているわけではなかった。ほっと息を吐く。
 片手を自分の胸元にあてたまま、もう片手をそっと利吉の胸にあてた。昨日感じたのとは違う、恐らく名前よりもゆっくりとした鼓動。大人の男の、力強い生。
 ──わたしのちっぽけな心臓より大きな心臓が、利吉さんのここにはおさまっているんだ。
 手のひらだって足だって、利吉の身体は名前よりもひと回りもふた回りも大きい。こうして腕の中に閉じ込められた今ですら、名前の足のつま先は利吉の脛までしか届かないのだ。
 利吉は男で、名前は女。
 けれど愛し合う男女一対が当然のようにすることを、利吉と名前は行わない。少なくとも今は、そういうふうにはならない。利吉の大きな心臓が名前のために狂ったように暴れることも、名前のちっぽけな心臓が利吉のためにどんどんと脈を打つことも、今はまだ、ない。
 ──だけど、それは利吉さんに大切にされている証なのだから。
 喜ぶことこそあれ、悲観することなどありはしない。そう自分に言い聞かせ、名前はぎゅっと目を瞑る。利吉の規則正しい呼吸の音が、ひどく遠い世界から聞こえるものであるような、そんな気がした。

 その後、ようやく起きだした利吉は、部屋に運ばれてきた朝餉を口に運びながら、
「たまには少し遠出をしようか」
 と、唐突に提案した。今日のことは特に何も決めていなかったが、名前は何となく、夕方までには忍術学園に戻ることから逆算しても町のどこかを適当にぶらつくくらいだろうと予想していた。利吉と一緒ならばどんな予定でも一向に構わないのだが、しかし遠出となるとなかなか難しいものがある。何せ外泊の許可は昨晩の一泊分しか許されていない。
「遠出、ですか」
 不安げに表情をくもらせる名前に、利吉は鷹揚に笑って見せた。
「大丈夫、夕方までには名前を忍術学園に送り届けられる距離だから」
 つと向けた窓の外には、薄青色をした冬の空が広がっている。昨晩までの月を覆い隠した雲は何処かへ流れ、今日は初冬にしては気分がいいほどの晴天であった。
「名前を連れていきたい場所があるんだ」
 押し切ろうとするように重ねて言われ、名前はようやく頷いた。名前の返事に満足したのか、利吉は外の天気と同じように笑った。

 朝餉を摂り終えると、手早く荷物をまとめて旅籠を出た。
 荷物といっても、たかだか一泊なので大した荷物はない。ほとんど普段の外出と変わらないような手荷物しかないので、唐突な遠出であってもこれといって苦に思うこともなかった。
 途中、間食のためにと買った団子をつつんでもらうのを待つ間、名前は隣の利吉に尋ねる。
「遠出、ということは町は出るのですよね」
「うん。そうだよ」
 利吉と名前が今滞在しているのは、ちょうど交通の要所として人の出入りが盛んな町だった。海に行くにも山に行くにも、この町から伸びた街道を使うのが一番手っ取り早い。
 だからこそ、町を出ずともいくらでも時間のつぶしようがあると名前は思っていたのだが、利吉のこの迷いのない話しぶりから察するに、昨晩の時点ではすでに今日の行き先を決めていたようだった。
「海の方へ向かわれるのですか?」
 あてずっぽうで尋ねれば、利吉は意外そうに目を細めて名前を見た。
「どうしてそう思うんだい?」
「なんとなく。忍術学園での生活が長くなると、遠出と聞くと海を連想してしまうんです」
「ああ、兵庫水軍だね。たしかに忍術学園と兵庫水軍とは縁が深い」
 名前たちくノたまはともかく、忍たまが巻き込まれる色々な騒動には兵庫水軍が一枚噛んでいることも多い。その噂については利吉も大まかにながら聞き及んでいた。何か仕事で必要な際には、水軍との縁を忍術学園経由で取り持ってもらおうと考えたこともある。
