星を紡ぐより儚く(1)

 利吉と名前が次に会う約束をしていたのは、利吉の忍務が終わった翌日──前回の逢瀬から数えて三日後のことだった。
 名前が最後に利吉と会ってから、まだ一週間と経っていない。しかしこれより後は利吉が長期の忍務に潜ってしまう。名前も名前で実習があるため、この機を逃すと次に会えるのは随分と先になってしまうのだ。
 今回は特別に、名前も外泊許可をとっている。普段ほとんど帰省もしない名前だから、たまの外泊許可はあっさりとおりた。どこで夜を明かすかも決めていないが、そこはお互い忍びの道を行くものであれば、どうとでもなるだろう。そんな行き当たりばったりな心づもりのまま、今回もまた、いつものお堂で待ち合わせをしていた。
 約束の日、名前が慌ただしくお堂の中に飛び込むと、すでにお堂の中では利吉が待っていた。
「遅くなってすみません」
「大丈夫だよ」
 忍具の手入れをしていた手元から顔を上げ、利吉が名前に視線を向ける。昼間といえど薄暗いお堂の中はひっそりとしていて、利吉の顔にも薄く影がかかっていた。
 名前が息を整えながら近くに寄ると、利吉は忍具を手早く片付け名前に向き直った。
 息ひとつ、髪のひと房すら乱れていない利吉が、穏やか名前を名前に向ける。そのどっしりとした構えからは、利吉がもう随分とここで名前を待っていたのだろうことが窺えた。遅れたとはいえ、名前はそう何刻も遅れたわけではない。恐らく、利吉の方が早く着きすぎたのだろう。
「名前が遅れてくるのは珍しいな。何かあった?」
「ちょっと授業の準備が長引いてしまって」
「また後輩の指導か何か?」
「いえ、もうじき始まる臨地実習の下準備です」
 その言葉を発した名前の声がわずかに固くなったように聞こえたのは、果たして利吉の聞き手としての心情ゆえか。それでも表情の変わらない名前をちらりと一瞥し、利吉もそれに合わせて「そうか、おつかれ」とだけ答えた。

 しんと静まり返ったお堂の中には、利吉と名前の呼吸の音だけがひっそりと降り積もる。先に到着した利吉が簡単に掃除をしておいてくれたのか、人の手の入っていないお堂とはいえ、床には大きな汚れや埃もない。そろりと盗み見るように利吉を見て、名前は会話の糸口を探すべく口を開いては閉じた。
 松と話をしてからというもの、ことある事に名前は自分の今後について思いを馳せている。利吉と結ばれてしまったがゆえに、くノ一になる道以外を考えてしまうのと同じように、利吉と気持ちが通じてしまったからこそ、名前は今、利吉以外の誰かによって春を散らされるかもしれないことを恐ろしく、そしておぞましく感じていた。
 これまでであれば「くノ一となる以上はそういうこともあるだろう」と思えていたことが、今の名前には思えない。
 利吉と一緒に居られる幸福を知ってしまった今、名前には失いたくないものが多すぎる。忍びとなる以上何もかもを捨てるべきとまでは名前も思ってはいなかったが、それにしたって、人並みの幸福を得られることはまずないだろうとは思っていた。そもそもその「人並み」を脱したくて忍術学園の門を叩いたのだから、その覚悟は済ませてあってしかるべきだ。
 ──何を話せばいいのだろう。
 対する利吉はプロの忍びである。当然、そうした名前の悩みなどとうに割り切って仕事にあたっている。そんな利吉に、覚悟がないとは思われたくなかった。ただでさえ名前は進路のことで気持ちを大きく揺らがせている。これ以上みっともないところを晒して、プロの忍びとして一線で活躍する利吉に幻滅されたくはない。
 いつも通り、いつものように話をする。
 ただそれだけのことが、こんなにも難しく思えてしまう。
「この間までぐっと寒くなったなと思っていたのに、ここ二、三日はあたたかい日が続きますね」
「そうだね。私としてはありがたいけど」
「そうですよね。夜でも外でじっとしてなければならないことだってあるでしょうし。春がだんだんと暖かくなるときには三寒四温と言いますけど、秋がだんだんと冬めいてくるときには何と言うんでしょうか」
