いわなくていいこと(1)

 朝焼けの光が目に染みる。せめて朝日を背負って歩くのであれば格好もつくのに──そんなことを考えながら、利吉はここより東の目的地、忍術学園に向かい目を細めながら歩いてゆく。早朝の空気は肌寒く、いつのまにか秋が近づいてきていたことを利吉に感じさせる。
 ここ暫く、ひとつの仕事に掛かり切りになっていた利吉だったが、ようやくその仕事もひと段落したところだった。あくびを噛み殺し、目許に滲んだ涙を拭う。と、指先に白粉がついていることに気付き、利吉は慌ててそれを着物の袖で拭った。
 今回の忍務は久方ぶりに女装で敵地に潜入するというものだった。情報をとるために目をつけたのは、悪名高い黄昏甚兵衛──の、側使えの女である。側使えとはいっても、していることといえばもっぱら甚兵衛の閨の相手という噂があった女だが、その女が現在暇をとって郷に戻ってるという。
 黄昏甚兵衛のそばを離れるということは、すなわちタソガレドキ忍軍の監視下からも一時的に外れるということだ。正室でもない妾の女の里下りの先にまで監視の目をつけていくほど、タソガレドキ忍軍も暇ではない。利吉が付けこむには絶好のタイミングだった。
 その女に近づくべく、女の実家の屋敷に女中として潜入していたのがここ一か月ほどのこと。無事に情報をとることができたので、これにて仕事は終了と相成ったのだった。
 肩回りが固まっているのを感じ、利吉はおもむろにぐるりと首を回す。途端に首からぽきぽきと軽い音が聞こえた。女装をする際には当然、ただ女ものの着物を着ればそれでいいというわけではない。普段とは違う身体の使い方、細かな所作が求められる。まさか女装で一か月も過ごす羽目になるとは利吉自身思っておらず、すっかり身体の節々が凝り固まっている。
 しかし身体の凝り以上に利吉に疲労感を感じさせているのは、精神的な疲労の方だった。
 ──元々仕事で女のひとと懇意にするのはあまり好きではなかったけど、名前への罪悪感みたいなものがあるからか、これまで以上にいろいろと抵抗があるな。
 一か月以上顔を見ていない恋人の顔を思い出し、利吉は深々と溜息をつく。最後に会ったのはまだ夏のにおいが色濃く残っていた新学期のはじめだっただろうか。それから一か月、文の一つも送っていない。何せ潜入中の身であるから、極力利吉本来の人間関係は絶つ必要がある。恋人など、絶たなければならない人間関係の最たるところであった。
 今回は相手が身重であったことから、女中として潜入して近づく策をとった。果たして腹の子の父親が誰かというのも気になるが、ひとまずそれは別件である。大切なのは女が身重であるということだった。
 身重である以上、当然のことながら安静にしていなければならない。女の実家は地元の素封家であり、妊婦を部屋の外に出すこともないだろう。となれば男女として出会うことは難しい。ゆえに、今回は女装の策をとった。しかしそうでもなければ、恐らくはもっと手っ取り早い方法──男女の中にもつれ込む策をとったに違いない。
 もちろん仕事の一環として行うことだから、たとえ男女の関係を持ったとしてもその行為が利吉の本心から望むことではないことは言うまでもない。これまでも仕事上やむを得ずに女と身体の関係に持つのには気乗りしないことが多かった利吉だが、名前との仲がただの知己から恋仲になったこともあり、その抵抗心は日に日に強まるばかりである。
 とはいえ、だからといって最も手っ取り早く、かつ簡単な策を私情を理由に易々と捨てられるはずもない。何せ相手はかの黄昏甚兵衛である。下手を打てば彼の配下にあるタソガレドキ忍軍が動かないとも限らない。利吉もタソガレドキ忍軍とは何度か仕事上の接触を持ったことがあるが、その実力は諸国の中でも随一だ。うっかり目を付けられるのは御免だった。
 ともあれ、利吉はいつの間にか歩調をゆるめていた足を速め忍術学園へと向かう。けして名前に会いに行くのではない。何を隠そう今回の忍務は忍術学園学園長・大川平次渦正からの依頼なのだ。かつ期限はかなり厳しく設定されており、忍務を終えたその足でまっすぐ忍術学園に向かわないことには、指定された期日に間に合わないのだった。