「でも今日は残念ながら海の方にはいかないよ。名前を海に連れていくのなら、夏がいいなとも思うし」
「それでは今日はどちらへ」
「今日はちょっとした山登り──というか、丘の上に登る」
 利吉の返事に、名前は意味も分からず「はあ」と胡乱な返事をした。

 利吉の宣言したとおり、町を出たふたりはそのまま山の方へと足を向けた。山の木はすでに葉を落としており、そのためか山の中を歩いているわりには周囲は明るい。途中、山道をそれて獣道に入り、そこからさらに足を進める。
 利吉はプロの、名前は忍びの教育を五年間受けているから、多少道が荒れていたところで大して問題ではない。むしろ山育ちのふたりにとって、山中の道なき道を進むのも、整備された道を歩くのも、そう大きな差はなかった。それでも一刻近く足場の悪い道を歩き通しでいれば、名前の息もだんだんと上がってくる。
 徐々に名前の足腰に疲労がたまり始めてきた頃、
「そろそろ休憩しようか」
 と、利吉が切り出した。休めそうな場所を探しながら歩いていたのか、先を歩く利吉の前には少しだけ拓けた空地のような空間が広がっている。これならば見通しがいいので、安心して足を休めることができる。
「いえ、大丈夫です。わたしまだ歩けますよ」
「私が疲れたんだよ」
 そう言って笑う割に、利吉の顔には疲労の色ひとつ浮かんでいない。それが名前のためを思っての申し出であることは明白だった。
「さっき買った団子もあるし。ここで一服しよう。もうじき目的地だよ」
 言うが早いか、名前の返事を待たずにその場に腰をおろす利吉に、名前は苦笑して「はい」と従った。
 こういうとき、名前はつくづく利吉を大人だと思う。利吉との経験値の差を感じるのは、なにもただ色めいた空気のときだけではなかった。
 いつだって利吉は、さりげなく名前の先回りをしてくれている。名前が困らないようにさりげなく助け、いつでも名前のことを考えてくれている。もしも利吉といて名前が困ったと思うことがあるのなら、それは利吉がわざと名前の困り顔を見たくてやっていることにほかならない。
 ──きっとわたしが気が付いていない、だけど利吉さんがわたしのためにしてくれていることっていうのも、たくさんあるんだろうな。
 利吉としか思いを通じ合わせたことがなく、また利吉以外の男には興味のない名前にとって、今更そういう面での利吉との経験値の差を埋めようなどとは思わない。どう足掻いたところで利吉にはかなわないのだから、自分は自分のペースで頑張ればいい、少しずつ利吉に返していけばいい──名前はそう思っている。
 けれど、この先はきっとそうとばかりも言っていられないのだろう。
 これまでは利吉とだけ培ってきた、育んできた何かを、この先はほかの誰かとも交わさなければならなくなるかもしれない。ほかの誰かにもたらされたこと、教えられた手管を、利吉に使う日だってくるかもしれない。
 名前がくノ一になるということは、そういうことだった。
 くノ一として得た技術や知識、経験は名前のものとして還元される。いくら利吉といるときにはくノ一であること、くノ一として獲得したものを切り離そうとしたところで、名前というひとりの人間である以上はそれにも限度がある。
 名前がくノ一の道を志す以上、そこには常に何者かの暗い影が付き纏う。
「名前も飲みなよ」
 そばに腰を落ち着けていた利吉が、ぼんやりとしていた名前の手に水筒を手渡す。ありがたくそれを受け取り、名前も口をつけた。
 冷たい水が、乾燥した喉をひやりと潤す。歩き通しで火照った身体の内側がすっと冷えていく心地がして、名前はようやく、ふうと息を吐いた。
「お水ありがとうござます」
 利吉に水筒を戻し、そしてふと思う。 
 ──もしもくノ一にならなければ?