「はは、どうだろうな。そもそもそんな現象にいちいち名前がついているものなのかな」
「あるんじゃないですか? 日本人は風光明媚や花鳥風月を愛すものですから。自然現象でもこれというものには、一通り名前がついていそうです」
「その『これというもの』にだんだんと冬めいてくる様子っていうのが当てはまるか怪しいって話だよ」
「だめですか?」
「だめじゃないけどさ」
「じゃあいいじゃないですか。それにもしもそんな日本語がないとしたら、わたしがこの国の人間を代表して考えます」
「へえ、聞かせてよ。どう言い表すんだい」
「ええっと……。そ、それは今から考えるんですよう」
「なるほど。じゃあ思いついたら私にも教えて」
「利吉さんも一緒に考えてくださるのなら教えてさしあげます」
「私はそういう感性はからっきしだよ。自慢じゃないけど」
「自慢じゃないけどというわりには強気ですね」
「そのくらいじゃないとフリーの忍びは食いつないでいけないんだよ」
「勉強になります」
「大いに学んでくれ」
 いつものように、言葉を交わす。投げられた言葉にしっくりくるように、重くならないような言葉を選んで投げ返す。これまで幾度となく交わした会話を再現しているはずなのに、言葉を交わせば交わすほど、投げられた言葉を投げ返せば投げ返すほど、名前の胸には焦燥感ばかりが募る。
 ──利吉さんとの会話って、いつもこんなに上滑りの会話だったっけ。
 すぐ近くに寄り添っているはずなのに、口を閉じたら最後、利吉を遠くに感じてしまうような気がした。その空白を埋めるように、名前は必死で言葉を探す。必死で探し出した言葉を口にしては、すぐさま次の言葉をまた探す。
 しかしそんな言葉の交わし方が、生来呑気でじっくりとした気質の名前になじむはずもない。言葉の残弾はすぐに尽きた。名前が言葉を無くし、次いで利吉も無言になる。
 ぽっかりとした沈黙が、ふたりの間に大きく口を開けていた。
 ──何か、言葉を探さなきゃ。
 折角の逢瀬なのだ。名前が何か悩んでいることなど、利吉には関係のないことである。もちろんふたりが付き合っている以上、そして名前の悩みが忍びとして、女としてのものであることを考えれば、まったく利吉に関係がないとは言い難い。それでも、名前は今胸にずしりと重く沈み込んだ悩みを利吉に話すつもりはなく、また話すつもりがないと言うことは、結局のところ利吉が知るすべもないこと、利吉には関係がないことになる、というのが名前の中での理屈だった。
 ──いつも通り、いつも通りに。
 ──いつものように、利吉さんに笑ってもらえるように。
 と、名前が狼狽えた矢先。
 利吉が言葉も発しないまま、おもむろに名前の肩に手を遣り、抱き寄せた。大きな手が、常より乱暴に名前を懐へと招く。森閑としたお堂の中に、衣擦れの音がやけに大きく響いた。
「利吉さん──」
 名前が視線を上げると、そこにはまっすぐ名前を見つめる利吉の顔がある。ふたりの視線が絡む。利吉の瞳は、ひやりとしていて底知れず黒々と名前を映している。
 やがて、利吉がゆっくりと名前に顔を近づけた。利吉のくちびるが名前のくちびるに重なる。背中と首にまわされた手の温度を着物ごしに感じ、名前の肌がそわりと震えた。
 薄く開いた口から熱い吐息が洩れる。その吐息が利吉の吐息と混ざり、互いの熱を否応なく高めていく。
 たしかめるように、あるいは言葉のかわりに思いを伝えるように、無我夢中で口づけを繰り返す。重なったくちびるの感触と温度が名前の頭の芯に甘い麻痺をもたらした。
 どれほどそうしていただろうか。長い口づけののち、ほんの一瞬だけくちびるが離れる。本能で酸素を取り込むべく息を吸い込むと、お堂の中の静謐で冷ややかな空気がどっと肺腑を満たした。
「名前」
 爪の先ほども離れていない距離すらもどかしいというように、利吉が焦りの滲んだ声で名前の名を呼んだ。直後、返事をする間もなく再びくちびるが重ねられる。利吉のかすかにかさついた唇が、食むように名前のくちびるを再び侵す。
