幸福を掴むには柔らかすぎる掌(2)

 結局、名前の進路相談に有益な情報をもたらすこともできないまま、時間になったので利吉は忍術学園を辞することにした。別れ際、「もう少し自分でいろいろ考えてみます」と笑った名前に頷くしかできなかった利吉は、自分の頼りにならなさに溜息をつく。しかしそもそも利吉の意見は「くノ一になりたいと思わないのなら、やめてしまえばいい」なので、余計なことを言っていたずらに名前の心をかき乱すくらいならば黙っていた方が得策なのだった。
 ──こればかりは名前が自分で決めるしかないことだしな。あまり余計なことを吹き込んで、名前が後から後悔するようなことにもしたくないし。
 後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にし、正門へと続く廊下を進んでゆく。あまり人目につくのも悪かろうと、名前からの見送りは慎んで断った。
 と、くノたま長屋を出ようとしたところで、ひときわ目を引くすらりとした出で立ちの女性と鉢合わせになった。うら若き美女の姿をした山本シナ先生である。山本先生は利吉の姿に目を留めると、にっこりと微笑んで利吉に近づいた。
「あら、利吉さん、いらしていたのですね」
「山本シナ先生。お邪魔しております」
 くノたま長屋は山本先生の管轄である。この女の園に足を踏み入れているのだから、本来であれば山本先生に一声かけるのが筋というものだろう。とはいえ山本先生も多忙をきわめており、利吉ともそうそう都合が合うわけではない。こうして実際に顔を合わせるのも、鍛錬場で薙刀を振るう名前を盗み見ていた日以来だった。
「今日は山田先生に会いたいらしたんですか?」
「まあ、はい」
 答えながら、利吉は抜け目なく山本先生の様子を観察する。
 もちろん父の伝蔵に会いに来たのも事実なのだが、そもそも今利吉と山本先生がいるのはくノたま長屋に通じる廊下の端である。伝蔵に会いに来ただけというのであれば、利吉がこんなところに立ち入る理由など何処にもないのだということに、まさか山本先生ともあろうくノ一が気付いていないはずもない。
 名前は利吉とのことを山本先生に話していない。山本先生もまた、生徒の色恋をことさらに根掘り葉掘り聞くようなタイプではない。
 そもそも、その手の話をわざわざ自ら打ち明けたりせずとも、くノ一教室教員の山本先生の耳にはすべてが届くような仕組みになっている。くノ一教室内で交わされた会話は、どういうわけだか山本先生には筒抜けになっているのだ。ゆえに名前と利吉のこともまた、山本先生はあらまし程度は把握していた。
 そんな山本先生の余裕たっぷりの笑顔を見て、利吉は思う。
 ──この場合、変に隠し立てする方が却ってよくないか。
 何せ名前と恋仲になってくノたま長屋に出入りしているとなれば、それはもはや利吉だけの問題ではない。山本先生の下で授業を受けている名前のことも考えれば、ここはそれなりに素直になっておいた方が吉である──利吉はそう判断した。
「ついでに苗字名前の顔を見に」
 しれっと付け足した利吉に、やはり山本先生はにっこりと笑んでいる。
「そうでしたか。どうりでくノたま長屋の方から歩いていらしたわけだわ。それで彼女、どうでした?」
「どうというか──ああ、そういえば。進路のことで思い悩んでいる様子でしたね」
「そのようですね」
「ご存知でしたか」
 少しだけ意外そうに尋ねれば、今度はくすりと悪戯っぽく笑われる。その笑顔に一瞬どきりとして、しかしすぐに気持ちを立てなおした。言うなれば今の「どきり」は本能に訴えかける「どきり」であり、名前といるときのような胸のときめきのようなものではない──利吉は自分にそう言い聞かせ、
「さすがはくノ一教室の先生です」
 と心からの賞賛を付け足した。
「ええ、もちろんですわ。くノたまの子たちが何を思い、何に悩み、何を不安に思っているのか──そのくらいの把握ができていなければ、くノ一教室を任せてはいただけませんよ」
 さすがくノたまたちを一手に引き受けているだけのことはあるとでも言うべきそのどっしりとした構えに、利吉は感服した。
 忍たまと比べて人数が少ないとはいえ、くノ一教室はけして小規模で運営しているわけではない。毎年春になれば忍たまと変わらないような人数の新入生が入学し、学年が上がるにつれてそれがだんだんと篩に掛けられていく──基本的な仕組みは忍たまと同じだが、忍たまと違うのはその篩の目が忍たまよりもずっと大きいことだった。