 ──フリーでやっていくには仕事を選んでもいられないし、父上の縁があるとはいえ大きな仕事を依頼してもらえるのは有難くもあるけれど、今回はなかなか厳しい依頼だったな。
 どうやら依頼した目的は六年生の卒業試験の下準備のようなものらしい。厳しい期日に加え、タソガレドキの息のかかったものに接近して必要な情報をとるという、けして易しくはない内容の仕事だったことから、今年の卒業試験はかなり実戦に近いものになるだろうことは間違いない。しかし難易度相応の報酬を受け取る約束をしているから、利吉が依頼の目的にまで言及することはない。そこから先に干渉しようとすることは利吉の忍びとしてのありように反した。
 ──まあ、今の均衡を保った状態のままであれば六年生の忍たまたちが多少潜り込んだところで、これといって大事になることもないだろう。

 きりきりと歩いたおかげで、日が高くなる前に忍術学園に着くことができた。忍術学園のあたりは山深いこともあり、大きく息を吸い込むと一層濃い緑のにおいが胸に充満する。
 正門の扉を数度叩くと、中から「はぁーい、ちょっとお待ちくださーい」と何とも間延びした呑気な声が返ってくる。ほどなくして、事務員の小松田がひょっこりと顔を出し利吉を中へと招き入れた。
「山田先生なら一年は組のみんなと一緒に兵庫水軍さんのところに朝からお出掛けになられていますよ」
 利吉に入門票を手渡し、小松田が言う。どうにも小松田には、利吉がこの学園に立ち寄るのは伝蔵に実家に帰るようせっつきにくるのが目的だと思われている節がある。それだって必ずしも間違いではないのだが、こうして本業で学園まで赴いている時には苦笑したくもなる。
「ああ、大丈夫。今日は父上の顔を見に来たわけではないから」
「それじゃあ、今日はどのような御用件で……、あっ、もしかして苗字さんですか? ええっ、でもこんな昼間から……?」
「違うよ。というか君は何を勘違いしてるんだよ」
 今度はもっと的外れだった。的外れもいいところで、一年は組のよい子たちが打つ手裏剣と同じくらい明後日の方向に的外れである。しかし利吉の呆れ顔をものともせず、小松田はしたり顔をして笑う。
「吉野先生から伺ったんです。苗字さんと利吉さんが好い仲のようだって」
「はあ……」
 たしかに以前、名前と夏祭りに行こうとした際にふたりに出門票を手渡したのは吉野先生だ。だから吉野先生に自分たちの関係がばれていてもおかしくはない。
「それにここは忍者の学校ですから。そういう情報はあっという間ですよ」
「君は忍者のうちに数えられてないだろ」
「そんなことないですよぉ」
 と、小松田がむっと眉をひそめたのも束の間。すぐにいつも通りの表情に戻って「あ、噂をすれば」と声を上げる。
 小松田が声を向けた方に利吉も視線を遣る。そこには今まさに話題にしていた人物、名前がにこにこと立っていた。ちょうど校舎から出て事務室にやってきたところらしい。
「利吉さんに小松田さん。こんにちは」
「やあ」
 にっこりと笑う名前につられ、利吉も短く挨拶を返す。
 ──一か月ぶりか。
 本当ならば人目もはばからずぎゅうぎゅうに抱きしめてしまいたいところだが、とはいえ小松田の手前そんなこともできない。名前の方も恐らくは同じなのだろう。きらきらと輝かせた瞳で利吉に目配せを送るが、それ以上どうということもなく努めて冷静に、何かを堪えてそこに立っている。
「苗字さん、どうかしたの?」
 恋人同士ふたりの間に割って入るのは、いつものことながら今一つ情緒のない小松田だ。名前ははっとして、視線を利吉から小松田へと移した。
「そうでした。小松田さん、くノ一教室で配布する実習要綱をもらいにきたのですが、もう受け取れますか?」
「ああっ、しまった! 先週山本シナ先生に綴っておいてと一式渡されてそのままだ!」
「君ねえ……」