 鐘の音が、どこか遠くから聞こえたような気がした。うすく瞼を開いてみても、見えるのは利吉の紅潮した顔だけだ。ほかには何も見えなくて、ほかには何も感じない。手は利吉の胸元に添えられていて、そこからはただ、利吉の心臓が胸の中で暴れているのだけが伝わっていた。
 ──いつもの口吸いとは、なにか、ちがう。
 ぼんやりと輪郭の曖昧になった思考で、そんなことを思う。腹の底がじんとして、何かを訴えかけるように熱を持つ。名前の中の女が、もっともっとと理性にせがむ。
 ──もっと欲しい。もっと利吉さんが欲しい。
 気がつけば、名前の方から利吉の首に腕を回していた。熱をぶつけるように、ぐっと腕に力をこめ体を寄せる。着物が、肌が、空気すら邪魔だと思えるほどに、ぎゅうと利吉に身を寄せる。少しでも利吉と近づけるように。少しでも、利吉のものになれるように。
 ──もうこのままどうにかなってしまえばいいのに。
 利吉となら、どうなったってかまわない。
 くらくらとした頭で名前が思ったのは、ただそれだけだった。 
「……っ」
 重ねたくちびるがわずかに離れる。利吉が息を呑む気配がした。利吉の腕に回した腕に力をいっそう込め、ぎゅっと利吉の着物を後ろ衿を握る。瞼を閉じているはずなのに、視界は白くまばゆい。目が熱くて、喉の奥も熱くて、胸も、腹も、指の先まで全部ぜんぶ、熱い。
 ぐらりと身体が傾ぐ感覚に、思わず目を開く。それがふやけた脳の錯覚などではなく、実際に利吉に押し倒されたのだと名前が気付くのに、束の間かかった。
 頭と背中に冷たい床の感触。冷え切った木床が、名前の体内で行き場を見失った熱を吸い込むように奪ってゆく。
「──名前……」
 名前を呼ばれたのと同時に、利吉の指先が、名前の腰の線を着物の上からそっとなぞった。思わず名前の肩が、びくりと大きく震える。
「っ、や……」
 ──それがすべての終わりの合図だった。
 はっとした顔の利吉が、弾かれたように名前の身体を自分から引き離した。最前まであれほどぴたりと寄り添っていたふたりの間に、ふたたび言いようもなく空しい虚ろが開く。
 後ずさるようにして身体を離した利吉を見つめたまま、名前が茫然として身体を起こした。利吉もまた、膝立ちのまま茫然として名前を見つめていた。暫し、気まずげな視線が絡んでは、離れる。
「……ごめん、名前」
 やがて、利吉が消え入りそうな声で発した。顔をうつむけているせいで、利吉の視線は名前に届かない。利吉が今、どんな顔をしてどんな瞳の色をしているのか、名前には何一つ分からない。
 利吉がどうして途中で名前に触れることを躊躇ったのか。何がいけなくて、何が悪くて、利吉は名前から身を引いたのか。
 ──一体どこで、何を間違ってしまったのか。
「なんで」
 声を発したことに気が付いたのは、自分の声が耳に届いてからだった。
 なんで、と自分が発した声を聞き、名前は気付く。自分は今、利吉にひどいことを言おうとしている。利吉にひどいことをしようとしている。
 けれど、止まらなかった。名前のずたずたになった自尊心では、今まさに口にしようとしている言葉を胸のうちに止め置くことなどできはしなかった。
 いつものように聞き分けよく、いつものように穏やかに──そんなふうに振る舞える自信はなく、そしてまた、そんなふうに振る舞いたくなどなかった。
「なんで、謝るんですか」
 名前の声が、低くお堂の中の空気を震わせた。そう広くない建物だ。声は響き、小さく幾重にも重なる。なんで、なんで、なんで。
「名前、なんでってそれは──」
「なんで、わたしのこと抱いてくれないんですか」
 利吉が、はっとした顔をした。
 利吉のすらりとした瞳が名前を映す。そこに映った名前は、今にも泣き出してしまいそうな、この上なく惨めたらしく情けない顔をしていた。
「謝ってほしくなんかないです……。わたしは、わたしは利吉さんに、」
 その先を言葉にしようとして、けれど名前は口を閉じる。