 もしもくノ一にならなければ。もしも名前が退学していった学友たちのように、「ふつうの女子」になるのだとしたら。何の憂いもなく、利吉と一緒になる道を選ぶことができたなら。いや、選ぶなどという能動的な行為をする必要もなく、ただ当たり前のように利吉と一緒になれたのなら。
 ──それならば、こんなふうに悩んだり惑ったりしなくてもよかったのかな。
 これまでは選択肢のひとつでしかなかったその未来を、名前ははじめて具体的に想像した。考えてはいけない、呑み込まれてしまうから考えないと決めていたことを、名前は今、はじめて真面目に想像していた。
 ──もしもわたしがくノ一にならないとしたら、こんなふうにいつでも、利吉さんの都合だけに合わせて逢瀬を重ねることができる。
 ただでさえ仕事で忙しい利吉だというのに、これから先は名前の実習の都合も考えなければならない。会える頻度はこれまでよりもずっと下がるだろうし、その会えない時間で文を交わすというようなことができるわけでもない。けれどくノ一にならない道を選ぶのなら、そもそも実習に参加する必要はない。不用意に自分の身を危険に晒すこともなく、利吉を不安にさせることもない。
 それだけではない。くノ一ともなれば、当然仕事の上で秘密を守らねばならないことも増えるだろう。意に染まぬ行いをすることも、時には利吉以外の男のそばに侍(はべ)らねばならないこともある。そうした利吉に対する不実からも逃れることができる。くノ一にさえならなければ、ただ利吉に誠実にありたい、利吉だけを慕っていたいという思いに正直でいられる。
 ──何より、わたしがくノ一にさえならなければ、今すぐにでも、利吉さんと……。
 そこまで考え、名前ははっとした。昼日中から何をとち狂ったことを考えているのかと、自分の思考が恥ずかしくなる。これではとんだ痴女だ。
「ん、名前? どうかしたのか」
 ひとり顔を赤くしている名前に気付き、利吉が首を傾げた。慌てて名前は胸の前で手をぶんぶんと振ると、
「そろそろ出発しましょう! 早くしないと忍術学園に戻るのが遅れてしまいます!」
 と、やけに大声で返事をした。利吉はやはり首を傾げながらも、「それじゃあ、そうしよう」と地面から腰を上げた。

 それからまた、暫くけもの道を進んだ。目的地を知らない名前にとっては、先の見えない山道を歩くのは何とも言えない心細さを感じるものだったが、それでも利吉の「もうじき目的地だよ」という言葉を頼りに、ひたすら利吉の背を見つめて歩く。
 ほどなくして、再び拓けた場所に出た。しかし先ほどの休憩地とは違い、これより先には木々はない。ただ、数軒の屋敷らしき建物がある以外には何もなく、その先はささやかな崖のようになっていた。
 その屋敷のうちの一軒に、利吉は遠慮なく足を踏み入れる。家の周りはぐるりと垣根に囲われており、中は見えない。しかし人が住まう気配は感じられなかった。
「ここは?」
 困惑したように尋ねる名前に、利吉が玄関の前に立って答える。
「私が借りている家だよ。借りているといっても、実際には父上の知り合いの別邸で、時々私が掃除と点検をするかわりに、持ち主が使うとき以外は自由にしていいという条件で使わせてもらっているんだけど」
 なるほど、素封家の別邸と言われてみてみれば、そこかしこにそこいらの民家とは違うしっかりとした造りが見て取れた。
 丘の向こうには灰色の山々が連なっている。季節さえよければ、この丘からの眺めはさぞ絶景に違いない。山を抜けてこなければ辿り着けないことだけが難点だが、それだって日常から逃れて静かな時間を過ごしたいという場合には却って都合がいい。
「町からそう幾らも離れていないし、その割には何となく人の目も少ない。周りの屋敷も同じような用途で使われているのがほとんどのようで、普段は近所づきあいもしなくていい。だから一番気楽で、一番気に入ってる隠れ家なんだ」
「そ、そんな特別な場所に私なんかを連れてきてよいのですか」
「うん、いくつかある隠れ家のうちのひとつだからね」
 やさしく微笑む利吉に、名前の胸がきゅうと苦しくなる。
 利吉のような後ろ盾のないフリーの忍者にとって、いざというときに使うことができる隠れ家がどれほど重要であるかなど、名前にだって分かりすぎるほどによく分かる。無暗に人に教えたりするものではなく、極力伏せておかねばならないものであることも分かる。
 ──それを教えてもいいと思うほど、利吉さんはわたしを信用してくださっているんだ。
 これまでも利吉からの愛情は痛いほどに感じてきた名前だったが、信頼されている、信用されているとここまで感じるのははじめてだった。利吉と恋仲になったときから、利吉の秘密には踏み込まないことを決めていた名前にとって、利吉の方からその秘密を共有してくれることに対する感動は、利吉の想像の域をゆうに超えている。
 しかし、利吉は言葉もなく感極まっている名前の背を押すと、
「裏に回ってごらん」