 学年が上がるにつれ授業内容や実践の難易度が上がるだけではなく、くノ一教室に通う娘たちは往々にして家のため、女として期待される役割のため、そのほかやむに已まれぬ事情で退学を余儀なくされる。そうした頻度は忍たまたちよりもずっと多い。顔ぶれの入れ替わりが激しく、去る者も残される者も、心を穏やかなままそうした変化を受け入れることは難しい。そうした娘たちのフォローまで含めて、山本先生と、場合によっては新野先生、くノ一教室の上級生が一手に引き受けている。
 そうでなくとも年ごろの娘たちは多感で繊細なのだ。それなのに授業外でまで彼女たちの面倒を見る専任の教師が山本シナ先生しかいないというのだから、その仕事量と責務の重さたるや想像を絶するものだろう。いくら仕事中毒の利吉であっても、山本先生と同量同質の仕事をこなせと言われれば、それはさすがに躊躇する程だった。
 ──山本先生のもとで学んでいるんだ、そりゃあ名前も呑気なだけではいられないか。
 そんなことを考えて、ふと利吉はかねてより気になっていたことを尋ねることにした。
「先生は以前、名前に『くノ一に向いている』と仰ったそうですね」
 利吉の言葉に、山本先生は表情ひとつ変えずに頷く。
「たしかに言いました」
 それが本心であるがゆえに一切の動揺を見せないのか、それとも熟達した忍びの業を持つ山本先生だからこそうまく感情を御しているのか、その判別は利吉にはまだつかない。だから深追いすることなく、そのまま会話を続行する。
「私にも、同じことを仰ったことがおありです」
「もちろん覚えていますよ」
「宜しければお聞かせいただけますか。何をもって、彼女がくノ一に向いていると思われたのか」
 問いかけた利吉の目を、山本先生はその大きな眼で食い入るように見つめた。長い睫毛に縁取られた瞳は、心の奥底をけして明かさない深い色に染まっている。
 ──山本先生は私の心を推し量ろうとしているのだろうか。
 そう考えると、利吉の心にはにわかに不安が浮かぶ。名前の将来を応援しているという点において、山本先生は伝蔵と同等──いや、伝蔵以上に思い入れを持って名前の指導に当たっているに相違ない。となれば、ここでぽっと出の利吉がその将来について問おうとしていること自体、山本先生にとってみれば苦々しく思うようなことなのかもしれないと、利吉は居心地悪い思いをしながら考えた。
 山本先生は暫し利吉をじっと見据えていた。利吉にとっては途方もなく長く感じられた時間は実際にはほんの数秒のことだったが、やがて山本先生はゆっくりと口を開いた。
「利吉さんはくノ一に必要な素質を何だとお考えですか?」
「素質──ですか」
 唐突に尋ねられ、思わず復唱する。くノ一に必要な素質。実際の忍者として第一線で活躍し、本人も未だ研鑽の身である利吉の思う「忍びに求められる要素」はいくつかあるが、それらすべてが必ずしもくノ一に求められる要素かといえばそういうわけでもない。男の忍者と女のくノ一とでは、その働き方も用いる手段も、まったくといっていいほど異なってくる。
 しかし、そうはいってもいずれも「忍ぶ」ことに変わりはない。必要な素質として共通するものも当然ある。その中から、利吉は思考に思考を重ね、ひとつの答えを導き出す。
「秘密の遵守……いや、相手に心を移さないことでしょうか」
 利吉の返事に、山本先生は満足そうに首肯する。
「そうです。そして、そのためには己を律し、常に心を在るべき場所に定め直す冷静さが求められます。年頃の娘さんたちはそういう面ではまだまだ未熟ですが、だからこそくノ一教室では時間をかけてゆっくりと己の心を律し、感情の戻すべき場所を探るよう指導しています」
 たとえ潜入忍務で別の誰かとなっても、たとえ心にもない言葉を吐き、愛してもいない者と身体を交えることがあったとしても。それで己の在り方がすべて変わってしまうわけではない。自分本来の心の置き場所を定めることさえできれば、どれだけそこからぶれようとも、必ず帰ってくることができる。
 くノ一教室で教えることは多岐にわたるが、必ずしも小手先の技術ばかりではない。武器の使い方、言葉の使い方、心の使い方。しかしそれ以上に、本来の心の持ちようを教えることこそ、むしろその教育の本質であった。
「名前さん──彼女は、その心がよく育っているのですよ。あれは恐らく元からの気質なのでしょう。もしかしたら、寒い土地で育ったからこそのある種の厳格さかもしれない。心がぶれない。もちろん、けして感情に乏しいという意味ではありません。ここで言うぶれないということは、芯があるということです」
「それは──はい。承知しています」