 声を伴う言葉にすれば、それはきっと涙に濡れたものになってしまうだろうことが分かったから。そうすればきっと、利吉は名前が思う以上の罪悪感と哀れみをもって名前を見るだろうことが分かっていたから。
 だから、涙をこぼすわけにはいかなかった。
 こんな我儘で、涙をこぼしたくはなかった。
「名前」
 利吉に呼ばれ、名前はごくりと唾を飲み込む。それから数度深い呼吸を繰り返すと、ややあって、眦を引き締め利吉を見つめた。それでもやはり胸の中はぐちゃぐちゃで、気を抜くと言葉と感情が雪崩を起こしそうな心地がする。いつの間にか握りしめていたてのひらには、爪がきゅっと食い込んでいた。
 先ほどまで利吉の着物を握っていたはずの手のひらは、今はただ、己の爪の先に刺すような痛みを与えられている。
「利吉さんは、わたしのこと、抱く気になれませんか」
 やっとの思いで、まずひと言、それだけ尋ねた。途端に利吉が焦った顔をする。
「──っ!……違う、そうじゃない」
 その焦燥すら、今の名前には心を大きく乱す原因のひとつでしかなかった。心の真ん中がじりじりと焦げ付くように熱くて痛い。いっそぽっかり穴でも開いてくれたのなら何も感じずに済むのに、名前の心はただいたずらに疼きを訴えるだけだ。
「名前、そうじゃなくて──」
「じゃあ、それじゃあ、なんで」
 利吉の言葉を遮って、名前は言った。
 そんな風に焦るなら。
 そんな風につらそうにするのなら。
「だったら、どうしてわたしのこと、」
 そんなふうに焦がれるように見つめるのなら。
 そんなふうに痛々しい表情をするのなら。
 ──だったらどうして、わたしを奪ってくれないの。
「わたし、利吉さんじゃないほかの男の人に、抱かれちゃうかもしれないのに」
 ──誰かに奪われてしまう前に、いっそ利吉さんが奪ってくれたらいいのに。
 ──そうしたら、わたしはきっと、今ここで死んでもいいと思えるくらい満たされるはずなのに。
 けれどそんな名前の思いが果たされることはない。
 名前がどれだけ利吉を思おうと、利吉が名前の穢れを知らない肌を、その固い指先で暴きだしてしまうことはついぞない。先ほどの利吉からの「ごめん」は、つまりはそういうことなのだ。あの短い言葉のたったひとつで、利吉は名前を地獄の底へと突き落とした。
「わたし、利吉さんが好きです。利吉さんのことが大好き。利吉さんに触れていると胸が潰れてしまいそうなくらい苦しくなって、幸せで死んじゃいそうになる。死ぬなら今がいい、利吉さんのそばがいいって思えるくらい、本当に大好きで、好きで、すきで、利吉さんしかいらないって、本当に、ほんとにそう思えるくらい大好きで、大好きなのに」
 感情ばかりが空回り、言葉は支離滅裂なまま羅列する。けれど名前にはそんなことを気にしている余裕などなかった。まっとうな言葉を話さなければならないと思える理性は、とうに何処かへ投げ打ってしまった。
 昔から、利吉は名前の憧れだった。
 利吉以外の男を見てもうんともすんとも言わない心は、しかし利吉を前にした途端に壊れたようにどきどきと脈を打ち、そしてそのまま潰れてしまいそうなくらいにきゅうきゅうと名前のことを締め付ける。
 好きだとか大好きだとか愛しているだとか。
 そんな言葉が果たして自分の気持ちにつけられるべき名前なのか、名前にはそれも分からない。そのくらい、利吉への気持ちは名前にとって当たり前に、いつでも胸の内にあるものだった。あって当然のものだった。
 当たり前に利吉のことが大切で、憧れで。
 だからきっと、こんなことを思うのは間違っている。
 こんなことを利吉に問うのは間違っている。
 利吉から愛された、利吉と思いが通じたというだけで、名前はきっと満足しなければならないのに──それでも、言わずにはいられなかった。
「利吉さんは、わたしがほかの誰かに奪われてもいいんですか……」
 こんなことを思ってしまう心なら、持たないほうがずっとよかった。


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