 と、そのまま玄関から上がることもなく、屋敷の裏手へと名前を誘った。呆けたままの名前は、利吉に誘われるままに足を屋敷の裏へと向ける。
 玄関のわきを抜け、屋敷の外壁に沿うようにしてぐるりと回り込むと、その先にはささやかな裏庭がある。ふらふらとそちらへ足を向け、ようやく裏庭に至ったとき、名前は今度こそ本当に言葉を失った。
 冬の寒空の下、小ぶりな裏庭を囲むようにして、紅の花をつけた生垣が垣根の内側にずっと伸びていた。厚い葉の隙間を埋めるように、ぽってりとした花がいくつも咲いている。冬場の冷たい空気と淡い光の中に咲く可憐な花との取り合わせは、名前の心を奪うのには十分すぎるほどの景色だった。
「利吉さん、これ、椿……ですか?」
「そうだよ」
「でも、椿ってもっと寒くなってからの花では」
「そうなんだけど、この辺りの椿はどういうわけか冬の初めには花を咲かせるんだ」
 どこか得意げに言う利吉は、名前の手をとってゆっくりと生垣へと寄った。今にも額からこぼれ落ちそうな花をひとつ摘まみ取ると、それを名前の髪に飾る。名前の耳に利吉の指と椿のはなびらがふわりと触れた。
「うん、可愛い。よく似合うよ」
 満足げに頷く利吉に、名前は堪らず、顔を赤らめ俯いた。こんなふうに気障(きざ)で手慣れたことを軽々やってみせても嫌味にならないのが、利吉のずるいところである。
「あの、照れます……」
「照れなくてもいいのに。まあ、照れさせたくてやったんだけど」
 ぬけぬけと言った利吉は、しかしすぐに「私が送ったかんざしの方が似合うけどね」と付け足す。
「ふふ、利吉さんったら」
 くすくすとはにかみ笑う名前に、利吉は目許をうっすらと和らげた。再び名前の手をとると、そのまま裏庭に面した濡れ縁へと名前を連れ、座らせる。並んで腰をおろすと、一面の椿の生垣を揃って眺めた。
 空気は冷たくても、寄り添い座っているため互いの温度を感じる。寒さはほとんど感じなかった。
 名前の手をぎゅっと握り直し、利吉はふと口を開いた。
「思えば、名前とは一緒に氷ノ山の帰ったくらいで、ほとんど一緒に出掛けたことがないだろ? 夏祭りだって、結局おじゃんになったし。ここのところは会うのもいつものお堂が忍術学園かだし」
「夏祭りのことは、あれはあれでいい思い出ですよ」
「私だってそうだけど」
 利吉はくしゃりと笑って身体を名前の方に傾けると、空いた手で名前の頬をするりと撫でる。
「だからたまには、年ごろの娘らしい逢瀬をしたっていいんじゃないかなと思って。それに、名前は花が好きかなとも思った」
「好きですけど、でも、どうして……。わたし、利吉さんにそんなお話をしましたっけ?」
「随分前にね。食べ物の話ばかりしているねって笑ったら、たまには花の話もするって言われた」
「そ、そうでしたっけ……」
 名前は慌てて記憶の糸を手繰るが、どれだけ記憶を洗いなおしてみたところで、名前自身にはまったくそんな話をした覚えがなかった。きっと、名前が記憶にとどめておく必要がないと思うくらい、本当に些細な会話のうちのひとつだったのだろう。些細で、些末で、取るに足らないこと。
 けれど利吉は、そんな些細で、些末で、取るに足らないことを覚えていてくれた。その上こうして名前のためにとびきりの景色を見せてくれる。利吉のその優しさが、言いようもなく名前の心をぎゅうと締め付けた。
 利吉に優しくされればされるほど、名前の心はどんどんとその優しさで締め付けられていく。優しくされた分だけ、名前の心の痛みは増していく。
「名前が咄嗟にまったく心当たりがないような嘘をつけるとは思えないから、多分花が好きだってことは本当なんだろうなって思ってたんだ」
 そこで利吉は、はじめて恥ずかし気に頬を掻いた。
「まあ、私もこうして心底好いた子を何処かへ連れていくなんて経験はないから、結局面白味のない場所しか思いつかなかったんだけどね。逢瀬といっても山道を歩かせた時間がほとんどだし」
「そ──そんなこと、ないです。わたし、こんな素敵な場所に連れてきていただいたのは、はじめてです」
 胸がいっぱいになって、言葉を口にするのもやっとだった。
 愛しくて、愛しくて、どうにかなってしまいそうなくらい利吉のことが大切だった。握ったこの手のひらよりも大事なものなど、きっとこの世界のどこにだって存在しない。
「ありがとうございます、利吉さん」
 目いっぱいの感謝をこめて礼を伝えると、利吉はやはり顔をほのかに赤らめて、うん、と浅く頷いた。けれどすぐに名前の手をぎゅっと握り直し、わざと意地悪く笑って見せる。
「名前をここに招いたのには、椿を見せたかったから以外にも、もうひとつ理由があるんだ」
「理由ですか?」
「──ここなら、誰にも見られないよ」
 その言葉に、名前は椿と同じくらい真っ赤になって、利吉の手をぎゅっと握り返した。


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