 利吉も頷く。年相応の迷いはあれど、名前の心は大抵まっすぐに現実を見つめている。迷い、悩み、煩悶しながらも常に懸命だ。それは山本先生の言うところの「いいくノ一」となる素地があることでもある。
「迷わず惑わず、己を律して精進すれば、彼女はきっといいくノ一になれますよ。まあ、ここのところは少し惑うことも心乱すことも増えたようですけれど」
 そう言って、山本先生はちらりと悪戯っぽい瞳を利吉に差し向ける。ちくりと胸を刺されたような気がして、利吉の胸に苦いものが広がる。が、利吉はすぐにそれを打ち消した。山本先生から釘をさされるかもしれないことなど、すでに分かり切っていたことである。
 山本先生は、にっこりと笑みを深める。そして何事もなかったかのように再び口を開いた。
「けれどそれもまた、ひとりの女性としての成長に繋がるでしょう。恋は女性を大いにゆたかにしますから」
「それでは、先生は彼女がくノ一になるべきと、そうお考えということでしょうか」
「いいえ、そうは言っておりません。私たちはあくまで卒業までの面倒を見るに過ぎない。非情なようではありますが、これは純然たる事実です。私はくノ一教室の子たちを皆我が子のように愛していますが、だからといって学費を払えない子を我が子のように扱うことはできない。学費をいただき、私たちはその対価としてくノ一として、女性として育む。だから私は彼女たちの卒業後の進路について如何なる意見も持ちませんし、伝えません。良いくノ一になると言ったのも、そうなれという意味ではないことくらい、名前さんだって分かっていることでしょう」
 それはともすれば情のない言葉とも聞こえる。しかしそうではないことを、同じ忍びとして世を生きる利吉は正しく理解していた。
 学費を受け取り娘たちを預かるということは、相応の責任を課されることでもある。ただ預かるだけではない。どこに出しても恥ずかしくないような「お嬢さん」を、あるいは「くノ一」を養成しなければならない。それが学費をもらって学園を運営するということだからだ。その在り方は、報酬に見合った仕事を確実に遂行することを目的とする、利吉たち現場の忍びと同じといえる。
 ──こういう方だからこそ、山本先生は信用を集めるのだろうな。
 今目の前にいる麗しい姿か、それとも媼の姿か──山本先生の真の姿、年齢は誰も知らない。しかし少なくとも、十八の利吉がまだ持ちえない視座を持ち指導にあたっていることだけは確かだった。これ以上利吉から問うことも、何か進言することもない。
 利吉がそっと笑む。するとそれを見た山本先生は、意味ありげに目許をほころばせた。
「それにしても、先程からお話をうかがっていると利吉さんはまるで、名前さんにくノ一になってほしくないように聞こえますね」
「……それは」
 思いがけず痛いところをつかれ、利吉は顔を蒼くした。利吉とて、伝蔵や山本先生が、あくまで名前を「くノたま」として扱っていることを失念していたわけではない。しかし利吉はそうではない。利吉の思う名前というのは、あくまでも幼いころに利吉の後をついて回っていた子どもの姿がその根っこにある。いくらくノたまの名前と一緒にいても、それは名前のひとつの側面でしかなく、利吉にとっての名前は相も変わらず「女の子」の名前である。
 ばつの悪そうな顔をする利吉に、山本先生は優しく、
「ええ、ええ。いいのですよ。決して咎めているわけではありません」
 と声を掛けた。
「親しい人間──愛する女性にくノ一として活躍してほしいと願う人間というのは、そう多くはないでしょう。くノ一の仕事は厳しく、常に危険が付き纏います。それだけではなく、時には心を殺して己の持ちうるすべてを武器にせねばならないこともありますから……。利吉さんが名前さんに、その道へ進んでほしくないと思うこともまた、自然な気持ちだと私は思います。くノたまには上級生が少ないのが何よりもの証拠」
 くノ一教室の担任らしからぬ言葉を発して、山本先生は艶然と微笑んだ。
 ──そうだ、きっと私の気持ちを一番に理解しているのもまた、山本先生なんだろう。
 山本先生自身、くノ一として活躍する中で色々な苦悩や葛藤があったことは想像に難くない。当然、くノ一やくノたまに寄せられる周囲の感情や反応についても熟知しているはずだった。
 ──そんな山本先生に、私は何を言えばいいのだろうか。
 利吉が返す言葉を決めあぐねているうちに、山本先生は「気を付けてお帰りになってくださいね」と横をとおりすぎてゆく。利吉がもと来たくノたま長屋の方へと歩んでいった山本先生は、やがて廊下の角に消えた。


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