 思わずまったく無関係の利吉が溜息をつく。一体小松田が頼まれた仕事がどのようなものかは分からないが、小松田に依頼するという時点で些細な事務作業なのだろうことは想像に難くない。その事務作業──雑用といえるような作業を終えていないとは、一週間もあって君は何をしていたんだ、と利吉が言いたくなるのも仕方がないことである。
「どうしよう、まだ手つかずだよ。急いでる?」
「いえ、大丈夫です。わたし今時間がありますから、ぱぱっと綴ってしまいますね」
「ありがとうー!」
「おい。それでいいのか、小松田くん」
 ついに口に出してしまったが、当の小松田は「ほへ?」としていて別にいいも悪いもないといった様子である。これ以上利吉が苦言を呈しても仕方がないので、利吉もむっつりと口を閉じた。
 そうして視線を名前に戻すと、名前もまた利吉の方をじっと見つめている。一か月ぶりの名前とはいえ、名前にこれといって変わったところはない。しかしその変わらなさが利吉を安心させる。物理的に凝り固まっていた肩も、精神的に凝っていた心もようやくほっと解けていくような心地がして、利吉は知らず識らずのうちに視線を柔らかくした。
「利吉さんは今日はお仕事ですか?」
 名前に問われ、利吉は頷く。
「うん。学園長先生から少し頼まれ事をしていてね」
「そうでしたか。お忙しいところ声を掛けてしまいすみません」
 ぺこりと頭を下げる名前。その何となく他人行儀な感じが気になって、利吉は「いや、ああ、うん」と胡乱な返事をする。
 ──なんというかもっと、喜色満面で飛びついてくるくらいのことがあってもいいような気がするんだけど……?
 もちろん、名前がそんな性格ではないことは重々承知している。だからあくまでも比喩的表現ではあるのだが、それにしても名前の対応があまりにもそっけないように感じたことは事実だった。利吉が忍術学園を訪ねてきた用件だけでなく、もっと色々、たとえば今日この後の予定だとか、そういうことを尋ねてくれてもよさそうなものではないか──利吉は釈然としない思いを抱えたまま、にこにことしている名前を見る。
 しかし名前は利吉の心を知ってか知らずか、依然としてにこにこ顔のまま再び小松田に視線を戻した。
「さて! それじゃあ山本シナ先生もお待ちですし、さくさく片付けてしまいましょうか。小松田さんもよければ手伝っていただけますか?」
「もちろんだよ」
「というか、それ元々は君が頼まれた仕事なんだろ……。手伝うのは小松田くんじゃなくて名前の方だよ。名前だって暇じゃないんだろうから」
「分かってますよぉ、そんなこと」
「くっ……!」
 何故か小松田にまで言い返され、利吉の釈然としない思いはますます膨れる一方である。
 ──なんだかひどく理不尽な目に遭っているような気がするのは気のせいか?
 任務で疲れた身体に新手の疲労感が襲い掛かるような気がして利吉は思わずよろける。そんな利吉を見てか、名前は一瞬だけ変な顔をした。変な顔──何かおかしなものを口に含んだときのような、そんな拙い顔の名前に気付き、利吉は首を傾げる。
「ん? 名前、どうかした?」
 しかし問い返したときにはすでに、名前は元の笑顔に戻っていた。
「どうかって、どうもしませんよ?」
 名前が「変な利吉さん」と笑う。そう言われれば、一瞬見た名前の表情も何となく気のせいだったような気がしてきて、利吉も曖昧に笑い返す。夜のうちに潜伏先を抜け出てから、夜っぴてここまで歩いてきたのだ。疲れて幻覚が見えていたとしても何らおかしくはない。
「それでは利吉さん、失礼いたします」
 再びぺこりと頭を下げて、名前が事務室の中に引っ込んでいこうとする。その背中に向け、「うん、頑張って」とできるだけ軽やかに聞こえるように、利吉も声を掛けた。
「はぁい、頑張ります」
「小松田くんに言ったんじゃないよ……」
 小松田とともに事務室の中に入っていった名前を見送ったところで、利吉も来校した本題を思い出した。
「そういえば時間がないんだった」
 誰にともなく発して、利吉は急いで学園長の庵へと向かった。


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